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作品名:キズモノ 作者:あまね・こう

最終回   1
 儀式、だなんて大げさだなと鼻で笑っていたが、店を出て夜風にあたりほうっと一息つくと、ああ儀式が終わってしまった、なんてうかつにも心の中でそう呟いてしまった。
「おっす」
 吸い終わった二本目の煙草を、足でぐしぐしと地面におしつけていたら、店の中から加藤が出てきた。「恥じる」ということを完全に忘れたピカピカ明るいネオンを後光に、加藤はゆっくりとこちらに歩み寄る。
「他の奴らは?」
 訊かれた俺は、んっ、とあごで店を指す。
「だはあ、また俺とお前のワンツーフィニッシュかよ」
 それから他の奴らが出てくるまで、俺と加藤はガードレールに体重をあずけながら、ただただ行き交う車や人を眺めていた。学生の頃だったら店から出てすぐにでも、「どうだった?」なんて下世話な顔で感想を述べあっているところだが、ここ数年はこうして大人しく仲間を待つばかり。へいお兄さん、寄っていきませんか? さっきから客をつかまえられないキャッチに目をやりながら、煙草を求めてきた加藤に一本くれてやる。道路でププーと鳴らされたクラクションに、この街の人間は誰一人として興味を示さない。
「なあ」
 煙草をくわえ、なかなか火がつかないライターと格闘しながら、加藤が言った。
「こういうのって、迷惑じゃなかったか? ほら、鈴木も竹島も、見切り発車なところがあるからさ。もちろん俺だって」
 なんだよおい、一見らしくねえけど、実はらしいこと言ってんじゃねえよ。俺は加藤の肩にパンチを入れる拳を作り、けれどそれで終わった。肩パン――部活では、試合でエラーした数の分だけ肩にパンチが入れられた――など子供のすることだ。ここで、加藤の肩に思い切り拳を入れられたら気持がいいことなど分かっている。それが出来ないのは、儀式などと称して俺を招いたくせにどこかよそよそしく振る舞うこいつらに責任があって、ひいては、一番気が置けない存在であったはずの加藤が、「迷惑じゃなかったか?」などと、さも一味を代表して謝ろうとしたことがいけなかった。結局、どう答えたらいいか分からない俺は、「んなことねえよ」と子供も子供、まるで中学生みたいな口調で返してしまった。目の前を行ったり来たりするキャッチが、不満そうに舌うちをならしている。
「でもまあ、今日は付き合ってくれて嬉しかったよ」
「ん」
 短い返事をし、三本目の煙草に火をつけた。間違ってもそんなこと言わねえけど、俺の次に店から出てきてくれたのがこいつで本当に良かったと思う。言わない代わりに今日はとことんこいつらに付き合ってやろう。信号が赤から青に変わる。ビルの間に白い月が出ている。俺は明日、結婚する。


 ピンク通りから歩いてそのまま、俺たちは適当な居酒屋に足を踏みいれた。
 店に入る前に、今日はほどほどにしておこうな、と鈴木だか竹島だかとにかく加藤ではないどちらかが俺に聞こえぬようそう口にしたので、なんだか申し訳ない気持ちになった。長い付き合いであるくせに、この四人がお酒をセーブするのはテスト前日の夜以外にもあるのだということを、この時初めて知った。
 加藤、鈴木、竹島とは、大学の野球部で知り合った。それぞれが、本当は第一志望ではなかったと告白した大学の、しかも万年一回戦負けの野球部で出会えたことに、青臭いと思いながらも運命の出会いとやらを感ぜずにはいられなかった。弱いくせに厳しい練習(いや、弱いからこそ必死だった)、まるで伝統校なみの上下関係(いや、弱小校だからこそのソレだなと、加藤は至極冷静に振り返ることがある)に、青春を全てささげてやった。初めこそ、他にも同学年の部員がいるにはいたが、みんな様々な理由――たとえ成績の低迷を理由にした奴がいたとしても俺らはそいつを責めなかった――で辞めていき、野球部として卒業したのは、ここにいる四人を含めた計六人だった。
「おい、今日はお前が主役なんだから、好きなものをじゃんじゃん頼めよ」
 鈴木が、シートノックを指示するみたいに俺に言った。
「じゃんじゃんって言ったって、ちょっとこの店、シケてねえか?」
 とは、ピンチに弱いエースピッチャーの竹島が。
「まあまあ。とりあえず、それぞれが食いたいもん頼もうや」
 覚えている限り、飛び込めばとれそうな球を五十回以上は見逃した外野の要は、言いながら俺に向かって微笑んだ。
 金曜日だというのに、店内には客がほとんどいなかった。薄暗い照明のもと壁は所々がはげおちていて、油をまいたような店内のぬめりある床は、トイレに立つたび足に嫌な感触を残す。またそのトイレも、いつだったか練習試合でおとずれた市民球場なみにどぎつい芳香剤のかおりが乱暴に放たれていて、そのくせ配管のつまりが悪いのか流れる水の量はすくない。店内に戻れば鈴木の馬鹿笑いと対照的に、カウンターの中でもくもくと焼き鳥を焼くおやじの姿が目に入る。らしいっちゃらしい。バーやレストランにいい加減うんざりしていた近頃。ようやく、らしい店で酒が飲めるのだと、座敷に戻る足取りは少しだけ軽かった。
「あ、上尾からメールだ」
 ほどほどと言いながらも、すでに五杯目のビールに手をつけようとしていた鈴木が、携帯を開いた。
「はは、これ見ろよ」
 鈴木はいやらしい笑みを浮かべながら、こちらに「ほら」と、携帯の画面を向ける。そこには野球帽をかぶった大学時代の俺の顔写真が写っており、しかも携帯アプリを使って背景が遺影のように加工されていた。
「どういう意味だよ」
「御愁傷様ってことだろ」
 俺の隣で画面を覗き込んだ加藤がそう言った。今日も来られないという上尾とは、ここ数年会えていない。かつての竹島の女房役は、今となっては家庭のソレを担っている。なんだよあいつ、なんだよこれ、と、俺は急に静まり返ってしまったその場の空気を和ませようと必死になったが、上尾からのメールをひけらかした鈴木はもちろん、御愁傷様と口にした加藤は、苦虫をかみつぶしたような顔を見せ、自身の失言を心から悔いているようだった。
「ところでよ」
 最後の試合までお山の大将にはなれなかった竹島が、気を使ってか話題を変えようする。
「西島はまだ来ねえのかな」
 俺は一緒どきりとする。だがそれ以上に、
「えっ、あいつも呼んだのかよ」
 と、加藤が驚き、手から枝豆をこぼしていた。
「呼んだっていうか、珍しくあいつから来たいって言いだしたんだよ。ここの場所はさっきメールで教えておいた」
 鈴木は「まあ女っ気がねえよりはいいだろ」と付け足し、竹島は「でも前夜に女と会って大丈夫かな」などと変な心配をしていた。俺と加藤は、ちらちらと横目で互いを確認しあいながら、ふうんと平静を装うのに必死だった。


 八時を回った頃、再び鈴木の携帯がなった。
「お、西島が近くまできたみたいだから、ちょっくら迎えに行ってくるわ」
 どっこらせと立ち上がり、こちらに馬鹿でかい尻を向けブッと屁をたれる。ぎゃははと屁をたれた本人が一番よく笑って店を出て行き、残された三人はこちらを睨むおやじの目から逃れるように、身を縮こませていた。汚いからこそ、弱いからこそ、譲れぬプライドがあるということをよく知っている俺たちは、だからこそ、余計に気まずい思いをした。
 西島はすぐにやって来た。店に入るなり、
「ちょっとこいつウザイんですけど」
 と、しきりに肩へと手をのばそうとする鈴木を、両手でおしのけていた。
「我が部のマドンナがおでましだ」
 なんて古くさい映画みたいなセリフを竹島が吐けば、竹ちゃんは相変わらずねと西島が、すっかり薄くなった彼の頭を躊躇することもなくなでた。女の客が来てすっかり機嫌をよくした店のおやじは、こっちの方がいいだろうと吸い殻のたまった灰皿を引っ込めて、新しい、うすい桃色の陶器をだしてくれた。陶器の底には、二匹の金魚が気持ちよさそうに泳いでいる。西島は礼を言いながらビールを注文し、それから焼き鳥やらチャーハンやら、手当り次第にメニューを指差していく。
「おいおい、俺たちもうけっこう食ったから、そんなにいらねえぞ」
「男のくせに何情けないこと言ってんのよ。学生時代に牛丼を七杯も食べたってずっと自慢してたのは、どこのどなた?」
 ぴゅーという竹島のこれ見よがしな口笛。言われた鈴木は嬉しそうに大きなお腹をぽん! と鳴らした。
 西島は、我が弱小野球部のマネージャーだった。野球には興味がないけど、楽天の岩隈には興味があるからという理由で入部してきた西島は、当時のOBを含めた俺らの予想をはるかに上回り、マネージャーとしてよく働いた。掃除やライン引き、ユニフォームの洗濯やドリンクの補充まで、彼女はそつなくこなした。
「それにしても、みんな久しぶりだよね」
 西島は汚いジョッキに注がれたビールをあっさり飲み干し、優しい目をして言った。
「たしかにお前は久しぶりだよな。俺らはちょこちょこ会ってるけど」
「えー、どうして私も誘ってくれないの? 男ばっかりずるいよ」
 サービスとして一本多く皿にのせられた砂肝を、西島はしゃくしゃくと頬張る。
「馬鹿言え、俺らはいっつも誘ってるだろ。なんらかの理由をつけて来ないのは、お前の方じゃないか」
「あら、ばれた?」
 けらけら笑う西島の首元では、ネックレスが光り輝いていた。髪を耳にかけるときに立つ小指の爪は、その爪の地色が透けてしまいそうなくらい薄い、柔らかなピンクベージュで彩られている。
「でもね、本当にみんなとは会いたかったのよ。上尾くんがいないのが残念だけど、仕事が忙しくなかったら毎週でも会いたいくらい」
 学生の頃は化粧やファッションといったものに縁がなかったはずのこの女が、今では女性ファッション誌の一編集者として、毎日のようにトレンドを追っているというのだから驚きである。さりげなく彼女の身を包んでいるそのカーディガンや白いシャツが、実は結構なブランド品だということを俺は知っている。かつてのライン引きやボール磨きで汚れた爪に、年中ジャージ姿という彼女をもう二度とはおがめないのかと思えば、どこか寂しくさせた。
「西島、それは残念だったな。今日でこの集会を卒業する奴がいるんだよ」
「あら、そうなの?」
 鈴木のしたり顔と、西島の白々しい声。
「卒業なんかしねえよ」
「そいつはどうだろね。お前だって上尾みたいに、家庭が出来たらきっとそっちを優先するに決まってるさ」
「おいおい鈴木、絡むのはよせよ」
 竹島と加藤の仲裁があり、鈴木はそれ以上、俺に絡んでくることがなかった。西島はというと特にこちらを見ることなく、皿の上ですっかり冷めてしまった小さな餃子を頬張っていた。この場ではそうしていることが、誰も傷つけないですむことを知っているかのように。
「それじゃあ、明日もあるから今日はそろそろ」
 切り出したのはやはり加藤だった。そうした気遣いが、また酒癖の悪い鈴木の癇に障らぬか心配になったが、鈴木は大人しく「どっこらせ」と立ち上がり、またバボッと勢いよく放屁して、ケツを思い切り西島にしばかれてた。多分、この店にはもう来れない。
「それじゃあな」
「おう、また明日」
「遅れるなよ」
 竹島はふらふらの鈴木を支えながら、こいつのもう一回に付き合ってやるのだと、再びピンク通りへと姿を消した。ねえ、儀式って何のこと? と加藤にしつこくつめよる西島は酔っているのかいないのか。とにかく、ねえねえねえ、加藤くん加藤くん加藤くん。俺の存在をまるっきりなきものとしていた。
「加藤くん、私のことを送っていってよ」
「何言ってんだよ、家が逆方向だろ」
 居酒屋の前でぐだぐだなやり取りが続き、ついには、冷たくて気持がいい、なんて電柱にしがみつきだした西島。加藤はその隙を見計らい俺に近寄ると、
「この際だから、しっかり話つけろよ」
 そう言い残して鈴木と竹島の背中を追っていった。まてっ、戻ってこい。内野から外野に指示を出すほどの音量で声を張り上げても、チーム一の俊足はこちらを振り返ることなく、ネオン街の光の中にあっさりと消え去った。明日また会えるはずなのに、もう二度と彼らに会えぬような。考え過ぎだ、ビビってんじゃねえよ、あいつらだっていつか分かってくれるさ。そう、何度も自分に言い聞かせるが、どれも心までは届かない。まるで、今日の酒みたいに。
「で、送ってくれるの?」
 後ろには、電柱に飽きた西島が立っていた。喉の奥でなった小さなゲップが、口の中に酸っぱさを広げる。「おう」と聞こえるか聞こえないかくらいの声で返事をし、駅に向かって歩き出す。酒と性がうずまく夜に、元恋人と肩を並べている俺は明日、結婚する。


 西島と付き合い始めたのは大学の四年、野球部として最後の試合が終わってからのこと。それは、引退を待ってましたと言わんばかりに本当にすぐのことだった。とろけるような恋、なんてココアみたいに甘ったるい学園ラブは俺らには関係なく、実にひっそりと、学生らしからぬ恋だったと思う。当時、鈴木や竹島にはもっといちゃいちゃしろよなんてよくからかわれたものだが、俺はもちろんのこと西島も、「私たちは子供じゃないのよ」と彼らを軽くあしらう様が気に入っていた。
 やっとのことで騒々しい通りを抜けると、目の前に公園が現れた。遊具がブランコとシーソーしかない、小さな公園。こんなところで、遊ぶ子供がいるのだろうか。備えつけられたゴミ箱の周りには、ビール缶や串ものの串やらが散らばっている。煙草の吸い殻は至るところに。それと猫のたまり場にでもなっているのか、ベンチの下には小皿が数枚置いてあって、今は一匹の野良猫が、顔を皿につけてなにやら食べているようにも見える。ここからちょっと引き返せば、アルコールと女で溢れかえるあの通りにたどりつく。そんな、汚れた大人たちから傷物にされてしまった公園に、俺は引き寄せられるかのよう目を奪われた。
「ちょっと、寄っていかない?」
 と、先ほどまでずっと黙っていた西島が口をひらいた。同じ空の下で同じものを見て、同じことを考えていたことに胸が強く締めつけられる。
「ブランコ、いこ」
 ブランコの鎖にふれると、手に懐かしい匂いが染みついた。どこか素振り用のバットにも似た、懐かしい匂い。何気なくこぎはじめれば、キイキイキイキイ、鎖が悲鳴をあげる。
「なんだか楽しいね」
 暗闇の中で、うっすらと浮かび上がる西島の笑顔。俺はこいつに、間違いなく惚れていた。
 大学を卒業してからも、西島との関係は続いた。俺は一企業のサラリーマンとして、西島は大学の事務員として、共に順調な社会人編をスタートできた。忙しいながらも暇を見つけてはデートを重ね、よく食べ、よく笑い、よく愛し、このままいけばまあひょっとすると――ってことは野球部のメンツは呼ぶだろ――なんだ、共通の友人が多いと楽だな――なんて先走った妄想を、まったくしないわけではなかった。というか、何回もした。
 ところが数年前のある日に、西島がいきなり別れたいと言い出した。理由は、他に好きな男ができたから。名前も顔も知らされていない。分かっていたことは、そいつが彼女と同じ大学で働く、職員であるということだけ。
 もちろん悲しくはあったが、別れることに腹はくくれる。そこには、話をよく聞いてくれた親友である加藤の力と、営業先で出会った新たな女性の存在も大きく働いていた。すっぱりいけると思った。いや、すっぱりいくことが正しいと思っていた。最後に二人でご飯を食べようと入った居酒屋も、やはり小さく汚かった。そこで俺は、これで会うのは最後だな、とハイボールの泡を髭みたいにつけて出来る限りポップな口調で言ったが、西島は目を潤ませながら、どうして? だなんて、わざとらしくも箸からおひたしをこぼしていた。あれ、だって俺たち別れるんだろ? 別れるっていっても、これからだって普通に会えばいいじゃん。そんなことして、大丈夫かよ。じゃあ一体、何が大丈夫じゃないっていうのよ――。
 結局、西島とはそれからも度々会った。やがて彼女は、大学の彼氏と別れて気まずくなったからと職場を変え、ねえ、いっそのことまたヨリをもどそうよ、などど、ちょくちょく俺の心をかき乱すようなことをしたが、加藤の助言通り俺は、西島とヨリはもどさないことにした。それぞれに彼氏彼女がいる時にも関わらず、二人で食事をしようが、映画を観ようが、体を重ねようが、なににせよ。
 キイキイキイキイ。ブランコの振幅は同じ。西島が俺に合わせているのか、それとも知らぬ間に俺が……。
「このまえね、加藤くんに怒られちゃった」
 だしぬけに、西島が言った。
「もうあいつは人のもんだから、これ以上ちょっかいを出すのはやめろっ、て」
 大人の体重が重いのか、古いブランコは動きを止めても軋んでいた。しかし西島は、こぐことを止めるどころかさらに大きく屈伸運動をはじめ、ブランコの振幅に勢いをつける。やがて、キイキイキイキイはガッチャンガッチャンという鉄と鎖と板とがぶつかりあう音へと変わる。
「おい、危ないからその辺にしておけよ」
「わたしってさー、そんなに面倒くさかったかなー」
 ここ数ヶ月の間、俺は西島からの「会いたい」という誘いを断り続けていた。長く付き合っていた女と結婚が決まり、もういい加減に、という男の身勝手(と加藤は表現していた)から会うのを拒み続けた。ガッチャンガッチャン。ブランコの一番高いところに達した西島は、そのままどこかに飛んでいってしまいそうだ。
「あなたの結婚を、みんなみたいにちゃんと祝いたかっただけなのにー」
 言われて奥歯を噛み締める。俺の結婚を本気でめでたいと思ってくれている奴が、一体この世の中に何人くらいいるのだろう。そう考えると、切なさと悲しさが同時に襲ってきた。結婚式の前夜にこんな風にうな垂れている自分自身と、いつまでもブランコを止めない西島に。
 やがてガッチャンガッチャンが鳴り止んだ。西島はブランコを止めると息を切らし、ああすっきりしたと声を張った。
「なあ、今日はどうして来たんだよ」
 俺は彼女に尋ねた。
「もちろん、マネージャーとして激励しに来たにきまってるじゃない」
 そしてこう続ける。
「だってあんたって、いちばん肝心なところでびびるんだもん。びびりの四番サード」
 そう言うと、西島はくくくと笑った。フリーバッティングではポカスカ打てる俺のスイングや、練習のノックではどんな強烈なゴロでも軽くさばける守備が、試合ではからっきしだった。びびりの四番、びびりのサード。チームメイトはよくそう言っては俺をからかった。
「なんだよそれ」
「それと、本当にみんなに会いたかったんだ。一番野球が下手なキャプテンに、対戦相手にすら気遣うピッチャー、足は速いけど、用心深すぎる外野の要。野球でも家庭でも女房役をやってる、上尾くんに会えなかったのは残念だったけど」
 夜らしく、そしてこの公園に似合う冷たい風が、俺と西島の間をふき抜けていった。西島が当時の思い出を語れば語るほど、野球よりも彼女と過ごした日々の記憶が鮮明に頭に浮かんでは、次から次へと消えていく。その記憶がもうけっして戻らない、戻してはいけないものだと気づいた時、言いようのない不安が心を取り囲む。公園の中をうろうろとする黒い猫が、こちらを向いてにゃあと一鳴きした。
「やっぱり、結婚やめようかな」
 いつかみたいに、ポップな口調では言えなかった。こみ上げてくるものをごまかすため、別にほどけてない靴ひもを強く縛る。
「うっとうしいと思う時があるんだ。高級なレストランとか相手の親とか、かつての仲間たちさえも」
 このまま西島とどこかに逃げれたらと思う。たとえ見知らぬ土地でも、彼女となら何となくやっていけそうな気がする。まだお互い三十手前。これからいくらでもやり直せる年齢であることに、違いはない。このまま、俺と――。
「やめて。それ以上言ったら、もうあんたと一生会わないわ」
 震える声。立ち上がって俺を見下ろす西島の目には涙がたまっていた。彼女はそのまま走って公園を出て行きあっという間に姿を消してしまった。
 それからしばらく、公園のブランコに一人で腰掛けていた。どうしてあんなことを彼女に口走ってしまったのか。時間が取り戻せないことなど知っているのに、いい大人が本気で過去に戻りたいと願っている。白い月は雲に見え隠れしていて、その辺をうろついていたあの黒猫は、もうどこにもいない。
 ああ、一人になっちまった、としみじみ思う。今日のことを話せば、加藤はきっと呆れて俺と口をきいてくれなくなるだろう。これから家族が増えるはずなのに、俺は本当に一人になっちまった。
 また一つ冷たい風がふき、さきほどまで西島が座っていたブランコが、キイキイ泣き声をあげた。隣に座る男を哀れんでいるかのように。何度も何度も、キイキイ、キイキイ。
 
 俺は明日、結婚する。        (了)


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