半年振りの外の世界に私は感慨深いものなどなんにも感じなかった。体はいつもしているような動きでドアを閉め、アパートの廊下を歩き出した。一連の流れは半年のブランクがあるとは思えないほどスムーズで、とてもふつうな感覚だった。自分でも意外だったが、私にとっては家から一歩も出なかった半年間よりもそれ以前まで暮らしていた日々のほうが日常だったらしい。 空は晴れていた。雲は見当たらなかった。絶好のお出かけ日和だ。 そういえば今は何月だろうか。長い引きこもり生活が外の生活に必要な時間感覚を奪っていた。夏の暑さは過ぎたから季節は秋だろうが正確な日付はわからなかった。九月か十月、空気の暖かさから十一月ではないだろうなとは思った。でも空が妙に透き通っていて真冬のようだった。世界が終わると季節も狂ってしまうのだろうか。それともやっぱりおかしいのは私だけなのだろうか。 私は長い階段を降りてアパートから出た。エレベータは壊れて使えなかった。空腹のうえ半年間まともな運動もしていなかった体はこれだけの労働で悲鳴を上げた。垣根を作っているタイルに腰をおろすと膝が震えてため息が出た。目的場所は五百メートルも離れていないスーパーだったがなんだかすごく遠いところにあるように感じられた。確かスーパーの名前はカルフォルニアだった。なるほどいい名前だった。 秋らしい風に当たりながらしばらくぼーっと町を眺めていた。風で揺れる街路所の葉以外に動くものの気配は感じられなかった。東南の空に浮かぶ太陽が葉を照らして地面にまだらな影を落としている。私はその影に隠れるようにして座っていた。時々風が強く吹いて顔に落ちた影がゆらりと流れた。顔に太陽の光が当たると目を細めてやり過ごした。 アパートの前の道を西に進むと四車線の国道に当たる。私のいる位置から見る限り、国道にも人の気配は無かった。車は一台も通らないし、歩行者もいない。誰もがみんな私と同じように引きこもりになってしまったようだった。 足のだるさがなくなるのを待って国道に向かって歩き始めた。口の中だけで小さくつぶやいた。 「順調そのものですよ、先生」 国道に出るとまっすぐ伸びた道からかなり遠くまで見通せるようになった。町が荒れている様子は無いけれど相変わらず人の気配も感じられなかった。 急に孤独を感じた。この町には私一人しかいないのではないかという考えがリアルなものとして感じられた。けれど、私は寂しさを感じていないと思った。心から染み出す、なにかゲル状のぬるぬるした正体不明のものを寂しさというのなら別だけど、これはもっと違うもののような気がした。私は自分の精神を分析してみたいと思った。発生源は心の、もっと正確に言うなら心臓の上のほう。左心室と大静脈が繋がるあたりだ。新鮮な血液が強圧力で送り出される瞬間に血管の細胞や筋肉の隙間から濾しだされて、内出血のように体内に溜まる液体物があった。 それは臓器と臓器の間をとろとろ流れて私のおへその辺りでぐるぐるとうごめいていた。 空のはずのお腹の一部はうごめく液体物に占有されて、私は先ほどまでに空腹感を感じなくなってきていた。 もし逆に、これを寂しさというのなら、今までの人生の中で私は寂しさというものを感じたことがなかったのかもしれない。結局、私はこの感覚をうまく捉えることができなかった。 スーパーカルフォルニアは国道を南に行った先にある。町の中にしては大きを持っているこの店は近所で一番栄えているスーパーだった。 私は店の前に立った。当然のように下ろされたシャッターにはピエロのデフォルメされた絵が描かれていた。かつての栄光を惜しんでいるのか、カラフルなボールを頭に載せながら微笑むその目元には涙の滴が描かれていた。 シャッターはしっかり下ろされていて、鍵も掛かっていた。私はがしゃがしゃとゆらしてみたり、持ち上げようとしてみたりしたが、 すぐに無駄なことだとわかりやめた。 どこかに中に入れる窓や扉があるかもしれないと思い、店の周囲を回ると裏手に格子のついた小さな窓を見つけた。 格子はアルミ製であまり頑丈なもののようには見えなかった。私は一応店を一周周りほかに入れそうな場所が無いことを確認して、その窓を壊すことを決めた。ちょうどいいことに少し大降りの古びた金槌が、店の塀に沿うように生えている草むらの中から見つかった。手に持てば木でできた柄がしなびてはいたが、十分使えそうだった。 私は試し打ちもせずに格子の側面を金槌でおもいっきり打ち据えた。大きな音が出ることは覚悟していたので驚かなかったが、予想以上に打ったときの反動が大きく、手の痛みに金槌を落としてしまった。落とした金槌が危うく足に当たりそうになり飛び跳ねて避けたが、そのときにバランスを崩して転んでしまった。両手を突いて四つんばいの格好で止まると手の痛みが治まるまで動くことができなかった。 うなってみたり歯を食いしばってみたり、涙を目にためてみたりしてようやく痛みが去ると格子のことを思い出して顔を上げた。 格子は側面からの打撃にひしゃげてはいたけれど、壁に留められている部分は健在で格子としての役割が損なわれているようには見えなかった。立ち上がり左手で格子をつかみ、強く引いてみるが少しぐらつくぐらいでとても取れそうではなかった。 ため息をついた後、息を大きく吸うと空腹で立ちくらみがした。こんな失敗をしている場合じゃなさそうだった。私は地面に落ちた金槌を拾うと今度は慎重に狙いを定めて金槌を振った。手のスナップは利かせず、腕の力だけで格子の側面を打った。手首をかばって繰り出した一撃は格子の根元を掠めるように打ち据え確実なダメージを与えた。その後数回にわたり金槌を振るうと、格子は根元で壊れ、手で押し曲げることができるようになった。 むき出しの窓は意外なことに鍵が変えられていなかった。手で軽く押してやるとスムーズにスライドした。 このときになってようやく私はあせりで手が汗で濡れていることに気づいた。手をシャツで拭いてみれば小さく震えてさえいることがわかった。私はもみ手をしながら呼吸を繰り返し、焦りを沈めようとした。なにごともあせってはうまくいかない。それは一般論だったが、普遍的な事実であると思った。 窓を改めて見てみると、ちょうど私の背の高さに枠があって私の腕力では登ることができなさそうだった。なにか踏み台にできるものはないかと周囲を探し、スーパーの正面に戻ると放置された自転車があった。鍵は掛かっているが、たいした距離でもないので引きずっていくことにした。鍵がかかっている後ろのタイヤを左手で持ち上げ、右手でハンドルを押した。接地面積が前輪だけの移動は不安定だったけれど、苦労せずにできた。 窓の下まで自転車を持ってくると壊れた格子を支えに自転車に登った。片方の足をサドルにもう片方を荷台に乗せてバランスをとる。円は私の胸の位置に来た。 建物の中を覗くとそこは洗面台のついたトイレだった。クリーム色のタイルが壁を作っている。窓からトイレの床はやはり私の身長ほどありそうだったが、迷っている理由もないので体を窓からねじこみ頭から建物に侵入した。 窓のちょうど下に洗面台はあり、両手をつくことができた。腰まで窓を通すと体がくの字に曲がって身動きができなってしまった。じたばたしながら少しずつ体を動かすと窓枠が腹に食い込んで痛かった。皮のしたに内蔵があるようなやせた腹は皮膚の痛さと内臓が圧迫される苦しさで二重に辛かった。 それでも手で水道の蛇口をつかみ、体を洗面台に引き込むとあっさりと全身が窓を通り抜けた。天地が逆転していたうえ頭に血が上っていたので、正確に自分がどう落ちたのかはわからなかったが、たぶん洗面台に顔を着けて前転したのだと思う。証拠に半年振りに鏡で確認した自分の顔は水滴が付いていて鼻が少し赤かった。鼻の色がどう変わろうが今の私にはどうでもいいことだったけれど。 金槌はまだ持っていた。TOMMYの鞄の中に入れ、いざの時に待機している。一瞬金槌の入った鞄で鏡を割ってしまおうかと思ったが、他人のものまで壊してしまうのはよくないと思いとどまった。格子を壊したのは不可抗力だと思っている。 トイレを出ると店のバックヤードに出た。どうやら従業員用のトイレだったらしい。 バックヤードは暗かったが、外から洩れる光に慣れれば歩くのに困るほどでもなかった。 食べ物の気配はすぐに感じた。狭い室内に並んだ背の高い棚にはダンボールやパッケージングされた商品たちが並んでいた。手近なものを引きずりだすと業務用につめられたお菓子だった。 手が驚くほど軽やかに動いてガムテープを剥がし、中身を取り出す。店でよく見るサイズになった箱を今度は側面を乱暴に開ける。小分けの袋に入れられていたのはクッキーだった。ほとんど力任せに、でも手馴れた手つきで袋を破り、二枚入りのクッキーを一度に頬張る。 租借するのももどかしく、体全体を使って飲み込むと幸福感はみぞおちの辺りから広まってきた。お腹に入ったものはへその辺りに溜まるのだと思っていたのでこれは意外だった。 体に甘い感覚が行き渡るのを感じた。じんわりとしたなにかが体からあふれてきて口から吐息と一緒に流れ出た。 すぐに次のクッキーを手に取る。もぐもぐと頬張りながらさらに袋を破る。まだ飲み込めないうちから次のクッキーを手に持ち口の前に準備させる。クッキーをのどに押し込んだらすぐに手に持っていたほうのクッキーを口に押し込んだ。 そうやって何度も流れ作業のようなことをすると口内の水分が無くなり咳き込んでしまった。ゴホゴホと咽た後に床を見ると破られた袋が散乱し、小分けの箱に入っていたクッキーはすべて食べ終わってしまったことに気づいた。 空腹が満たされたわけではないが、とにかく水分がほしくなりジュース類が置いてある棚に移動した。そこでペットボトルに入ったお茶とジュースを抱えてさらに雑貨の棚から割り箸を見つけて束になった袋ごと持っていった。 今度は缶詰の棚から適当に焼肉やさばの缶詰を手に取った。缶を開けて床に直接ご馳走を並べた。一つ一つ味わうような余裕は無くなにを食べたのかもはっきりしなかったが、少なくても十種類以上の缶詰を空にした。 のどが詰まりそうになるたびにお茶を飲んだ。のどを食べ物が通るたびに顔がにやけるほどの喜びを感じた。 そのときの私は心も体も食べることだけに夢中でほかのことが一切気にならなくなっていた。だから背後に『あれ』が迫っていることにもまったく気づかなかった。それは終わろうとしているこの世界を生きていこうとするなら一時すら忘れることが許されないものなのに。
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