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作品名:十六夜花火 作者:海野ごはん

第4回   第4章 満月・・・月が見ている

第四章 満月・・・月が見ている

「満月・十五夜(フルムーン)は月と太陽を結ぶ線上の間に地球が位置し、月が一番丸くなり明るい夜です。暗闇の秘密も月明かりで見えてしまいそうで隠し事の二人には穏やかでない夜です。美しさの中にほんのり悲しい月光が涙を誘います」


 美香と一博の秘密の情事は蜜月のように続いた。一度超えた線はまたぎやすくなる。秘密は秘密でなくなり背徳感も薄くなり次第に快楽の淵に身を委ねることに抵抗がなくなる。
 食欲、睡眠欲、性欲は人間の根本的な脳幹でコントロールされているからなかなか抑制できない。特に不倫の快感はスリルと快感が一緒になってドーパミンを分泌させる。ジェットコースターのスリルと快感の様に麻薬的に陥るのである。
 脳幹の外側に理性や抑制をつかさどる社会的な人間らしい前頭葉や側頭葉が位置するのだが、愛することや愛されることの快感は、社会の常識とは全く別次元の喜びに値する。不倫を繰り返す人は、この快感のドーパミンが忘れられず中毒者のように繰り返すと言われている。だが、愛ほど人間にとって重要なのは間違いない。
 友人の伴侶からお互い愛を得ることになった一博と美香は、いつ壊れてもおかしくない不倫の道を走っていた。隠れているようで見られている。
丁度、明るい太陽から離れた場所でランデブーしている昼間の月のようだ。
一博は美香を誘ってはホテルの中で愛を確認しあった。


 健三の花火工場はフル生産状態に入っていた。いよいよ七月からは夏の花火大会のシーズンに突入だ。一博の工場は七月に五か所、八月に六か所の花火大会に参加することになっていた。ほぼ毎日の準備と本番が交互に訪れる。
 徹夜もまたいつものことながら余儀なくされた。出荷準備と出張の為、健三は家に帰る日が少なくなった。もうこの生活を一五年も続けているので特段、家の事を気にすることもなかった。
 
 工場の専務から呼び出しがあったのは、3日程準備で久しぶりに仕事場に戻って来た時だった。専務と云っても社長の奥さんである。滅多な事で呼び出される事はなかったので健三はなんだろうと思い事務室に行った。
 火薬を扱う作業場から離れている事務室はエアコンが効いていた。普段エアコンに慣れてない健三にとって別世界だった。

「健さん。ごめんね忙しい時に。ちょっと変な話なんだけどさ」
専務はそう言うと奥の応接室の方に手招きした。他に誰もいないのに変な専務だと思った。年齢は六〇を過ぎている。気のいい田舎のおばさんだ。暑い中、夫と一緒に花火作りをしてきたものだから色は黒く痩せて、何処にでもいる体格のいいおばさんとは違っていた。しかし面倒見がよかった。何人もの従業員やパートを抱えているから目がよく届くのだ。工場の影の仕切り屋はこの専務がやっていた。

 専務は健三を応接椅子に座らせると麦茶をテーブルに差し出し真向かいに座った。
「いつも忙しくてごめんね」専務の口癖だ。
「仕事は忙しいけどどうだい?」
「はっ、何がですか」健三が聞く。
「いや、ほら、家の方だよ。家族は?」
「あ〜、息子が今年から就職したもんで家は家内と二人きりです。元気でやってますよ。息子は行ったきりで電話もかけてこない。男ってそんなもんなんでしょね」
「ふ〜ん、で、奥さんは?」
「家内はパート減らして家で四月からはゆっくりしているけど…なんか?」
「あのさ・・聞いた話なんだけど・・・」専務は言いにくそうにしている。
「奥さん、ちゃんとやってるの?」
「ちゃんと?別に普通にやってると思いますが・・・」
「いや…あのね、うちの従業員がね、健さんの奥さんに似た人を町の中で見かけたって」
「・・・・・」
「ベンツの助手席に座って、中年の男の人と楽しそうに話してたところを見たって‥、いや、別にそれだけならいいけど、なんか・・」
「なんか?なんか・・・なんですか?」
「いや、ほら、健さんいつも家にいないだろ…まぁ、うちが悪いんだけど。で、奥さんがよからぬことをしてるんじゃないかと・・・」専務の歯切れが悪い。
「よからぬって浮気かなんかですか・・」
「いえ、いえ・・見たわけでもないし・・・ごめんね、気になったもんで」
健三はベンツで一博を思い出した。あの二人どこかで会ってるんだ・・
健三は美香と一博が旅行の時楽しそうにしてたのを思い出した。心の隅にさっと黒い影のようなものが通り過ぎたが専務の手前、明るく言った。
「多分同級生ですよ。この間から仲良くなってね。知ってる奴です」
「そう・・・」専務は実はその車がホテルに入るとこを見たと言いたかったが、口に出せなかった。家を空ける仕事は花火師として仕方ない。よそ様の妻の浮気までは管理できないのだ。事実はわかっているが、なんにもなければいいがと専務は思った。
「ごめんね、この忙しい時に。いつも助かってるよ。気を付けて・・・」
そういうと専務はどこか苦しい笑顔を健三に向けた。
 
 事務所を出た健三はぎらぎらと照りつく太陽を見た。今年はカラ梅雨のようだ。
花火大会の本番は目の前に迫っていた。先ほどの話は気になるが、それより大会の準備が気になった。今日も家には帰れるかわからない。毎度の事ながら家庭より仕事だった。健三は焼けたコンクリートの作業場まで走って向かった。






 花火の仕事には二通りの仕事がある。花火玉を作る「花火師」と「打ち揚げ従事者」だ。打ち上げ従事者は花火の打ち上げ現場に行って準備や打ち上げを行う人の事だ。花火は作らないが打ち上げ専門で工場からセットされたスターマインや他の花火筒を搬入、搬出、設置、点火、安全管理を主な仕事としている。
 規模にもよるがだいたい十人位の体制でやるのだ。これも熟練の技がいる。簡単には出来ない仕事だ。
 健三は現場の指揮を執っていた。打ち上げ師に指示を出したり忙しかった。
朝早くから河原での設置に取り組み、夕方まで設置完了させる。突然の雨にも対応できるように防水策を施したり、電気点火の配線を行ったり一日中炎天下の中で作業する。花火作りも大変だがまたそれを打ち上げる仕事も大変だ。
 しかし、夜空に花開く自作の花火が大きな爆音とともに輝く時が花火師として一番の至福の時だろう。健三もその魅力から抜け出せない一人だった。
 大会が終わる夜九時以降も作業が続く。そして搬出、ステンレスの打ち上げ筒の洗いとなり、また、セットして次の花火会場へと移動する。九月中旬までこれが続く。夜の天空を華やかに彩る花火は地味な作業の連続なのである。

 八月の第一週は夏の中でも一番夏らしい時期だ。
朝露が河原の草を濡らし、日中は湿度のある空気が身体にまとわりつく。ほぼ真上から照らす太陽は容赦なく肌を焼き地面を焦がす。反射熱も半端じゃない。会場は主に河原である場合が多かった。だいたい水がある場所に近い。川面から少し温度が低い風が吹く時は一服の涼感に浸れる。
 今日の会場は工場から1時間の所だった。健三は工場と行ったり来たりしていた。


 3年前に入社した中井は健三の一番仲がいい同僚だ。彼もまた花火に魅せられて弟子入りしてきた口だった。年齢は健三よりずっと若い30歳。ただ働きに近い給料で彼もまた暑い中、汗を流していた。何回か健三の家で飯を食べて行ったことがある弟分のような男だった。
 中井は健三と会社の軽トラに乗って、工場に足りないものを取りに帰っていた。
炎天下の中で作業する人間は軽トラのエアコンが何より嬉しかった。
「あっついですね〜今日も〜」中井は明るい。
健三は眠たそうに腕組みをして頭に巻いた汗止めのタオルを目の所まで下げて束の間の休みを取っていた。
「健さん、なんか奥さんの事みんな噂してますよ」正面を向いてハンドルを握る中井が心配そうに言った。
「あん、みんなって誰だ。おまえもか中井」
「いや、先輩聞いた話ですよ。俺なんか何も言ってませんよ」
「言わしとけ」
「健さん、仕事のしすぎですよ。ちゃんと家に帰った方がいいんじゃないですか」
「馬鹿、忙しいだろ」
「なんとかなるでしょ・・」
「何とかならないから働いてるんじゃないか、馬鹿」
「でも、奥さん浮気してたらどうすんですか?」
「浮気?なんで浮気ってみんな決めつけんだ」
「‥‥いや、聞いた噂だから・・・」
「はっきり見たことないのに軽々しく言うんじゃね〜よ、この馬鹿」
中井の言葉に少し苛立った健三は運転中の中井の足を蹴った。
「すんません・・」中井はもっと言いたかったが健三の気持ちを考えてやめた。

 工場から大きなブルーのシートとスコップを積み込むと中井に健三は
「ちょっと1回往復してくるから、お前そこの配線片づけといてくれ」と言った。
健三は一人で運転して会場である先ほどの河川敷に向かった。


 美香は今日も一博に呼び出されていた。ここのところ3日に1回はデートを繰り返していた。また、あの映画館だったり、おいしいと有名なランチ屋さんだったり、そして、つい拒みながらも行ってしまうホテルだったりと、一博のいない生活は考えられないほどべったりだった。
 ただ、地元ということもあり、なるべく町から遠く離れた場所でデートをすることにしていた。さすがに美香の自宅まで迎えに行くことは近所の手前、一博も注意していた。
 待ち合わせも駅前でなく、誰も降りないようなバス停のそばとかにした。やはり心のどこかで背徳感を感じていたのだ。しかし一博のベンツは田舎町では目立っていた。
どこかで誰かが見ていた。
「ねえ、一博、一博のおうちは大丈夫なの?」
美香は迎えに来た一博に向かって言った。
「なにが?」
「加奈子よ・・・。何にも言わないの?」
「あ〜、加奈子か。別に。いつもどこに行こうが気にしてないよ」
「仕事は?」
「外回りと言っている。昔からこのパターンだ」
「このパターンて、こんなふうに遊んでたの?」
「またそう言う。逃げ出したいからの口実だよ」
「ふ〜〜ん、加奈子はどうしてるのかな?」
「さあ?」
一博は別にいつもの事だし、仕事が回ってさえいればよかった。さて、今日はどのホテルに行こうかと美香には言わないが、よからぬ妄想を持っていた。
 外は35度を過ぎてるのであろうか。夏の日差しが車内に差し込みなかなかエアコンも気持ちいい具合に空調を調節できないでいた。




 井田写真館はすでに50年の歴史があった。一時期はカメラの普及で写真プリントやスタジオカメラで潤ったが、デジカメの時代になりあぐらをかいてるわけにはいかなくなった。
 ちょうど加奈子が一博の家にやってきた時、一博は大手スーパーや結婚式場にスタジオを作りカジュアルに写せる記念写真館を計画していた。加奈子は事務の経験もあり人付き合いの交渉も長けていたので、地元の地方銀行と掛け合い資金を捻出した。
 加奈子の仕事ぶりは井田写真館ではなくてはならないものだった。運よくスタジオ経営は当たり、順調に業績を伸ばしつつあった。
加奈子は自宅の電話が鳴ったので受話器を取った。
「はい井田です」
「恐れ入ります。調査会社のものですが、先日の報告書が出来上がりましたので今からお伺いしようと思いますが」
「あら、もう。いいわよ。お待ちしてます」
加奈子は一博があの旅行の後、美香を誘う筈だと予想して調査会社に浮気調査を依頼していた。浮気の現場を押さえるのは別に初めてではなかった。結婚して3年目には別の調査書を手に入れていたのだ。
 
 浮気癖のある男は一度では止めない。ドーパミンの快楽に負けてしまうのだ。だからなかなか浮気癖は治らないという。加奈子がその時離婚しなかったのは、水商売時代に何度もそういうたぐいの男を見てきていたからだ。よく言えばというか、あきらめて言えば男の病気の一種でもある。
 加奈子にとっては井田写真館の財産と地位は魅力だった。不倫を持ち出して別れても良かったが、このやりがいのあるスタジオ経営をも捨てるに惜しかった。結局、一博の浮気に目をつぶる代わりに加奈子自身、安定を手にしたのだ。
 しかし、今度は以前とは違った。スタジオ経営も安定して収入を得られるような体制になっている。それに加奈子も50歳が目の前だ。人生をやり直そうとするにはラストチャンスだと思った。慎重に行かなくてはならない。
 
 人間とはおかしなものだ。ない物を欲しがる。お金がなくても愛があればと若い時は夢に陥るが、実際、お金に困ると愛なんか腹の足しにもならない。次は、働いて働いて頑張っていると気が付くと愛がなくなっていることに気が付く。じゃあ今からお金もあるし仲良くしようとしてもうまくいかない。冷めた愛は冷めたピザよりもおいしくないのだ。そして愛を探す愛貧民になる。
加奈子も寂しい人間の一人だった。

 予想通りというか一博と美香は不倫をしていた。加奈子は嫉妬も起きなかった。ただこの手に入れたジョーカーをいつどんなふうに使おうかと考えた。
 旅行の計画を思いついたのは一博だ。ただ夫婦交換ならぬパートナーチェンジを薦めたのは加奈子だ。あの時からこれは想定内だったのかもしれない。
加奈子は調査書を一博が絶対見ないであろう秘密の場所に隠した。


 
 健三は中井の言葉が気になった。それに専務も言っていた。みんなどんな噂をしてるのだろうか。なんか嫌な気分だ。妻の浮気を知ることよりも、人の家の中のことを言われるのはいい気がしなかった。プライドだろうか。今まで波風立たずに家庭は家庭で仕事を中心に生活してきた。それは子供のため妻の為であったはずだ。自分自身何にも悪いことはしてない筈だった。
 健三は少し重たい気分を引きずりながら夏の2車線のアスファルト道を軽トラに乗り運転していた。助手席に置いた工程表が気になる。運転中でもやはり仕事が気になる男だった。大きな橋の手前の信号が赤に変わると車を停車させ、助手席の工程表を見直した。



 一博の車も片側2車線の右側を走っていた。助手席では美香がふざけて足を触ってきたりしてきた。
「おいおい、危ないだろ。そんなに触ったら大きくなってしまう」
「もう、どこが〜」美香は楽しそうにいたずらしてくる。
「大事なとこだよ」
「大事なとこってどこかな〜」笑って言う美香。
一博は大きな橋の手前の信号が赤に気が付いてブレーキを踏んで停車した。
隣には軽トラが止まっていた。健三の軽トラだった。

 最初に気が付いたのは一博だった。健三だ。軽トラの運転席で何か書類を見ている。顔がこわばった。美香は一博の異変に気が付いた。
「ねえ、どうしたの?」
一博は左手の親指を外に向けた。
美香は助手席側の窓の外を見た。健三だった。心臓が止まった。

 健三は工程表の中にまずい部分があるのを見つけた。ちっ、まずいなと舌打ちしながら右側に止まった車を見た。ベンツだった。助手席に美香がいた。その向こうにまっすぐ正面を向いて固まってる一博が見えた。健三もまた心臓が止まった。
 信号が青に変わった。一博は急発進で車を飛び出させた。
健三は急発進したベンツを見てみんなの噂を思い出した。

 信号が青に変わっても健三は発信しようとしなかった。状況を整理していた。
後ろの方から大きなクラクションがビビィーと鳴った。サイドミラーを見ると後ろの若い男が怒鳴っている。健三はサイドブレーキを引いて車を止めるとドアをゆっくり開けて外に出た。
 後ろからクラクションを鳴らした男は、窓を開けて「はよ行かんかい」と関西弁で怒鳴った。
 健三は後ろの男を睨みつけると軽トラの荷台からはみ出していたスコップを手に取り頭上に振り上げた。クラクションの男は健三のスコップを見てびびりボクシングの構えを取った。顔面蒼白だ。
 
 健三は男に一瞥をくれると頭に持ち上げたスコップを乱暴に軽トラの荷台に放り投げた。大きなガシャンという金属音が暑い夏の空の下響いた。それからゆっくり運転席に戻ると静かに車を発進させた。

 

 

 一博と美香は押し黙ったままフロントガラスに流れる景色を見ることなく見た。
重たい空気の中、一博が切り出した。
「まずったな〜、まさか、こんなとこで会うなんて」
正面を向いて運転しながらしゃべる一博は本当にまずい顔をしていた。
「・・・しょうがないんじゃない。事実だし」美香が言う。
女性の開き直りは強い。内心、心拍数はまだ直ってないのだが気まずいことに後ろを向いてもしょうがないという気持ちだった。それに、覚悟はしていたことだ。
 
 健三に愛を持っているのなら、そもそも浮気というか他の男性と体の関係になることはない。遊びじゃないと思った時からいつかこうなることは予想していた。
 ただ、やっぱり突然何の前触れもなく健三が目の前に現れたのは、取り繕ってみたものの相当ショックだった。
 心のどこかに「悪い」という塊を持ってたのだろうか。多分そうだろう。不倫というものは最初から内緒の隠し事だ。今から不倫しますというのもおかしい。やはり隠し事は持った方が心に負い目ができる。
「どうしようか・・・」一博は情けなく言う。
「覚悟は決めてたんでしょ。仕方ないじゃない」
「そうだけど・・・」
 それから二人はまた沈黙した。
頭の中であらゆるパターンをそれぞれシュミレーションしていた。こう言われたらこう言おうとか、こんな質問にはこう答えようとか、予測可能な限りの質疑応答を繰り返す。しかし、思いつきの嘘も真実も泡のように頭の中で現れては消えた。
「とりあえず帰るしかないわね」美香は一博に「家まで送って」と言った。
「家まで・・・」
「もう、いいわよ。ばれたんだし」
「別に浮気してるってばれてるわけじゃないし、見られただけだろ」
「いいの。一緒にいるだけでどんな関係か誰でも想像するわ。これ以上嘘は言いたくないし。いい潮時だわ」
「潮時って?」
「どうするか、みんな整理しなくちゃいけないってことよ」
「整理・・・?俺もか・・・」
「あなたも多分、覚悟決めなくちゃいけないと思うわ。それとも遊びだったの?」
「・・・・いや、そんなことないんだけど・・・」
一博の煮え切れない態度に少し苛立ったがしょうがないだろ・・今の今で、すぐなんでも決めろって言うのは・・。自分でさえまだどうなるかわからない。健三の出方次第の所も残ってる。美香はため息をついて思った。
「心配しなくていいわよ。私はあなたが好き。それだけあればいいでしょ?」
「まぁ、そうだけど」
「それとも重たい?」
一博は重たい気分、うれしい気分半分だった。面倒なのが嫌なのだ。
 いつもあちこち何かしでかしてきては加奈子に言われる。それが面倒で加奈子の前から逃げる。いつもこのパターンだった。もめるのが嫌だと言いながら、もめる原因を自分でこさえてくる。つくずく自分で馬鹿な男だと自覚はしていた。
 だけど、今回は美香に「覚悟を決めてる」と言った手前もあるし、それは嘘でもない。美香の「潮時」という言葉が一博の心の中に沁みた。
「いや、大丈夫だ。俺も潮時だろう・・・」
美香の「好き」の言葉は何よりも勇気づけられる。今までの遊びにピリオドを打ついい潮時だ。
一博はうろたえた自分を取り戻し、まっすぐ正面を向いて運転した。

 ベンツは健三の家、美香の家の前に止まった。20年前健三が銀行員時代建てた家だ。かなり古くはなっているが思い出が詰まった木造2階建てだった。
 家は人がいてこそ明るくなる。子供が小さい時はこの家の中と近所が美香にとっての人生だった。その子供もいなくなり家の中は殺風景になった。そして、ここ10年は健三と仲良くしたことはなかったがそれでも思い出はあった。
 不倫の決着をつければこの家を出て行かなければならないだろう。今朝までの愛着のあった家が手元から放れるのだ。それを想うと悲しい。ためらいもまた出てくる。美香は助手席から降りて我が家を見ると泣けそうになった。
「じゃ、後で報告する」
「殴られないか?」健三が心配した。
「ううん、手を挙げる人じゃないわ‥大丈夫。じゃあ・・・」
美香は後ろ手でドアを閉めると20年目の古くなった自宅に帰った。
一博も車を発車させ、一度だけルームミラーで後方の美香の家を確認した。




 健三の花火本番は、うっかりのミスが1本だけで無事終了した。
いつもは完璧に仕上げるのに今日は1本だけミスをした。
「どうしたんですか」と中井に冷やかされた。今まで15年花火を打ち上げてきたが今夜ほど雑念があった打ち上げはなかった。健三には反省の原因はわかっていた。
 
 ヒュルヒュルヒュル〜〜と花火が頭上高く登る音、そして無音になり1拍して大音響がこだまする。火花がはじける音がパチパチパチと竹を火に入れた時のように鳴り響く。そして暗闇から一瞬だけ辺りが明るくなる。あちらこちらで仕掛けた筒が火を噴く。一般の人間では体験できない場所だ。危険はあるけど高揚した快感が走る。何事もスリルのすぐそばに快感が伴うようだ。不倫もそうなのか…
「なかい〜、今日中に片づけるぞ〜」健三が言った。
「え〜、明日も時間は取ってますよ」中井は健三を見て行った。
「いや、できるだけでいい。俺は遅くまでやっていくから」
「健さん・・・先輩・・・帰った方がいいんじゃないですか」
「馬鹿やろ〜、気を使うな」
健三は深夜1時近くまで現場にいると、事務所に帰って仮眠室で寝た。
そうしないと美香に辛くあたってしまいそうだった。
 それと、一博と別な意味でもめたくなかった。健三の場合、自分の世界が大事なのだ。自分がしたいことができる環境さえあればそれでよかった。妻の方から冷たいと言われても仕方なかった。
 花火以外あれこれ考えるのが面倒だった。
よく言えば花火一筋、悪く言えば花火馬鹿。家庭も人間関係も二の次だ。


 美香はまんじりともせず健三の帰りを待った。普通、花火大会が地元であったら午前0時くらいには帰宅する。いつものように夕食を作って待っていた。
 いくら喧嘩しても夕食を作り欠かしたことはなかった。それが妻の務めだとまだかたくなに信じていた。今晩の食事も昼間の出来事とは関係なく習慣として作っていた。
 時計が午前1時を指した時、自分のベッドに潜り込んだ。今日は帰って来ないのだろうか、やはり昼間のことが理由で帰って来ないのだろうか?
 いろいろな憶測と、これからのどこに流れつくかわからない不安定な未来を想うと疲れが出た。横になった途端眠ってしまった。

 朝、目が覚めて食卓のテーブルを見ると昨夜の健三の食事はそのままだった。どうやら帰って来てなかったようだ。まあ、いつもの事であるけれど連絡なしだった。
 美香は内心ほっとしたところもあった。まだ自分の本当の決心はつきかねないでいた。結婚して誰か他の人を好きになるという事は、この家も家族も捨てるという事だ。 まだ「好きだ」で不倫をしてる時は実感がわかなかったが、現実は「不倫」=「捨てる」と同じ事なんだと改めて分かった。
「覚悟」という言葉はなかなか重たい言葉だ。実際、すべてがなくなりかけて覚悟がいる。「嫌だ」「嫌いだ」だけで不倫をするには「覚悟」という現実感がまだわからない。何か自分の手元から無くなって初めて事の重大さに気が付く。不倫の重みを実感した美香だった。
 とりあえず掃除をした。いつもより念入りに掃除機をかけ、隅々まで綺麗にした。そうすることで覚悟を決めたかった。時折、涙は瞼の下まで溜まるのだが落とさないようにした。今更、気を弱くしても過去には戻れないのだ。気丈でいようと思った。


 一博は美香と別れた後、夕方に自宅に帰った。さて、どうしようかが本音だった。美香のことは好きだが不倫の結末までは考えていなかった。
 今まで2度の結婚をしている。新しい女性ができましたからと言って、すぐ3度目の結婚をするには抵抗があった。しかし、覚悟を決めて美香と不倫の仲になったはずだ。その覚悟も今は現実に直面して迷いが生じた。このまま突っ走るのか…結構面倒になりそうだ・・一博はこれからのことを考えると憂鬱だった。
「あら、今日は帰りが早いのね」加奈子は一博に言った。
「ああ・・・」
「どうしたの元気がないわね」
「別に・・・」
「ふ〜ん浮気がばれたの?」加奈子は笑って言った。
一博は飲んでいたコーヒーをこぼしそうになった。心臓がバクバクだ。
なんで‥と言いたかったが、危うく抑えた。
「ふ〜〜ん、図星みたいね・・・いいわ」
加奈子はそう言うと自分の部屋に入って行った。
あいつなんで知ってんだ・・もう健三が連絡したのか‥一博の頭はパニックだった。
まさか、まさか・・え〜い、なる様にしかならない。開き直るか・・・
「あなた何か食べる?」加奈子が向こうの部屋から聞いてきた。
「いや、・・いや、いらない」そう言うとキャビネットからウイスキーを取り出して来た。滅多な事で家では飲まないが、なんだか一博は飲みたくなった。
リビングに来た加奈子は一博を見て
「あら珍しいわね・・ウイスキー。私も飲もうかしら」
そう言うとグラスを取りに行った。
キャビネットの中にはしばらく眠ったままのバカラのグラスがあった。
「氷は?」加奈子が言った。
「いや、水だけでいい」一博が言った。
二人の言葉と言葉の間に微妙な間があるのに一博は気が付いた。
「どうしたんだ今日は珍しい・・」
「あなたこそ・・」
静かな雰囲気で嫌な感じが漂うのは何故だろう。今日は厄日かもしれないと一博は思った。大体、悪い時には悪いことが重なるもんだ。
 加奈子の表情が見えない。こういう時は何か企んでいる時だ。用心した。

 「明日は忙しい?」加奈子が聞いた。
「いつもの通りだけど・・」
「じゃ、ヒマなのね」
皮肉かと一博は思った。
 加奈子は一博の態度を見てきっと何かあったに違いない、美香との間に何かあったに違いないと確信した。女の第6感は当たる。加奈子みたいに水商売をしたりで男と女の関係をずっと見てきた人間は、その手の類はピンと来るのだ。十中八九、間違いないと思った。
「あのさ〜、耳が痛いとは思うんだけど浮気の話をしましょうか・・・」
「えっ!」一博の心臓は今日2回目の停止をした。
「ばれてんのよ、隠すの下手だから・・・美香でしょ」
「何いきなり言ってんだよ・・・」慌てる一博。
加奈子はソファーの横に置いた茶色の書類封筒を一博に渡した。調査会社の社名が印刷してあった。一博は大方中身は予想できたが、開けてみた。
 数10枚の写真と綺麗に浮気のスケジュールが書かれた書類が出てきた。自分と美香が写っている写真はホテルの入り口だったり、キスをしている場面だった。写真を通してみるとロマンスでなく、ただの中年の情事だ。
 真剣でやばい時なのに一博は「あんまり写真写りがよくないな」と呑気なことが頭をよぎってしまった。ここまでばれてしまったら、やっぱり開き直るしかない。
「よく調べてるね、これ」冷静を装った精一杯の強がりだった。
「でしょ〜、ここの会社よく調べてくれるの。前もそうだったわ・・」
「・・・・」ぐうの音も出ない。
「ずっと昔からあなたの悪い癖わかっていたわ。でも、もういいかな〜」
「・・・・」
「ねぇ〜浮気された方って慰謝料請求できるのよね」
「持ってけよ・・・」
「相手の方にもできるのよね、美香にも」
「そこまでしなくていいだろ」
「そうね・・同級生だし、可哀そうだものね・・・」
加奈子は手に持っていたグラスを飲んだ。いつか来るだろうと思っていた場面だけど、いざこんな場面になると加奈子も少し興奮した。
「大きな声出して喧嘩したくないんだ。用件だけ言うね」加奈子が言った。
何を言い出すか一博は身構えた。心臓の音が自分で聞こえる。
「明日さ、美香を連れて来てくれない。ちょっと言いたいことがあるの」
「美香は関係ないだろ」
「関係ないことないでしょ。あなたの浮気相手なのよ。それとも大袈裟にする?」
「・・・・なんで呼ぶんだよ。文句言いたいのか」
「・・・そんなんじゃないわ・・・・」
「修羅場はやめてくれよな」
「ふふっ・・・もう修羅場じゃない・・・」加奈子は楽しそうに笑う。
一博は加奈子のやりたいことが分からなかった。いったい何をするつもりなんだろう。まさか刺したりはしないよな・・・辺りに刃物がないか見渡した。
「穏やかに話すつもりだから大丈夫よ」
「何を考えてんだよ」
「楽しいこと・・・」
「・・・・・」
「ねぇ〜聞くけど、あなた美香と一緒になりたいの?」
「・・・・・」
「まさか遊びじゃないわよね。だったらあなたが刺されるわよ」
一博はドキッとした。加奈子はいつも自分の想像以上を行く。何をしてもかなわないだろうなと一博はおぼろげに思った。
「まぁ、いいわ。明日になればわかるから」
「何が?」
「ほぉ〜っほほっ。お楽しみ・・・」加奈子はグラスを持ったまま立ち上がり自分の部屋に帰った。

 部屋のドアに鍵を閉めると加奈子は少し悲しくなった。別に本当に楽しんでいるわけじゃない。出来ればずっと一博とうまくやっていければ、それがよかったのだ。
 だけど、もう一博を受け入れることは出来なかった。いつかこんな日が来るのはわかっていたが、やはり別れは寂しかった。
 同情・愛情・友情どれにしても情があったのには間違いない。加奈子はベッドに仰向けになると涙がこぼれないようにした。










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