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作品名: 作者:滝宗太

第3回   少年
 振り返ったときにはもうどうしようもないくらいまで迫られていた。その上悪いことに私は壁際に寄って左右は天井まである高い棚に囲まれていた。逃げ場がどこにも無かった。
 恐怖でパニックを起こすことはなかった。ただそれは自分のアホらしさ加減にうんざりしてしまったからで、けして冷静な考えができていたからではなかった。
 ゆっくりと立ち上がりながら壁に背中を預けた。棚の商品をどけて棚の中を潜り抜けられないか調べてみた。だめだった。後は棚に上るくらいしか逃げ道は無かった。
 前方の道を塞ぐように影が立っていた。なんと形容するべきなのか言葉が見つからなかったが、それは形だけは人に近くて、ほかのなにもかもが人とは違うものだった。
 全身が暗い影に覆われたぼんやりとした輪郭とその影の表面が発するほんの少しだけの青白い燐光が生物としての違和感を詰め込んだかのような存在感を発していた。
 テレビやインターネットでは何度も見た姿だった。アパートの近くを歩く実物もベランダから見たこともあった。恐ろしいほどに巨大なものを見たこともある。二週間前のことだ。だが、ここまで接近されたことは一度もなかった。絶望が目の前に広がるのを感じる。
 その影はゆらゆら惑いながら少しずつ私に近づいてきた。ゆれるたびに周りを仄暗く照らす光は夜の海に浮かぶ月の輝きをイメージさせた。照らす光が私の体に触れるのがわかった。
 もう影が目の前に迫り、私は最後の時を感じた。影に触れればどうなるのか、実際に自分の目で見たことはないが、メディアやインターネットで調べて知っていた。動画サイトではそのときの映像を映したものもあった。
 影が腕らしいものをのろのろ上げて私の顔に向けて伸ばしてきた。
 私の顔が青白く照らされ、心がほどけるようなため息を吐いたとき、急にぱっと強い光が天井に現れた。
 同時に直線的で天井のものよりもさらに強い光が影の後ろから差し込んだ。目に物理的な衝撃が加えられたかのような痛みを感じた。
 耐え切れずしゃがみこんで苦痛に涙を流した。同時に助かったと心の底から安堵した。まぶしすぎる光が頼もしくしょうがなかった。目から流れている涙は痛みのせいで毛ではなかった。
 沈黙がたっぷり十秒以上続いた後に光の向こう側から声が掛けられた。
「大丈夫。もういない」
 光は相変わらず強く照らされ、目はまだまともに開けることができなかったが、じりじりと動いて光の方へと移動した。
 這うように数メートルの距離を移動すると前方からの強い光が消えた。残っている天井の光はただの蛍光灯だった。
 それからようやくまぶたを開けて周囲を見ることができるようになった。
 まず目に入ったのはジーンズを履いた足だった。視線を上げ、見上げる格好になると大きな懐中電灯と車のバッテリーを持った腕が見えた。さらに視線を持ち上げれば少しおびえたように笑う少年の顔が見えた。目鼻立ちが整っていて茶髪がふわふわ浮いていた。
「立てる?」
 少年が声をかけた。私は自分が少年の前に膝を突く格好をしていることに気づいた。
「ほら」
 少年が手を差し伸べてくれたので素直につかみ立たせてもらった。
「ありがとう」
 言葉を一言発するだけで喉がしびれた。極度の緊張状態だったというのもあるが人と話すこと自体何ヶ月ぶりだったので声を出すという行為がうまくできなかった。次の一言をしゃべろうとしたら言葉がのどに詰まってむせ返ってしまった。
「ちょっと待ってて、水を取ってくるよ」
 そういって少年は茶髪を揺らしながらぱたぱたと走っていった。しばらく立ち尽くしていると少年はミネラルウォーターのペットボトルを持って帰ってきた。また、ありがとうと言ってぐびぐび飲んでいると突然閃いてペットボトルから口を離した。
「もしかしてあなたはこの店の人?」
 たぶん私の顔は少し青くなっていたと思う。
「そうだよ。だから気にしなくていいんだよ泥棒さん」
 少年はにこりと笑いながら言った。
 今度は顔が真っ赤になったと思う。とにかく恥ずかしくて、しゃがみこんで顔を両手で隠しながら、かすれた大声で「ごめんください!」と叫んでしまった。もちろんごめんなさいと言いたかったのだ。
「ごめんください?」
 と、オウム返しに少年が言うのを聞いてさらに恥ずかしくなって、世界に居場所がないくらい小さく丸まって、顔が熱くて、頭がくらくらして、吐きそうで、もう死にたいと思った。
 これだから、これだから、家から出たくなかったのだ。外の世界は根本から私に合っていないのだ。それがわかったから引きこもったのに。わかっていたのに。わかっていたのに!
そう思いながら、私が引きこもったのがぜんぜん違う理由だということを私は当然知っていたし、今はそうやって世界を呪うがごとく念じていなければ正気が保てなくなるということもわかっていた。
 茶髪の少年はいいやつだった。彼は私の空恐ろしい醜態を見て、とにかく私が話せるくらいまで回復するのを待ってくれた。
 どれくらい時間が経ったのか、ようやくふらふらと立ち上がる私を見て少年は優しく声をかけた。
「別に食べ物のことは気にしてないから。な、なんなら少しぐらい持って帰ってもいいよ。どうせ一人じゃ食べれないんだしさ」
 少年の一言がどこか遠くに行きかけていた意識に触れた。疑問が浮かぶ。うなだれていた頭を上げて少年を見る。
「一人?ほかに家族は?」
 そう、聞いてから愚問だと気づいた。少年から予想通りの答えが返ってきた。
「僕以外全員飲まれちゃった。あいつらに」
 肩をすくめながら少し陽気を気取る姿からは年相応の弱さがにじみ出ていた。立てた親指は先ほどまで私が追いつられていた袋小路を指していた。私は「そう」と短く答えるだけだった。
「そっちは?」
「私は・・・もともといないから」
「そっか」
 短い沈黙が訪れて、今度は少年が意図的に壊した。
「ねえ、やっぱりさあ、一緒にご飯食べよう。僕も何か食べようと思って降りてきたところだったんだ」
 私が答えるのを聞く前に少年は私の手をとって歩き出した。誰かに手を握られるなんて本当に久しぶりで驚き戸惑いながら、少年に引かれるままに足を動かした。
「お、怒ってないの?っていうか私たぶん犯罪者だよ」
「いいよ。犯罪者だろうがなんだろうがこの町じゃ人間といえるやつのほうが少数派なんだし。それに君は結構かわいいし」
 最後の一言はすごく余計だったけど、とにかく私は彼に救われっぱなしで、かすれた感謝の声すら出すことができなかった。


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