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作品名:十六夜花火 作者:海野ごはん

第3回   第3章 上弦の月・・・不倫となる
第三章 上弦の月・・・不倫となる

「上弦の月(じょうげんのつき)は月が満ちてゆく過程で「半月」、弓の形になぞらえ弓に張った弦が上向きになっていることから「上弦の月」と言われます。張りつめた弦は緊張感があり月明かりの中で不倫を重ねる男女の心の引きちぎれそうな緊張感とシンクロしてゆきます」



 健三の花火工場は田舎の殺風景な山のふもとにある。工場の敷地はかなり大きい。これは爆発しても民家に被害が及ばないようにだ。仕事の緊張感とは裏腹にのんびりした田舎の風景の中に溶け込んでいる。
 工場の門をくぐるといくつかの作業小屋が点在している。そしてその作業小屋は厚いコンクリートで仕切られてたり、小屋と小屋の間にブロック塀があったり、やっぱりこれも爆発の被害を最小限に抑えるための工夫が施してある。知らない人間が見たらちょっと変わった光景である。
 中央には防火用水の水が貯えてある。これも最後の避難場所だ。
敷地内の人が歩くところはすべてコンクリート敷きの通路になっている。これは出来るだけ小石や砂などを、人の歩く所に持ち込まない為で、小石や砂などによる接触による火花の発生を押さえている訳だ。これほど細心の注意をしなければならない職場に働こうとする人間はやはり花火が好きではないと緊張感に耐えられない。健三は毎日この工場で生きる楽しみを見つけていた。
 
 同級生4人で旅行した息抜きも終わり、あれから健三は毎日忙しく働きづめだ。夏の花火シーズンに向けて工場はフル稼働していた。健三の今の仕事は星づくりをしていた。
 星づくりとは夜空に光る花火が大きな花だとすると、ちょうどキラキラ輝く花びらの部分が星だ。その星の色は調合された火薬を何層も重ね合わせ色が変化するように工夫されている。小豆大の小さな芯玉に色ごとの層を重ねていく仕事なのだ。乾かしては重ね、乾かしては重ね、大変な仕事である。小豆大の芯玉が2〜3cmぐらいになるまで作り込んでいく。
 そして花火はその星を丸い玉皮にきれいに並べ、いくつかの種類の星を包み込んで一つの花火が完成するのである。
 健三は新しい花火の色の配色をいくつか試していた。今年の夏にお披露目できるはずだ。電気は使えない。夏は暑く、冬は寒い過酷な条件の中で汗を流していた。


 美香は食品工場に週4日だけパートとして通っていた。以前は毎日子供の学費のため働いていたのだが、子供の就職と同時に勤務日を減らした。美香の工場はコンビニ向けの食品工場で24時間フル稼働の工場だ。
 白い作業委にマスク・キャップ・ゴーグルと衛生を考えた姿で、誰が働いているのかわからない姿で、流れるコンベヤーの弁当に盛り付けをしていくのだ。計画通り時間通りまるで機械の一部の様に働かなくてはならない。ロボットが開発されたら、多分消えてゆく職業なのかもしれない。今はまだ出来ぬロボットの代わりに働くしかない美香の姿があった。

 定刻通り5時に美香は仕事を終えると、更衣室で白の作業衣を脱いで工場の外に出た。6月前の初夏は少し汗ばむほどだが、冷房が効いた部屋で長く作業していた美香には気持がよかった。
「お〜〜い、美香」聞き覚えのある声がした。一博だった。
あの日の夜の事は今でも毎日考えない日はない美香にとって、ドキリとする一博の登場だった。
一博は車のドアを開けて、美香がいる自転車置き場にやってきた。
「久しぶり〜」笑顔で覗きこむ一博。
「どうしてここが分かったの?」
「聞いてきた。いろんなところから・・・」
あの夜の出来事もあり美香は恥ずかしかった。そんなに顔を覗きこまれたらよけいに恥ずかしい。
「なんか用?」ちょっと冷たいかなと思ったが美香はぶっきらぼうに言った。
「いや、別に…会いたいなぁ〜と思って。ここに来てまずかったか」
「いいわよ、べつに・・」美香は自転車を出して工場を出ようとした。極力この前みたいな事にはならないように平然とした態度で一博に接した。
「なんか・・冷たいな・・・美香、今度デートしないか」一博がおどけて言う。
「なんで・・」美香は平然と言ったつもりだが心は揺れていた。
「いいじゃん・・別に不倫に誘ってるわけじゃないし・・・」
「不倫するわけないでしょ!」
「何、怒ってんだよ」
「別に・・・」怒ってる訳じゃないが、そう言わないといけない気がした。
「映画に行こうか・・ほら3Dって知ってる? 飛び出して見えるやつ」
「知らない」
「すげ〜面白いんだって…映画とか見る?」
「見ない」
「もったいない、楽しいことはしなくっちゃ・・・」
一博の楽しいことはなんだろ?女性とたくさん遊ぶことなのか?いや、この前は寂しく過ごしていると言ってた。付き合いたい気もするけど、これ以上仲良くなっていいものか?
美香は一応世間の目を気にする普通の主婦なのだと自分に言い聞かせた。
「ねぇ、美香があいてる時でいいからさ、またデートしようよ」
「また?この前は加奈子が言ったから遊んだだけじゃない・・・」
「まっ、そうだけど・・・いいじゃん、たまに映画ぐらい見ないと。健三が怒る?」
「怒ることはないけど・・・」美香は、まず健三に言う筈はないと思った。
「この映画は絶対おすすめ。俺一人で行くのもなんだし…なっ、なっ」
健三は頼み込んできた。
「いつなの?」
「いつでもいい。美香があいてる時に時間は合わせるから」
「仕事は?」
「なんとでもなる・・・というか・・・してくるから」
「わかった」
「携帯に電話するよ」
「携帯なんか持ってないわ」
「えっ、今時・・」
「必要ないもん」
「ふ〜ん、ずいぶん時代とかけ離れた生活してるな」
「そうかも・・・」
美香はただ家と仕事の往復で別に遊びに行くこともなかったから、携帯が必需品とは思わなかった。言われれば珍しいのかもしれない。
「これ、俺の携帯番号。時間ができたら連絡くれ」一博は名刺を美香にくれた。それから
「そう、そう、今は携帯もタダで持てるから持っといた方が便利だぜ」と言うと車の方に向かい後ろ手でバイバイのように手を振った。
 井田写真館の一博の名刺は少し若作りの一博の写真が載せてあった。美香はバッグの中から財布を取り出すとその中に入れた。そしてゆっくり自転車をこいで家路に向かった。


 健三は夜の10時を過ぎて帰ってきた。相変わらず遅くなった理由も言わないで、黙って美香が用意した夕食を食べ風呂に入り、テレビの前に寝転がった。
美香は一博と会ったことを言おうかどうか迷ったが、やはり何も言わず
「明日も遅いの?」だけ健三に聞いた。
「ああ」健三もそれだけ言うとビールを飲みながら野球ニュースを熱心に見だした。
美香がどこにいようが、何を言おうが関係ないという雰囲気をしていた。そんな健三の姿を見ると美香はついため息をつくようになってしまった。あの日の一博とのキスの日から。
「先に寝るわね」
一博からの返事はなかった。美香は昔、子供部屋として使っていた自分の部屋に入って行った。


 携帯電話会社は明るい雰囲気で「いらっしゃいませ〜」と出迎えてくれた。美香はこれからの事というか携帯があればすぐ一博と連絡が取れると思い買うことにしたのだ。
いろいろ悩むことはなかった。ただ操作が簡単な奴。お金がかからない奴。
この2点だけだった。
 思ったより簡単に携帯は手に入った。なんだか新しい世界が広がる気がした。
さっそく一博の名刺を取り出すとかけてみることにした。呼び出し音が鳴る。
「はい、井田です」一博の声だった。
「もしもし、美香です」少しドキリとした。
「おっ、携帯買ったの?この番号、美香の?」
「そう、おかしい?」
「やっと、一人前になったな」
「別に、そんなことないわよ…この間の映画、明日だったらいいわ」
「ひょ〜、うれしい・・・さっそく予定に入れるわ。お昼一緒に飯でも食べよう」
「ふふ、わかったわ。でも、あんまり期待しないでね」
「じゃ、あの映画館があるモールで」
「わかったわ、何時?」
「12時ちょうどにしようか」
「わかった」
 美香はそこで電話を切った。何かドキドキしていた。別に不倫しているのじゃない。自分に言い聞かせた。ただ昔の友達と映画に行くだけだ。それなのに自分に言い訳をしている。何かを期待してるのだろうか。
携帯電話とともに新しい世界が広がりそうな気がした。

 その夜、美香は携帯電話の説明書と奮闘していた。デジタル機器は苦手な方だ。ボタンが扱えるのはテレビのチャンネルとエアコンのリモコンぐらいだ。なかなか理解するのに苦労した。
健三が帰ってきた。美香の携帯を見るなり
「おっ、携帯買ったんか?」と聞いてきた。一応気になるらしい。
「うん、仕事で必要だと言われたもんで」嘘をついた。
「なんで仕事で・・・」
「急に人が足りない時連絡できるようにだって・・・」
「ふ〜〜ん」健三はそれ以上聞かなかった。別に特別、興味がないようだ。
「今はタダでもらえるのね・・」
美香がわざと明るい声で言うのだが、健三にはどうでもいいようだった。
健三は昨日と同じく夕食を食べ、ふろに入り、テレビの前でビールを飲む。同じ生活だった。
 美香は携帯をいじりながら一博は何をしてるのだろうかと思った。このボタンを押せばすぐ繋がる。なんだか健三の前で悪いことをしてるようだった。携帯電話には一博への発信履歴が1件だけ記録されていた。他にはまだ何もなかった。



 翌日、美香はバスで30分の所にある大型ショッピングセンターの正面玄関で待っていた。
12時ちょうどに携帯が鳴った。
「もしもし」
「あっ、井田です。どこにいる?」
「正面玄関」
「すぐ行く」
ミカが携帯を切ると、同時に駐車場の方から一博が現れた。明るい水色のポロシャツが似合っていた。こんな色は健三は着る筈ないなぁ〜と美香は思った。
「ごめん、少し遅れたな。さぁ〜何食べようか?」
「一博、仕事は大丈夫?」
「あっ全然平気。大事な美香様に会うためなら・・」
「もう〜」

一博と美香は平日で人気がない館内を歩き、しゃれたパスタ専門店に入った。
「ピザとパスタを一つずつ注文して、二人で食べようか」一博が聞いた。
「いいわよ、それで」
一博はピザとパスタとビールを1本頼んだ。
よく冷えたビールとふたつのグラスが一緒に運ばれてきた。
「一緒に飲もう」一博は美香のグラスに冷えたビールを注いだ。美香は一博からビール瓶を受け取ると一博のグラスに注いだ。そして一緒に乾杯した。
「この間以来だね」一博が言う。
「そうね、もうずいぶん前みたい」
「けっこうあの晩、飲んだよね」
一博の言葉に美香はあの晩を思い出した。キスのことも…。
「なんかあったっけ・・・」美香の耳が少し熱くなった。
「俺もあんまり覚えてない・・・」
一博が笑いをこらえるようにビールを口に含んだ。
「何、ニタニタしてるのよ」美香も笑いながら言う。
「いや、別に・・・俺がキスしたの覚えてる」
「・・・知ってるわよ・・・下手だった・・・」
「ほぉ〜ほほ」一博は楽しそうに変な声を出した。そして美香の顔を見て笑った。

「携帯電話のメールは使いこなせる様になった?」一博が美香に聞いた。
「なんとか・・・」
「じゃ、メルアド教えて」
「メルアド?」
「メールアドレスの事だよ。なんにしたの?」
「これ・・・」と言って美香は一博にメルアドを見せた。
一博は自分の携帯に打ち込むと、さっそく美香にメールを書き始めた。美香の携帯が鳴る。
美香は携帯を開けると少し戸惑いながらメール箱を見た。一博からのメールが届いていた。
“綺麗な美香とまた会えてうれしい。今日はよろしく”と書いてあった。
返信と書いてある下のボタンを押し美香は一博に送った。
“おてやわらかに”
一博から返信が来た。
“やわらかいのは君の唇だ”
美香はそれを読んで一博の方に向かって手を挙げた。ホテルに連れ込まれそうになってバッグを振りかざした時のように。口元は笑っていた。
 
 昼下がりのレストランで中年の男女が目の前でメールを交わし笑い会う。多分、同窓会がなかったらこんなことはなかった筈だ。お互いの家庭が仲がいい家庭だったらこんなこともなかった筈だ。運命は必然的にやってくる。もしもあの時のもしもは運命に通じない。今ある現実が運命なのだ。いや運命と呼ぶほど重たい物じゃない。二人がこの歳でここで出会うのは神様のいたずら程度なのだ。そう思わないと不倫という道徳に押しつぶされそうだった。

 運ばれてきたパスタとピザを食べ終える頃には、温泉街でデートした時の二人に戻っていた。
 なつかしい初恋のトキメキを胸のポケットに忍び込ませ、秘密の夜のキスもステップとなり、また一段と親密になれた。新しい恋らしきものが目の前に料理と運ばれてきたのである。
 年齢を忘れさせてくれる出会いはなかなかない。ミカと一博は知らないうちに自然と目と目で話すこともできるようになっていた。それは恋と言っても許してもらえるだろう…。

 映画館の暗闇はあの夜の再現だった。一博と美香は人気のない昼間の映画館で人に見えないようにキスをしあった。スクリーンは約束した3Dではなく、アメリカ映画のラブストーリーだった。
 最後列に座り、キスを繰り返す二人は映画の内容以上に燃えていた。
お互い本当はちょっとした冗談のつもりだったのかもしれない。しかし、キスもセックスも知り尽くした大人に、少年少女のような恥じらいはなく、堰き止めていたものが一気に溢れ出してきた。
 絡みつく舌に寂しさと乾いた生活を投げ捨て、お互いを確認するように動く手は禁断のものを手に入れようとする蛇のように身体に絡みついた。
 背徳感が快感の後押しをし、欲望が身体の中心を打ち震わせ、切ない心と燃え上がる心がお互いの舌で表現しあう。これが大人のキスならそう誰もが経験できないものだ。ミカと一博は時間を忘れるくらいお互いを知りあおうとした。舌先で。

 映画が終了するときはお互いこれ以上は動けないほど疲れていた。
唇だけで今までのセックスの倍以上の疲れを感じた。しかし、それは不快でなく反対に心地よかった。
 美香は何度声を押し殺しただろう。一博は何度立ち上がろうとしただろう。
スクリーン上映が終わると明かりがともり始めた。二人はその場を去るのが辛かった。もっと、もっと・・。



 劇場外に出るとすぐ美香は化粧室に入り込んだ。落ちた化粧を直したかった。
一博は美香にメールを送った。
“美香、先に帰る。これ以上いたら君を帰したくなくなる。間違いを犯す前に帰ろうと思う。また連絡するよ”
美香は鏡の前でこのメールを受け取った。一博・・・考えてることはわかる・・・。
それがいいのかもと美香も納得した。美香は一博にメールを打った。
“わかりました・・でも、もう間違いは犯してます。気を付けて」
携帯をゆっくりバッグに戻すと美香は鏡の中の自分に聞いた。
「どこまでいくつもり・・」


 その日美香は夕方6時には健三の食事の用意はすべて済ませていた。
隠し事ができると負い目を感じたような気になる。それをごまかすためじゃないがいつもより少し豪華な食事だった。
 しかし、健三はいつものように夜遅く帰宅しては何も言わず黙々と食べ、風呂に入りテレビの前に座るパターンだった。何も言ってくれない方がましかもしれない。美香も何も言わず自分の部屋にこもった。本当に子どもがいなくなって殺風景になってしまった。寂しさと退屈に携帯を取り出す美香。
一博からのメールが届いていた。

“今日はごめん。君がいない夜は寂しい。また会いたい。”
短いメールだったがミカの寂しさを癒すには十分なメールだった。
美香は返事は打たなかったが、何回もそのメールの文字をなぞった。
 寂しさの入り口を開けてしまうと、誰かを待ってしまう。何も考えず毎日に疑いを持たず寂しさも心の奥に仕舞い込んでおけば、寂しさを思い出すことはない。しかし、一度心を許したり扉を開けてしまうとなかなか扉が閉まらないことに気が付く。寂しさというものは厄介なものだ。それにその寂しさに対して癒してくれる相手でも出来ようなら、つい頼りたくなる。
 愛とか好きの前に寂しさを分かち合える関係、本当に自分にとって必要不可欠な事は「話し合える関係」に他ならない。美香は一博の1本のメールを抱くようにして眠った。





 健三の工場はいよいよ夏に向けて忙しくなってきていた。
一度の花火大会で5000発や10000発と膨大な数の花火を上げる。小さい3号玉は中国製の輸入物に頼ったりするが、やはり中玉や大玉は自分の工場で作るのだ。
 スターマインは連発打ち上げ花火のことで、どこの会場も今はこれが主流だ。コンピューターで電気点火し計算通りに演出打ち上げていく。大会の打ち合わせや書類申請などで、健三は家を空けることが多くなった。毎年の事だが健三が帰ってこないと夏の到来の予告のようだ。今年は特に子供もいない、美香は一人きりの梅雨を迎えようとしていた。
 6月に入ると一博はしょっちゅうメールを入れてくるようになった。
今日は何をしたとか、今何を食べてるとか、どこそこで飲んでるとか報告のようにいちいち入れてくる。美香からは別に催促してないのだが、一博の性格がまめなんだろう。美香も退屈しのぎと会いたさの気持ちついでにメールに返事を返していた。
 話し相手・心の相手は健三から一博に完全に変わっていた。
 健三の何をしているかは気にならないが一博の事は気になった。やはり心の中に彼を住まわせたことは妻としての過ちの始まりだったかもしれない。
 あの日映画館で長いキスを何回も繰り返した日から美香の心は一博の方を向いている。いや、そのずっと前から会話をしなくなった時から実はもう妻として裏切っていたのかもしれない。

 一博から二度目のデートの誘いがメールで来た。どこかドライブに行こうという誘いだった。美香はこの間のキスを思い出した。今度会ったらキスだけで済まないかもしれないと思った。メールの返事をした。

“うれしいけど、怖い自分がいます。きっと、あなたはキス以上を今度は求めて来るでしょ。今なら不倫の一歩手前、お遊びだったで引き返すこともできそうだけど、今度会ったら拒めない気がします。だけど、行きたい気持ちが半分・・。
あなたはどう?“

一博からのメールが来た。

“実は正直に言うけど今、僕は美香しか見えてない。ずっと美香を抱きしめたいと思ってた。正直ホテルにも誘いたいと思ってた。でも、お互いまずいよね。わかってる。だけど、抱きたい僕もいる。デートだけじゃすまないよね・・・。
でも会いたい。会ってどうなるかわからないけど会いたい“

一博の正直なメールに美香は嬉しさ半分複雑な気持ちだった。メールを返す。

“不倫にならなきゃいけないかしら?セックスしなくちゃいけないかしら?
このまま仲のいい友達で済まない?“

“いやだ。好きだったら抱き合うのは当たり前だと思う。美香は僕のこと嫌いなの?”

“嫌いじゃない。好き。だけど、もう何年もしてないし、歳だし、夫の事もあるし、うれしいけど踏み出せない”

“じゃ、もう会わない方がいいかもね”一博のメールは冷たかった。

恋愛は不思議なもので冷たくされると燃え上がり、しつこいと嫌になる。こんなにあっさり「会わない」と言われると追いかけたくなる。美香はメールを返した。



“どうしたらいいか迷ってる。一博が決めて”

卑怯なようだけど一度サイコロを一博に戻した。美香は次のメールの返事でまたどうしようか考えることにした。一博からのメールが返ってきた。

“明日の11時 駅前で待ってます。ドライブしよ”これだけだった。

 結局、行くか行かないかは美香自身が決めなければならなくなった。行きたい気持ちが強い。だけどきっと抱き合ってしまう。それは美香自身の願望でもあるのだが何かいけない気がする。不倫の文字が頭に浮かんだ。
 しかし不倫が裏切りなら、すでに健三を裏切っている。キスは不倫じゃないのか、夫以外を想うことは不倫じゃないのか、どこからが不倫でどこまでは不倫じゃないのか・・・美香はすでに答えが出ているのに自分に言い訳をしていた。

 人は道徳から道を外しそうになる時、自身を取り繕う。これはいいわよね、これは・・・だからと理由をつける。そうしないと心が痛いのだ。健三に悪いのか道徳に悪いのかどちらかわからないが痛みがない方法を探し始めた。
 行きたい気持ちや会いたい気持ちはなかなか抑えきれるものではない。美香は迷いながら結局行こうと決めた。救いは今日と明日、健三が家にいないことだった。


 午前11時の駅前はまばらな人影だった。一博は駅前のロータリーのバス停が見える歩道の脇に車を止めた。予定では美香はバスでやって来るはずだ。昨日のメールから美香の返事はなかったがきっと来ると予想していた。来なければ残念だけど仕方ないと思うことにしていた。
 恋愛はどこかで賭けに出なければならない。いや、必死にならなければならないというか運にすがらないと進まないとこもある。一博は美香が来ることに賭けた。
「いい大人がここまで必死になってんだ、頼むよ美香、来てくれよ」
自信とは裏腹に何とも頼りない独り言だ。

 白いバスがロータリーに入って来ると終点である駅前で停まった。乗客が降り始めた。美香は最後尾から降車して来た。一博は美香を見かけるとホッと胸をなでおろした。その後、急に鼓動が激しくなった。美香の顔を見ると息苦しくなる。まともに息ができない。そして抱きしめたい感情に駆られる。
「俺ってこんなに美香のこと好きだっけ・・・」一博は自身に笑った。

 美香は一博の車を見て一瞬逃げ出そうかと思った。また会いに来てしまった。
でも「ドライブだけなら」と自分に言い訳をしていた。会いたさが先だった。
一博の車に近づくと心臓が高鳴り始めた。嬉しさと何かへの期待か。
「おはよう。待った?」
美香はドアを開けてシートに座るとそう言った。
「おはよう。いや、ぜんぜん。来てくれたんだ」
「ドライブだけでしょ・・・」
「そうドライブだけ。付き合ってくれてありがとう」一博は笑って答えた。

 

 車は駅前のロータリーを回り南へ向かって走り出した。6月の晴れ間は真夏ほど暑くはないが車内はエアコンが必要だった。見慣れた景色が後ろへ遠去かる。
 しがらみや家庭という縛りからも解放されるようだ。美香は知らない景色が目の前に現れるたび自由を手にしたような気になった。
 一博が音楽をかける。70年代の昔の洋楽だ。
「なんかなつかしい曲ね。これっていくつの頃だっけ」美香が聞いた。
「ちょうど中学生の頃。深夜番組をよく聞いてた頃さ」
「そうそう、あの頃はラジオをよく聞いてたわね」
「リクエストしたことあるんだ。あの人気の番組に」
「へぇ、どうだった。採用された?」
「あぁ、あこがれのマドンナに贈りますって書いて手紙を出した」
「誰、私?」美香がふふっと笑う。
「そう、美香様。曲はビリージョエルだった」
「へぇ、そうなんだ。知らなかった。聞けたら良かった」
「その曲かけようか」
「うん」
一博はコンソールボックスからMDを取り出すと入れ替えた。
流れてきたのは聞き覚えのある歌だった。しばらく二人でその曲を聴いた。
「ねぇ、一博。もしかしてこんなやり取り他の女ともしてない?」
「えっ?」
「みんなに僕のマドンナだって言ってんじゃないの」
「違うよ。そこまで女たらしじゃないし、もうずっと一人きりをやってる」
「ほんと〜〜。なんか怪しい」美香はいたずらっぽく笑った。
「イメージ悪いんだな、俺って」
「だって浮気っぽいって有名だもん」
「イメージ先行ってやつか・・まいったなぁ。そう思う本当に?」
「ううん、ほんとはどうでもいい。目の前の一博が私にやさしければいい」
 一博は運転をしながら美香の顔を見た。歳は取ったが綺麗な顔立ちで今は温和な顔をしている。なんだかうれしそうな顔をしている美香を見たら自身も嬉しくなった。
 好きな人の笑顔を見ることができるのは幸せなことだ。一瞬加奈子の笑顔も浮かんだ。あいつも昔はこんな笑顔をしていた。どこでこうなってしまったんだろ。つくづく人間の気分はいい加減で長続きしないものだと一博は思った。

 
「あのさ、メールって不思議だよね」美香が流れる景色の正面を向いて言った。
「なんで?」
「だって、まだ数回しか会ってないのに一博のことがわかる。メールでいろんなことを話し合ったから心が分かり合えるのかな」
「そうかもしれない。面と向かって言えないことが平気で言えるもんな」
「そう、聞きたい事も聞きたい時に聞ける。家だったら絶対出来ない」
「じゃ、家の中でメールで会話すれば」一博が笑って言う。
「無理。無理・・・」一瞬、健三な不機嫌な顔が美香の頭に浮かんだ。
「でもさメールって証拠が残るんだぜ」一博が言う。
「証拠?」
「そう不倫の証拠。ちゃんと消してる」
「まだ不倫してないし、消さなくちゃいけないの」
「だって見られたら、やばいだろ」
「あ〜彼ね、見る筈ないわ、私に興味がないみたいだから」
「そこまで冷めた家庭なの」
「一博だって言えないでしょ。この前は泣きそうに白状したくせに」
「そうだっけ・・・」
「やっぱり消した方がいいのかな。いつも寝る時読み返すのが私の楽しみなんだけど。一博がやばい?」
「あっ・・ううん・・どうでもいいや。美香がいいならいい」
一博も健三の顔が浮かんだが別に張り合う気はない。ただ目の前の美香がいつも笑っていてくれさえばいいと思った。好きになったら悪い都合はどこかに押しやることにしていた。

 それから二人はしばらく懐かしい音楽を聴いて海沿いの道をドライブした。
お昼のランチは海沿いのレストランにした。お昼時なのに客は少なかった。主要幹線道路から外れた田舎の海沿いは観光地でもない限り人気はない。
 一博と美香はおすすめのランチを注文した。客がまばらなのがもったいないくらいおいしかった。
「おいしいもの食べて好きなお嬢ちゃんといると最高だな」
一博は食べながら言った。
「お嬢ちゃん?さっきはマドンナでいろんな言い方があるのね」
「お姫様でもいいかな」
「おばさんよりましだわ」
「美香・・」そう言うと一博は差し向かいにいる美香に身を乗り出してキスをしようとしてきた。テーブルを挟んで食事をしていた美香は驚いたが笑って一博のキスを受け止めた。食べ物と二人の唇が交じり合う。触れ合っただけなのに二人とも昼間から電気が体の中を走った。
 キスをした後に美香は「バカね」と言った。
一博も笑ったまま美香の顔を正面から見た。大人になったら何でもできる。中学生のようにキスだけでおどおどしない。自然にキスをしたい時にできる。そしてそれを受け止めてくれる相手がいる。こんな関係をいつまでも続けたいと一博も美香も思った。

 レストランの昼食を終えると、岬に向かう道を登り展望台の駐車場についた。
さほど有名でない展望台は誰もいなかった。二人とも暑さを避けエアコンの効いた車の中から太陽に輝く海を見た。先ほどから沈黙が続いていた。
 一博がサイドブレーキのギアを引いて車を完全に停車させると、それを合図かのように二人は抱き合った。体の存在を確かめ合うようにお互い背中に手を這わせた。無言のまま抱き合い求めるように唇を探しあった。
 押し付けるように唇をつぶしあい舌を絡める。隙間がなくなるほど唇が密着しあう。時々息継ぎをするように唇を離してはまたそれを繰り返す。舌先が歯の並びに沿って舐めるように動き回る。お互いの唾液は混じり合い行き来する。いつ以来のこんな濃厚なキスだろう、いや、今までずっと経験してなかったかもしれない。背徳感が入り混じるキスは今迄に増して危険で甘い味がした。
 疲れるほどの気が入ったキスを繰り返していると、車がこちらに登ってくる音がした。一博はきつく抱きしめていた美香の体を放すと気を取り直した。
 登ってきた車は初老の夫婦だった。車を止めるとひとしきり海を眺めまわし数分も経たないうちにまた下って行った。

 ハンドルに両手をかけた一博は正面の海を見ながら美香に言った。
「ホテルに行こうか・・・」
「・・・・」美香は何も言わなかった。
一博はサイドブレーキを解除するとギアを入れ車を動かした。
美香はずっと黙ったままだった。
 田舎の海沿いを走っていると白い建物が見えた。看板にはカタカナでホテルの名前が書いてある。少しスピードを落とした一博は無言のまま美香の返事を待たずホテルの個別の駐車場に入れた。
 薄暗い駐車場は秘密の場所にふさわしかった。
 
 エンジンを切ると急にしんとなった。沈黙が襲う。二人ともためらうように外に出れなかった。ドアを開けることができなかった。美香が言った。
「一博・・・私・・・引き返せなくなるよ」
「・・・・」
「いいの・・・」
「・・・・いいさ、全部おれが引き受ける。覚悟は出来てんだ」
「・・・・私、私・・」美香の声は小さくなっていた。ためらいの波が押し寄せてきた。急に一博にしがみつきたくなった。美香は一博に向くと細い腕を一博の腰辺りに回して胸の中に顔をうずめた。あの時の匂いがした。一博の胸に偶然だけど飛び込んだ時の香りだった。ギュッと力を入れて抱きしめた。
 一博も美香を強く抱きしめた。無言で包み込んだチカラは美香を守りたい優しさだった。嘘偽りなく人を愛せるのはこんなにも狂おしいものかと思った。
 そして二人は静かに車のドアを開けるとホテルの玄関へと歩いて行った。



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