その時、一人の老人が、ゆらゆらと歩いて来た。 「何しに来たんだよ爺さん、部屋で大人しくくたばってろよ」 野田がうんざりした表情をして、祖父に毒ずいた。彼の祖父、巌は、認知症の進行とともに徘徊を繰り返し、度々、周りの人々に迷惑をかけていた。元や、彼の母親は、その度に近所の人々や警察に、頭を下げて回らねばならなかった。 しかし、巌は、孫の言葉には耳を貸さず、若者が騒いでいる窓際まで歩いて行き、そこで立ち止まった。歯は抜け落ち、顔はシミとしわだらけ、側頭部にわずかに残った白髪は方向が定まっておらず、といった、いかにも老いさらばえた巌の姿を見て、吉田たちは指をさして大笑いした。 しかし、巌は、その笑い声も意に介さず、雷鳴とどろく暗天をじっと見つめている。若者たちは、しばらくは巌の立ち姿を真似してみたり、顔に手をかざして視線を遮ってみたりして茶化していた。ただ、巌が何の反応も示さないため詰らなくなったらしく、そそくさとパーティー会場を後にした。 「爺さんも、人の役に立つことがあるんだなぁ」 野田が、厄介者を追い払った巌の傍に来て、照れくさそうに笑った。巌は、まだ空を見ている。 「無欲の勝利ですね」 田中が、誇らしげに言った。 その時、外の景色が白く浮かび上がったかと思うと、鼓膜が震えるほどの雷鳴が轟いた。 「そろそろ、降ってきますかね」 下里も、巌と同じように暗天を見つめた。 「勝ちゃんが居なくなったのも、こんな日じゃったな」 突然、巌がしゃべりだした。 「じゃが、もうすぐ会える。懐かしいのう、何年ぶりかのう」 巌の目には、涙が光っている。 そこにいた人々は、お互いに顔を見合わせた。そして、一斉に元の方を見た。 「いやぁ、また爺さんの昔話が始まったよ」 「と言いますと」 下里が聞いた。 「いやね、このマンションが建つ前、A棟の敷地には俺の家とその勝ちゃんの家があったんですよ。猪蔵勝男って言ったかな。その人と内の爺さんは同級生で仲が良かったらしいんですけど、終戦の年のある雷雨の日に、その勝ちゃんが忽然と姿を消したらしいんですよ。当時この辺じゃ、神隠しにあったって大騒ぎになったらしいですけどね」 「それで、見つからなかったんですか」 「ですね。で、最近、その勝ちゃんの話ばっかするように会っちゃって。しかも、現実と妄想の区別が付かないもんだから、一緒に遊んだだの、勝ちゃんが会いに来るだの、訳の分かんないこと言うんですよ」 「そうなんですか」 そう言って、下里をはじめ歴史愛好会の面々は、憐みの眼差しを巌に送った。 ちょうどその時、元の母親の和子が3階から下りてきた。 「何やってんだよお袋、徘徊しないようにちゃんと見とけよ」 息子にそう言われて、和子は周りの人々に頭を下げながら巌の手を引いた。途中、巌は橘ゆかりの前で立ち止まった。そして、母親の傍で手羽先餃子をほおばっている陽菜を見つめた。 「お譲ちゃん、あんたも勝ちゃんの所へ行くのかい」 そう声をかけられた陽菜は、上目使いで巌を見ながら、恐る々母親の後ろに身を隠した。巌の手を引いていた和子が、申し訳なさそうに 「すいませんどうも」 と、縁に頭を下げ 「お譲ちゃん、ごめんね」 と、陽菜に声をかけた。そして、巌の手を強くひいて、無理やり連れて行こうとした。すると、巌は和子の手を振り払って 「お譲ちゃん、何があっても、そうやってお母さんの傍を離れんようにな」 と言って、今までの老いさらばえた姿からは、想像もできないほどの速度で歩き出した。和子は慌ててその後を追いかけた。
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