斑鳩との関係は何時からだったろうか。萩は隣で俯せて眠る斑鳩の細い肩を見てふと思った。 ああ、二人の結婚報告があった日だ。柏木さんが召集をかけて何事かと思ったんだ。まさか氷上と嵯峨班長が入籍した事を知らされるなんて夢にも思わなかったけどな。 知らされた瞬間、胸が凍るかと思った。それは斑鳩も同じだったのだろう。うろたえた彼女の様子は、まるで自分の気持ちを代弁しているかのように見え、萩は奥歯を噛み締め彼女から目を背けたのだった。 氷上の幸せそうな笑顔。 あの日の事は萩にも大きな痛みをもたらした。 何よりも互いに解り合えていると思っていた。仕事でもプライベートでも。 相談も受けていた。――色恋以外はだったが。 「お互い社内の人には知られたくなくて苦労して隠してました」 そう語った氷上に見当違いだと解っていながら恨みにも似た気持ちを抱く。 さっさと打ち明けておけば良かった。そうしたら笑って報告していたのは自分だったかもしれない。 だが、そんな事は有り得ない。同じ分野の研究をしているのだ。年齢も近い。互いのプライドが邪魔をして、先を考えると長くは続かないだろう事は何となく想像がついた。 しかし、互いの間にある空気感は居心地が良く、長く共に歩みたいという想いは強かった。それは氷上も同じだろうと信じていた。微妙な均衡にあるからこそ、萩は男女の関係を慎重に避けてきた。バランスが崩れたら共に居る場所を失ってしまうだろう。それが何より嫌だったのだ。だが、それは萩だけの想いだったのかもしれない。 氷上の笑顔で、胸の部分に焼け付くような苛立ちが募り、遣り切れなさに顔が歪む。今感じているものは嫉妬だ。それは否定出来ない。 社内での位置は自分が一番氷上に近いという自負が唯一の拠り所だったのだが、それが崩されたのだ。足元がぐらつく錯覚を覚え、萩は壁際に身を寄せ己を支えた。
何かに縋らないと自分を保てない。
そう感じた自分に苦く笑う。浮かんだ考えを振り払うようにして顔を上げた、その時に斑鳩と目が合った。瞬時に互いの心中を悟る。こんな状況で惹き合ってしまうのは不可抗力だろう。 それからだった。遣り切れない想いを抱く度に慰め合ってきた。だが、それも潮時だと萩は感じていた。
二人とも既に故人だ。嵯峨班長も氷上も――
半身を起し時計を見る。日付が変わった所だった。自分が起き上がった事で身動ぎする斑鳩の髪に萩がそっと触れると、彼女は覚醒し、気だるそうに身を起こした。 「何時?」 「零時を回った」 斑鳩が億劫な様子で頬に垂れかかる長髪を掻き上げた。それからいかにも不本意と言った体で呟く。 「書類作らなきゃいけないんだ。新見さん、うるさいからなぁ」 昼間に行われた緊急会議の席で決まった事だった。役所に提出する申請書類の資料を各々が作らなければならない。 カローン――死者の代用品としてのロボット。近親者を失った喪失感や深い悲しみにより、精神のバランスを著しく崩してしまう人に対して使うという目的を持つ。カローンは医療目的を主眼に開発を進めるのだが、その為にはクリアしなければならない問題がまだ多い。書類の作成はその問題を解決する足掛かりをつける作業でもある。 斑鳩が担当している人工海馬の開発状況と活用方法は特に重要な資料になるだろう。萩が率いるロボット班との連動以外にも関わる部署が多い為、特化部分を抽出する手間も多い。その分、資料を作り上げるには時間もかかりそうだった。 その点、萩は上司であった氷上が、死ぬ間際に、遺言代わりに残したレポートと作動記録類をまとめ上げれば良いだけだ。現在連動している部署は、カローン開発の関連部署である斑鳩率いる人工知能班と新見率いるシステム調整班くらいだった。 「悪かったな」 萩が口にする。しかし、その実は然程悪いとは思っていなかった。斑鳩がベッドから抜け出しながら冷たく笑う。 「そんなことは思っていないって知ってる」 萩は息を漏らして自嘲気味に笑い、斑鳩の言葉を肯定した。 「そうだな」 お互い自分の都合だけで誘い、相手の事を思いやるという事は無い。非情な関係だ。無言のまま部屋へ入り、ただ貪り合う。形だけの甘い囁きさえ無い。 ざらついた気分を紛らわせたい。だから萩は昨日は定時で斑鳩を誘った。斑鳩も断らなかったのだから、同じように気分を紛らわせたかったのだろう。 バスルームに消える斑鳩の後ろ姿を見送ってから、萩はヘッドボードに寄り掛かり、右膝を立てると、そこを支点に頬杖をついた。やや鈍い頭で、朝、出社してからの業務をシュミレートする。その過程で氷上から届いた最期のメッセージを思い出した。 氷上が自宅で行っていたカローンの無断開発に関する記録。それを添付したメールに記された、おそらく最期の一文。
――もし、私が逝ったら、我儘で残酷な事をした私を許さないで―― 卑怯な女だ。人の気持ちを察しておきながら、自分は死んだ男の後を追う。 重い枷のように自分を縛る氷上の言葉に、萩は怒りを募らせる。
カローンは死者の代用品。魂の無い形だけの人形 そんな人形でも人を癒す力があるかもしれない ――だから望みをかけてみたいのよ 氷上のスタンスだった。残された日記には氷上自身がカローンに救いを求めていた。しかし、カローンには故人の面影だけがたゆたっていたのだろう。諦めたような様子が文面に漂っている。萩にはそう読み取れた。 ――少し望みをかけてみたい――
ロボットに面影を、人工海馬に記憶を。例えそれが自分を見殺しにするような中途半端な映し身であっても、亡くした者の姿を追いたい。そんな浅ましさを見せられたら、氷上が望んだように、萩には彼女を許す事が出来ない。 気が付くと萩はシーツを握り締めていた。想いを振り払うように頭を振る。一時忘れていたざらつく気持ちが戻ってくる事に不快感を覚え、萩は何かを求めるように斑鳩の消えたドアを見つめた。
ローブを纏った斑鳩が現れたのは、それからすぐであった。 萩に気が付くと、驚いたように目を見開き、警戒しながらもゆっくりとベッドサイドまでやって来る。
何をそんなに警戒しているのだろうか。
萩は斑鳩の様子が不思議でならなかった。理由を聞いてみようとした時には、目の前で斑鳩がしゃがみ込み、自分の瞳を覗きこんでいた。
――ああ、色が違うな。虹彩は氷上の方が濃い
自然と比べてしまい胸が痛む。罪悪感なのか喪失感なのか判然としない傷みが萩を苛んだ。 斑鳩の手が、髪に触れ、頬に手を添える。ゆっくりと口を開き、何かを語りかけてくるが、その声はとても遠くで響いているようで聞きとることが出来ない。
ナニヲ イワレイテ イルンダロウカ 言葉が身体の表面を滑り落ちて行くような感じだった。 言われている言葉の意味が心には触れて来ない。 瞳に入る斑鳩の姿は、何かを隔てているように遠くに感じた。 頬に触れられた手の温かさだけが現実である事を意識させる。 自分が感じている温かさを更に求めるように手を伸ばす。 掌を滑らせ指を絡める。握り込んだ手が一瞬強張る。 そして―― 無情にも萩の掌は斑鳩に払い退けられていた。斑鳩の拒絶の意思。しかし萩はその事が何処か遠い場所で起きているように感じていた。 檻に囚われ考える事を止めたような萩の様子に斑鳩は身を竦めた。それから定まらない視線を目にし眉根を寄せ表情を固くする。何かがおかしいのははっきりとしていた。 バスルームの戸を開けた時に感じた嫌な気配は、恐らくは少し前まで斑鳩自身も纏っていた。これは良くない傾向だった。 萩の纏った物は自分のものよりも重い。このままだったら互いに絡みついたまま沈んで行く。そう、戻れなくなる所まで。 斑鳩は慎重に萩に近付き、目線を合わせる為に屈みこむと、髪に触れ、頬に触れた。それからゆっくりと声を掛ける。 「萩さん、私がわかる?」 虚ろな瞳。今まで見たことも無い程に生気が無い。のろのろと上がった手が自分に触れた時、斑鳩は異質なものに反応するように手を振り払った。 すっと頭がクリアになったような気がした。そして自分の今までの行動を恥じた。一時だった筈なのに何かと手軽だからと萩を利用し続けた自分は愚かだった。相手の事を省みなかった、その結果が目の前にある。 ここが決め時だと斑鳩は腹を括った。どんなに無情であっても萩を一人で立たせなければいけない。今までとは違った形で。
――自分はどうだった、萩さんに寄り掛かった時の自分はどうだった?
冷静な表面と異なり、斑鳩は内面で必死に今までの過程を遡っていた。 嵯峨と氷上。二人の結婚報告は突然だったので衝撃は大きかった。嵯峨に失恋し、気持ちを吹っ切るのとやり場のない痛みを誤魔化す為に、斑鳩は萩に身を投じた。傷が疼くと想い出したかのように萩に寄り添った。嵯峨が事故で急死した直後は会う頻度が増したが、斑鳩にとってその行為は泣くのとあまり変わりがなかった。気持ちを知ってる相手がいたから、そこへ泣きに行っただけ。
――でも、萩さんは? 氷上は殆ど自死だ。彼女から最期のメッセージを受け取ったのは萩だった。多分それが一番の重荷なんだろうことは想像に難くない。萩がどの程度氷上に思いを寄せていたのか、斑鳩には解からない。だが、今の様子を見る限り、萩の氷上への想いは自分が嵯峨に寄せていたものよりも深いのだろう事は察せられた。 目の前の私が全く見えなくなるくらいに、今、萩さんは、氷上さんを想っている チリと胸の隅が焼ける。玩具を取られた時の妬ましさに似た痛み。そう感じた自分を最低だと詰《なじ》る。そんな子供染みた独占欲であっても取り返さないといけない。このままなら死者に持って行かれてしまう。それは駄目だ。萩が戻って来なければ開発が滞る。嵯峨や氷上の想いまで死んでしまう。だから―― 「萩さん!」 斑鳩は初めて強い想いを込めて萩を呼んだ。
萩は沈んでいた。水底から空を見上げるような感覚。ゆらゆらと揺れる視界の先は何があるのだろう。見るとも無しに萩は影を追っていた。 在りし日の研究室。氷上がいる。3Dジャイロのチェックだろうか。ふらつくロボットの歩行具合を、身を屈めながら確認している。白衣の裾が床に着くのもお構いなしだ。 初めて見かけた頃から変わらない飾らない一途な姿。まだこんなにも記憶に新しい。 静かに目で姿を追っていると、氷上が振り向き萩を見た。少し困ったようなぎこちない笑顔。そうしてその笑顔のままで首を左右に振る。 「私にはもう無理。後はあなたの仕事」 姿がロボットに被る。氷上の身を纏うと、ゆっくりと歩み出し、萩へと近付いて来る。近付く偽物を迎え入れるように、萩は両手を広げた。 そこで微かに自分を呼ぶ声が聞こえた。力が抜け、砕ける落ちるように膝を着き、天を仰ぐと、水面が既に間近に迫っていた。眩しさに目を細める。ホワイトアウトする視界―― 白色の世界が遠ざかると、そこはホテルの一室であり、氷上ではなく斑鳩が傍にいた。 萩は自分が困った状況に陥っていたのだと、斑鳩のあからさまに安心した表情で理解した。 「何があった?」 萩が思わずそう口にすると、斑鳩が泣きそうな表情になる。 驚いた。二人きりで会う時にこのような感情的な姿を見せる斑鳩は初めてだ。 萩は珍しさもあって、斑鳩を真っ直ぐに見つめた。それに気付いた斑鳩が、困ったようなぎこちない笑顔を見せる。 「――氷上さんを探して、もう、戻らないんじゃないかと思った」 応える斑鳩の声は微かに震えを帯びていた。戻らなかったらどうしようかと不安に身も凍る思いだったのだろう事が伝わる。 彼女を安心させようと、萩は斑鳩に手を伸ばした。 そこで気が付いた。自分が、今、初めて斑鳩を想いやり、彼女に触れようとしていると。 触れた手に斑鳩の体温が伝わってくる。温かい。これまで感じた事の無い温かさ。互いに相手を気に掛けると、こうも感じるものが違うのか。何度も肌を合わせてはいたが、それでこのような安堵を得られた事は無かった。 心地良さに浸っていると、斑鳩が萩の伸べた手に自分の手をそっと添えた。 「萩さん、今までみたいな事は、もう、止めよう」
――ああ、先に言われてしまったな。 思わず笑みが零れる。氷上が逝ってから初めて普通に笑えた気がした。賛同の意を伝えるように頷くと、斑鳩は小さく息を吐いてからぽつりと言った。 「今まで自分の事だけしか見てなかった。――萩さんの話し、聞かなきゃいけなかったのに」 萩は斑鳩の手をやんわりと除ける。屈んだ斑鳩にベッドへ座るよう促し、それから自分は改めてヘッドボードに背を預け、天井を仰いだ。 「自分の事しか見ていなかったのは俺も一緒だ」 萩は少し間を開けてから斑鳩に向き直ると言った。 「どうだろうか。今までの関係とは違うものが、俺たちに築けると思うか?」 その言葉に別に深い意味は無かった。
共感出来る相手がいればいい 吐き出せれば吐き出せばいい 重荷が辛ければ降ろせばいい 溜め込んで潰れてしまう前に――
先刻、自分が斑鳩に救われたように、ほんの少し心を添わせ、受け止めてくれる事が、とても大きな救いになる。 今の萩にはそれが良く理解出来た。 萩の問いに斑鳩がこくりと頷く。 「同じ事を考えた」 斑鳩は視線を自分の手元に落とし、暫し逡巡してから小さく呟いた。 「カローンの事をどう思う?」 嵯峨の話しをするのかと思っていた萩は斑鳩の質問に戸惑った。 「君はどう思っているんだ?」 自分はどう思っているんだろうかと、萩は自分へも同時に問いかけた。 死者の代替え品 氷上の残した仕事 ユーザーの想いが宿る先 危険な玩具と成り得る道具 開発中の製品――
「大切な人を亡くしたら哀しいし切ない。でも、カローンは要らない」 斑鳩がきっぱりと言い切る。 「カローンはその人の名残でしかないもの。例え姿や記憶が似通っていても、それがまやかしだって事は、私たちが一番良く知ってる。――私は、偽物はいらない」 強いと思った。偽物でも傍にいて貰えたらという気持ちが捨てきれない萩は、そう言える斑鳩を眩しげに見た。 「俺はそれでも求めてしまう。欠片でもいい。その人の名残があれば支えになる」 吐き出した後はもう止まらなかった。 「自分の一部を占めていた人が急にいなくなるのは耐えられない。――どうして、どうしてこんなに辛いんだ? 理性と感情は同じ方向にあるとは限らない。解かってる、解かってるんだ。でも心は縋る者を求めて、ずっと痛みを癒せない。今だってそうだ!」 さらける想いは自分でも痛い。確認するかのように吐き出す言葉は、萩にとっては自分でも認めたくない部分だった。 酷い喪失感と理不尽に湧き上がる怒り。 これを抱えていかなくてはいけないのか? どうしたら疼かすに癒えてくれるのか判らない。 自分一人では、もう、動けない。
そう、このような痛みを癒す為に、カローンは作られるべき物なのだ。
一息に語った為に、萩は息を乱していた。そんな萩を斑鳩が静かに見つめる。 「カローンに依存しないとも限らない。それでいいの?」 斑鳩からの指摘は厳しい。きっと自分は依存する確率が高いだろうと萩は思う。開発に信念を持っていた氷上が依存したくらいだ。
――依存? 氷上が?
小さな引っかかりを感じ、萩の意識が切り替わった。先日の会議の際の情景が脳裏に浮かぶ。
――亡くした者そのままであれば、亡くなった者の死を非現実だと認識しかねない。氷上が危惧していた事です――
自分が言ったのではなかったか。実用化後を考え、開発中に依存症の危惧を示唆する。そんな氷上が安易に個人的な感情で開発を進めるだろうか。
――上が開発に口を出すから思うように進まなくて困るわ。もう、いっその事、会社辞めて自宅で開発しようかしら!――
いつだったか氷上が愚痴った。部下が粗方帰宅した後で二人きりだった為、辞める辞めないで大騒ぎする氷上を萩が宥めていた事があった。思い通りに進まない状況が相当にストレスだったらしい。
まさかとは思うが、開発を無理矢理進める為に、病んだように演じていたのか?
そこまで考えて氷上ならやりかねないと気付く。 残された膨大な記録。冷静な目で観察された稼働状況や問題点の洗い出し。日記に混ぜた時折発作のように現れる嘆き―― 氷上は研究に対してはいつも貪欲だった。貪欲過ぎて、会社の地位はいつの間にか萩の上を行っていたくらいだ。市場動向を考え企画を出し、好きなように研究が出来る環境を築く。出発点は好きなように研究したいという欲求だ。 そうして見ると、残された言葉の意味も違って見える。最期の一文はこう解釈出来るのではないだろうか。萩は記憶の中から文章を手繰り寄せた。
――もし、私が逝ったら、我儘(勝手に進めた研究を引き継いで貰うこと)で残酷な(人付き合いを嫌がる萩に、とやかく煩い面子の相手を任す)事をした私を許さないで(怨んでくれて構わない)――
重ね合わせた言葉は、元の文章よりも氷上らしい感じがする。新たな解釈をし終えた萩の全身に脱力感が圧し掛かかった。馬鹿馬鹿しくて笑いが込み上げて来る。 何だ、結局は片思いだったのか。氷上は俺の気持ちを察していたわけじゃない。俺が氷上の言葉を都合良く解釈して酔っていただけだ。 突然笑いだした萩に、斑鳩が退いて蒼褪める。萩は身動き出来ずにいる斑鳩を尻目に笑い続けた。 かなり長く笑っていただろうか。喉に乾きを感じた萩は斑鳩に声を掛けた。放心したように固まっていた斑鳩が弾かれたようにしてグラスに水を汲んでくると、恐々と萩にグラスを手渡す。 「大丈夫だ。自分の事が可笑しかっただけだから」 それでもまだ心配そうにしている斑鳩に、萩は浮かんだ考えを語った。 語るに従い思考が整理されて行く。有難い事に、その過程で気持ちの置きどころが少し解かって来たのが、萩にとっては大きな収穫だった。 黙って聞いていた斑鳩が、話しが終わるなり口にした。 「でも、それも真実かどうか判らない。本当の事は氷上さんしか知らないんだもの」 斑鳩の言う通りだ。真実は本人しか知らない。だが、どちらにしても萩にとっては酷い女だという事は変わらない。鮮烈な光を残して消えた。今後も時折その光に焼かれるのは確実だろう。 「――やっぱりカローンのようなロボットは必要だと思う?」 改めて出された斑鳩の問いに萩は頷く。 「一時の繋ぎとしては必要だと思う。ショックで記憶が混乱したり、さっきの俺のような状態に陥った場合、カローンはきっと、そんな人達の心をこちら側に繋ぎ止めてくれる筈だ」 萩の声は力強かった。萩の言葉に斑鳩の視線が揺れる。 「私は――偽物はいらない」 小さな声だった。斑鳩が言葉を探すようにして二・三度口から短く息を漏らし、萩から逃れるように顔を背けてから言った。 「脳の機能は全てが解明されているわけじゃない。だから記憶が全て人工海馬に移せるわけない。脳の電気信号を拾うだけでその人の記憶を正確に残せるなんて思う? 体のパーツに記憶が宿ってる可能性だって示唆されてる。そう、臓器にだって記憶が宿っているのかもしれない。それらが全て集まって一人の人間の記憶を作ってるんだとしたら、カローンは高性能な3Dアルバムにすぎない」 それから斑鳩が再び喋り出すまでは少し間が有った。言い淀み逡巡する斑鳩は痛々しい程に苦しんで見える。萩はそれでも黙って待った。彼女が答えを探して迷っているように感じたからである。 顔を上げ、斑鳩が萩を見た。それと同時に彼女の頬に滴が伝う。 「そんな――そんなものがあったら辛さが増すだけじゃないの!」 吐き出した声が震えていた。語っているうちに気持ちが高ぶったのだろう。言い終わってから、伝った涙に驚くようして斑鳩は自分の頬に手をやった。
必死に立とうとしているからこそ面影を排除する
萩のそれとは相反する気持ち。萩と斑鳩は対極の考えを抱いているのだ。だが根本は同じ。 欠けた空間をどうやって埋めるのかということ。
本人の面影で埋めるのか、それとも他で埋めるのか―― 「どちらにしても残されてしまった方は脆いな」 濡れた瞳のまま斑鳩が萩を見返した。 「でも、最後は自分で立たなきゃいけない」 返された言葉に萩は頷く。立つ手段をどうするかは個々の選択だ。選択肢は一つでは無い。萩はそれが大切だと感じていた。 「カローンは必要だ」 念を押すように萩は呟く。しかし斑鳩は首を振る。 「面影を見るのは辛いだけじゃないだろう」 それでもまだ斑鳩は首を振る。 「昔から人は死者の面影を追っている。それが良いことなのか悪いことなのかは判らない。残された本人次第でどちらにでもなる」 「ええ、確かにそうだとは思う」 俯いたまま斑鳩が口にする。萩はその声に耳を傾ける。 「私に依存しかけてたでしょ?」 萩は否定出来なかった。そうなるのを阻止しようと、関係を解消するつもりだったが、結局は自分から言い出せなかった。斑鳩が言い出さなければ、自分を誤魔化しながら解消を先送りにし、取り返しのつかない状態まで悪化したかもしれない。 「多分な」 素直に口にすると少し楽な気分になる。正直、斑鳩には救われたと思っていた。 「そうなってしまうのが怖い」 自分を抱きしめるように斑鳩が腕を抱え込む。 「何かに依存するのが怖いということか?」 発した言葉に頷く斑鳩の肩に、萩は手を置いた。そうして力強く語りかける。 「君は回避する術を知っていると思う。俺のようにはならないよ」 斑鳩の顔には疑問が浮かぶ。萩がやや無理をして不器用に笑んでみせると、つられて斑鳩も堅い笑みを浮かべた。 「根拠、無いでしょ」 瞳に不安が宿っている。萩が片手で斑鳩の頭を軽く撫でると、その感触を感じ取るかのように彼女は目を細めた。 「さっき迷っていた俺を呼んだだろう? 似たような経験をしておきながら、君はそんな俺を見る事が出来たじゃないか。だから、自分の状況を冷静に判断し、外へ助けを求める事も出来るだろう。それだけ出来れば充分だと思う。俺は同じ状況だったら、声をかける事すら出来なかった。そうして抜けられない状態に陥っていたと思う」 「――そうなったら最悪だったわね」 それに応えて萩が軽く応じる。 「カローンの開発も中止になったかもしれないな」 ようやく斑鳩が笑う。萩が安堵したところに斑鳩が思ってもみなかった事を不意に投げかけてきた。 「萩さんって、氷上さんが亡くなってから泣いたの?」 萩を窺うようにして聞いてきたその姿は真剣だった。 「傍にいてあげるから泣けば?」 萩は斑鳩の視線から逃れるように目を逸らす。 「無茶な事を言う」 泣く? 確かに泣いてはいなかった。だが、それで何かが変わるのだろうか。それに言われてそう簡単に泣けるものでもない。 萩は知らず知らずのうちに手を握り込んでいた。自分でも判る程の固く冷たい感覚。手ばかりではなく全てが同じに凍えているのだろう。震え出さないのが何だか不思議なくらいに冷たく寒い気がする。氷上を欠いた部分から感じる寒さなのかもしれない。 その冷えた手に微かな温かみを感じ、萩は自分の手に目を移した。斑鳩の小さな手が触れていた。 「こんなに力が入ってるんだもの。ずっと気を張ってた?」 伝わる温かさは先程感じたのと同様に静かに内に満ちる。 「そんな事は無い――」 応えた台詞とは異なり、萩の体からは力が抜け、斑鳩の肩に頭がもたれる。自然に回された斑鳩の腕の温かさと耳が拾う心音を感じながら、萩は静かに目を閉じた。 ただこうして抱きとめて貰うだけで緩やかに凪ぐ。 溜まっていた澱が澄んでゆく。安心して安らげる。
それがどれだけ救いになることか。気付けば目が頭が熱い。涙には浄化作用があると言ったのは誰だったろうか。頭の隅でそう思いながら、萩は寄せる波に抗わず漂うに任せた。 氷上を亡くしてから初めて萩の目から涙が零れた。
《了》
付記:読者選ぶなぁ、この作品(^_^;)と、書いてる本人が物凄く思ってます。萩が予定の遥か上を行く病みようで、正直、心労が激しかったです。本文中の用語で3Dジャイロというのがありますが、簡単に言うと、ロボットに平衡感覚を持たせる為に使うセンサです。振動ジャイロ(傾向きと速度を感知するセンサ)と加速度センサを使い、ロボットが安定歩行出来る用に使われています。多分これくらいかなぁ、全く解からないっていう用語は。もし、解からないという用語がありましたらお知らせください。
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