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作品名:十六夜花火 作者:海野ごはん

第2回   夫婦交換?
 一博は美香がどこに行くのかもわからず、とりあえず後をつけた。足湯の場所が見えなくなる角を曲がると美香は少し歩速を緩めた。多分ここから先は健三の見えない範囲だと安心したのか美香はついて来てるであろう一博の方を振り返り、健三には見せない笑顔を見せた。ちょっと老けたかもしれないが昔、一博にも見せていた笑顔だ。
 顔立ちのいい美香が笑顔を見せるとどんな男だって嬉しくなる。美香はさらにいい笑顔を一博に見せようと普段以上の表情をした。
 一博は先日の同窓会の時より、自分の為にだけに笑ってくれる美香の笑顔を見て嬉しくなった。

 よこしまな気持ちは彼女をホテルに誘って抱きたいからだけじゃない。いや最終的には心のどこかに持っていたが、純粋に好きだった昔の女の子にもう一度心ときめかすこと自体が自分でも心地よかった。
 好きだった昔の恋人に再会する、それも二人きりで…こんな心ときめくシチュエーションはなかなかない。中学以降いろんな女性と付き合った一博だがやはり初恋の彼女というのは別格だった。
 渡したラブレターの好きか嫌いかの返事ももらわずそのままだったから、何かと結果を求める一博は今更ながら美香をもう一度振り向かせたいという願望がどこかにあった。
 振り向かせたい、自分のものにしたい。たとえ親友であり同級生の妻という肩書があっても一博には関係なかった。欲張りな男はいくつになっても欲張りなのだ。また、そういう欲望をかなえようとするパワーがある人間ほど仕事も金儲けもうまい。そして口先もうまい。
一博は笑顔を向ける美香に言った。
「なんだかずいぶん健三から離れたがるんだな」
健三と美香の温度差の確認の言葉だった。
「うちの旦那もう、暗くてさ… 一博みたいに喋る方じゃないし。最近ますますうっとおしいの」
「おう、おう、いきなり悪口かよ…」一
博はやっぱりと思い、その方がいいと思った。
「加奈ちゃんは心配じゃないの?」
美香も一博と加奈子の生活を探りたかった。
「最近はひねくれてさ、意外とああ見えて家では怒ってばっかしなんだ」
「怒って・・? 一博がなんか悪さでもしてんじゃないの?くくっ…」
牽制球を投げる美香。
「別に悪さはしてないさ。更年期障害て言うやつか?」
ほんとはちょくちょく悪さはしていたからばつが悪かった。
「あら、ひどい。なんでも更年期で片づけたいのね。男だって来るのよ」
「へぇ〜男の更年期ってどんなんだ?」
「勃たなくなるとか… 」言ってしまった後、
美香はまさか自分がそんなこと言うなんてと恥ずかしくなった。
実際は男の更年期というのを詳しく知らなかったからなのだ。
美香は一博から目をそらした。
「はっはっは、いや〜美香も大人になったなぁ〜。中学生の時にこんな話題はなかった・・ははは」
一博は美香の方から一瞬誘っているのかと思ったくらいだ。
「まだ、俺は立派に勃つよ…おかげさまで」
「やだ〜 なんだか恥ずかしい」
本当に恥ずかしかった。心のどこかに期待してるものがあったのだろうか。あの派手な下着を握った時から考えていたのかもしれない。

「子供は?」一博が聞いてきた。
「二人とも就職して家にはいない。旦那と二人きりだから息苦しくて」
「息苦しい? 二人きりだから楽ちんじゃないの」
「相手によるわよ。もっと一博みたいに喋ってくれる人が良かったなぁ〜」
本音だった。
「喋るのだけは得意だ。よく、うるさいと言われる」自嘲気味に笑った。

 城下町の歩道の横には鯉が泳ぐきれいな水の用水路が流れていた。石畳の歩道を歩きながら二人はゆくあてもなく歩き出した。
「あのさ、昔ラブレターあげたの覚えてる?」
一博は色恋の話題がしたくて美香に聞いた。
「覚えてるよ。だけど、もうどこに行ったか無くなったと思う」
「はは、ある方が珍しいよ。内容は覚えてる?」
「そんな昔のこと覚えてるはずがないわ。書いた一博が覚えてるでしょ」
「いや、何を書いていたか思い出せないんだ。多分、好きだとか書いていたんだろね…」
「そりゃ〜、ラブレターだから好きだと書いてるはずだわ」
遠い日の思い出を懐かしむ美香。
「なんで好きだったんだろ?」
「さぁ〜」
「美香はクラスでも一番可愛かったから、きっと顔かな…」
昔の事でも女は綺麗だと言われるのはうれしい。美香は一博の言葉が今の告白にも聞こえるからなお嬉しかった。
「でも、今はもうおばさん… 皺も増えたし…」わざと自嘲気味に言うしかない。
「いやいや、美香は今でもそこら辺のおばさんの中では綺麗な方だ。ほらこの間のクラス会、あの時だってやっぱり美香が一番だなと男同士で言ってたんだぜ」
「え〜、嘘〜、他にもいたじゃない」
「いやいや、断トツで美香が一番だった。ほんとだ」
そこまで言われると嘘でもうれしいに決まっている。
「加奈ちゃんだって綺麗になってたよ」
「あいつはお金使ってるから…それでも無理だ」
「何が無理なの?」
一博は「俺の気を引くのはもう無理だ」と言いたかったが、
「いや、あれ以上綺麗になるのは無理だと…」
「自分の奥さんの事そんなふうに言っていいの?言っちゃおうかな〜」
本人を目の前にして言える筈がなかった。ただ美香は加奈子に負けるはずはないというプライドは正直持っていた。
「ほぉ〜〜、美香だって、さっきはぼろくそ言ってたのに・・・」
一博は美香の肩をポンと押した。
その拍子に美香はよろけ歩道の横の用水路に落ちそうになった。

「あぶない!」一博は自分で押したくせに見兼ねて、美香の腕をしっかり握り引っ張った。
美香の体は今度は用水路と反対の方向、一博の体にぶつかることになった。
顔が一博の鎖骨あたりにあたり、ちょうど胸の中に抱かれるような格好になった。
一瞬、時間が止まる。1秒、いや2秒だろうかわずかの時間の中に男と女の電流のようなものが流れた。すぐさま離れようとした美香だが一博の匂いに動きを止められた。

 健三がこの間嗅いだ、あの匂いと同じものだ。柑橘系なのに甘い匂い。健三には決して身にまとえる匂いではなかった。健三にはない洒落た上品な匂いだった。男性の香水はあまり好きじゃないと思っていたが、実際包まれてみると興奮が体の中を走った。

「ごめんごめん、美香って軽いんだな」
一博のその言葉に美香は正気を取り戻した。このまま、その匂いに包まれていたかった自分がいた。それは忘れていた女心を思い出させるものだった。
しかし振り払うように
「も〜〜落ちそうになったじゃない」とそれだけ精一杯口に出した。
「いや〜、あんなに吹っ飛ぶとは、悪かったな」
密着していた体をお互い離し、少し距離を置いた。
沈黙が3秒ほど流れた。

「ねぇ〜 一博って香水つけてるの?」
肩を自分の鼻元に近づけて嗅ぐ仕草をしながら一博は「あ〜、これね」と言った。
「加奈子が勝手に買ってきたんだけど好きだからつけてる」
「ふ〜ん、じゃ加奈ちゃんの趣味なんだ」美香は少し嫉妬を覚えた。
「いや、最近じゃ『あなたがつけたら変なにおいがする』と言って嫌っている」
「じゃつけなきゃいいのに」
「いや俺は好きなんだ。多分あいつが嫌いなのは俺自身さ。俺が嫌いだからすべてが嫌いなんだ」
「そんなこと言っていいの? 仲良くやってるじゃない」
一博が加奈子の悪口を言うと嬉しいのは何故だろうと美香は思った。
きっと嫉妬してるに違いない。
「仮面夫婦さ」一博が言った。
その言葉は美香の心臓に音を立ててドスンと響いた。

 仮面をかぶったように本音を出さない生活で夫婦関係を続けていく。いつからなのだろうか。気が付いた時にはお互い顔から仮面をはがせなくなってしまってる。仮面の顔が本当の自分の顔?と錯覚するときもある。こんな付き合い方をするはずじゃなかったと後悔するのだが、いつの間にかかぶった仮面は、当たり障りのない生活に合わせた嘘の仮面になっていた。
「私だって同じよ。夫婦って本音が言える関係だと思ってたけど、いつの間にか嘘をついてしまってる」
「えっ,美香んとこもか?」
「どこでも同じじゃない…でもそれって寂しいよね」
「そうだな。寂しいから外に飲みに行く。そして酔ったおねえちゃんを口説く・・最低だな」
「あら、やっぱりそんなことしてんだ。にしても弱気出しちゃって・・・どうしたの」
「いや、ほんとに本音なんだ。最近は毎日午前様。別に外が面白いわけじゃないけど家じゃ嫌だし、ついつい出てしまう。だけど飲みに行ってもそんなに寂しさは癒されない・・・」
「加奈はやさしくしてくれないの」美香が一番聞きたいところだった。
「最初の頃は優しかった。だけど俺がしょっちゅう浮気するもんだから、もう呆れてるみたいだ」
「そりゃ〜自業自得よ。浮気する人って最低じゃない」
「男はいろんな女を捕まえたいんだよ。狩猟本能さ」
「寂しいのが先なの、その狩猟本能が先なの」美香が笑って聞く。
「どっちも・・・だ。・・・すまん」頭を掻く一博。
「だけど、最近は飲みに行っても全然おもしろくない。同じ歳の男はいないし若い奴らばかりだ。なんでオジンがこんなところに来てんだって顔で見られる」
「行かなきゃいいのに」
「家にはいたくないし、しょうがないだろ」
「帰れない中年族か・・・」
 美香は一博が外で飲んでる姿を想像した。若い女の子をはべらかせて飲む姿よりカウンターで一人ぽつんと飲む姿が浮かんだ。帰れなくてさびしい中年男子・・・。

「ねぇ、どんな店に行くの?」
「最近はバーが多いな」
「そこで隣に座ったお姉さんをゲットするわけ?」
「いや、最近はしない。おいおい、何を言わすんだ。もうそんな歳じゃないから、いつでもお持ち帰りするってことはないさ。それに誰も寄ってこないよ」
「誰も近寄らないけど、一博がすり寄っていったりして」
「おいおい、もぅ〜、もうそんなパワーはないさ。男もしたがりは45歳までだ」
「したがりって?」
「下半身だけで動く男さ」
「昔の一博ね」
「なんだかきびしいなぁ〜。だけど今はおとなしいもんだ。カウンターで飲むだけ」
「そして帰れない・・・」美香が笑う
「ああ、オカ〜ちゃんが怖い・・ははは」一博は全くその通りだと思った。

「美香はお酒飲むの」
「飲めるのは飲めるけど、家でたまにビールを飲むくらい。外で飲む機会がない」
「健三はまじめだもんな。一緒に行くなんてないだろ」
「そう、一緒に飲みに行くなんて今まで1回もない。でもそれが普通じゃない?」
「普通?」
「何かの集まり以外は嫁と一緒に外出することはない・・そうじゃないの?」
「そうかな、俺たちは最初の頃よく飲んでたぜ」
「昔はでしょ!」美香は想像してぷっと膨れた。「今は怖いくせに・・・」
「そうだな・・本当は夫婦で仲良く飲みに行けるのがいいのかもな・・・」
一博も美香も理想の夫婦像というのを追いかけてみたが、それは誰かが作ったイメージなのかもしれない。コマーシャルのような良き家庭、良き夫婦像。だけど、やっぱりそうしたいという気持ちがどこか残ってて引っかかる。古い昭和生まれの人間だからなのだろうか。

「そうそう、どうやって加奈子と知り合って結婚したの」
美人でない加奈子を一博が選んだ訳を美香は聞きたかった。
「加奈子か・・・37歳だったかな会ったのは。ちょうど俺が離婚して落ち込んでた時会ったんだ。久しぶりだから最初はわからなかったんだ、ほら、あんまり目立つ子じゃなかったし。あいつああ見えてもやさしくてな、すごく親密にしてくれたんだ。そのうち情にほだされたというか、こいつだったら俺に尽くしてくれそうだからと、その気になってしまった。で1年くらい付き合って再婚したんだけど、ほら俺の浮気の虫が暴れだし・・・」一博は遠慮気味に笑う。
「浮気男は自分から家庭を壊そうとする。どうしてかわかるか?」
「・・・・」
「自分で反省を込めて言うけど、落ち着くのが嫌なんだ。ずっとそこに縛られるのが嫌になってくる。愛してもらうのは嬉しい。やさしくしてもらうのも嬉しい。だけど、同じ場所にいることがどうにも嫌になってくる。彼女が嫌いなわけじゃないけど環境を変えたくなる。特に俺は人と違ってるし、なんでも突っ込みたいタイプだし、馬力を持て余してんだ。特にあの頃は若かったし・・・病気みたいなもんだ・・・」
美香は一博の言うことを黙って聞いていた。
昔の中学生のころの一博の性格そのままだが、やっぱり大人になってることに気が付いた。
「でも、だからって浮気に走るのは誰でも女は許さないよ・・・」
「ああ、わかってる。だけどあの頃は仕方なかった。それしかできなかったから・・・」
「今はもう浮気してないの」気になる部分だった。
「言ったろ、45歳までだって」一博は笑う。
「もう、最近は女遊びはしてない。ただ家にいたくないだけだ」
美香は一博の横顔を見ながら、ふぅ〜とため息をつき
「みんな、素直になれないねぇ〜」と言った。
その言葉に二人とも、自分の家庭の蓄積を合わせて見た。
つくづく・・・どこも・・・。

「加奈子はまだ怒ってるのかなぁ〜」美香はなんとなく聞いてみた。
「どうだろう、あきれて、冷めてるのは確かだな。愛があったら感じるからわかる」
「へぇ〜、わかるんだ」興味深く美香は一博の顔を見た。
「俺は誰よりも愛をいち早く察知する。好いててくれてるか・・・」
「それで女を選ぶ?」
「その通り、慎重派だ。ははっ」
「そして加奈ちゃんには今は愛はない?」
「ああ、絶対。一緒に住むのに愛はいらないしお金さえあればいいと思ってる」
「そんな〜言い過ぎじゃないの」
「言い過ぎかもしれないけど、俺たちにもう愛がないのは二人ともわかってる」
美香は自分と健三をだぶらせた。
「でも、今回みんなと旅行に来たのはなぜ?」美香が聞いた。
「美香と一緒に話したかったからさ。なんせ初恋の彼女なんだから・・・」
一博が美香の手を取った。しかし、美香は振り払うように手を放した。
とっさにだった。
「そうやって、いつも女を口説くのね。口がうまいんだから」
「ばれたか・・だけど初恋は美香だけだ」
一博は美香に背中を向けてその場を歩き出した。
告白して背を向ける。それは照れなのか作戦なのか一博の行為はいちいちどこか人間を引き付ける。
 一博の背中は中学生のころより当たり前なんだろうが大きくなっていた。それは心の中を簡単に見せたり、そして気にさせたり大人の行動が伴うからであろうか。背中で人生を語るわけではないが、きっと今までいろんな人生を歩んできたんだなと美香は思った。


 どこに行くあてもなく歩き出す。だけどどこでもよかった。二人で会話することが目的だったからだ。知りたい心は増していく。それは好きになればなるほど気にすればするほどもっと話したかった。
 美香は知らない街の静かな遊歩道を一博と歩いた。
少し前を歩く一博に追いつくと、今度は自分から進んで一博の手を取り腕を組んだ。そして、しばらく黙って歩くのだが心の中は揺れていた。幸せな気分で揺れていた。
「もっと話したい。もっと知りたい」二人の心は急速に近づいた。

 歩道の横の綺麗な用水路には色とりどりの鯉が泳いでいる。
商店街に差し掛かるとアーケードの中には端午の節句に飾られる鯉のぼりが所狭しと泳いでいた。しかし鯉のぼりの派手やかさとは裏腹に商店街のシャッターは閉まり閑散として、開いてる店はわずかの数軒だった。ここも平成の大型店に押しやられ昭和の時代を残す場所となってしまっていた。
「あら、もう繁華街はおしまい?」
「どこもこういう田舎の商店街はもう終わりなのさ」
「そう、なんだかさみしいわね」
「時代は変わる・・変わらないのは思い出だけだ。俺たちも皺は増えたしね」一博が言うと、
「白髪も増えたわよ・・」と美香も軽口を言った。」
「どこに・・・?」
「いやだ〜言うわけないでしょ」
「言えない所にあるんだ」
「もぉ〜〜」
温泉街の商店街を抜けると、鉄筋コンクリートの4階建てのラブホテルが目の前にあった。
どうしてこんな所にという所にあった。








 その頃、加奈子と健三は二人ともまだ足湯に浸かっていた。
「ねぇ気持ちいい?」加奈子が聞く。
「あぁのんびりして最高だ」
「気にならないの・・・あの二人?」
「別に・・・なんかあるのか?」
「初恋同士なのよ」
「そうなんだ・・何故知ってんだ?」
「昔聞いたことがある」
「お前が気になるのか…なら、なんで二人行かせたんだ?」
加奈子は「あなたといたいからよ」と言いたかったのだが、
「どうにかなったら面白いかな〜と思って・・・」と言った。
健三は加奈子の顔を見て
「七面倒くさいことが好きなんだな」と言って、
足湯からすっかりふやけた足を上げた。
タオルで拭きながら
「なにかあると思うか?」と言った。
「・・・・別に・・・ないかな・・・」
「なら、いいじゃね〜か。ただの同級生だ」
「ふ〜ん・・・」加奈子も足を上げて拭きだした。それから
「ねぇ〜、健ちゃんちは仲いいの?」と聞いた。
健三はどうしてそんなこと聞くのかという顔をして
「普通だ。ただの平凡な家庭だ」と言った。
「今でも好き?美香のこと」
加奈子が真剣に聞くもんだから健三は嘘をついた。
「ああ、好きに決まってるじゃないか」
本当は好きなんて考えは、とうに失くしていた。どうでもいい世界だった。家庭の中で一緒に生活するのは「好き」じゃなければできないというもんでもなかった。反対にいちいち気にしてたら落ち着かない。当たり前の空気でいいと思っていた。
 朝出かける時に返事をしなかったり、夜帰ってきても無視したり、やってることと言ってることが自分でも違うのを思い出して、ばつが悪かった。
「へぇ〜、うらやましいな・・・私の所は全然ダメ」
「一博が遊ぶからか?」
「もう浮気ばっかし」
「そういう病気なんだよ。看病してやれよ」
「男は浮気して当たり前なの?じゃ、健ちゃんもしてる?」
「俺は興味がない。仕事ばっかりだ。女心は苦手だ。だから平凡でいい」
「美香はそれでいいって言ってるかしら・・・」小さな声で加奈子は言った。
「ん、何か言ったか?」健三が加奈子を見た。
「いいえ、別に・・・男ってわがままなのね」
「そうか・・・仕方ないんじゃないか」健三は足湯の場所から遠くを見ると、
「あそこにお城がある。あそこ行ってみようか」と指差し加奈子に言った。
 加奈子はほんとにこの人は恋愛ってどうでもいい人間なんだと思った。しかし一博と違ういい所はこの真面目一直線のひたむきさかもしれないと思った。女と違う人種。女はいつも好いてくれてるのか?愛はあるのか?と心の中を見たがるが男は見せたがらない。加奈子は健三に男を感じた。

 少し商店街から離れた高台に最近化粧直しをしたような白いお城が建っていた。
5階建て位の高さだろうか、天守閣は展望台のようになっていた。
「登ろうか」加奈子は健三の手を引っ張った。白くて小さく冷たい手だった。
「加奈子の手って冷たいな・・・」
「あら、心があったかいからよ。よく言うでしょう。心も冷たい女がいい?」
「いや・・・」
別にそこまで言ってないし…健三は加奈子の引っ張る手をぎゅっと握り返した。
 妻である美香以外の手に触れたのは何年振りだろう。いや美香の手さえ最近は触っていない。ずいぶん長い間女性の手に触れてなかったことを思い出した。
城へと続く石の階段を加奈子に引っ張られながら健三は登った。

城の下に立つと結構大きい感じがした。天守閣はさらに上だ。ここからでさえも町の中が見渡せた。海の水平線が光っている。
「上まで行くのか」健三が聞いた。
「もちろん。全部見渡せるわよ。さっ、行こう」

 天守閣は意外と小さい部屋だった。8畳くらいだろうか。そして部屋の回りをぐるりと腰高の木製の手すりが囲っていた。
「わぁ〜凄い。海の向こうまで見えるね」
もやに隠れて頭だけを出してる半島の向こうの山並みが見えた。眼下には城下町が広がっている。まだ水を入れない水田や畑が町の向こうに規則正しく並んでいた。
「望遠鏡があるよ」
加奈子は子供みたいにはしゃいで望遠鏡に近づいた。
「20円・・中途半端なお金。いっそ10円か100円でもいいじゃない」
健三はポケットから小銭を出すと加奈子にじゃらじゃらっとあげた。100円玉が混じった小銭だった。
「ほら使えよ」
「ありがと。でもこんなにいらないよ。3分で20円だもん」
「そうか・・・」そう言ったきり健三は外の景色じゃなく天守閣の中を見物しだした。

 海風が通り気持ちがいい。加奈子は望遠鏡に小銭を入れると中腰で覗きだした。
港に漁船がたくさん見える。結構大きく見えるもんだと加奈子は思った。実際、街中の人間の顔も見えるくらいだった。
 加奈子は港から海、海から島、島から足元の街へと望遠鏡のレンズを向けた。町の中心街らしき商店街が見えた。鯉のぼりがたくさんつりさげてある。田舎の小さな温泉町だから人影はいなかった。ず〜っと望遠鏡で商店街をなめるように見ていくと男女の姿が見えた。
「あれは?」もしかしてと思いながら加奈子はレンズの向こうに写る二人を凝視した。服装からして美香と一博のようだ。はっきり見えないが確かに腕を組んでいる。立ち止まって話をしてるようだ。何を話してるのだろう・・・加奈子はあたりを見てみた。するとラブホテルの看板が飛び込んできた。
「あっ!」思わず声を出してしまった。
「ん?どうしたんだ」と健三が聞いてきた。
「あっ、いやちょっと」加奈子は望遠鏡を背中で隠すようにして健三の方に振り向いた。
「なんか見えたのか」
「えっ・・あっ・・いやさっきのカキ小屋がよく見えたもんだから・・・」
「そんなに見えるのか・・どれ」と言って健三が近づいてくる。
加奈子はわざと望遠鏡を海の方向に回した。
健三は面白そうに望遠鏡を覗くと町の方を見た。
「おっ、よく見えるな〜。すげえ〜」と言ったところでカチャンと音がして切れた。
「なんだ、もう切れたぞ」
今度はつまらなさそうに自分で手すりから乗り出して町を見始めた。
「俺、目がいいからなんでも見えるぞ」と健三が言うと加奈子はどきりとした。
別に自分が悪いことしてるわけじゃないが、予想通りというか自分の夫・一博が美香を・・・。いやいやただあそこで見かけただけかもしれない。
あれからどうしたんだろうと気になった。
ハッとして加奈子は
「なんでも見えるの?」と聞いた。そして一博と同じく身を乗り出して町の方を見た。
「車が見えるとか人が見えるとかぐらいさ。それ以上は見えない」健三は言った。
加奈子は先ほどの商店街の近くのラブホテルを探してみたが全く分からなかった。
「美香たちは見えるかしら」加奈子は聞いてみた。
「そこまで見えないさ。でも案外この近くにいたりして・・」
加奈子は自分のことのように安心すると、健三があまり外を見ないように
「降りよう」と言った。
「もう降りるのか」
「座りたくなっちゃった。ほら下のベンチで休もう」
加奈子は健三の手を取り促した。城の中の暗い狭い階段を下りた。ベンチは城前の木陰に並んでいた。

 どうして私がどきどきするのだろう・・・一博が美香を誘うのは予想してたことだし、もともとそれが狙いだったのに。だけど、いざ自分の目の前でラブホテルに誘う一博を見たら・・いやいや、美香が誘ったのかも・・いや、ただの通りがかりということもある・・・・。
 加奈子は余計な想像を振り払うように健三の手を取りベンチに「座ろう」と言った。
「あ〜なんだか眠たくなってきた。ちょっと横になるかな」と言って健三はすぐベンチに横になった。
目を閉じた大人の健三をすぐそばで見る。ずいぶん大人になったなと加奈子は思った。
先ほどの一博たちの光景といい、私たちのデートのような光景といい、いい大人がゲームのようなことをして楽しんでいる。もし出来ればあの二人ができちゃって・・私が健三と・・・。まさかまさか・・・。
でも、そんなになったら楽しい気もするのだがと加奈子はこれからのことを思うと、口元から笑みがこぼれた。








 一方、商店街を歩いてきた美香と一博の二人はラブホテルの前まで来てしまっていた。なんでこんな所にというくらい場違いなホテルだった。中年の男女が手を組んでラブホの前を通りがかる…それだけでも見られてはいけない場面だ。誰かが見たら勘違いしてしまう。
最初に気づいた一博は「おっ」と看板を見て言った。
美香はその声に気がついて周りを見た。そしてハッとした。
「おっちょうどいい所のホテルがある。入ろうか」一博は笑いながら腕を組む美香を引っ張った。
「ばか、ばか・・・」あわてる美香。
逃げようとする美香の腕を抜けないように脇を閉めさらに行こうとする一博。冗談でやってるのだが美香の反応が面白くからかいたくなる。
「バカ。一博・・こんなとこで」
「こんなとこで・・・なんだい?もめてる方が恥ずかしいぞ」さらに引っ張る。
「もう〜〜冗談じゃないからね」持っていた片方のバッグで一博を殴ろうとする。
「わかった。わかった。冗談だよ」一博は組んでた腕を放してあげた。
10mほど走って逃げた美香は振り返り、バッグを持つ片手をあげて怒って見せた。
一博は笑いながら近づいてきて
「おぉ〜恐っ、怒った?」と笑いながら言った。
「もう〜〜、誰にでもあんなことやってんでしょ」
美香も冗談だとはわかっていたが体が緊張した。
「いや、いつもは車でサッと入るんだ」笑う一博。
「やっぱり・・悪いやつ・・・」
「冗談だよ。美香を見たらからかいたくなったんだ。ほら…好きだから」一博が美香の顔を見る。
「も〜、いつもの手口ね・・・あきれた」美香はバッグで一博のお尻をたたいた。

 笑いあう二人の横を車が通り過ぎ、先ほどのホテルのビニールの駐車場入り口を潜って入って行った。
それを見た二人は顔を見合わせまた笑い出した。
「あ〜おもしろかった」一博が言う。
「やんちゃなのね・・・」
「ドキドキすることが楽しいんだ」
「そうやって女の人苛めてるんでしょ」
「昔はね・・・」
「そうかしら」
「最近ドキドキすることがなくて、おもしろくねえ」
「・・・・・じゃ、今から入ろうかホテル・・・」美香がドキリとしたセリフを言う。
「えっ!」
「バカね、冗談よ・・・・でもやっぱり入ろうかな・・・一緒に行く?」
「えっ、まさか・・・」
「そのまさかはお嫌い?」
「ウソだろ・・・」
美香は笑いながら
「嘘だよ。信じた?ドキドキした?」と言った。
一博はオーバーに胸をさすり
「や〜、びっくりした。ドキドキしたぜ」と言った。
「よかったじゃない、お好み通りで…」と美香は笑ってホテルに背を向けて歩き出した。
ちょっと遅れて、一博も美香の背中を見て追いかけた。そして二人でまた並んで歩きだした。






 「さっきは慌ててしまったなぁ〜」とベンチに座り寝ている健三を見ながら加奈子は思い出し笑いをした。
ホテルに行ったかどうかは気になるが、それよりも一博に対し、それほど嫉妬や驚きがないことに自身驚いた。つくづくもう一博を想う気持ちはないのだなと自分の心変わりを確信した。
 今まで、散々耐えてきたことも馬鹿らしくなってきた。嫉妬は醜いが自身を成長させてくれるものでもある。どんなことでも卒業はある。卒業がなくても区切りはあるはずだ。もう一博とはおしまいかなと感じていたが丁度今が潮時かもしれない。これから先はわからないけど区切りをつけよう・・・明日からは新しい人生を歩こうと考えた。
健三はいびきをかいて寝ていた。
 どこに行っても誰がそばにいてもマイペースで変わらなく生きれる健三がいい男に加奈子は見えた。
 寝ている健三の額に加奈子はキスをした。赤い口紅がついたのを見て、慌てて健三が気付かないように手で口紅を消した。
加奈子の頭上では初夏の風に揺れる桜の葉っぱが音を立てて笑っているようだった。








 観光ホテルの駐車場は大型バスでいっぱいになっていた。ここのホテルはバイキングが有名で食事のポイントが高いので有名だった。地元のAクラスの牛ステーキから北海のタラバ蟹まで、食べ放題の1泊2日9800円が売りだった。田舎の旅館にしてはこの観光バスは多すぎる。町の温泉旅館を見渡してもこのホテルだけが一人勝ちのような状態だった。経営努力はどこの世界でも報われるのだ。人気がお客を呼び、お客が宿の品質を上げさせる。相乗効果がうまくいった場合のお手本のようなホテルだった。

 3時間のパートナーチェンジは終わり、夕食の6時までにはあと30分だった。
健三と加奈子はホテルのロビーで、美香と一博を待っていた。約束の時間から15分は遅れている。
「遅いね〜どうしたのかな〜」加奈子が独り言のように言った。
「楽しい話が山とあるんだろ」
「なんだか心配じゃない?」
「そんなことあるもんか・・・」
「うちの女房に限って…とか言うんだよ」
「お前、つまらない想像するなぁ〜。面白いか?」
「うん、面白い!」加奈子はわざと大げさに喜んで言った。
自動ドアが開き二人は帰ってきた。
「ごめ〜〜ん、おそくなっちゃった〜」美香は加奈子に歩み寄り拝む真似をした。
「心配してたよ旦那さんが・・」加奈子はわざと大きな声で言う。
美香が健三の方を見ると「してないしてない」と手のひらを顔の前で左右に振った。
健三は別にどうでもよかったのだ。遅くなった訳も別に知りたくないという感じだった。
 加奈子は一博の方を見ると
「何にもしてないわよね」と確認するように言った。
多分、あの望遠鏡で見た二人が気になっていたのだ少しだけ。
一博は肩をすくめて両手のひらを上に向け、外人のようなポーズをした。
「まっ、いいじゃないか、早く食べに行こうぜ」と言ったのは意外にも健三だった。
「なんだか明るくない?」と美香が不思議そうに加奈子を見た。こちらもなんかあったんだろうか疑ってしまう。
「行こう、行こう。お目当てのバイキングだし、さぁ〜行こう」
加奈子が明るい声で言った。
全員でバイキングのあるレストランに向かった。


 料理は想像以上に豪華だった。十分食べて飲んだ。目の前のテーブルには蟹の殻が山盛りになっていた。
2時間は食べ続けたのにまだ時間は8時だった。
「どうするこれから?」一博が聞いた。
「お風呂に入って、カラオケでも行こうか」加奈子が言った。
「カラオケ?このホテルにあるの」美香が聞いた。
「このホテルを出て5分ぐらいの所のあったよ。さっき見てきた。普通のスナックだけど」加奈子が言う。
「いいんじゃない、だったらお風呂を入って9時にそこでまたみんなで会おう」一博。
「うん、じゃ9時の予定で」美香はそういうと部屋に帰って行った。健三は後についていった。
「あなた知ってるの、そのスナック?」美香が後ろの健三に聞いた。
「ああ、さっき見た」
「ふ〜〜ん」
何がふ〜んなのか、健三は相変わらず二人きりになると愛想がない奴だと思った。

 

 9時ちょうどに今度は全員約束のスナックに集まった。お店は貸し切りだった。他に客が来る様子はなかったからだ。50を過ぎたママが一人でやっていた。どこにでもある田舎のスナックだ。カウンター席が8席、ボックス席が一つ。焼酎やウイスキーがキープ棚に置かれていた。どの瓶にも白いマジックで名前が書いてある。多分、温泉宿泊客の二度と来ないであろうと思われるキープ瓶が埃をかぶっていた。

 入り口の方から一博・美香・加奈子・健三と並んで座った。ちょうど女性陣が真ん中に来るようにだ。
 別にそうしようと決めたわけでもなかったが、自然というかみんなの同意というか、そういうふうに座ることにした。昼間のカップルが隣り合わせだった。
「いらっしゃいませ。そこのお泊りの方ですか?」
ママが聞いてきた。結構、化粧が濃い。
「ハイみんな同級生なんですよ」加奈子が答えた。
「え〜〜、なんだか楽しそうですね。焼酎がいいのかしら」
それからママは簡単に店のシステムを紹介した。そして、みんなで焼酎をキープすることにした。健三がそれしか飲まないと言ったからだ。
「さぁ〜飲もう、飲もう。今夜ははじけるぞ〜」加奈子が言った。
「楽しいわね〜、こんなの初めて。歌えるかな〜。一博が先に歌って、慣れてるでしょ」と美香が言った。

「それじゃ〜、わたくしの十八番サザンから歌います。ど〜ぞよろしく」
と言って、ママに番号を告げた。
「え〜、番号まで覚えてるんだ。さすがのサンちゃんだね」美香がはしゃぐ。
「では歌わせてもらいます・・」一博はイントロの最中から前振りのセリフを言う。どこで覚えたが知らないが司会者のような前振りだ。曲が始まった。歌もうまい。なんでも器用にこなす男だ。
 健三もいい気分だった。飲んで食べて新年会以来の宴会模様だった。あっ、いやクラス会があったばっかりだ。だけどカラオケは久しぶりだった。健三もまんざらカラオケは嫌いではなかった。ただ、一博よりはうまくない。しかし気にしない所が健三のいいところだ。一博に続いて演歌を歌いだした。
「えぇ〜、演歌ぁ〜。健ちゃんらしいと言えば健ちゃんらしい」加奈子は笑った。
次は加奈子が「小指の思い出」を歌う。
「どこでそんな歌覚えたんだぁ〜」酔った健三がちゃちゃを入れる。
「ずいぶん昔の歌だろ。それって幼稚園の頃かぁ〜」
「まぁ、まぁ、あいつは俺と結婚する前にスナックに勤めてたんだ」一博が健三に言った。
「へぇ〜加奈ちゃんが…」美香が驚いた。
「歌、うまいねぇ〜」
一博は美香の肩を触りながら「美香も歌いなよ」と言った。
触れ合う肩先と手が妙に感じる。ついつい意識をしてしまうのは一博と加奈子の仲を聞いたせいであろうか、美香は一博の手が気になった。
 美香はカラオケなんかしばらく来たことがなかった。前回はいつだろう?思い出そうとしても思い出せないくらい昔だった。婦人会?町内会?どっちにしても隣近所の寄り合いの時だったような気がする。
さて、何を歌えるだろうか?
知ってる歌というか歌える歌は昔の歌しか知らない。それさえまともに歌えるだろうか。

 美香が選んだのは「てんとう虫のサンバ」だった。確か結婚式の時歌ったやつだ。我ながら古いと思いながらも楽しく歌った。美香も気持ちよかった。日頃、仕事と暗い家の往復ばかり。今まで旅行もしてなかったのですごく羽を伸ばした気になった。同時にカラオケの歌を見ると知らない歌ばかりで、自分の歳もずいぶん取ったものだと感じた。歌なんか忘れていたような気がする。それに比べて加奈子はどんどんいろんな曲を歌うし、知っている。なんだか悔しい気がした。

 二時間が過ぎようとした頃、普段飲まないお酒を飲み過ぎた美香は気分が悪くなった。はしゃぎ過ぎと酒のせいだろうか。自分が自分でなくなる気がした。
「ちょっと気分が…外に出てくる」と言って、健三の歌の途中に扉を開けて外に出た。健三は相変わらず下手な演歌を歌っていた。
「ちょっと見てくるわ」と言って一博も出て言った。
店の中は頼りない手拍子をするママと、調子に乗って歌う健三、そして加奈子の三人になった。

 健三のカラオケが流れてくる店の外では美香が外の風にあたっていた。曇り空のちょっと涼しい夜、風が木立の葉を揺らしていた。
「大丈夫か」一博は美香の側に来て背中をさすった。
「ちょっとはしゃぎ過ぎたみたい・・・・」
「飲ませすぎたかな」
「ううん、楽しくて自分の抑えが利かないの・・・こんなの久しぶりだから」
「俺も美香と一緒にいれてうれしいよ」
「ねぇ〜一博・・・」美香は一博の方を向いて言った。
「加奈って歌もうまいし魅力的だね・・・」
「・・・・・・」
「なんだかかなわないよね・・・負けそう・・・」
「そんなことないよ・・・・」
一博は美香の手首を握りしめた。


 店の中はなんだか人数が減り白けた雰囲気だった。加奈子はきっと、なんかあるとピンときた。健三はお構いなしに下手な歌を歌ってる。
加奈子は「ちょっと見てくるね」と健三に言った。健三は片手をあげるだけでこの状況がわかっていない。
 加奈子は何かを期待するように店のドアをそっと開けて、すっと外に出た。
暗闇の中、向こうで二人の黒い影が見えた。きっと美香と一博だ。
加奈子は腰をかがめ、物陰から覗き込むように二人を見た。

 
 一博は美香の手首を取り、自分の方に美香の手を回させると顔を美香に近づけた。
ちょっとボォ〜としてた美香は「あっ」と言うと、一博の唇が自分の唇に触れるのが分かった。
「だめっ」美香は唇を離そうとしたが、熱い電流のような気の流れが全身に走り力が抜けた。
一博の唇は柔らかく久しぶりの感触だった。また「あっ」とため息に似た切ない吐息が漏れた。
 一博は美香を抱きしめるようにキスをした。級友の妻という背徳感がまた自分自身を興奮させる。衝動的なキスほど快感はほかにない。一博も熱い電流に身を任せた。

 覗いていた加奈子も「あっ」と小さな声を出した。自分で仕組んだ筈なのに実際目の前で夫のキスを見ると興奮した。それも知ってる美香と。
嫉妬の気持ちと未知の世界に引きずり込まれたような、呆然と見送るしかない無力感に異常な興奮を覚えた。
 ほんの三秒五秒だろうが雷は想像以上に、加奈子の身を貫いた。心臓が止まるかと思った。それもまた盗み見をしているせいだったからかもしれない。
健三の下手なカラオケが小さく流れているのが空しかった。加奈子はすぐさま引き返した。

 店の中はミラーボールが回り、画面では演歌に合わせた着物の女優が涙を流していた。ママは何を勘違いしたのかおしぼりを持ってきた。健三は構わず続きを歌っていた。加奈子は健三の頬を撫でたくなった。「私は悪い女かしら…」演歌の曲が加奈子のまわりにまとわりついた。

 健三が歌い終わる頃、店の扉が再度開き二人が入ってきた。抱えるようにやってきた一博はママに「水を」と頼んだ。加奈子は知らないふりをしていた。先ほどの事を見なかったようにニコニコしていた。
そして「大丈夫ぅ〜」となるべく普通の声を出すように声を上げた。
自分の嘘に心臓が高鳴った。
「なんだか気分が悪いそうだ・・みんな帰ろうか、これでお開きにしよう」
と一博が言った。
健三は妻の心配より「まだ歌えるのに」とまた彼も酔っていた。
「はい、はい、じゃ、お開きね、さぁ〜帰ろ帰ろ」と加奈子は明るく言った。
 
 計算を済まし、酔った有田の二人に肩を貸しながらホテルへ帰った。加奈子が美香に肩を貸した。一博は酔ってふらふら歩く健三の後からついて歩いた。
 四人はホテルのそれぞれの夫婦の部屋にたどり着いた。
「じゃ〜おやすみ〜」加奈子が言う。美香に手を振ると美香も黙って手を振った。
健三は「今日は楽しかったなぁ〜」と大声でドアの前で言っている。
「わかった、わかった、おやすみ〜」と言って一博は健三を押し込み、自分の部屋に戻った。


 健三はすでに敷いてある布団に倒れ込むように寝ると美香に何も言わず寝てしまった。頭と足が逆さまだった。美香は枕を反対にして、健三の頭の下に枕を入れてあげた。そして自分の枕も反対に持ち寄り、結局、最初に敷いてあった反対の向きで寝始めた。健三はすぐに寝息といびきをかき始めた。
 美香は一博とのキスを思い出し眠れなかった。そして健三に背を向けて横になった。先ほどの一博の唇の暖かさと柔らかさが心の臓にチクチクした。


 加奈子は何も言わず敷かれている布団に横になった。一博は「今日は楽しかったなぁ〜」と加奈子に言うわけでもなく独り言のように言いながら電気を消し、加奈子の横に敷かれている布団に横になった。
 お互い背を向けたような形になり、そういえばいつ以来だろうと二人ともぼんやり思いだした。二人そろって寝ることは最近なかった。
加奈子は眼を開けていた。そして先ほどの光景を何度も開いた目で繰り返し見ていた。加奈子もまた心の臓がチクチク痛んだ。
 一博は美香の唇を思い出していた。柔らかい唇に自分の寂しさが溶けていきそうな感覚で幸福だった。
加奈子とはまた別な意味で眠れなかった。




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