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作品名: 作者:滝宗太

第5回  
 かつての私は美術学生だった。
 小さなころから絵の具や鉛筆を持ち、まわりの物や景色を紙に書いていた私は年を重ねるごとに絵を描くことを自分のアイデンティティーだと感じるようになった。
 絵を描くことを仕事にしよう。そういうことをはっきりと考えるようになったのは中学生になったころだった。
 その頃には私自身も、周りの大人たちも私に絵の才能があることを十分に認識していた。 
 私はすでに専門の先生に付き絵の専門的な勉強をしていたし、その十分な成果をコンクールや展覧会で示していた。
 同世代から確実に頭ひとつ抜き出ていた私は当然彼らの代表となり絵画の世界で生きていくのだと思っていたのだ。
 中学を卒業すると美術学科を持つ東京の高校に進学した。
 親元を離れ一人暮らしをすることに不安はなかった。絵を描く才能が私に自身を与えてくれたし、周りの人間も私を守ってくれた。
 高校の三年間は自由と有意義をむさぼりつくすような生活だった。
 そこらへんの学生が理由もわからずに公式やら構文やらを教えられている間に私は生きるために必要なこと、役に立つことを教えてもらった。美術の勉強をするということはそれだけで私の血肉になることに等しかった。
 絵の基本的な知識については中学まで通っていた先生に教えてもらい既知のことが多かった。それを繰り返し教えてもらうよりも新たなことが知りたいと思った私は立体造形の授業を多くとるようになった。
 そこで私は平面ではなく立体で物を作ることを学んだ。土を焼いた器から建築、服飾、現代アートに至るまでさまざまなものが芸術の守備範囲であることを私は初めて知った。
世界はこんなにも芸術的な素材にあふれていたのか。私の世界を見る目が変わった。今まで自分のキャンバスにしか表現を求めたことがなかった私が外の世界に目を向けるようになった。
 それは本当に何気ないものでよかった。たとえば歩道橋が付いたあの交差点。たとえばふと寄ったファーストフード店のレイアウト。たとえば家電売り場に売っている携帯電話。それらは全部私に手を加えられるのを待つ芸術の原石たちだった。
 私の新たな可能性を試すために造形の授業で製作したものに私は自分の絵を描くようになった。陶芸の授業で作った器に白と黒と灰色で幾何学な模様をつけてみたり、木で作った動物の置物に合わせ鏡を覗いたような連続した絵を描いてみた。
 立体として存在しているものに自分の絵を加えることで私は私が持つ世界観をより世界に示したかったのかもしれない。もしくは私の内向的な現実と外向的な現実を融合させたかったのかもしれない。
 とにかく、それは美術学生としてはおおいに成功した。立体アートの展覧会でそちらの畑には素人だった私が次々賞を取るようになると、世間の私への評価は唯一無二のものになっていった。私は数多いる美術学生の一人ではなく、個性を持った私として見られるようになった。
 私個人に美術家としての仕事が入ってくるようになったのはその頃だった。
 依頼をしてきたのは私が出展していたコンクールをたまたま見に来ていた服飾デザイナーだった。彼もまだ二十代の若いデザイナーでデザイン事務所に勤めていた。
 彼に誘われて彼がデザインしたTシャツに絵を描くようになった。
 そのTシャツは商品ではなくセレクトショップのディスプレイに展示するために作ったものだったが、時にはお客に売ることもあったらしい。
 Tシャツの評判は上々だった。もともと彼がデザインするTシャツは人気が高かったらしい。それに一枚一枚私が手で絵を描いたものは見る人たちの情緒を刺激するものがあったらしい。たぶん絵を描いたのが高校生というのも興味を刺激するものがあったに違いない。
 Tシャツの仕事が成功すると評判を聞いてほかの仕事も舞い込むようになった。どれも一点物やごく少数の商品に私が直接絵を書き加える仕事だった。当時は特に意識をしていなかったが、そういった数に限りのあるものが私の希少性を高め、美術家としての私の価値をも高めていったのだと思う。
 けれど、商品としてみると少数生産でも、私個人としては大変な負担を強いることだった。日中を学校で過ごし、家に帰ってからはTシャツや小物に絵をひたすら描く日々。初めは充実感を感じていたが、次第に作業化していき、苦痛を感じるようになった。
 仕事をしていたのはそれほど長い期間ではなかった。高校二年の冬から高校三年の夏の間だけだった。たった半年間の間に私の仕事に対する意欲は全くなくなってしまった。私の中ではこのまま仕事を続けるべきだという声もあったが、日ごと高まる仕事への倦怠感が耐えられなくなったのだ。
 私は夏休みに入る前にTシャツデザイナーの彼に卒業制作と受験のために仕事をやめたいと話をした。彼はそれを承諾した。私の葛藤とは裏腹になんとも事務的であっけない終わり方だった。彼とはその後一度も会っていない。
 両親が死んだのは仕事をやめてすぐの頃だった。高速道路の追突事故に巻き込まれた二人は病院に運ばれる前に死亡した。私が対面したとき二人は事故の痕を化粧で隠され、きれいな顔で眠っている姿だった。その日が私が涙を流した最後の日だった。
 その後の私は無気力で自堕落に日々を過ごすようになった。学校も休みがちになった。事情を知っている周りの人たちは私の才能を惜しみながらもしばらくの間はそっとして置くことを暗黙の了解としたようだった。
 絵はまったく描けなくなった。いや、描こうという気持ちが湧いてこなかった。
 絵の才能があるとわかってから自分が特別な存在だと思っていた私はこんなスランプに陥るなんてこと考えたこともなかった。自分は絵を描くために生きている。そう思っていた時期すらあった。そんな私が絵を描けなくなるわけがないと思っていたのだ。
 プライドが傷ついたことがまた絵が描けなくなるひとつの要因となった。
 高校を卒業するまで、私が描いた絵らしい絵はひとつもなかった。卒業制作には以前書き上げたままどこにも発表していないものを提出した。
 卒業後は浪人生という名目で東京に残った。実際はどこにいく当てもなかった。
 初めのうちはあった焦りや苛立ちも時が経つにつれて薄れていった。後に残ったのは無気力だけだった。
 部屋に引きこもったこと自体には大した意味なんてなかった。ただ、このままの生活ではいけないと思ったのは確かだった。けれど、そのときの私には現状を打開し、再び活力にあふれていた生活に戻るだけの気力がなかった。だから、這い上がるのではなく沈むほうを選んだ。
 生活に必要なものを大量に買い込み、食糧は二日に一度デイサービスが運んでくるように手配した。それでも必要なものはネット通販を利用した。
 お金は両親の遺産と生命保険で十分にあった。半年間働いたお金も助けになった。引きこもり生活なんていう贅沢なことをしてみても一年や二年ではなくなりはしないだけの資金が私にはあったのだ。
 引きこもり生活に私は制約をつけないことを唯一の制約とした。好きなときに起きて、好きなときに寝る。食べたいものを食べたいだけ食べる。
 私はひどく贅沢な方法を使って自分の生きる理由を探していた。気持ちを常に楽に保ち本能を意識することで私を単純化しようとしていた。分子同士の化学変化のように自身を観測できればなにかがつかめるかもしれないと思ったのだ。
 引きこもり生活を始めて二ヶ月は人生の中で一番混沌とした日々だった。時間の感覚がわからなくなるほど寝て食べて寝た。日中ずっと風呂に入っていた日もあるし、一晩中自慰行為を繰り返していた日もあった。アニメをひたすら見続けた日もあった。小説を読もうとして二頁で諦めた日もあった。
 反して部屋はとてもきれいだった。私は事あるごとに掃除をした。床は毎日雑巾で拭いた。食事をしたら食器のついでにシンクを洗った。風呂に入れば風呂掃除、起きるついでに布団を干した。ありとあらいるものの定位置が決まっていた。心を整理するように物が片付けられていったと言えば少しは美化されるのかもしれない。けれど、たぶんその行為自体にはたいした意味はなかったと思う。
 そうした奔放な日々は意外なことに長く続かなかった。二ヶ月を過ぎたあたりから何も意識していないのに朝八時に目が覚めるようになった。それからディナーサービスが届けた食料を調理し、朝食とした。夜は朝より不規則だが、それでも二十四時より遅くなることはなかった。
 睡眠が規則正しいものになるにつれて起きている間の生活も意味不明な荒さを沈めていった。暴飲暴食は自然に治まり自分が必要とする最低限のエネルギーのみを必要とするようになった。
 過剰なほどの清掃もだんだんしなくなっていった。物が部屋の中に溢れるようになった。掃除なんてやってもやらなくても生きていけることを知った。床に散らばる脱ぎ散らかした下着がなぜだか心を癒した。整然と並んだ本棚よりも乱雑に積まれたもののほうが読みたい本を見つけやすかった。
 やることがないのは相変わらずなので昼間暇な時間をどう過ごすか悩む日もあったが、それもすぐに解決した。することがなければ何もしなければよかった。
 私がやっていることは現状に対する順応とは違うけれど、人間が変化よりも現状維持を好むということはよくわかった。そして現状維持が容易な方向へ変化することはそれほど苦ではないということもわかった。
 実際何もせずに窓の外を眺めているだけの私は平穏だった。外の世界で生きていた頃よりも、部屋の中で堕落していた頃よりも、ずっと楽な状態だった。
 そのときになってようやく私は芸術家などではなかったのだと気付くことができた。芸術など口にするものおこがましいほどに私は私の世界を持っていなかった。ただ、絵が人並み以上にうまくて、目新しいことに手を出しただけの、気取り、だったのだ。
 状況が私に気付かせたこの事実をそのときの私は活かすことができなかった。そんな大事なことに気付いても私にはそれを追求する手段がなかったのだ。
 それでも私は予感していた。この状態もいつか変化のときが訪れるだろうと。そのときこそ私が再び絵を描き世界とのつながりを取り戻すだろうと。今は幼虫が成体になるためのさなぎの状態なのだ。
 私の予感は半分くらい当たって、半分くらいはずれた。


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