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作品名:高架下から見た星 作者:えみ

第1回   1
 僕が喋れなくなってから、半年が過ぎた。
その間、僕は誰かに助けを求めたり、病院に行くことも、手話を覚えることもしなかった。 
 最初は言葉が出なくなって驚いたけど、それだけだった。
 喋れなくなっても僕の生活には何の影響もなかった。
 何一つ、困らなかったのだ。

 僕の仕事は物書きで、仕事の用件は全てパソコンのメールで済ますことが出来たし、僕は直接、人と会って打ち合わせをすること等は、一切していなかった。
 ご飯を買いにコンビニに行っても、口を開くことなく買物を終えることが出来る便利な世の中だ。それに、僕に電話を掛けてくる友人知人もいないし、僕が電話を掛けたくなる友人知人もいなかった。たまに、思い出したように母が電話を掛けてくることがあるが、最近は留守電に残っている、心配そうな声を聞くだけだった。
 テレビもほとんど見ないし、テレビのニュースに思わず声を洩らすこともなかった。
 
 僕はとにかく人間が嫌いだった。他人と接することが、どうしようもなく苦手だった。苦手という域は、とっくに超えている。変わっている、と自分でも思うが、今の自分をどうにかしようという気にもならなかつた。
 だから僕が喋れなくなったことに気付く人なんて、誰一人としていなかった。
 僕だけがこの事実に気付いていた。

 一体、いつから僕はこんなに人間嫌いになってしまったのだろうか。
 小さな理由は色々あった。だけど、大きな理由が見当たらない。
 他人といると苦しくて、一人でいると楽だった。
 そんな生活がもう何年も続いている。

 社会に出るまでは、集団生活を余儀なくされたが、社会に出てしまうと、僕のような生活を送ることは案外、簡単だった。
 作家には人間嫌いがたくさんいると言われていたし、でもだからと言って作家の道を選んだわけじゃない。僕にだって普通に社会に出て働き、人間関係や仕事のストレスに悩んだ時期もあったのだ。
 僕なりに苦難に道を乗り越えて、本当に自分にあった生活を手に入れた。
 実際、小さな頃から本を読むのが好きだったし、文章を書くことも好きで、小学校の頃に書いた作文が新聞に掲載されたこともあった。
 人に自分の気持ちを伝えるのは、どうしようもなく不得意だったが、それを文章でなら、ある程度は伝えられた。
 だから、そんな生き方しか出来なかった僕に、この道が見えた時は本当に嬉しかった。これから先、生きていく希望のようなものが見つかった気がした。
 大変なことは山ほどあるが、それなりに楽しく過ごしていた。
 だけど喋れなくなった。
 何日も口を開かなかったので、声が出なくなった正確な日付は分からない。ある日、目が覚めて、窓を開けたら雨が降っていた。そして一言、「今日は雨か」と呟こうとした時にはもう喋れなくなっていた。
 その時、テレビドラマのような、すざまじい衝撃を受けることはなかった。あ、もしかして、僕は声が出なくなってしまったのだろうかと思ったぐらいだった。軽い音のない溜息を一つついて、それからしばらく、ぼんやりと窓の外を見ていた。だけど、さすがにその日は仕事をする気にはなれなかった。
 どうして喋れなくなったのか考えることもなく、病院に行こうともせず、そのまま半年が過ぎてしまったのだ。
 今では、別に声が出なくても僕は生きていけるのだと思うまでになっていた。


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