第1章 新月・・・花火工場がある町
新月は朔(さく)、月立ちとも呼ばれ、「ついたち」と転じひと月の始まりにあたります。同じく物語の始まりも暗い夜空に月のない日からプロローグとなり幕を開けることになります。
高田町は田園と里山が広がるのどかな田舎町で花火工場がたくさんある町だ。たくさんと言っても地方の田舎町にしてはであり、狭い業界の中では一応全国には知られている。そもそも花火は危険物だから都会の真ん中で作るわけにはいかない。言い方は悪いが「爆発しても被害が及ばない田舎」に花火工場は点在している。 有田健三が働く工場は竹林で囲まれた、小高い山の入り口に門を構えていた。国道から離れた目立たぬこの場所は、夜空を華やかに彩る花火が作られてるとは思えないほどひっそりしている場所だった。 健三はもともとは銀行員だった。無口で感情を表に出さない健三は、男らしいといえば男らしいのだが、花火師という一風変わった職業に鞍替えしたのは夜空に輝く大輪の花のような花火に心奪われたからだ。乙女のように心が舞い上がったからだ。実際、いかつい雰囲気に似合わず庭の花は全部健三が手入れをしていた。美しい物を愛でる気持ちを持つ男は、殺伐とした金勘定のコンクリートの箱の中で過ごす一日に耐えられなかったのであろう。妻の美香の反対も押し切り、あっさり転職してしまった。 一度決めたら後には引かないタイプだから、そういう頑固なところは職人肌に合ってるのかもしれない。
かれこれ花火師として今の親方の所に弟子入りして15年が過ぎようとしていた。それでもまだこの世界では中堅どころだ。俗に「玉貼り3年、星かけ5年」といわれる熟練の技術が要求される仕事であり、年数がものをいう職人の世界である。それに家族経営のような花火工場では親方がいてベテランがいて、なかなか入れ替わりのない世界であるのでいつまで経ってもベテラン職人とはみなされないのである。 花火師として経験を積み熟練と呼ばれやっと花火大会で目を引く大玉をつくる環境はまだまだ先のことであるのだ。悪くも良くも健三のような職人肌でなければ勤まらない世界なのである。 綺麗なものにはそれを支える裏方が必要なのは、何も花火に限ったことではないが無駄口をたたかない男が必要なのだ。人生においても同じかもしれない。昭和・大正・明治・江戸と時代を遡る様にしっかり伝統を引き継いだ男たちがいるからこそ、夏の夜の素晴らしい花火を鑑賞できるのである。 しかし、妻の美香にとってはそれが気に食わなかった。高給取りの銀行員と結婚したつもりが、薄給の花火弟子となり、銀行員の奥様から明日をも知れない堅気崩れの妻になってしまったのだ。事情を知らない美香にとっては花火師は縁日を飾る屋台のテキ屋と同じようなものだった。 さんざん離婚すると言って脅しても健三は意思を曲げなかった。 小学生の子供は事情も知らず「花火だ、花火だ」と言って遊びで作った打ち上げ花火に喜ぶ始末だから、美香の怒りは半減された形になり、これから教育費もいるというのに何をとち狂ってしまったんだろと本気で悩んだ。 案の定一年もすると貯金も残り少なくなり、亭主の夢のために近くの食品工場にパートとして出なければならなくなった。銀行員の奥様からパート主婦に成り下がった感がして、しばらくは健三と話をするのさえ嫌で頭に来ていた時期があった。 思いもかけない人生を歩き出したのは健三ではなく、連れ添った美香のほうだったかもしれない。
働き出せば疲れる。それでも家事の一切は美香の役割だ。ついつい大きな声も出してしまう。 何度こんなはずじゃ・・と思ったことか。しかし、それでも健三が愛想のいい男ならいいのだけれど、ぶっきらぼうの無口で堅物風の男に「いたわる」という愛情表現は望むべくもなかった。次第に愛が消えてしまうのは当然だった。 いつしかキスはしなくなった。夜の交わりもなくなってしまった。美香自身が望んでいるのか健三がそう望んでいるのか、もうどっちのせいでも関係がなくなるほど生活の中から消えていた。ただ、お互い働いて生活に追われ子供の成長に追われ、日々はあっという間に過ぎて行ったのが事実だ。 「旦那さんを愛してますか」と聞かれたら、あの時花火師の妻になった時から捨ててきたと即座に答えるだろう。 健三の夢は美香にとっては悪夢のようなものでしかなかった。
それでも今年の春に最後の二男が大学を卒業し家を出て行ったから普通の生活なんだろう。「生活」という人生を歩んできただけだと振り返れば自分が惨めになると美香は思い、できるだけ顔に出さないようにしてきた。健三は毎日七時半に家を出て、自転車で花火工場に行く。それだけでもましだと思わないとやり切れない気がした。世の中にはもっと悪い夫だっている。美香の心の中には夫が作る鮮やかな花火はただの火薬の玉でしかなく、何万人もの心を感動させる夜空の花火は美香にとっては恨みの玉だった。
健三と美香は隣町の同じ中学校だった。そして同級生だった。美香は東京の短大を出て、健三は地元の割と有名な大学に合格し銀行員になった。 付き合いだしたのは健三の得意先の会社に美香が働いていたからだ。同級生だったからなのか二人の関係は急速に仲良くなった。学生時代はただのクラスメイトだったのだが大人になってからはホテルに入り込む関係になり、無口だけど男らしくて仕事ができる健三のイメージは美香にとって、いつしか結婚への対象の男となった。 健三もクラスの中で一番美人だった美香に言い寄られて悪い気はしなかった。二人の結婚に反対も障害もなかった。 地元の結婚式では大勢のクラスメイトが集まった。盛大な結婚式は田舎のお決まりだ。しかし、今ではその結婚式の写真でさえ何処になおし込んでしまったかわからない。いや捨ててしまったのかもしれない、あの大ゲンカの時に・・・。とにかく派手な結婚式の写真は二人にとってもう必要がない物だった。
誰でも結婚した当時は愛がある。しかし、あの時の愛は確実に色褪せやせ細り、どこかに消え失せ結婚式の写真と同様、美香と健三にとってただの記録でしかなかった。その記録でさえ思い出そうとすることは今はもうない。愛は生活に取って代わったのである。愛はなくても一緒に生活できる。 こんな思考は人生を投げやりに生きてるのだろうか、美香は時々、恋愛ドラマを見てはため息をつき、振り払うように欝な気持ちを消した。そして健三と同じく自転車に乗り、近くの食品工場に働きに出るのであった。田園地帯のごく普通の家庭。それが二人の人生だった。
桜が咲く頃、有田家に二通の同窓会の招待状が来た。中学の同窓会だった。クラスメイトの健三と美香はもちろん一緒に出ることになる。時期と場所は、五月の連休に今では取り壊されてなくなった中学校がある隣町の老舗の旅館での開催だった。 「どうする?」美香は、夏に向けて忙しい健三の仕事を気遣い聞いてみた。 「連休か・・連休の何日だ」仕事から帰り、風呂を浴びたばかりの健三がぶっきらぼうに聞く。 「29日。連休の始まりの日みたい」 美香は別に一緒に行かなくてもいいんだけどみたいな気持ちが口に言えない本音だった。できるなら仕事でいてほしい・・。 「あ〜、その日だったら空いてる。休みだ」 「でも、人が集まるとこは苦手なんでしょ?行くの?」 出来れば健三が行かないと言って欲しいと美香は思った。 「久しぶりだからな〜、何年振りだっけ?」 「35年ぶり」 「え〜〜、あれから35年か・・そんなになったんだ・・・・・行こうか」 健三の答えは美香をがっかりさせた。 たぶん、みんなからまだ夫婦なんだと冷やかされるはずだ。同級生ではもう何人も離婚していた。気が進まないのは仲がいい夫婦でなく仮面夫婦だということで負い目を感じるからなのだ。 「珍しいわね、いいの?冷やかされるわよ。私たちがまだ別れてないって・・」 「別れるわけないだろ、なんか、まずいんか?」 やっぱりあなたはこの状況を分かっていないと美香は思った。 所詮、男と女の考えは根本的に違うのだろう。同窓会は幸せ比べなのに、今、平凡であるがこれが幸せだと健三は思ってるのだろうか。いっそクラスメイトでなければ思いっきり女友達に愚痴を言いたいのに。美香は堅物鈍感な自分の夫に対して苛立ちを覚えた。
「じゃ、一緒に行くわけね」 「あたりまえだろ」 何が当たり前なのだろ、夫の当たり前は私の当たり前じゃないのにと美香は健三の「行く」の返事にがっかりしながら毒づいた。 子供が巣立ち、夫婦二人きりの田舎の小さい家は広くなるどころか、窮屈すぎてますます狭いと感じる美香だった。
同窓会の日は初夏のようで4月にしては汗ばむほどだった。 大きな川のほとりにあるその旅館は古くからある。たぶん健三達が中学生の時からあった建物だろう。 田舎町にしては構えが大きく、大きな団体様専用という料理旅館だった。実際、昔からこのそばを車で通るとき客室に泊り客の明かりが見えてたためしは記憶ではなかった。きっと同窓会やら親睦会、老人会と「会」がつくものなら何でも引き受けますの地元では便利な代物だろう。 玄関や大広間は決して綺麗とは言えなく、むしろ古い汚いと言わなければならない。大手のチェーン店の旅館かホテルが来れば真っ先に無くなりそうな田舎の旅館だが、こんな片田舎の人口3万人にも満たない町には大手の資本が入って来る筈もなかった。だからこそこの旅館は生きながらえてるんだろう。そして、いくつもの同窓会をこなしていく。町にとっては古くても貴重で歴史のある便利な旅館に違いなかった。
玄関を入ると長机に白いクロスをかけただけの受付が見えた。健三と美香が二人そろって近寄り歩いていくと受付を取り囲んでいた数人が振り向き、笑顔で迎えてくれた。 「おぉ〜 有田、ひさしぶり〜〜」 真っ先に声をかけてきたのは、昔の面影を少し残した井田だった。 彼は今回の幹事を進んでやっていた。井田一博は町の一番大きな写真館の2代目の息子だ。商売人の子らしく、昔から立ち回りがうまかった。口も達者、笑顔もすぐ出る人気者でクラスでは級長をやっていた。健三が勝てるのは成績ぐらいしかなかったが、井田だって常にクラスの中の5本の指に入っていた。 悔しいかな健三にとっては、最大のライバルでもあったわけだ。 しかし嫌いではなかった。良きライバルは常に自分に向上心を与えてくれる。だから、いつも二人でなんでも競い合っていた。そしてそれは他人から見れば仲のいい友達と見えるわけだ。
健三が井田に対して優越感に浸れたのは健三の妻である美香と結婚式を挙げた時だ。というのは井田が美香が好きだったことを知っていたからだ。中学生の時だから深い関係ではない、ただ初恋のような想いは井田から聞いて知っていた。 好きとか嫌いは大人のように重い意味を持つキーワードではなかった。ライバルであった井田の好きな彼女を独占するというのは健三にとって、多少、優越感だったのだ。 井田も結婚式には来てくれていた。さすがに昔の初恋の相手だからと落ち込む様子はなかったろうけど内心どこかで悔しがってただろう。男はそんなもんだ。好きになった女はみんな自分のものにしたい。たとえ中学生の何も知らない幼い頃の記憶であろうとも、持って行かれるのは気持ちよくない。しかしそれもさほど嫉妬に代わるわけでもなく、なんとなく悔しいだけの話だ。健三は唯一それだけが井田に勝った瞬間だったことを遠い記憶に思い出した。
肩を抱き合い久しぶりに会う井田は悔しいかな、いまだにかっこよかった。どこか垢抜けて、よくしゃべる口先は健三にとって真似ができないものだった。何か香水でもつけているのかいい匂いがした。健三にとって匂いを身につけるのは整髪料ぐらいだ。花火の火薬は身に染みるほどついているが、それは自慢できるものじゃない。健三にとっては香水は別世界の匂いだった。 「どう、最近?」 井田はニコニコしながら聞いてくる。 きっと誰にでもやっているんだろうが田舎の代議士のような胡散臭い感じがした。 「花火のことか?」 健三は言った後で、それ以外何を聞きたいんだと余計な事に気をまわしている自分に笑ってしまった。まさか美香のことを聞いてるわけでもないのに…。 「だめだ最近は。どこも不況でお金をかけなくなってきている。お前んとこもだろ?」 最近はデジタルカメラの普及できっと写真なんかプリントしにくる奴はいないだろうという読みがあった健三は負けん気で言ったつもりだった。 「いや〜〜忙しくてな。結婚式やら記念日やら新しいスタジオが大活躍だ。今、スタジオのチェーン店を広げてる所だ」 井田はやはり世の中の立ち回りもうまかった。 「まっ、なんだな、男は金より愛が必要だ」 「愛?」 もう何年も忘れている愛が今必要なのか?金持ちは余裕がある。健三は思いもよらぬ単語に苦笑いをするしかなかった。
「ところで、美香とはうまくやってんのか?」覗き込むように見る井田がいやらしい。 「ああ、平、平、凡、凡にやっているよ」 「そうか、よかったじゃないか」 何が良いのか本心なのか、まだ結婚したことを根に持っているのか・・いや根に持っているのは自分かもしれない・・すっかり井田のペースに巻き込まれている健三は自分が嫌になった。
美香は健三の肩に手を回し再会を分かち合う井田を見て、少し心の中がきゅんとしていた。井田が自分を好きだったことは知っていた。自分が井田の初恋の相手であることも知っていた。健三には言ってないがラブレターをもらったこともあるのだ。ただ、あの頃は恥ずかしくて返事ができなかった。実は美香も井田のことは本当は好きだったのだ。今回の同窓会の幹事が井田ということで何かを期待している自分がいた。目の前の井田は、そう悪く変わらないでよかったと美香は思った。
井田がこちらを向いて手を小さく降る。昔から好きだったという合図なのか、ただ単に挨拶をしているだけなのか井田の笑顔を見ると、あの切ない甘酸っぱい時代に一瞬だが戻った。 「よっ、美香」 中学時代はみんな名前を呼び捨てで呼び合ってた。ただ、それだけなのに美香は夫・健三以外から呼び捨てにされるのに新鮮な驚きが湧き上がった。男から呼び捨てにされるのはどこか体の一部を許した関係のようだったからだ。考え過ぎかもしれないが久しぶりに男性を意識したのは確かだった。 「久しぶりね一博」 美香もまた夫以外を下の名前で呼び捨てにするのは久しぶりだった。なるべく男を意識してないように、悟られないように、そしてなにより健三に気づかれないように返事をした。健三が気付く筈はないが自分が意識した分なんとなく、変化に気が付くのかもと心配した。
井田は健三の脇を抜けると、美香に近寄り軽く抱擁した。井田にとってはただの挨拶かもしれないが有田夫妻にとっては日常からかけ離れた光景だったので、少し二人の間にさざ波が立った。 「久しぶり〜」 一博は軽い抱擁を解くと美香の肩をポンポンと叩いた。一博にとっても実は美香に触れることはうれしい目的だった。あきらかにやましい心は少し持っていた。結婚式の借りを少しでも返せたかもしれないと思ったかはわからないが、健三に試合開始のパンチを最初に浴びせたのは一博の方だった。 健三はそこまで深い考えは持たない・・いや持てない性格だ。ただ、単に懐かしく一博が美香を抱いてるだけの事だろうと、ただ見ていた。それが健三だった。
「ねぇ〜一博太ったわね」 「そうか〜貫禄が出てきたと言ってくれよ」 「なんだかお金持ちそうでいやらしい・・悪いことしてない?」 「お金はあるけど、別に健全な夫だ。何も悪いことはしてやしね〜よ」 「夫?結婚したの?」 「ああ、10年前、2度目の結婚」 「2度目〜〜?一度は離婚したのは知ってるけど、またしたの〜?」 「ああ、恥ずかしながら・・」 「へぇ〜〜、どんな人?」 「君らが知ってる人」 「えぇ〜〜」美香は大きな声を上げて本当に驚いた声を出した。 その声につられて近寄ってきた健三は「誰なんだぁ〜」と笑いながら聞いた。 「ちょっと待ってろよ」と言うと、大広間の方に駈け出して行った。 美香と健三は顔を見合わせて「誰なんだろね、まさか同級生とか・・」と健三が言った。 「待ってろって言って、行ったからもしかして同級生?」 二人でどんな彼女が出てくるのか、興味津々だった。 受付でその間、会費の7000円を払い名前を書いた。
一博が小さい女性を連れて戻ってきた。誰なんだろ・・・ 「おぉ〜い、有田、紹介する。旧姓 前下さん、今は井田加奈子だ」 「えっ!」健三は思わず声を上げた。よりによって加奈子とは・・・。美香はニコニコしている。 「こんにちは、久しぶり〜」照れたような加奈子は二人に向かって挨拶した。 「えぇ〜加奈ちゃん、井田君の奥さんなの〜?」 美香は信じられないという顔で、だけどどこか笑っていた。不思議と嫉妬はなかった。初恋の相手を取られたというのに余裕があった。それは、美香がクラスの中であんまり相手をしてなかった、どちらかと云えばもてない組の加奈子だったからだ。 あの加奈ちゃんが一博となんて信じられない方が先に立っていた。人生は驚きだ。
健三は大人になった加奈子を見ていた。そして中学の時の記憶をたどる。確か卒業まじかの放課後、加奈子から告白されたのを思い出したのだ。 別々の高校進学が決まっていた二人は加奈子のしつこいお願いに放課後、誰もいなくなった教室で会うことにした。加奈子からの「好きだ」の告白を邪険に扱い気まずい夕方を過ごしたことを思い出した。あの加奈子か・・・。健三は35年ぶりに見る加奈子を観察した。子供の顔からしっかり大人の顔に変身していた。49歳には見えないいい女に成長していた。お金があるからなのか一博同様どこか昔より垢抜けていた。 「そんなにじろじろ見ないで、恥ずかしいじゃない。もうおばさんなんだから・・」 「そうだよ、有田、あんまり見るなよ不細工な奴だから」 「まぁ、不細工だなんて、よく奥さんに向かって言えますね」 加奈子は笑いながら一博を手で押した。 「加奈ちゃん、綺麗になったね〜」美香は少しのお世辞を含めて言った。 「何よ、美香の方が昔から綺麗に決まってんじゃん。同じおばさんよ」 同じおばさん…同じおばさん…私の方が綺麗に決まってるでしょと美香は大人げなく反応した。
「さあさあ、中に入ろう。みんな誰だかわからないから今日は名札がいるんだ」 そういうと一博は二人にプラスチックに安全ピンが付いた名前札を渡した。 美香の名前は「有田美香」の下に旧姓が書いてあった。「山崎」これが美香の中学時代の苗字だった。「山崎美香」はクラスで一番もてていた。だから大広間に入ると一斉に男たちの顔が美香の方に向いた。 しばらく忘れていた「女」という意識がくすぐられた。どこからか拍手が上がる。何の拍手なのか意味があるのか、そういうことはどうでもいいが美香が大広間に足を入れた途端、華やぐ雰囲気に変わった。食品工場の片隅で働くパートの主婦が一夜にしてスターになったような気分だ。美香はしばらくぶりに忘れていた満面の笑顔をみんなに向けた。健三でさえ見せたことがない笑顔だ。いや見せていたのかもしれない付き合ってた頃は。 健三はクラスの中ではそんなに人気者ではなかった。勉強ができるだけのただの男だった。だから、今はお姫様の横につくおまけみたいなものだった。「なんであいつと・・」やっかみの言葉を誰かが言ってたかもしれない。しかし、武骨な健三はそんな空気も読めない。だからこそ良かったかもしれないのだ。マイペースに知り合いを見つけては挨拶をしていた。
大広間では足の低い丸い中華テーブルがあり車座に六人が座った。畳の上にその丸いテーブルは12卓並べられていた。70人程の出席だ。全学年120人程だから半分以上が出席していた。 幹事の井田が挨拶をする。相変わらず人を笑わせ口がうまい。いずれ市会議員でもなるのではないかと思わせるような名司会ぶりだった。そしてその後に元担任が挨拶する。全員が70歳を過ぎて、みんなの将来を先見せしてるかのようだった。酒が回らないうちに記念撮影を撮り、その記念写真は同窓会の帰りに渡してもらえるということだった。なんでも井田の写真館の若いスタッフがついてきていた。デジタルカメラでは待つことなく今の時間が切り取られる。時代はあの頃より確実に進歩していた。
「おぉ〜い健三」 酒が入った一博はもう遠慮いらないのか、昔のように下の名前で呼び始めた。 「健三、花火っていくらぐらいするんだ」 健三の花火師というのはクラス全員に意外だったらしい。健三自身、また妻である美香にとっても健三が花火師になったことは意外の一番だった。 「小さいのは3000円位で、大きいのになると、ん百万円がある」 ぶっきらぼうな言い方だ。 「同窓会で100発あげるといくらになるんだ」 「種類にもよるが50万から100万だ」 「ひえ〜高いな〜、ただの火薬と紙だろ」 健三はカチンときた。ただの火薬と紙に命を懸けてるからだ。正真正銘死んだ同業者はたくさんいる。 だが、健三は言い返さない。気分が悪い時は反対を向いて喋らなくなるだけだ。だから知らない人間が見たら愛想がない男となる。もう何を言っても喋らないのだ。だから必然的と健三の周りには誰もいなくなった。時々それを見かねた、健三をよく知らない同級生が酒を注ぎに来た。一言二言交わし,またお決まりのように去っていく。それでも健三はそれで普通と思ってるのだから空気が読めない男だ。
美香は健三から離れたテーブルで男たちからちやほやされていた。嬌声の上がるテーブルは静かな健三のテーブルとは大違いだった。美香は主役だった。 すっかり乗せられ笑うのだが静かな健三のテーブルが気になった。 「ちょっとごめんね」と言って、夫である健三を気にしたかのように健三の傍を伺うのだが、家にいるぶっきらぼうの健三だとわかるとさっさと傍を離れ、また自分のテーブルに戻って行った。美香のテーブルには一博も来ていた。だが、健三にとって焼きもちを焼くほどでもなかった。いや、焼きもち自体の言葉を保有してないのかもしれない。健三はみんなを見ながら手酌で飲んでいた。
加奈子はそんな健三をじっと見ていた。みんなの関心が健三に行かないことを確認して、加奈子は健三のテーブルに近寄った。 「どう、飲んでる?」 「ああ・・」 「うるさいの嫌いでしょ」 「いや、そうでもないさ・・懐かしい」 「健ちゃんのその高いところから見下ろすような所、昔とおんなじだね」 「・・・・」 「あたし変わった?」 「・・・井田の2回目の奥さんだってな・・」 「そうよ・・嫌いだけど」 「・・?」健三は加奈子の顔を見た。昔の面影は目尻にあるくらいだ。その目尻でさえ皺が覆いかぶさってきている。肌艶はいいらしい。自分ちの美香と比べるほど妻を見たこともないが健康そうな顔だと思った。 「何よ、じろじろ見ないでよ。さっきからデリカシーのない男ね」 「デリカシー?はっはっは・・花火作りはデリケートなんだけど、付き合いは苦手だ」 健三はここに来て初めて笑った。 「お前の旦那、人気者だな。商売うまいだろ」 「外面だけよ。家の中じゃ王様気取りよ。あんたんとこの奥さんも人気者じゃない」 「ああ、普段はブスッ〜と暗い顔してんだけどな・・・外面がいいんだろ」 二人でクックックッと笑った。 「健ちゃんお酒強いの?注いであげようか」 「いいよ、ばばぁのお酌より手酌がいい」 「なによ、ばばぁって、じじぃのくせに・・・」 「俺たちいくつだっけ・・」笑いながら健三は加奈子の顔を見た。 「まだ49歳よ」 「49歳か・・・ずいぶん歳取ったな、あれから」 あれからとはどこからのことなんだろう?あの放課後からなのだろうか?加奈子は一瞬昔を思い出した。 健三は喋り過ぎだ・・と自戒を込めて、それ以後何も言わなくなった。 黙って加奈子は空になった健三のおちょこに酒を注いだ。
一博は美香と夢中で喋っていた。ほかに男が5人女が二人、9人のテーブルでは昔の話に花が咲いていた。ふと、首を持ち上げ見渡すと加奈子が健三と話してるのが見えた。4人夫婦で話すのも悪くないと思った一博は美香を誘って健三のところへ行こうと言い出した。美香は顔の前で手を振り、遠慮するみたいな顔をした。一博は笑って促し、いやそうな美香の腰をあげさせた。 「ほら手を貸すよ」と差し出した博一の手は暖かった。少し汗ばんだ初めて握る男の手に美香は気色ばんだ。
「何を話してるのかなお二人さんは?」おどけて言う一博は空気作りがうまい。 「ばばぁとじじぃの老後のことだよ・・」 健三の冗談に美香は驚いた。普段こんな冗談は聞いたこともない。 よほど機嫌がいいのか、これが普段の健三なのか…いやいやそんなはずはない。美香は健三の横に座った。加奈子のおかげでまあ淋しい思いはしてないようだ。 普段はお酌なんかしない美香が健三に酒を注いだ。 「ほら、言っただろ。外面がいいんだ・・・」 健三は上機嫌なのか皮肉の冗談も言えるようになっていた。クックックと笑う健三と加奈子に美香と一博は顔を見合わせた。 「なんだかお二人さん、仲がいいんじゃないの」一博が言う。 「そうそう、なんだか怪しいわね」心にもないことを美香が言う。 「この人ね普段から仏頂面してるから、意外とこんな場所はいいのかもね」続けて言った。 「あのさ、今思いついたんだけどよかったら4人で旅行に行かないか」 もちろん一博はよこしまな考えが閃いたわけだ。 「なんだか、楽しくなりそうじゃないかな」すらすらと言葉が出てくる。 美香もピンと来たのか 「おもしろそうね〜最近旅行なんて行った事ないのよ」 浮気願望じゃないが4人で行けば一博とまた楽しい時間が過ごせると思ったのだ。 加奈子は二人が行きたがっているのがすぐわかった。一博の女癖が悪いのは今に始まったことじゃない。きっと美香をどうにかするつもりなんだと、こちらもピンときた。加奈子はしゃくだが「そのアイデアいいわね〜。私も旅行したかったんだ」と見えない舌を出していった。 加奈子は健三が好きだった。今はもう歳を重ね、お互い別人のようだが健三の顔を見ていると遠い昔に戻ったようで若返ったような気がするのだ。同窓生効果というのか、昔の時間が蘇りあの頃に近づけるような気がするようだった。 加奈子はもう一度告白するのも面白いかもと、勝手に旅行の夢を先まで見立てた。 3人のそれぞれの思惑は合致したのだが、健三は「面倒くさい」「仕事が忙しい」と断った。
何より健三にはよこしまなことは何一つないし、だいたい一博の魂胆は読めていた。美香と遊びたいということなんだろう・・・こんな外面だけがいい女の何処がいいのか・・健三は自身が美香に対しここまで覚めていたのかと思うと改めてはっとした。いつの間にか自分の女から家事手伝いのような女になってしまったんだろう。そんな美香を思うと少し済まないと思う気持ちが頭をもたげた。 心が緩んだ拍子に美香の久しぶりの笑顔を見たもんだから、健三はつい・・・ 「わかった」と言ってしまった。 それから3人は予定を勝手に決めていた。 連休が終わったすぐ次の日曜日に行こうと言い出した。 花火製造の工場は忙しいがまだ日曜は休めるほど余裕があった。6月からは休みもないほど忙しくなるだろう。特に7月8月9月は花火大会の盛りで睡眠時間も3時間ほどになる。その前の骨休みもいいかと、また、つい・・・了解してしまった。 健三は今日は酔ってるのかもしれないと思った。
同窓会はまた一博のめちゃくちゃなスピーチで笑いと共に閉会した。帰りにはしっかり井田写真館の袋の中に入れられた記念写真を持たされることになった。写真の中の健三はただ一人笑ってなかった。 怒ったような気のないような顔をしている。あの時気が付かなかったが横に加奈子が一緒に写っていた。二人並んだ顔を見ると確かに35年が過ぎたんだと納得した。放課後の告白を思い出そうとしたがもう思い出せなかった。酒のせいだろうか、それとも今の加奈子の顔が被さってくるせいだろうか健三は美香が呼んだタクシーの後部座席のシートに深々と酔った体を預けた。そして美香は窓ガラスを開け一博に手を振っていた。健三にはどうでもよかった。別に嫉妬はなかった。 それが35年ぶりの同窓会だった。そして4人での次回の旅行の約束が残っていた。
第2章 三日月・・・それぞれの秘密
「三日月は日の出後2時間遅れて月の出となり、明るい太陽に隠れて見えづらく、日没後2時間程度が三日月にとって空を彩る主役になります。隠れて顔を出す三日月の表情は隠し事をした女のように綺麗な怖さがあります」
「今日は遅くなるから」美香は定刻7時半に出ていく健三に声をかけた。 「ああ」理由も聞かないで靴を履きバタンとドアを閉めると自転車に乗って健三は仕事に出かけた。 まだ「ああ」と返事をしただけでもましかもしれない。ある時は何も言わず出ていくこともあるからだ。わかっているのか、了解したのか美香は心配だ。 遅くなる理由はちょっと離れた街まで出かけ服を買いたかったからだ。悔しいが多分、加奈子の服には値段はかなわないだろうけど、ちょっとでもましな服を明日の旅行の為に身につけたかったのだ。電車で1時間も行けば結構大きな街に出る。しかし、帰りのバスは1時間に1本しかなく、どう考えても夜の7時を過ぎてしまいそうだった。健三はいつも7時頃に帰ってくる。それから夕飯を作るとなればずいぶん待たせることになる。だから、遅れてもいいように美香は健三のために朝から夕飯の用意をして出かけることにした。
愛情を探そうとしても見つからないが、だが長年連れ添ってきて食事を作る習慣だけは抜け切れない。多分、食事を作らない時が自分たちの終わりの時だろうと美香は気に食わない時に思うのだが、しかし、また作る。嫌だと思いながらまた作る。作る意味も分からないまま作る。これが愛情なら嘘でしかない。嫌いでやっているのだから・・・。
専門店街の服はパート主婦の金銭感覚とはかなりずれていた。仕方なくディスカウントスーパーの小奇麗な婦人服売り場で美香は妥協した。下着売り場で足を止める。もしかしたら・・一博の顔が浮かび派手な下着を手に取るのだが、まさか・・と思い直し、手に取った下着を元に戻した。何かを期待してるのだろうか・・・。 美香は自分より不細工な加奈子の顔を思い出し一博と仲良くしている場面を想像した。あの二人はどんな生活をしてるんだろ。うちより愛情があふれる生活を送ってるんだろうか。隣の芝生は青く見える。美香は軽い嫉妬を覚えながら、先ほど手に取った派手な下着を買い物かごに入れた。何を本当に期待しているんだろう…一博の軽い口先が上手に自分をだましてほしいと美香は思った。
夕方の電車は混んでいた。都市から田舎に帰るサラリーマンや学生は1時間の通勤通学の時間を無駄だと思わないのだろうか。1日往復2時間。一か月で50時間。1年で600時間だ。数字の上では凄いけど、その時間が余ったからと云って何も予定が立たないのが主婦だった。パートの働く時間をあと600時間増やしたいとは思わない。単なる数字の無駄に自分の無駄を重ね合わせるだけだった。
美香は予想通り夜の7時少し遅れて帰宅した。健三はまだ帰ってなかった。残業だろうか。 美香は朝作った自分の分の食事をチンすると一人でテーブルで食べた。子供がいなくなってずっと一人で食べてるような気がする。実際は健三と二人一緒に食べているのだが言葉を交わさないので一人で食べている気がするのだ。ひどい時は寝る時まで、いや1日中言葉を交わさない日もあった。健三がもともと喋る人間でないから仕方がない所もあるが、さすがに三日も続けると淋しさが増した。だから。ようやく美香も重い口を開く。いつから私はこんな無口な女になってしまったんだろう、美香は自分のことなのに他人事のように考え、ただボォ〜とテレビをまた見るのであった。 その日、健三は10時くらいに帰宅した。一人で食事をチンしてシャワーを浴び、テレビの前に座った。美香は明日のことがあるので確認した。 「明日の旅行なんだけど、わかっているわよね」 「ああ」 「下着とかは用意したの?」 「いいや」案の定の答えだった。美香はそれを見越してすでに用意は済ませていた。 「服は何を着ていくの?」 「そうだな・・・」それ以後、返事が続かない。 「あなたの寝室に用意してるから、それを着て行ってね」 「ああ」 「わかった?」 「ああ」 本当に行く気があるのだろうか、仕方なくの返事はわかるけど気のない返事に美香は心配になった。 テレビを見てる健三を覗くと半分寝てるみたいだ。とにかく明日起こして車に乗せれば付いて来るだろう。いや付いて来てもらわなければ私は遊べないのだ。 ため息交じりに健三がいる居間のドアを美香は閉めた。テレビの天気予報は晴れのち曇りと言っていた。自分の部屋に戻るとベッドに横になった。静かな静かな家の中で少しだけテレビの音が聞こえた。
翌日の約束は井田写真店の裏の駐車場だった。時間は10時を過ぎていた。 同窓会で約束した4人での旅行。親睦旅行というにはそれぞれの秘密が渦巻いていた。健三を除いて。 一博は車庫からベンツを引き出すと、助手席に加奈子を乗せ、後ろのシートには有田夫妻を乗せた。 運転はずっと一博が受け持つそうだ。手持ち無沙汰で喋らない健三は黙って3人の昔の思い出話を聞くしかなかった。目的地の海の側の城下町までは3時間のドライブだった。途中見える街の景色は3人にはどうでもいいらしく話の話題を次から次に変えて大笑いしていた。 やはり、中心は一博と美香の大声だった。健三は美香のこれだけ笑う声をしばらく聞いたことがなかった。連れてきて正解だったかなと自分の手柄のように空気の読めない男は考えた。 振り向いて話す加奈子はしきりに健三に話を振るが、まともな返事は聞かれなかった。ずれた朴訥な返事がまた笑いを誘うのだが、健三にはそれさえ読み取ることができなかった。まぁ、端から見たらこれで4人のバランスは取れているのかもしれない。 予約していたホテルはこの近辺でも大きな大型観光ホテルだった。いくつもの観光バスが駐車できる広い場所がホテルのエントランスに広がっていた。 まだ午後1時過ぎのこの時間は観光客を乗せたバスは停まってなかった。ホテルで予約を済ませると夕方の食事までにはずいぶん時間があった。何よりまだランチも食べてなかった。 車を広い駐車場の端っこに停めると、4人で紹介された海の幸を食べさせてくれるレストランを目指して歩いた。夕食も海の幸だったはずだが、やはり海の側に来ると昼も夜も海鮮の食事になる事はいたしかなかった。カキ小屋が途中、何件も軒を連ねていた。今はシーズンじゃないがエビやサザエなどを焼くことができる浜焼きというのがあるらしい。 どこにでもサザエとかアワビとか刷り込んだ旗が海風に揺れていた。 「ねぇ 浜焼きもいいんじゃない」と加奈子が言った。 「いいねぇ〜」続いて一博も言った。 「私も食べてみた〜い。なんかワイルドでいいんじゃない」 美香が若い娘のように言った。 「健ちゃんは?」加奈子が聞く。 「ああ、いいよ」反対するような性格じゃないことはわかっていた。
4人はビニールの風よけの入り口の隙間から店内に入り込んだ。半分に切られたドラム缶が6つほど並んでいた。中には炭を焼いた残りだろうかまだ燃え尽きてない黒いものが残っていた。 この近海のカキは3月で終わっている。メニューにはサザエ・アワビ・ハマグリの文字が躍っていた。 バーベキューと同じスタイルで、材料が海の幸に取って代わるだけだ。 店主は慣れた手つきでバーナーを扱い、炭に火をつけた。パチパチとはじく火の粉を見て健三は仕事を思い出した。火の粉がパッと輝き、淡く消えるこの感覚が好きだった。誰も火の粉の事は気にしていない。相変わらず昔の思い出を引き出しては反芻して笑い合ってた。 食べたのはアワビの踊り喰い、イカ焼き、車エビ、サザエ、そしてビールが5本だった。1万4千円は高いのか安いのか、ここら辺の相場なんだろう。昼間からのビールに大人4人は浮かれた。 海風は少し寒かったが気持ちよかった。健三も酒が入ると心地いい気持ちになる。喋りは少ないが顔はいつもより柔軟だった。本当に来てよかったのかもしれないと再確認した。 城下町のこの町は温泉もわき出ている。至る所に無料の足湯が設置されていた。 100円のタオルを買い、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ足湯に浸かった。4人揃って足湯に並んで入ると子供に戻ったようだった。旅先で新しいことを経験すると心がわくわくする。そして冒険したくなる。 加奈子は一博が美香と二人きりになりたいとわかっていた。だけど、さすがの一博も自分からは切り出せないでいた。当たり障りなく加奈子は自分が切り出すのが一番角が立たない。一番自然に二組に分かれることができると計算していた。加奈子だって一博は知らないかもしれないが、実は健三と二人っきりになりたかったのだ。 「ねえ、ねえ、せっかくカップルが二組いるんだから、今日はパートナーを入れ替えて遊ぼうよ」 一博はえっと加奈子の顔を見たが、すぐ美香と一緒に二人きりになれると計算して 「そりゃ〜いい。たまには夫婦交換もいいかもしんない」と言った。 「いや〜〜ね、夫婦交換なんて・・なんか言い方いやらしい」加奈子が笑いながらフォローする。 「え〜〜なんだかおかしい〜〜でも、いいかも」美香はとりあえず賛成ですぐさま相槌を打った。 3人の笑いの中で、健三だけが合わせたように笑った。口元は何かをいわんやとしていた。 すぐさま、加奈子は 「じゃ〜、ちょっと健ちゃんを3時間ほどお借りしますね〜」と言っておどけた。 「あ〜〜ら、どうぞどうぞ。こんな堅物でよければ」 美香も調子を合わせて何とかそっちの方向へ向くように軽く合わせる。 美香もまさか加奈子が健三を狙っているとは思ってもいなかった。それより一博と二人きりになるチャンスを逃したくなかったのだ。 一博は女性陣のお膳立てに内心ラッキーだと思った。健三に気を遣わなくて済んだ。自分から言い出したのじゃないから…。 健三は別に反対するわけじゃないが、3人で口裏合わせてるんではないかと疑った。健三にしては上出来だ。人を疑うことなんかあまりしないタイプだからだ。でも、別にどうでもよかった。この旅行自体どうでもいいもんだから。ちょっとおいしい物を食べ酒を飲みさえすれば良かったのだ。
「健ちゃん、いいわよね」と加奈子が確認した。 「ああ」 「ほぅら健ちゃんのお許しが出た。それじゃ今から3時間別行動をいたします。くれぐれも間違いがないように・・」加奈子は自分から言ったくせに間違いを犯すなと、意味深に取って付け加えた。 「健ちゃん、どうする?まだここにいる?」加奈子が聞いた。 「ああ、もう少しいるから待っててくれ」 それを聞いた一博と美香は、足湯から上がりタオルで足を拭いて靴下を履き、靴を履いた。 笑いながらバカを言い合ってるが、美香と一博は健三の前から一刻も早く立ち去りたかった。 下心・よこしまな気持ちを悟られぬように。別にこれからホテルで抱き合うわけじゃないが、ただ仄かに残る恋心が後ろめたい気持ちにさせた。二人は焦る様にその場を離れた。 「じゃ〜行ってくるね〜。あなたも楽しんでね」美香はさっさと後ろを向き一博より先に歩き出した。 ここで一言言わなければならないだろうと思った一博は健三に言うより、加奈子に向かって 「じゃ、ちょっとだけ行ってくるから心配すんなよ」と言った。 誰が心配するか・・と加奈子は思ったが、「いってらっしゃ〜い」と場をわきまえた返事をわざとおどけて言った。 健三と加奈子の二人きりになった足湯の場は急にしんと静かになった。
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