ピンポン。 ドアのチャイムが鳴った。僕はそれには応えなかった。 もう一度鳴った。 一呼吸置いてから僕は立ち上がり、玄関モニターに目を向けた。 そこには一人の女が立っていた。 肩に付くぐらいの長い黒髪の、小柄な女だった。 女は口元に少し微笑みを見せて、ドアの前に立っている。胸に茶封筒を抱くようにして持ち、足を上下に動かし、おつかいに来た子供のように体を揺らしていた。 帰る気配が全くなかった。彼女は今、この部屋の中に僕がいるこを確信し、僕が扉を開けるのを待っているようだった。いつまでも、いつまでも。 僕は頭を振り、溜息を付くと、諦めて鍵を外し、ドアを開けた。 彼女はモニターに映っていた姿と寸分のズレもなく、そこに立っていた。無表情の僕と目が合うと、彼女は口元の微笑みを笑顔に変えて、 「こんにちは」 と言った。 僕は少しだけ頭を下に動かし、それに答えた。 「突然すみません。何度もお電話したんですが・・・」 そういえば今朝から、二十回くらい電話が鳴っていた気がする。僕は喋れないので、掛ってきた電話は全て留守番電話に切り替わるようになっている。だけど僕はその留守番電話に残された伝言を、気が向いた時でないと聞こうとはしていなかった。今日はその日ではない。相手が伝言を残す時の声が、部屋に響くのが嫌だったので、音も最少に設定していたのだ。 当然、彼女からであろう電話も完全に無視していた。どうせたいした用事ではないのだから。 彼女は僕の醒めきった表情にもめげず、笑顔をさらに広げると、少し首を傾げ、僕の姿を足元から一瞬で見て、 「お仕事中でしたか。邪魔しちゃってすみません」 そう言ってペコリと頭を下げた。そして僕の返事を待つ間もなく、頭を上げたと同時に、さっきまでの表情が嘘のように沈み、落ち込み切った声で、 「・・・じつは、先生の担当だった小林が病気のため、急きょ入院をしなければいけなくなったので、私、西川がその間、代わりを務めさせていただくことになりました」 と言って、すかさず名刺を差し出した。 僕は死んだ目で頷くと、片手で名刺を見ずに受け取った。 「小林も、ぜひ先生に一言、挨拶をしたいと申していたのですが、手術の日程などが慌ただしく決まってしまったもので・・・」 僕は人間が嫌いだが、相手の心情を察知するのが上手かった。今、彼女は嘘を言った。 「先生、私はまだまだ未熟者ですが、昔から大ファンだった先生の担当に就かせていただくからには、精一杯頑張って行きたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします」 と彼女は、お決まりの言葉を昼間の玄関先で、快晴の空に負けないように元気な声で言ったのだった。 やれやれ、またやっかいな人間と関わらなくてはいけなくなってしまった。 僕はうんざりした気持ちで、彼女の手もとの封筒に目をやった。彼女はすぐさま僕の視線に気付き、これまたお決まりの、目を見開いた驚きで、 「あっ」 と軽く声を上げてから、封筒をやっと僕に差し出した。 「これは先生からお預かりしていた原稿です。初稿が済んだので、お持ちしました」 僕はそれを受け取った。彼女は笑顔を崩さないまま、我慢強く僕を見上げている。 きっと後悔していることだろう。私は何でこんな訳の分からない奴の担当になってしまったのだろうと。もしかしたら自分は上司に嫌われているのかもしれないと。 僕は多少、憐れむような思いで、彼女を見返した。さすがに限界が来たのだろう。彼女はそわそわしだし、ついに、 「それでは今日はこの辺で・・・」 と言い残し、そそくさと帰って行った。 彼女は僕が喋れないことには、全く気付かなかった。
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