一人になった先生は、ついに私たちのアパートのある方角へ向かって歩き出した。私もまた、距離を置いてついて行く。先生はこの後まっすぐにアパートに帰るのだろうか。もしかしたらスーパーかコンビニに寄って漬物を買って帰るんじゃないだろうか。この研究は非常に危険を伴うものだ。彼女にはきっと秘密にしていることだろう。もし、彼女が知ってしまったら、彼女の命が危ない。先生、辛いでしょうが、もう少しの辛抱です。私たち二人の研究が世に発表できれば、彼女もきっと喜ぶはずです。その時は必ずや二人に、今以上の幸せが訪れることでしょう。それまでは大切な人に重大な秘密を持ってしまうことになりますが、仕方ありません。これも神に選ばれた男の運命なのです。 しかし、どこかの店に立ち寄って、研究材料を買って帰るのなら、私たち二人で選ぶべきなのではないだろうか。声を掛けようか、死ぬほど迷ったが、私の脳裏に研究所の存在が引っ掛かっていた。くそっ、アイツらさえいなければ、何の問題もなくスムーズに事が運ぶというのに。何で私の邪魔ばかりするんだ。私は声を掛けられず、くやしい思いをしながら先生の後を歩いて行く。 そんな私の煮えたぎるような想いを察してくれたのか、先生はスーパーにもコンビニにも立ち寄らずに、まっすぐアパートに向かっている。先生、すみません。気を使っていただいて、私が不甲斐ないばかりに。 アパートの近くまで来たところで、先生が急に立ち止まり、不意に空を仰ぎ見た。どうしたんだ? 私も急いで電柱の陰に隠れ、同じく仰ぎ見た。 なんて星が綺麗なんだ。まるで先生と私の未来を前倒しで祝福してくれているかのようだ。先生は今、何を思っているのだろうか。漬物の事? コーヒーの事? もしかして私の事? いや、それはまだないだろう。慌てるな私。 先生は両手を大きく広げ、めいいっぱい息を吸い込むと、時間を掛けてゆっくりと吐き出した。そしてしばらく星空を見つめると、両手をポケットに入れて、またアパートに向かって歩き出した。 私は感無量だ。先生、もうすぐ私たちの夢が叶います。もうすぐそこまで来ています。そしたら今度は二人でこの星空を見上げましょう。 私たちが思い描いた世界が、確実に作り上げられようとしていた。一大プロジェクトであったが、私一人では気の遠くなるようなものであった。だが、今、私は一人ではない。先生という大きな仲間を見つけた。夢がぐっと近づいてきた。今では私の足元まで来ているのだ。私には見える。全世界の人々の称賛を浴びながら、壇上に上がる先生と私の姿が。はっきり、くっきりと。全世界の研究者たちから切望の眼差しが向けられ、テレビが私たちを取り上げない日はない。多分、寝る暇もないくらいに多忙な日々が始まるだろう。でも仕方がない。世界中の人々が私たちのことを待っているんだ。研究者にとってこんなに幸せなことはないだろう。 プルルル 私は電話の音ではっとした。すぐにポケット探ってみたが、私は携帯電話を持っていなかった。恥ずかしくて少し笑う。私ではないということは、先生か。私は正面を歩いていた先生を見た。やはり携帯電話で誰かと話しているようだ。それから、携帯電話を耳にあてたまま、おもむろに後ろを振り返った。数メートル後ろを歩いていた私と完全に目が合った。視線が重なったまま、しばらく沈黙が流れる。私は、手を振って先生に駆け寄ろうとしたが、あまりに突然で、先生を見返すことしか出来なかった。驚きはしたが、研究所の人間に殺されるかもしれないという恐怖は全くなくなっていた。それどころか、先生がやっと私を見つけてくれたのだという喜びが溢れてきて、なんとも言えない幸福感いっぱいの想いで先生を見つめていた。 先生は携帯電話を耳にあてたまま、私を見つめ、誰かと話を続けているようだった。それから、そのまま前を向くと、何もなかったように話しながら歩き出した。小声で話しているため、私のところまでは声は聞こえない。不思議に思いながらも、私もアパートに向かう。先生はその後、一度もこちらを振り返ることはなかった。立ち止まらず、携帯電話で話しながらアパートの階段を上り、そのまま鍵を開け、自分の部屋に入って行ってしまった。 私は唇を噛みしめた。そうか、研究所の人間が私の事を連絡してきたのだな。きっとアイツらは見ず知らずの私の事を、良くは思っていないはずだ。先生に注意を促す電話を掛けてきたに違いない。しまった。先に先生に自分の野望を伝えておくべきだった。そうすれば、先生が研究所の人間に私の事を説明する際に、スムーズに進むはずだ。先生は今、研究所の人間に私の必要性を、必死に伝えようとしてくれているのだろう。先生、すみません。手間を取らせてしまって。私は改めて助手失格だな。しかし、研究所の奴らめ、私が研究所の一員になった時は覚えていろよ。私のすごさをお前らに見せつけてやる。先生の次、二番手はこの私だ。お前らに漬物の本当の味が分かってたまるか。 私は、新たな決意を胸に抱き、夜風を切りながら颯爽とアパートまでの道を歩いた。私の熱いハートには、まだ冷たい夜風が気持ちいい。それくらいの冷風じゃ私の燃えたぎる炎をくすぶることもできないがな。研究所の人間よ、この私の堂々たる姿を目に焼き付けておくがいいさ。
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