影は十階建てのビルよりもさらにもう一回りは大きかった。周りに影よりも大きな建物はなく、私たちがいる部屋からもその姿がよく見えた。 影が動くたびに周囲の景色が凹面鏡を覗いた時のように歪んだ。歪みの中に青白い光と暗い影が混じり、単色のオーロラのように掴みどころなくゆらゆらと揺れる。 「きれいだね」 彼がぽつりとつぶやいた。うん、と返した私の声は小さすぎて届いたかわからない。 「外の出てみようか」 彼はそう言うとゲームのコントローラーを床に置き窓からベランダに出た。私は少しだけ戸惑ってから彼の後に続いた。夜の風が頬を撫ぜた。 七分丈のTシャツでは夜風が私の体温を奪っていくことを防げない。肘から先のやせ細った腕が一瞬のうちに冷たくなっていくのを感じた。おもわず腕を組む。 けれど、目線は巨大な影からそれることはなかった。 町に灯りはなかった。暗闇に浮かぶ町の建物はずっと遠くのまだ人が住んでいる町の光に照らされて逆光になっていた。闇の町を歩く仄暗い影はどこか幻想的な雰囲気さえ持っていた。 「どうして、こんなに美しいんだろ」 「わからない」 私の問いに彼は間をおかずに答えた。その言い方から彼もあれを美しく感じているのだということがわかった さっきまで騒がしく話し合っていたのが嘘のように私たちは静かに影を見つめていた。たぶん部屋の中ではTV画面が楽しげな映像を楽しげな音楽と共に流している。 「あの辺りに人はいるのかな?」 今度は彼が私に聞いた。私も間を置くことなく「わからない」とだけ答えた。影のいる場所は私たちがいる場所から数キロは離れていた。二週間前の出来事のときもあの辺りに被害は少なかったはずだ。だから、おそらく人はまだいるだろうと思った。でも私はわからないと答えることしかできなかった。いくつものビルに遮られて、町の様子がよく見えないのがあるいは救いだったかもしれない。 私たち二人は夜の海で蛍光色に光る海蛍を見つめるようにベランダに立ち続けた。 不意に、頭が冴える様な感覚がした。理由や動機を押しのけて心と体を突き動かす衝動を感じた。それはとても新鮮であって、すごく懐かしいものだった。昔の、引きこもる前の私はこの感覚をインスピレーションが湧いてきたと言っていたような気がする。 「私、あれを描いてみるよ」 「え?」 彼は聞き返した。目が少し虚ろで夢から醒めたような顔をしていた。彼も自分の考えに沈んでいたのだろう。 「私、あれの絵を描いてみることにしたよ。今、突然描きたくなったんだ。自分でもうまく説明できないけど……」 「そう。まあ。いいんじゃない」 彼の視線は影を向いたままで、まだぼうっとしていた。ただ、口調は少し投げやりだけど、確かだった。視線と口調はとても合い慣れるものに思えないのに、彼の中では矛盾なく共存しているらしかった。 彼に私の決意を話したのは別に彼に認めてもらいたかったからではない。証拠に投げやりに言われてもショックを受けなかった。ただ、彼だけには私がこれからすることを知っておいてほしかった。それだけだった。本当にそれだけだった。
次の日、私はいつもと同じ時間に起きた。習慣ついた睡眠は寝床が変わっても狂うことなく機能していた。 睡眠は深くなかったのだろうと感じた。昨日の出来事と今日とが陸続きの今として感じられた。 頭は覚醒していたが、なんだかとても疲れていた。寝ている時間も頭は興奮していたのかもしれない。 周りを見渡した。 昨日は影がこの店とは逆方向に進んで戻ってこないことを確認した後に、ゲームを再開した。二人きりで行ったゲーム大会は深夜まで続き、私が彼に五千億円の差を付けられたあたりでゲーム機に私が持っていたコントローラーが直撃、TV画面が暗転したところで終了した。その後、彼と私の間でひと悶着があったのだが、それも似たような結末により私が勝利した。 そのときの残骸がテーブルの上に置かれていた。 テーブルやソファは私の寝床を確保するために隅にかためられていた。空いたスペースに彼が布団を敷いて私はそこで寝た。彼は自分の部屋に戻り、すねた眠りについているはずだった。 起きて窓を見る。すっかり明るくなった空はまどろむ様な柔らかな青さだった。 体をほぐした後洗面台で顔を洗った。寝癖のついた髪の毛を手で直す。リビングに戻って服を着替えた。彼が貸してくれたジャージとTシャツを脱いで自分の服を着た。 その後、ご飯でも作ろうかとキッチンに入ったところで彼が起きてきた。 「御機嫌よう?」 「まあまあ」 言葉の通り彼の様子はまあまあという感じだった。寝癖がついた髪の毛と寝ぼけた目、動きの悪い動作。ただ、眠そうに目をこするしぐさはどこか演技くさかった。たぶん、彼も私と同じように妙に頭の冴えた睡眠を味わったに違いない、そう思った。たぶん、私たちは一人でいることに慣れてしまったのだ。かなしいことに。たぶん。 「なにか作ろうかと思っていたところなんだけど」 「ありがたい」 ふらふらとした足取りでキッチンに入った彼は冷蔵庫を開けて中身を確認する。 「とはいうものの、食材なんてまともにないからなあ」 冷蔵庫の中身は私の家に比べればましという程度でしかなかった。あるのは調味料とお菓子くらいだった。食料の供給が滞っているこの地区には保存するべき新鮮な食品自体がなかった。 「あるのは缶詰めくらいなものさ」 親指で指さす先には昨日、二人で抱えて持ってきた缶詰めが山になっていた。 「しょうがないか」 窓を少し開けて、風を部屋に入れながら、二人で缶詰めを食べた。さわやかだけど貧乏くさい青春映画のようなひとこまだった。 「いろいろありがとう。助かった。命拾いした」 「お別れの言葉?」 「うん。しばらくこの町から出てみることにした」 「引き籠りが今度はフィールドワーカーになるんだ?」 彼は興味ありげな視線を私に向けた。 「目的地は決まっているの?」 「ううん。でも、とりあえず昨日の影を追ってみようかなと思ってる」 「いつ帰るんだい?」 「帰る理由が出来たら」 「そう。君がいてくれたら、寂しくないと思ってたんだけどな」 「またすぐ会えるよ。」 彼がついてきてくれることを考えなかったわけじゃない。けれど、二人はとても自然にそれぞれの道がダイヤグラフのようだと理解した。交わっては離れることの繰り返す二本の直線、今がちょうど交わりの点だ。このあと二人はしばらく別の道を行く。 私はあの影を追い、絵を描くことを決めた。彼はきっとこの場所にずっといるのだろう。自分の思いや存在をこの場所にしみ込ませるのだ。いなくなった家族の分まで。 「必要なものは持っていってよ。日用品は一通りそろっているんだうちの店。それと食べ物もね」 「ありがとう。悪いね」 「いいって。その代わり絵が出来たらぼくにも見せてね」 「そうするよ」 私はTommyのバッグに缶詰めやら水やらを詰めた。持って歩くためにあまり重くは出来なかった。やっぱり、こまめに補充する必要がありそうだ。ちなみに彼の店の窓を壊すために使った金槌も持っていくことにした。またなにかの機会に使えると思ったのだ。 「じゃ、そろそろ行くね。ありがとう」 「おーけー」 彼に見送られて店から出た。彼は店の前に立って小さく手を振ってくれた。私はそれに応えてTOMMYのバッグを高くかざした。 前を向いて歩き出す。 家には戻らずこのままいくつもりだった。手段は問わず、期間も決めず、とりあえずいけるところまでいってみるつもりだった。それが1日で終わるのか、一ヶ月なのか、それとも十年なのか、私にはわからなかった。 私の前方には人の気配のない街が続いた。けれど、昨日感じた臓器と臓器の間をうごめく液体物のような正体不明な感覚を感じなくなっていた。 少し季節の早い冷たい風が吹いた。
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