第6章 臥待月・・・・もうひとつの恋
「臥待月(ふしまちづき)は別名、寝待月とも呼ばれる。月の出が遅いので寝て待つという意味があります。 待てば海路の日和ありという諺にもある様に焦らずじっくり待てばやがてよい機会が巡ってくるという意味ですが、待つことは大変でもあり心が焦れることでもあります。 男と女の間(ま)というのは時間と関係が密接につながる異空間でもあり、そこに恋が待っているような気がします」
一博をソファーに呼んだ加奈子は、 「あなたと別れることに変更ないわ。美香と好きにやってちょうだい。それから仕事だけど美香に引き継いでいくからね、それなら安心でしょ」と言った。 「おまえはどうすんだ?」一博は一応聞いてみた。 「すぐ出ていくわ。近くでアパートでも借りる」 「計画してたのか?」一博の言葉に加奈子は笑って、 「馬鹿ね、そんな訳ないじゃない。前から思ってたんだけど私はあなたを癒してあげれないわ。美香ほどやさしくも女らしくもないし、顔もきれいじゃない。あなたが浮気するたび自信がなくなってたの。だからあなたにやさしくできなかった・・・。そんな自分も嫌だったの」 「・・・・」 「でも、いい機会じゃない。もしかしたら美香もあなたの理想とは違うかもしれないけど、私よりいい筈だわ。そう、今の私より…」 「・・・・悪かったな」 「いいのよ。この歳でまた新しい人生踏み出せるなんていい事かもしれないし、今度は素直な自分になれるかもしれないって思っちゃうのよね。あなたも頑張ってね」 「本当に健三と一緒になりたいのか?」 「妬ける?」 「少しはな・・」 「あら、そうなの。うれしいわ」 「当て付けじゃないよな」 「さあ、どうかしら・・・」加奈子の最後の思わせぶりが一博に贈る女心だった。
それから加奈子は立ち上がると荷造りをまた再開した。10年といえどもやはり愛着があるこの家を離れるのは寂しい。だけど加奈子にはわかっていた。新しい事を始めるには過去を清算しなくちゃならないことを。今までもそうやって来た。いろんな仕事に就き、いろんな男がそばにいたが、いつも一人で生きてきた感があるからだ。子供がいないからなのだろうか、すべてにおいてあまり執着心を持つことがなかった。 だから子供のいない一博と結婚したのは居心地がよかった。お金もあったし落ち着いて仕事もできた。悪い暮らしじゃなかったが満ち足りないものがいつも心の中にあった。それが「愛」だと気が付いたのは健三に再会してからだった。やはり生きていくうえで「愛」は大切なのだ。 正直、美香と一博の愛がうらやましい。出来るならばこんな私でも「愛」を手に入れたいと思った。 安全・安定的な家庭がいくらあろうとも愛が必要ないという事はない。女はいつも愛を心に抱えていたいのだ。そして、それを温めてくれたり、くすぐってくれたりする男が欲しい。結婚という形に縛られ、家庭という檻の中に閉じ込められ我慢した上に愛が満たされないなんて最低だ。女でも愛に飢えているのだ。
美香も加奈子と話をして決心がついた。いつでも出て行けるようにある程度の荷物をまとめることにした。しかし、意外とあるようで自分の荷物はなかった。服以外のものがこんなにも少なかったのかと驚いた。家族の物がほとんどだった。20年もこの家に住み、自分のものというのが見当たらないのだ。 改めて自分の存在感のなさが寂しくなった。ただ子供を育てるためだけに家庭を築いたんだろうか。子供がいなくなった途端ただの家政婦だ。健三さえ私にやさしくしたり愛を満たしてくれてたら、不倫はしなかったかもしれない。 あれほど愛着で捨てきれない思いがあった家は急に色褪せ、昨日までの葛藤は不満の水で薄められた。美香は強く心を持とうと決めた。
翌々日、加奈子は長年住んだ井田写真館の家を出た。決断して進むスピードは速かった。 健三の職場から1kmほど離れた小奇麗なアパートに居を構えた。新築の2LDKは洋風の外観をしており今風だった。新しい家具に新しい部屋。一人暮らしするには十分な広さだった。窓からは夏草が生い茂る田んぼと山が見えた。緑に囲まれるとそれだけですがすがしい気持ちになった。意外と一人暮らしの自由もいいものだ。加奈子は若い時の一人暮らしに戻ったような気がして気分も若返った。 午前中に荷物を運び入れ、夕方までには全部片付いた。一人で過ごす夜は別に初めてじゃない。一博と結婚していても割と一人の方が長かったぐらいだ。まだ住みなれない新しい部屋で加奈子は一人で食事を作り、一人で祝杯を挙げた。それはやはり寂しさで押しつぶされそうになる自分を勇気づける為だった。 ごく身近な知人にメールや電話で近況を知らせた。それは愚痴になったり、喜びになったりで自分でもどれが本当の自分かわからないくらいだった。加奈子の新しい人生が始まった。
翌朝、加奈子は美香に連絡した。 美香は加奈子の行動の速さに驚いた。 「あんた、早いわね。よっぽどあの家出たかったの」 「そうじゃないけど、愚図愚図するのが嫌なのよ」 「私もやっと愚図愚図が治った」 「出ていくの?」 「そのつもりだけど残念なことにお金がない」 「一博は?」 「まだ一緒に住むわけいかないでしょ。ちゃんと別れてないんだから」 「あっ、そうだね・・・いつするの、その話?」 「今日帰ってくるから、今夜になるかな」 「ふ〜ん、いろいろ話そうか。ここにおいでよ。かわいいんだから」 加奈子は美香に住所を教え、近くのわかりやすい場所を教え道案内をした。お昼過ぎに美香はやってきた。
「いい部屋ねぇ〜」美香の挨拶の言葉だった。 加奈子の部屋は年齢に似合わず可愛いもので埋め尽くされてた。 「全部私の好み。少女趣味なの。昔からやりたかったのよ〜」 「笑うけど、なんだかうらやましい。私なんか自分捨ててたもんね」 「あら、なんで?」 「昨日、荷物をまとめたら自分の物は少ししかないの。みんな家族の為って感じ・・・」 「そうね…女って丁稚奉公みたいよね。結婚観考え直さないとね〜」 加奈子は美香のためにハーブティーを作り出した。華奢なティカップが可愛い。 「ところで、一博は?」加奈子が聞いた。 「今日は仕事してるらしいわ。なんであんたの旦那の事を私が話すのよ」美香が笑う。 「そうだよね」加奈子も笑った。 「改めてごめんね。騒動に巻き込んじゃって」 「全然いいのよ、気にしない。お礼を言いたいくらい」 「やっぱり〜〜」二人で笑った。
「健三のこと聞きたいんだけど」加奈子は言いにくそうに美香に聞いてきた。 「ああ、健三ね。でもどうして、健三がいいの?」 「昔、ラブレター渡したことあるんだ」 「へぇ〜、で、どうだったの」 「無視された・・・」 「あいつはリアクション下手なのよ。女嫌いなのかな」 「でも美香とは結婚したじゃない」 「それは、健三が銀行員で安定的に見えたからかな〜。私が押し掛けたのよ」 「誰だって安定は欲しいよね」加奈子は自分と一博の時を思い出して頷いた。 「さっきの女嫌いってどういう意味?」気になった言葉を加奈子は質問した。 ウ〜〜ンと言いながら、言おうか言うまいか迷ってる美香に、加奈子はせっついた。 「健三、意外と夜は淡白なの・・・。もう、ずっとしてないわ」 少し恥じらいながら美香は告白した。 「男に気があるとか?」 「嫌だぁ〜、そんな訳ないと思うけど・・あったら、どうする加奈子?」 わざと美香は振ってみる。 「ないとは思うけど。どうなのよ、なんであれが嫌いなの?」 「あれって、あれよね・・・仕事ばっかりしてて女に興味がなくなるんじゃないの?」 「いつからしてないの?」身を乗り出して加奈子が聞いてくる。 「う〜〜ん、10年・・?」 「えっ! 10年っ・・。一博と結婚した時だ。ずいぶん昔じゃない」 「でしょう・・・おかしいでしょ〜」 「本当に女嫌いなのかな・・・」 「男の人ってしなくても大丈夫なのかな〜」 美香はいつも不思議に思っていたが見当がつかなかった。 「そんなことないと思うよ。私の回りの男はしたがりばっかりだったもん」 加奈子が言う。 「家庭の奥さんは嫌で、よそだったらいけるのかな〜」 「えっ、健三って外で遊ぶタイプ?」 「ううん、ぜんぜん。本当に仕事ばっかり。だけど出張先までは知らない。そうなんだろうか」 「外の行動、チェックしないといけないわね〜」加奈子が腕組みをして真剣に考える。 「してないと思うよ。堅物だもん。今までそんな雰囲気なかったわ」 「じゃ、ただのストイックなだけ〜? それとも病気?それとも一人でしてんのかなぁ〜?」
加奈子の言葉に美香は笑った。 「やだぁ〜〜、考えられない。うそぉ〜・・・」 「男って溜まるもんでしょ・・どっかするはずだよ」加奈子が言う。 「やだぁ〜〜、考えたくな〜い・・・」美香は顔を隠して堪え切れぬ笑いを漏らした。 「でも、それって私より自分の手の方がいいってわけ・・・なんだか、それも嫌だな〜」美香が言った。 「面倒くさがりなのかもね」 「あ〜、それはあるある。話すのも面倒みたい」 「・・・・・じゃ、口説くの簡単かもね」加奈子が自信ありげに言った。 「どうして?」 「もう、ずっとしてないんでしょ。色仕掛けだったら簡単かも」 「・・・・」美香は私がダメなのにあなたに出来る筈ないでしょ・・と思った。 「私さ、顔は美香に負けるけどナイスバディなのよ」加奈子が胸を張る。 「もういい歳じゃない・・・そんなに自慢できるの?」 「お腹も出てないし、バストだってたるんでないわ。お金かけてシェイプアップしてたもん」 「え〜〜ほんとに〜〜」 「顔はこの歳になるとみんなおばさんだし、そう大差ないと思うのよね」 確かに、この歳の顔で男を釣ろうなんて少し無理がある話だ・・・美香は加奈子の自信に驚きながらもあの健三が女の体に興味を示すなんてととても思えなかった。 自分の夫ながら、どうなるか興味が湧いてきた。
「じゃ、まず色気作戦で行ってみようか」加奈子は超乗り気だ。わくわくして楽しそうなのを見ると今更ながら健三をあげるのは惜しいかもと美香は変な心を揺さぶられた。しかしサイコロは振られたのだ。 それから、加奈子は仕事の事を言ってきた。 一博と一緒になるのだったらお店の事を教えてあげると。いよいよそこまでなると健三と別れ、一博と新しい生活をすることになるのだろう。現実感が伴わないまま人生が進もうとしていた。きっと、不倫のキスを始めた時からこのシナリオは役者が覚悟しようがするまいが動き出していたのだろう。 美香は動き出した人生の列車に乗り遅れないように飛び乗らなければならない。旅立ちとはこういう事かもしれないと思った。仕事の事は了解した。1週間後から始めることにした。
その夜、健三は帰って来た。美香は一博の事は隠して「別居したい」と言った。泣き出したいほどの勇気が要ったが覚悟を決めたら口に出せた。想定外の展開に健三はさらに無口になった。何も言わないものだから健三の意思が読み取れない。 健三は作っておいた夕食を食べると、ふろに入り、そのまま寝た。とうとうその晩、健三は口を開かなかった。美香は誰もいなくなった部屋で小さく泣いた。覚悟を決めた自分に、見切りをつけた家に、いろいろな思い出に胸が痛くなるほどの寂しさが募った。泣く事で未練を消した。 健三が引き止めたり、口論になったりした方が気が楽だった。それでも関心を示してくれない健三に諦めがついた。別居は別れの始まりとして言ったつもりだった。まだ出てゆく場所は決めてはいなかったが美香は別れる気持ちを固めていた。
翌朝、健三は美香の寝ている部屋をノックすると仕事に出かける姿で美香に聞いた。 「別れたいのは一博のせいか・・・」 美香は返事をせず、頷いた。 「・・・・」健三はそれを見ると何も言わず、そのまま家を出て行った。寂しさがまた家の中に溢れた。
翌日、美香がパートから帰るとテーブルの上に健三の判を押した離婚届が置いてあった。何も聞かず深い理由も知ろうともせず、面倒な言い合いもせずにこういう事をするのが健三なのだ。少し腹が立ったが健三のやり方・意思なのだから仕方ない。そう言えば健三といる時に私の意思は尊重されたのであろうか、初めての意思の尊重が離婚の了解というのも寂しすぎる。 覚悟をしていたが美香は離婚用紙を見ると涙が出てきた。それは別れの涙でなく、今まで築いてきたものが砂上の楼閣だったようなことが悔しかった。やっと本気で別れようと美香は決心した。 心のどこかに健三が今までの健三でなくガラリと変わり、目の前に現れるのを期待していたのかもしれない。しかし、現実は追い打ちをかけるような冷たい行動だった。 美香は一博に会いたくなったが我慢した。寂しさや辛さを誰かで解決しようとしたら簡単だ。だけど今回は自分でした事だから我慢しようと思った。新しい人生には新しい自分が必要なんだと・・美香は泣く事で変わろうとしていた。
それから健三は家には帰らなかった。一週間分の着替えがないという事は出張なのだろうか。それもわからなかった。離婚届の用紙はまだ出さないでいた。子供の事や家の事をちゃんと話し合ってからじゃないといい加減すぎるからだ。 寂しくなった家の代わりにうるさい加奈子がやって来る様になった。 健三の実生活が見たいと言い出したり、今までの生活のパターンを聞いたり、熱心に耳を立てて聞いていった。
離婚届を確認するなりニンマリとして作戦を企てる加奈子を見ると、ここにももう一つの恋があるんだなと美香は思った。どんな人生が最高の人生かわからない。ただ人によっては幸せにもなり不幸にもなる。言えることはそれでも人生は動き続ける。だから誰もが幸せになりたい。幸せを追いかけることがすでに幸せなのだろう。人の人生は一生何かを追いかける運命なのであろうか。
「ねぇ〜美香。健三は今どこにいるの?」加奈子が聞いてきた。 「さぁ〜」 「知らないの〜?」語尾を上げて疑うように聞いてくる。 「知らないわよ。じゃ、一博は?」 「‥‥さぁ〜、何やってんだか・・・」 二人で笑った。「どっちもどっちね・・・」 「一博んとこへ行ってもいいわよ」加奈子が言った。 「まだ、いいわ・・・」美香はなんだか会いたい気がそがれていた。 「ねぇ〜会社に聞いてくれないかしら。健三がどこにいるのか仕事でしょ多分」 「いいわよ。なんで?」美香は加奈子の顔を覗き込みながら聞いた。 「鉄は熱い内に打てって言うでしょ。沈んだ健三を慰めてあげるの」 「はぁ〜、それはそれは・・・勝手にして頂戴」 「ねぇ、だから聞いてよどこに行ったか・・・」
美香は健三の花火工場に電話を掛けると行く先を聞いた。やはり出張中だった。 「今週の日曜日迄、三崎町だって。そこで花火大会があるんだって」 「どこなのそれ」 「新幹線で1時間くらいの所かな。車で3時間?」 「ふ〜〜ん行けばわかるよね」 「さあ?」 「美香って今まで行った事ないの、健三の花火の現場?」 「嫌いだもん・・・」美香は花火が嫌いでなく、花火の仕事が嫌いなのだ。そもそも健三が銀行員のままだったらこんな事にはなっていないかもと考えがよぎった。 「行ってどうするつもり?」美香は加奈子に聞いた。 「作戦その一。色仕掛けよ」 「はぁ〜〜?」 「私のナイスバディでたぶらかすの・・・」 「まさか〜・・・」 「本当よ。決めてんだから」 「あの健三だよ・・・出来るの?」 「意外と脆いかもよ・・・」 「・・・・まぁ、難しいと思うけどなびけばいいわね」 「男は女の裸が一番よ」 「はぁ〜」美香は呆れたため息が出た。 男が裸に弱いのはわかる。しかしあの堅物の健三だ。どこから攻略していいか美香には思いつかない。すでに見捨てた健三の事だからどうなろうと構いはしないのだが、このあんぽんたんな加奈子の裸にすぐ飛びつくんだったら今までの自分に自信がなくなる。 美香は健三が落ちないことを願った。どうでもいい健三だがせめて裸に目がくらまないでくれと願った。 「じゃ、私行って来るから」加奈子は美香に敬礼のように手を頭の側で振るとニコニコして出て行った。 「えっ、すぐ行くの?」 「ううん、美容室とエステに行って女を磨いてくる。それから勝負下着も」 「ふん」 「ねぇ〜美香、中年の恋って楽しいね・・・」 「・・・・・」どうにでもしなさいと美香は思った。 加奈子はいつものエステと美容院に行き、健三のいる三崎町に向かった。
三崎町は人口3万人の漁港の街だ。健三は漁港を囲む堤防で仕事をしていた。花火大会は明日の夕方8時に始まる。炎天下のコンクリートの上に鉄パイプで土台を組み、そこにステンレスの打ち上げ筒を頑丈にセットしていた。汗は顎の先からサウナのようにしたたり落ちてくる。 携帯電話が鳴った。中井からだった。 「健さん、お客さんが来てますよ。井田さんという女の方。どうしましょうか」 健三はきっと一博と美香のことでだろうと思った。この忙しい時にそんな話などしたくない。 「夕方まで手が離せないから、7時半にまた来てくれと言ってくれ」と健三は言った。 健三のいる場所は船の停泊所から100mほど離れた、浮島のような堤防だった。加奈子と会うには、わざわざ小舟で海上を移動しなくてはならない。それに、そんな話より仕事の方がましだった。
夏の夜は遅くにやって来る。8時近くになってもまだ明るさがあった。健三は小さなエンジンが付いたテンダーから降りると中井達がいるトラックにやってきた。 「あれ、井田さんは?」健三が中井に聞いた。 「時間があるのでホテルで待ってるそうです」 「どこのホテルだ」 「うちらが止まってるホテルですけど・・」 健三は教えたのかという顔をして、中井を見た。 「よし、明日の朝は8時に集合だ。解散。お疲れ様」健三は汗で湿った作業服を脱ぐとシャツに着替えた。それから近くにある加奈子が待つホテルに向かって歩いた。 フロントに着くと加奈子から伝言があった。「電話ください」と。それから携帯電話番号が書いてあった。健三は先に風呂に入ろうか迷ったが、かけることにした 「もしもし」久しぶりの加奈子の声だった。 「あっ、俺、有田だけど」 「健ちゃん?仕事終わった?」 「ああ、もう帰ったのか」 「ううん、いい所だから泊まることにした。明日の花火も見て行こうかと思って」 「家には帰らなくていいのか?」 「あっ、れっ・・・知らなかったっけ。もう離婚したんだ」籍は抜いてなかったが加奈子はそう言った。 「離婚?・・・・」 「そう、おたくの美香さんといい事になったから、別れた」 「・・・・・」 「もう、ご飯食べた?」 「いや、まだだ」 「一緒に食べようか?今フロント?」 「ああ」 「じゃ、降りてくる」加奈子の電話はそこで切れた。降りてくるってここに泊まってるんだ、あいつ。 健三はフロントに井田という女性が来たら10分だけ待ってくれと伝言を頼んだ。どうも汗臭くていけない。健三は自分の部屋に帰ると急いでシャワーを浴び、また1階のフロントに戻った。 加奈子はそう大きくない待合室のソファーに座って待っていた。白いワンピースは清楚に見えるのだが、胸元が大きく開いて、はじけるような肉の谷間が見えていた。健三は加奈子はこんなに胸が大きかったのかと少し驚き、嫌がおうもなく目に飛び込んでくる谷間に少し恥ずかしくなった。
「待ってたのよ。今日一日待ちっぱなし。忙しいみたいね」加奈子が言った。 「なんで来たんだよ〜」 「相談、相談・・・ねぇ〜飲みに行こう。居酒屋でいいからさ。暑いから生ビール」 「・・・・」健三は加奈子に押し出されるようにホテルを出た。 海沿いの道路を歩くと、白い船が横並びにずらりと着岸していた。湿気を含んだ風は内陸部の風より涼しく気持ちがよかった。ホテルから300mほど歩くと営業中の文字が書いてある赤い提灯が見えた。 健三は加奈子の横で何も言わずついてきた。何の話を切り出して来るんだろう・・健三はあまり聞きたくない話を聞かなければならないのかと少し憂鬱だった。
店の中はまあまあのお客の入りだった。壁には大漁旗や墨書きのメニューが所狭しと張ってある。若い店員に通されたテーブルは分厚い木で作られた民芸風のテーブルだった。加奈子は生でいいよねと言うと健三の返事も聞かず注文した。そして冷たく冷えた生のジョッキは待たされずにすぐに来た。 「かんぱ〜い。えっと・・離婚にかんぱ〜い」と小さな声で言いながら加奈子は健三のジョッキに自分のジョッキをぶつけてきた。 「・・・・・うれしいみたいだな・・・」健三はビールを一口飲むと言った。 「うん、とっても・・」 「なんで?離婚したかったのか」 「別に・・・ただ、ああなったら、離婚するしかないじゃない。健三は?」加奈子は健三が美香に書いた離婚届を知ってるくせに聞いてきた。 「・・・・」 「どこまで知ってるの?」 「・・・・」 「聞きたい?」 「・・・・」 ちょうど店員が食べ物の注文を取りに来た。健三はとりあえず魚料理を3品ほど頼んだ。加奈子は何故来たんだろう?
「なんで、ここに来たんだ」 「う〜〜ん、気分転換。健ちゃんの花火が見たくなって来た」 「・・・・本当は?」 「・・・・誘惑しに来た・・」 「へっ?ゆ〜わくぅ〜・・・」健三は思いがけない言葉に大きな声を出してしまった。そして、その言葉と同時に視線が加奈子の胸に行った。 「なんで俺がお前に誘惑されなきゃいけないんだ・・・」胸騒ぎじゃないがいきなりの言葉に少し心臓がドキドキした。 「健ちゃん寂しくない・・・」加奈子ははにかんだような顔で健三に言った。 「別に・・なんだそれは・・捨てられたもん同士、仲良くなろうってことか・・」 「そんな言い方ないじゃない。ただ聞いただけよ」 「・・・・・」 健三も加奈子も目の前のジョッキに手をやると、相撲の仕切りのように、お互いの動作に合わせて飲んだ。ジョッキの底が天井を向くほどビールはなくなっていった。 「フゥー」加奈子は飲み干したジョッキを持ち上げると店員を探し「もう1杯」と言った。 すかさず健三も「もう1杯」と同じようにジョッキを持ち上げて行った。
「健ちゃん・・・明日の花火はどれくらい上がるの」 「5000発だ」 「ふぇ〜、凄い。準備大変だね」 「ああ」 「真下から見れるかな」 「だめだ。危ない」 「・・・そんな危ない所で仕事してんだ」 「好きだからな」 「女より好きなんでしょ・・」 「・・・」健三は加奈子の顔を見た。 何を言いたいんだ・・・何か美香といろいろ話したのかなと思った。 「美香にあったのか?」 「会うわけないわ」加奈子は嘘をついた。 「ねぇ〜、健ちゃん。一博に寝取られてプライド傷ついた?」 「・・・・別に、プライドなんかねえよ」実際は少しそんな感じは持っていた。しかし、妻の浮気は自分のせいであることも納得していた。ほとんど美香のことは構ってなかったし、ほったらかしだった。 世間で浮気は悪いと言われるが、される方にも原因がある。よっぽどの恋愛病患者じゃない限り、人は放っておかれたら寂しくなりどこかに誰かを求めたくなる。それが3年10年と続けばなおさらだ。 健三は自分が悪いのだと納得していた。人を責めるより自分を責めるタイプなのだ。ストイックに生きる人間は悪く言えば自分の事しか見ていない自己中なのだ。
「普通だったら切れるんじゃないの。美香のこと嫌いだったの?」 「・・・・なんも言いたくねえ・・・」 「・・・・」 「みんないろんな理由があるんだ。詮索するな」 「健ちゃんって強いね〜・・・。いいなぁ〜」 「強くねぇ〜よ。煩わしいことが嫌いなだけなんだ。もうこの話やめねぇか・・」 「・・・・そうね。誘惑しに来たんだから暗い話はやめよ」 「誘惑って、俺様にか?」健三が笑った。 「なによ、それ。俺様っていつでも上から目線なんだから。フラれ男でしょ」加奈子も笑う。 若い店員が「ヘイ、お待っとうさんです」と言って料理を運んできた。近海で取れた魚は新鮮そうでおいしそうだった。加奈子は健三の箸を取ってあげると健三に渡した。それから加奈子は目の前の料理を食べながら、アパートに移り住んだ事、一博の仕事を美香がやっていくことを手短にポイントだけ言った。健三は何も言わずジョッキのビールを飲み続け、加奈子の話を耳に入れた。
1時間もするとかなりの酔いが健三にも回ってきた。暑い炎天下の中で仕事をすると体力を使う。汗をかくぶん新陳代謝がいいのか、よくアルコールが回った。加奈子も機嫌がいいらしく饒舌にいろんな話をした。もっぱら健三は聞き役だった。いつもの事ではあるが。 「健ちゃん、さっきの話・・・女は嫌いなの?」 「嫌いな筈はないだろ」 「じゃ、どうしてんの?」 「どうするって何をだよ・・」 「下半身・・・」 ブッとビールを吹き出し、加奈子を見た。 「お前、よく平気でそんなこと聞けるな〜。俺の方が恥ずかしくて言えねぇ・・」 「昔、水商売やってたから男ってすることばっかりでしょ。いっぱい聞いた」 「あのさ・・・他の男と一緒にすんな。俺は・・・我慢してんだ。これでいいか・・」 「やせ我慢?じゃ、したい気はあるのね。ホモじゃないのね」 「ホモ〜?馬鹿か・・・男は嫌いだ」 「女も嫌いなんだ」 「・・・・・何を言いたいんだ・・」 加奈子は健三の赤くなった恥ずかしい顔を見ると、少し腰を浮かせてテーブル越しに健三に近づいた。 「この、おっぱいあげる」 健三は加奈子が自分で持ち上げてみせる胸の谷間に視線を落とすと、正直恥ずかしくなった。 「おっ、おっ、お前酔ってねぇ〜か。ちょっとおかしいぞ。欲求不満か・・」 いつもの健三らしくない声高の返事が返ってきた。それを見た加奈子はわざとさらに挑発する。 「健ちゃんにあげるから、貰って・・」
健三は手で遮りながら「おぉ〜い、勘弁してくれ」と言って、照れ隠しなのかビールをあおった。 加奈子は浮かせた腰をちゃんと椅子に座りなおすと、テーブルに頬づえをついて健三を正面から見た。 「健ちゃん、うぶなのね・・・」 「勘弁してくれ。そういうの慣れてないんだ」 「あら、出張の時飲みに行ったりしないの」 「たまには行くけど、野郎ばかりでカラオケだ」 「ヘンなとこは?」 「俺は行かない」 「遊ばないの?」 「遊ばない・・・」 「ふ〜〜ん、草食系?」 「なんだ、その草食系って」 「知らないの?まぁいいわ。やっぱり健ちゃん私の好み」 「別にお前から好みって言われても、俺は嬉しくねえ」 「・・・・いいわ・・・」加奈子は健三をうっとりした目で見る。健三の視線が胸の谷間に時々泳いで来るのを加奈子は見逃さなかった。ちゃんと意識してるな・・・よしよし・・。 健三みたいな男には急な接近は刺激が強すぎる。まず意識の中にこの胸を埋め込ませるのだ。欲求が高まった時、絶対この胸が頭に現れる筈だ。少しずつ洗脳していけばいい。 加奈子はそれから話の途中で胸を突き出したり、暑いと言っては胸の谷間に風を送り込んだり健三の視線を持ってこさせた。
2時間ほど飲んで帰ることにした。勘定は健三がしてくれた。暖簾の外に出ると、まだ外はなまぬるかった。夏の夜風はまったりして、すぐまとわりついた。 加奈子は健三の片腕を取ると、自分の胸に押し付けるように腕を組んだ。 「暑っ苦しいだろ」健三が嫌がる。振り払うように加奈子の胸から逃げた。 「もぉ〜〜健ちゃん、冷たいんだから・・・」 加奈子は健三のシャツの裾をつかむと、子供のように後ろからついてきた。
ホテルのフロントに到着すると健三は「403号室」と言った。 続いて加奈子が「402号室」と言った。健三が加奈子の顔を見る。 「隣空いてたから・・貰っちゃった・・へへっ」と加奈子が言った。 「・・・・」 健三は黙ってエレベーターの方に向かって歩き出した。二人狭いエレベーターに乗り込む。ロープを手繰り寄せるような低い音をそのエレベーターは発しながら上階へと登って行った。 二人並んで出れない幅のドアを出ると左右に細長い廊下が続いていた。節電の為だろうか薄暗い。加奈子と健三の部屋はエレベータホールから右に五つ目と六つ目の部屋だった。 「行かないからな・・・」先に健三が言った。 「別に呼んでないわよ・・・来たいの」加奈子が笑って言う。 ドアはすぐ隣同士だった。 細長いプラスチックに部屋番号が刻印されてある鍵を差し込むとガチャリと音がした。 二人とも顔を見合わせると「おやすみ」と言って、お互い自分の部屋に入って行った。バタンとドアが閉まる音が一つに聞こえた。 ビジネスホテルの薄い壁1枚隔てて同級生だった男と女が、隣同士で寝ることは決められた運命だったのだろうか。外には下弦の月が顔を出し始めていた。
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