第五章 十六夜・・・・ためらいと決意
「十六夜は満月の翌日の月の呼び名で「いざよい」とも読みます。月の出が十五夜(満月)よりやや遅くなっているのを、月がためらっていると見立てて、「十六夜」とは“ためらい”の意味を持っているそうです。 完璧な満月も十六夜から欠けていきます。男と女の間にも完璧はなく満ち欠けの変化から逃れられません。決断にはためらいが要りますが、それもまた次の満月を迎えるには仕方ありません。完璧に少し足りないのが人間らしいと思いませんか?」
次のステップに移るというのは簡単じゃない。組まれたスケジュールであれば自動的に上がっていくのだが、自ら進んで大海の中に漕ぎ出すような先の見えないステップは不安だらけだ。しかし、勇気を出し次のステップに踏み出した者だけが新しいチャンスを得ることができる。 だがそれはわかっているが人間なかなか見えない世界に足を踏み入れるのは不安だ。それに心構えもない所にそういう話が舞い込んで来たら誰だって慌ててしまう。そういう時こそ、その人の本質が見えてくるような気がする。ぎりぎりの場面でどう動くか、悠長に構えてられなくすぐ答えを求められる時、人は自分の事を取り繕っていられない。
一博は加奈子と話し合った翌日、美香に電話を入れた。 「美香、実は加奈子が僕たちの事を知っている。調べたそうだ調査会社で」 「そう・・・」美香は冷静だった。これもいつかはわかる話だ。 「それで?」低い声で美香が聞き返す。 「加奈子がお前に会いたいと言っている」 「なんで? 謝れって言うの」 「わからない。慰謝料の話もしていた。どうする?」 「・・・・いいわ。会うわ。一応、人のものを取ったんだから謝らなくちゃね」 「いいのか?」 「いいわよ。あなたこそいいの?修羅場になるわよ」 「冗談言うなよ。どうせけじめはつけなきゃいけないさ」 「・・・・一博・・・私が好き?」 「・・・・ああ」 「だったら、行く勇気100倍出てきた。守ってね」 「・・・・。1時に迎えに行く」
一博はちょうど1時にやってきた。美香は家の掃除も終わりなんだかさっぱりした気分になっていた。 「いよいよ、決戦か・・」美香は怖いながらも、奮い立たせるように微笑んだ。 一博のベンツまで歩いていくと、神妙な顔をした一博がいた。それは自信に溢れた市会議員のような顔でなく心細さで誰かにすがりつきたい時の一博の顔だった。そんな顔も悪くない。 いろいろな表情が出る方が分かりやすくていい。美香はドアを開けた 「よお・・」一博が笑顔を向ける。強がりか、照れくささかわからない。 「さっ、行こうか加奈子の元へ」美香が言った。 「なんだか元気あるな」 「カラ元気よ。さっきまで泣いてたんだから」 「健三か?」 「ううん、彼は帰ってこなかった。ちょうどよかったけど・・・」 「そう・・」 「さぁ、片づけに行こう。新しい未来が待ってるじゃない」 「なんだか元気あるな・・よかった。俺も頑張るかな」 一博は車中で、昨日の加奈子とのいきさつを話した。美香は淡々と聞いていた。 「どうするつもりなんだろ?」一博がまた昨日と同じ自問を繰り返した。 「とりあえず1回謝るわ。泥棒猫だから」 「無茶しないかな・・あいつ」 「そうなったら、私も無茶するわ」美香は笑った。それはないだろうと思ったからだ。 「おい、おい、物騒なことはやめてくれよ」 「針のむしろね一博」また美香は笑えた。 「なんか余裕あるな。こういう時は女が強そうだ」 どちらにしてもなるようにしかならない。とりあえず。美香と一博は一人の時よりも元気が出てきた。
井田の家は大きかった。昔からの大きな家にさらに増築していた。国道に面した側には井田写真館のスタジオがある。 一博たちは裏の駐車場に車を止めると自宅の玄関に回った。一博の心臓は早打ちしていた。一瞬、逃げ出したい気にもなる。美香の顔を見るといつもの顔だった。意を決して自分の家のドアを開けた。 ドアの音を聞いた加奈子は「はぁ〜い」と返事をした。そして玄関まで出迎えた。 美香も加奈子も普段通りの顔をしようとしたが、こわばっていた。一応笑顔らしきものをちらりと見せるが、多分それは笑顔になっていなかったかもしれない。 「待ってたわ」加奈子が切り出した。「奥にどうぞ」と言った。 一博は自分の家なのに、自分の家じゃないような気がした。緊張していた。 「何がいい?コーヒーでいい?」加奈子が聞く。 「あっ、なんでも・・・」美香は加奈子の応対に戸惑いながら返事をした。 ソファーに座ると横に一博が座ってきた。少し安心した。こちらの味方のようだと美香は思った。 テーブルの上には調査会社の封筒があった。美香は取り出し中を見た。 いかにも不倫ですというような写真の撮り方が気に食わなかったが仕方ない。隠し撮りで取られたのは初めてだ。あまり写真映りがよくない。鏡の中の自分はもっと若いはずだった。こうやって見ると秘密の現場写真は自分の年齢の秘密まで写されてるようで裸にされた気分だった。 すぐ、写真を放りやった。ちょっと腹が立った。
加奈子はお客様の接客のようにコーヒーを作り運んできた。いつもより化粧が濃いのは対抗心の表れだろうか。女の戦いはすでに始まっているのかもしれない。美香も臨戦態勢に入っていた。 「ごめんね、急に呼び出したりして」加奈子が言う。 「加奈子、先に謝っとくわ。こっそり盗んだのはあたしの方だから・・・ごめん」 「悪いのは一博だから気にしなくていいわ。でも、一応受け取っておく」 「・・・・」一博は二人の会話に注意深く聞き耳を立てるが、居心地は最高に悪かった。
一博と美香が座るソファーと、一人で加奈子の座るソファーの間にはテーブルがあり、その上には調査会社の写真と場を紛らすような3つのコーヒーカップがあった。加奈子も写真は一度見たがそれ以上見たくなかった。一博は見られたくないものを見られないように、テーブルの上にある秘密の写真を調査会社の袋に入れなおした。 美香と加奈子が喋らない空白の時間が長く長く感じ、こんなにも1秒が長いのかと一博は嫌に思った。
「あのさ、今日ここに美香を呼んだのは、これからの事を話したいから呼んだの。別に罵倒する気はないわ。一博を返せとも言わないわ。あんたたち二人が好きあった仲に邪魔したいわけじゃないの」 「・・・・」 「・・・・」二人は悪いことをした生徒が先生の言うことを聞くように神妙に聞いた。 「多分こうなるだろうと思ってたわ。一博も美香も寂しがり屋でしょ。二人とも誰かがそばにいて優しくしてくれないとすねるタイプでしょ」 加奈子が言うのは悔しいが当たっていた。だけど、この落ち着きはなんだろう・・・ 「一博はご存じのとおり浮気癖の多い男だと知ってるよね。美香、それでもいいの?」 「‥‥」美香は黙っていた。それは昔の話でしょ・・と言いたかった 「ずいぶん前から私はあきらめていたわ。最近は相手してなかったというのが本当。どうにでもして頂戴って感じだった。この前の旅行の時、あんたたちキスしてたでしょ」 「‥‥」一博はまた一つ秘密をばらされ、さらに居心地が悪くなった。見てたのか・・・ 「別にそれもいいわ。嫉妬してない」加奈子は嫉妬と言って、少しあったのを思い出した。 「正直に言うけど、一博とうまく行ってなかったから、この機会に別れようと思うの」 一博は加奈子の顔を見た。そうなるであろうと予想はしてたが面と向かって言われると心が痛い。 「で、一博に聞きたいんだけど、あなたはどうしたい?」 「えっ、俺・・・・まだ、考えていない」 「何よ、それ。美香とは遊びだったの」加奈子が少し大きな声を出して責めた。 「いや、そういうわけじゃないが・・・昨日の今日でまだ先のことを考えてなかった」 「じゃ、今考えなさい」加奈子は一博にぴしゃりと言った。
「あのさ加奈子。質問していい?」 美香は加奈子の一方的な上から目線が気に食わなくなり口を開いた。 「いいわよ・・・」 「加奈子は一博が間違いを犯すのを待ってたの?」 「・・・・・」 「それっておかしくない。一博の悪い性格知ってるのなら治してあげればよかったじゃない」 「昔は努力したわ」 「奥さんだったら、ずっとするでしょ」 「知ってるでしょ、この人は軽薄でちゃらんぽらんなのよ、女に関してはね」 一博は反論できなかったが、言い方にむかつく。 「よく、わかってないわ。さっき言ってたでしょ。この人は寂しがり屋なのよ。私もだけど」 「それだったら、不倫しても許されるわけ?」 「いいえ、ちがうわ。だけど・・・」美香は不倫という言葉を持ち出されると弱かった。 「一博が決めようが決めまいが、あんたたち一緒になりなさいよ。わかってるわ。私みたいに一方的にものをいう人間じゃ男の心を癒してあげれないのは。その点、美香はよく男のことを考えてあげる。いいじゃない。一博、一緒になりなさいよ」
「別にお前から命令されるものじゃないよ。初めからそのつもりだよ。美香と一緒になろうと思ってんだ。そんな言い方やめてくれ」 初めて一博が意思を持った口を開いた。 沈黙が走った。
「悪かったわ。大きな声出して。でも・・・非難していいよね少しは・・・」 加奈子が言った。 「加奈子ごめんね・・」美香が謝った。 「いいのよ、うらやましいわ。この歳でまた人を好きになるなんて」 加奈子の元気がなくなった。 加奈子も美香も一博も沈黙した。
「今日呼んだのは私もけじめをつけたかったの。一博と別れる代わりに、あなたたち一緒になってくれない。そのつもりなんだろうけど別れないって約束してくれる」 「どうしたんだよ・・・」 「せっかく初恋同士で一緒になれたんじゃない、なったらいいわ・・・」 「知ってたの?」美香が聞いた。 「みんな知ってるわよ。クラス中」 「どうしたんだ、おまえらしくないな」一博は泣き出しそうな加奈子を見て困惑した。 「美香・・・一博のこと好き?」 「・・・好きだけど」美香も妙な展開に困惑している。 「一博は?」 「・・・まあ・・・」 「好きなの?」 「ああ、好きだ」一博と美香は顔を見合わせた。加奈子は何を言いたいのだろう。 「絶対一緒になってね、じゃないと許さないから・・・」 「???」
「私、健ちゃんと一緒になる・・・」加奈子が言った。 「えぇ〜〜っ・・・」美香と一博は加奈子を見て驚いた。 「なんだよ、いきなりそれ。お前たちもできてたのか?」 「違うわよ。不倫なんかしないわ」 「じゃ、どうして・・・?」一博が気色ばむ。 「私は健ちゃんが好きだから・・・」 「はぁ〜〜〜?」 「いいじゃない。あんたたちだって好き同士で一緒になるんだから・・・」 「そ、それって、健三も知ってるの?」 「ううん、ぜんぜん。そんな話もしてない」 「なんで一緒になれるんだよ〜」
美香は加奈子の言葉に驚いた、まさかまさか、あの健三と・・・。でも、彼はまだこんなこと何も知らない筈、どうするんだろ・・・。 「加奈子、私まだ一博とのこと健三に話してないよ」 「・・・」 「まだ、何にも解決してないよ・・・」 「一博と一緒になるんだったら美香は別れるんでしょ」 「まっ、そりゃそうだけど・・・」変な展開になってきた。 「健ちゃん一人になるじゃない・・・可哀そうじゃない」 「加奈子、健三の事が好きだったの?」美香が聞いた。 「・・・・うん」 「えぇ〜〜〜〜」美香はあんな男のどこがいいんだと思った。 しかし一博の事もあるし人に言えないか・・・。隣の芝生は青く見えるのだろうか。
「加奈子、実は昨日、健三に二人いるとこを見られたんだ。そして夜帰ってこなかったらしい」 一博は自分から正直に話した。 「多分、健三はあの顔からして疑ってるようだ」 「まず、やっぱり私が正直に健三に話すわ」美香が言った。 「なんて?」加奈子が聞く。 「・・・・・」なんて言えばいいんだろう。一博と一緒になるから別れますと言えばいいのだろうか。いきなり突拍子もなさ過ぎて現実感がない。というか、もう一博と一緒になるってことの方が勝手に決まり本当はこちらの方が重大のような気もする。なんで、こんな展開になるんだろう。自分の予想とは違うと美香は思った。
「健ちゃんには私から言ってやろうか」加奈子が言った。 「えぇ〜、なんて言うの?」 「美香は一博と一緒になるそうよって・・・」 「いきなり〜〜?それで、だから私と一緒になろうって言うの?」 「・・・・まずい?」 「…うまく行くわけないでしょ・・・」 「そうよね・・・冗談よ・・」 どこまで本気で加奈子は言ってるのかわからない。
「やっぱり私がちゃんと話さなきゃいけないわ。何年も一緒だったんだもん」美香が言った。 「大丈夫か」一博が言った。 「・・・・わからない。だけど、大事なことだもん」美香は健三のことを想うと気が重くなった。
不倫の関係をすでにした時から健三の事は捨てたはずなのに、別れるつもりで家を見たり掃除したら愛着というのが邪魔をしてくる。子供のことだってある。越えなければならないハードルがたくさんあるのだ。いっそ、健三が加奈子と浮気してくれたらあっさり加奈子のように別れられたかもしれないと美香は思った。 えっ、待って・・・もしかして加奈子はそれを待ってたの? 美香は加奈子の顔を見た。そういえば加奈子は浮気をされたにもかかわらず、すっきりとしている。 だけど事実は、私が先に彼女の夫を横取りしたんだ。あの時の夫婦交換は加奈子の策略か・・。そう思ったが言える筈なかった。非はすべてこちら側にあるのだ。意外と加奈子は生きる術が上手なのかもしれないと思った。
「どころでさ・・・」加奈子が切り出した。 「私はこの家出ていくんだけど、何にも持たずに出ていくわけ行かないんだよね」 一博に向かって言った。 「調べたんだけど、ある程度のこれから生活に困らない財産を持っていけるんだよね」 「まぁ、そうだけど・・・」一博の苦々しい顔。 「いいじゃない、私が来て儲かった部分もだいぶあるんだし」 「まぁな・・・」 「半分とは言わないわ。経理やっているからお財布事情は全部分かるの」 美香はしたたかな女だと思った。でも、私だってそうするだろう・・・。 「借金もあるし、多分、今私が持ち出していいのはこれくらいかな」 そう言うと加奈子は指でVサインを出した。 「なんだ、200万か」一博が言った。 「馬鹿じゃないの、2000万よ」加奈子は真剣な顔つきになった。 「なっ、なっ、そんな金何処にあんだよ」 「言ったでしょ。経理は全部知ってるって。そんだけ引いても十分井田写真館は回していけるわ。土地もあるじゃない。これでも、すごく気を使っているのよ」 「ごうつく女め」一博が毒づく。 「なによ、それ。じゃ裁判で戦う?」 「・・・・・」 「それから、お父さん、お母さんにはちゃんとあなたの浮気が原因だと言うからね。私が悪者になったらいやだもん」 「・・・・」 美香には何も言い出せなかった。一博の物はいずれ自分のものになるのだろうが今は言える立場じゃなかった。下手したら、自分にも不倫の代償を払わなければならない。さわらぬ神にたたりなしだ。
「美香〜」来たっ。加奈子が美香に向いて言った。 「美香には不倫の請求しないから安心してね・・・」恩のきせ方がうまい。 「・・・・」答えを返す気にもなれない。美香は知らないふりをした。 「で、さっきの話。ちゃんと別れてね」加奈子が言う。癪にさわる美香。 「別れてもいいけど、健三が許すかしら」 「いいのよ。あなたが事実だけ告げて捨てればいいのよ。そのつもりだったんでしょ」 そう言えばそうだが・・・。 「でも、離婚は同意が必要でしょ」 「まぁ、そうだけど、あなたが目の前からいなくなればいいだけの話じゃない」 「どうして?」 「結婚は紙切れ1枚の約束でしょ。目の前に相手がいなかったらもう夫婦じゃないわ」 「でも、いろいろあるんじゃない」 「美香が会わなければいいのよ。一博が好きなんでしょ」 「そう、はっきり言われると、また考え直したくなるじゃない」 美香は加奈子の横着な言い方に反論したくなった。 「おい、おい」一博が慌てる。これ以上無駄な戦いはやめてくれ。 「あら、一博はもういらないの」突っ込む加奈子。 「でも、健三はあなたの方に向くかしら」だんだん頭にカッカしてくる美香。 「・・・・応援してね・・・・」 思わずコーヒーカップを投げたくなった美香だけど我慢した。 おろおろする一博。まざまざと女の戦いを見る。どうして女ってやつは・・・。 一博は「もういいだろ」と言って、美香の腕を取り帰る準備をさせた。 「じゃ、送っていくから」 「ごゆっくり・・・」 一博は美香を連れて、急いで玄関を出た。暑い夏の太陽が充満していた。
「あったま来たぁ〜」美香は一博の車に入るなり言った。 「絶対、あれ仕組んだんだよ。あの時の旅行」 「まあまあ・・・」一博は落ち着かせるのに躍起だ。 「性格悪いねぇ〜、あの女」 美香がここまで怒るのは見たこともない。こうやってだんだん知らない部分が見えて、愛も霞んでいくんだろうかと一博は先行き不安になった。
しかし、あの加奈子が健三を好きだったなんて・・・美香はつくづく捨てる神あれば拾う神もありだと思った。それに、ああやって言われたら捨てようと思った健三でさえ惜しくなる。今まで使わないが大事にしてたおもちゃを押し入れの中から引っ張りだされ「これ頂戴」と言われた気分だ。
何かをしようとしたら何かを捨てなければならない。頭では分かっているがなかなか生理的にできないもんだ。しかし、そう言っても、これから今夜、健三と正面切って離婚の話をしなければならないのは事実だ。 一難去ってまた一難と、ああ不倫なんてしなければよかったと面倒くささに美香はうんざりした。 その夜、健三は帰ってきた。
美香は一博の夕食をすでにテーブルに用意していた。健三がドアを開ける音にびくりとする。 「遅かったのね」内心穏やかじゃないが、できるだけ普通の会話で健三の出方を待った。 健三は何も言わず着替えると風呂に入った。いつもは食事が先なのだがどうしたのだろう。
昼間の事をどこから話せばいいのか、昨日の健三と一緒にいるところをどこから話せばいいのか考えはまとまらないでいた。というか、自分から切り出せるはずがなかった。美香の心臓は早打ちしていた。 健三は風呂から上がってくるとタオルで頭をゴシゴシしながら言ってきた。 「一博と最近しょっちゅう会ってるのか・・・」 美香はキタァーと思いながら健三の声のトーンに合わせて普通に喋る。 「うん、最近頼み事が多くっていろいろ手伝ってあげてるのよ」とっさにでまかせが出てきた。 「何の頼み事なんだ」 「う。うん・・・仕事を手伝ってくれないかな〜って・・・」 「スタジオのか?」 「そ、そう・・・人手が足りないんだって・・・」 健三はどこまで疑ってるんだろうか美香は探った。それよりも本当は自分が切り出すはずじゃなかったのか。しかし、なかなかやっぱり自分から「浮気してます。別れてください」ってのは言いづらい。
健三は美香の浮気を疑ったが実際見たわけじゃない。だから直接問いただすのはと考えたのだ。それに保身かもしれないが、この生活が変わるのが嫌だった。嫌というより面倒なのだ。食事・洗濯、家庭という形さえあれば居心地がいい。浮気の話を持ち出してガチャガチャなるのが嫌だった。 もしも一博と何かあったらと考えたら癇に障るが、それより今の生活を崩したくないのを優先した。肉体関係というか夫婦生活はとうにやっていない。だから妻である美香もそれほどセックスに関しては興味ないのだろうと解釈している部分もあった。だからその手の疑いが強く湧き上がらないでいた。ましてや恋愛なんて、いい年してしている筈はないとタカをくくっていた所もあった。 すべて自分の都合のいいように考える方が楽だった。だから美香には強く言わなかった。 美香が用意した食事を食べると、いつものようにテレビの前に寝転びビールを飲み始めた。
美香は健三が次に何を言い出すのか気が気でなかった。自分から言おうかどうしようか迷った。一度ははっきり決意した筈なのに、やはり浮気の告白は出来なかった。本人を目の前にしたら勇気が湧いてこなかった。それと、お昼の加奈子の言動も影響していた。健三と加奈子が一緒になるなんて・・・。 欲張りなんだろうか、急に手放すのももったいない気がした。大きな決断に直面した時にはどうしても躊躇する。誰だってそうであろう。すべてがひっくり返りそうなのだから。 美香は一人悶々として、これからどうしようか迷った。浮気の事実より、この生活を捨てるのか捨てないのか・・・はっきりしなくちゃと思うほど決断が出来なかった。 健三はテレビの前でビールを一杯飲むと 「もう、俺は寝るからな。明日からまた3日程いないから」と言って自分の部屋に行った。 ホッとしたのと拍子抜けしたのとで美香は力が抜けて食卓の椅子に腰を落とした。 「これで終わり?追及はなし?・・・」修羅場の覚悟をしていたのだが気が抜けた。 携帯電話が無音でぶるぶる震えた。一博からだった。
“大丈夫か。喧嘩になってないか”のメールが届いてた。
美香はありがとうと思ったが返事はしなかった。健三が手元から放れるのは惜しいと思った気持ちを持った事が、一博に対して悪かったからだ。自分でどうする気なんだろうと他人事のように考え、健三が残したビールを飲んだ。 静かな部屋だけが残った。
翌朝、健三は早く家を出た。美香は午前中また掃除をした。何も考えたくない時は掃除が一番心が落ち着く。掃除機をかけていると携帯が鳴った。一博からだった。 「もしもし」 「あっ、俺、一博。昨日はどうだった?」 「別に何もなかった。嘘ついたから」 「嘘?」 「うん、一博と仕事の事で会ってるって言った」 「仕事?」 「うん、スタジオが忙しいから手伝ってほしいって。相談受けてるって」 「・・・・浮気や別れのことは言わなかったの?」 「・・・・言いづらくて言えなかった・・・」 「それで、なんにもなかったの?」 「・・・・うん、そういうこと・・・ごめんね」 「・・・別に謝らなくていいよ。誰だって自分から言いにくいさ。修羅場じゃなくてよかったよ」 「でも、・・・困ったな」美香はこれからの事が気が重くて憂鬱だった。 「加奈子はどうしてる?」気分を変えて聞いてみた。 「あ〜〜、もう荷物まとめてるよ。よっぽど出ていきたかったんだろ」 「そう、行動力あるね・・・」 「でも、あいつが知ったら、どうするんだろ・・」 「何が?」 「美香がその家出て行かないと、健三と別れないとあいつ許さないだろ」 「・・・・そうかもね。ちょっと今から考えてみるわ」 「あっ、美香・・・元のさやに戻るってことないよね」 「・・・ないわ、安心して・・・じゃ、あとで」そう言うと美香は電話を切った。 はぁ〜とため息をつき、問題がだんだん山積みになっていく気がした。
夕方になり、また一博から電話がかかってきた。 「もしもし」 「あっ、俺、一博。加奈子が話しをしたいって」そう言うと無音になり、誰かに変わる音がした。 「ちょっと、美香。約束が違うじゃない」加奈子の声が電話もとで響いた。 「あっ、ごめん・・・健三も忙しいみたいで・・・」 「どうせ言えなかったんでしょ自分から」嫌味な言い方だ。 「私から言ってあげようか不倫の事」いちいちカチンとくる。 「あのさ加奈子。健三と一緒になりたいんだったら私が認めるから健三を口説いてみたら」 あまりにの加奈子の言い方に反論したくなった。 「加奈子ががんばっても健三が振り向かないとどうにもならないでしょ。それに私の浮気で嫉妬させてその隙に奪おうってわけ」 「その隙にってどういう意味よ。こそこそしたのはあんたの方でしょ」 「嫉妬や同情で気を引いて、本気で好きになってもらえると思う?こそこそが嫌だったら、加奈子こそ正々堂々と健三の気を引いてみたら?」とりあえず美香は挑発した。 「健三の事はいつでもあげるって言ってるのよ。自信がないの?」さらに言った。 「・・・・あなたがいない方がやりやすいわ」 「奪うほど自信がないのね。寂しさに付け込んでどうにかしようと思ってたわけね」 「つ、付け込む気なんかないわよ・・・」加奈子のテンションが落ちた。 「じゃ、やってみなさいよ。私はいいと言ってんだから。それにうちもどうせ夫婦生活は破たんしてるみたいなもんだから、今更、邪魔したりしないわ」美香は言いながらほんとかしらと自分で思った。 「・・・・」 「どうなの?裸になっても誘えないの?」調子に乗って言ってしまった。 「・・・・あんたみたいにホイホイ裸にならないわ。わかった、また後で電話する」 加奈子はそういうと一方的に電話を切った。 美香は自分の携帯を見て、あら言ってしまったと思った。
しばらくして一博からメールが来た。
“加奈子のやつ切れて八つ当たりしてる。何か言ったのか?”
美香は一博のメールを無視した。しばらくかかわりあいたくなかった。加奈子にああ言ってはみたものの、問題は自分がどうするかなのだ。まだ煮え切れなくて愚図愚図している自分が嫌だった。
不倫の初めはドキドキしたトキメキがある。だけど、二度目の結婚をしたからってすべてがうまく行くとは思えない。それは結婚というものがどういうものかわかっているからだ。しかし一博なら今の健三より少しはましなパートナー関係が結べそうだった。それは間違いないと確信している。じゃ、何が自分を引き留めているのだろう。子供だろうか・・・いや。愛着未練だろうか・・そうかもしれない。 捨てることに慣れてないだけなのだ。健三と同じく生活環境がこの歳でがらりと変わるのを恐れているのだ。美香は自分を分析しながら、どうしたらいいか考えた。 やっぱり加奈子が健三を奪ってくれるのが一番なんだ。そうしてもらった方が踏ん切りが付きそうだ。 それに一人になった健三の心配もしなくていい。愛着のあるおもちゃだったけど、次に大事にしてもらえるならいい。そうだ、加奈子に健三をあげよう。そしたら、一博を奪ったこともチャラになる。不倫したという後ろめたさも引きずらなくてよくなる。夫婦交換すればいいのだ。美香は都合よく自分の考えをまとめた。
その晩、美香はずっと考えたが、その考えが一番だと納得した。答えがおぼろに見えると不思議なことに家の愛着もそれほどではなくなった。やっぱり感傷的になると未練たらしくなるもんだと思った。 健三が加奈子と一緒になり、私が一博と一緒になる。夫婦交換が一番いいじゃないと落ち着いた。同級生の四人が夫婦になり、初恋同士でやっと結ばれる。これも何かの縁なんだと美香は都合よく頭を切り替えることにした。心の中の重たい物が少し軽くなった。先が見え始めると俄然、力が湧いてくる。 美香は冷蔵庫を開けると、自分の一番好きなものを作り始めた。
翌日、美香は一博に電話した。 「おはよう」 「あれ、なんだか元気がいいな」一博が言った。 「ねえ、加奈子いる?」 「ああいるけど」 「代わって・・」 「・・・なんでだよ。どうしたんだ」 「いいから、代わって」 一博はリビングにいる機嫌の悪い加奈子に「美香から」と言って携帯を渡した。
「もしもし」いったい何の用事だろうという警戒した低い言葉で言った。 「もしもし、加奈子?昨日はごめんね。言い過ぎたみたいでほんとにごめん」 「・・・・・」 「あのさ、この前加奈子、私に健三とのこと応援してって言ったわよね」 「・・・・・」 「よく考えたんだけど、加奈子と健三が一緒になるのが一番幸せと思ったの」 「どうして?」 「だって好きだったんでしょ。好きな人と一緒になるのが一番いいことと思わない」 「・・・・・」 「最初びっくりしたけど、ほら、不倫の事もあるから応援しようかなって思って」 「美香が気が楽になりたいだけでしょ」 「・・・・そう。それもある・・・」 「どうするつもり?」加奈子が美香に聞いた。 「まず、健三の生活パターン全部教えるわ。好きなものから嫌いなものまで。それから癖や心理状態とか全部知ってるの教えるわ。情報があった方が責めやすいでしょ。それにわからないことがあったら全部教えるから。ねっ、利用して」 加奈子は美香が何故そういうのか考えた。健三がいない方が一博と一緒になりやすいっていうのか・・。 それは私も同じだ。一博がいなくなったから健三に向かえるのだ。そう考えればわからないでもない。
「・・・わかったわ。じゃ、健ちゃんをすっぱり捨てるってことね」 「そう、好きにして頂戴。でも加奈子ががんばって。夫婦交換よ」 「夫婦交換?」 「いつだったかしたじゃない、ほらこの前の旅行の時。あの時の続きよ。今度はもっと真剣だけど」 「わかったわ。私もいずれこうなる運命かなって思ってた。結婚相手がずれてしまってただけね」 「そう、ずれてただけだわ。修正しましょ」 「うまく行くかな」加奈子が珍しく自信なさげに言う。 「3対1よ。どうにかなるわ」 「じゃ、絶対裏切らないで応援してよ。私達がうまく行くまであんたたちも一緒にさせないから」 「えっ・・・」 「しばらくホテル禁止にして頂戴」 「はっ?」 「その方が真剣に応援するでしょ」 美香はいつも加奈子はタダでは済まない、どこか計算高い女だと思った。 「約束よ」 「・・・・・わかったわ」 加奈子を心配そうに見ていた一博に、加奈子は携帯を渡した。
「もしもし、どうなってんだ?」一博が聞いた。 「あっ、うん、加奈子と共同戦線張ることになっちゃった。詳しいことは加奈子に聞いて」 「共同戦線?健三の事か?」 「うん、まあ・・・。あっそれからね、しばらくホテルに行けないから我慢しててね。浮気したら駄目よ。好きだよ一博。チュッ」 美香の元気な声はそこで途切れた。いったいどうなってるんだ一博は困惑した。 加奈子の方を見ると加奈子も力がみなぎっている。どうしたんだ・・・。 一博は加奈子の手招きに呼ばれて、加奈子がいるソファーに恐る恐る近づいて行った。
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