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遊園人
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最終回
1
やってらんね。 そう思うのと同時に、今、目の前で親指をくわえながらこちらを見つめるこの少女は、はたして何色が好きなのだろう、と悩んでいる。実際に、何色がいい? と訊いてしまえば早いのだけれど、それが出来ない状況にあるから、実にうっとうしい。この子もこの子で、やれ、あの色が欲しいだの、やれ、その色ちょうだいなどと、言ってくれればいいものを。 ピンクだろ、とりあえず女の子だから、ピンクだよな。 とりあえずな感じでようやく決心すると、右手に掴んだ紐の中からそれらしきもの探しはじめる。これか、いや、これか、あれ、ピンクはどれだ。しかし、さきほどから空中でぴょこぴょこと頭をさげるのは、赤、青、黄色。メジャー色で人気があるくせに、その数も膨大なものばかりである。えい、あれ、これか、違う、ああ、面倒くさい。赤青黄に混ざり、一本だけピンク色の風船があることは狭い視界の中でも確認できているし、はいほいよい、ほれ、お待ち! と手際よく風船を渡したくとも、このプニュプニュの手にはいつまで経っても慣れることができない。仕方ない、こうなったら……。 はい。と着ぐるみの中で声に出し(女の子には聞こえない程度)、掴みやすい位置にあった赤色の風船を差し出すも、少女は首を振り、また指をしゃぶるのだった。 ほい。次は青色を差し出してみた。けれど、やはり少女は再び首を振り、奇怪なものを前にしたかのような目でこちらを睨んでいる。 よい。じゃあ好きなだけ持っていけよ。幸い、西島はトイレに行ったきりで帰ってこない。風船の一本や二本、急になくなったところでバレはしないだろう。 ほれ。そうして、色様々な風船を四五本、女の子の小さな手に無理やり押しつけ握らせた。すると、彼女の手からはするすると風船が逃げてしまい、結局自分が一本も手にしていないことに気づけば、声をあげて泣き出してしまう。 ちょ、ちょっと待ってくれよ。 右足をあげ、お尻を突き出し、西島に教えてもらった「子供の心をつかむ絶対的なポージング」をとってみせても、いっこうに泣き止む気配がない。いまさらになって、柔らかな肉球の上に転がり込んできた紐の先には、ピンク色の風船がついている。これはチャンスと思いそれを差し出してみても、女の子は目から鼻から口から、とにかくびっちゃびっちゃに顔を濡らして、「ママー! ママー!」と遠くに向かって叫び続けるだけ。少ないながらも人目だってあり、当然、その場から逃げることなどできない。 すると、遠くのベンチから一人の女性がこちらに向かって歩いて来るのが見える。いきりたっている肩。大きな歩幅。ゆれるにゆれる、手に持たれたブランドもののバック……。あれは、この少女の母親に間違いない。 おそらく、母親は一部始終を見ていたのであろう。娘が好みの色をいつまでも手に出来ない様子や、ならばと適当にみつくろったものを押し付ける園内のマスコット、そして最終的には空へと舞い上がってしまった、色とりどりの風船を目にして、いよいよその腰を上げたのだ。 と、横目にトイレを終えた西島の姿が映った。西島は、明らかに異様なこちらの様子に気がつくと、スーツの裾をなびかせながら、猛ダッシュで向かってくる。 俺は着ぐるみに入ったまま空を仰いだ。先ほどに飛んでいった風船たちは、もう色を識別できぬほど小さく、「点」となってさらに高い空を目指している。これから大人二人に怒られることが分かっているというのに、不思議と気分が高揚している。自分は、絶対に大丈夫という安心。どんなに怒られても、切り抜けられるという安心。 それは、俺がとっておきの、魔法の言い逃れを持っているからに、他ならない。
二人が持ち場を離れることに、なんの問題もなかった。仮にもうち一人は、当園の看板マスコットだというのにだ。しかし、ここのマスコットはディズニーランドのそれに比べて、風貌、愛嬌、抱き心地(抱きつかれたことなど、まだ一度もないけど!)、ネーミングセンスもそうだし、出没頻度(これはしょっちゅう遭えちゃうという意味で)も、全てにおいて負けている。だから、たとえ一時間や二時間、マスコットがこうしてスタッフルームで椅子に座って園内にいなくとも、気にする客などいないのだ。 「……ちゃん、……げよ」 部屋の隅、無下にほうられている先月のイベントカレンダーを見つめていたら、つい、西島の言葉を聞き逃してしまった。 「は?」 「は、じゃねーよ。マックーちゃん脱げよ」 そう言われてから、俺はまだクマの『マックーちゃん』の中にいることに気づいた。恥ずかしさから慌てて脱ぐのは癪だったので、ゆっくりと頭部に手をかけ外し、さも落ち着きを払っているかのようなそぶりを見せる。なんすか? といった生意気な態度も忘れない。 「なんだよその態度は。てめえいいかげんにしろよ」 西島はカップに入れられたコーヒーを一口すすり、トトトトと、左手の指で机をたたいた。その薬指には結婚指輪がはめられていて、肉に食い込み窮屈そうな金色の指輪に、また濃い毛が数本はさまってるのを発見してしまえば、思わずぷっと吹き出しそうになる。 「おい、なにが可笑しいんだよ」 「いえ、別に」 俺は、再び『マックーちゃん』で顔を覆いたくなった。ここにアルバイトとして働き初めて頃はあんなに怖かった西島の説教も、今となっては、ただただ笑えるだけの余興タイムに過ぎない。小刻みにゆれる頬の肉を、着ぐるみをかぶって隠したい。 まず一つに、彼の格好がいけない。西島は俺らアルバイトと違って遊園地を運営する本社の人間だからしょうがないっちゃしょうがないのだけれど、遊園地をスーツでうろつくのはいかがなものかと思う。しかも、そのスーツはいつも、しわっしわのよれっよれ、だ。新婚で去年に子供が生まれたばかりだから張り切らなくてはいけないのは分かるけど、遊園地業務が終わってもなお、会社に帰ってほぼ終電まで頑張る夫を、これまた購入したばかりのマンションで寂しく待つ妻の気持ち――ゆっくりとスーツにアイロンだってかけたいだろうに――というものを、考えたことはあるのだろうか。いや、ひょっとしたら、もう結婚生活は駄目になっているのかもしれない。帰りが遅い、家庭を顧みない、亭主関白、ワイシャツが臭い、靴下が臭い、おまけに口まで臭い、などと、奥さんからあれこれ言われてうなだれている西島のしわよれた背中を想像すると、胃の奥から笑いがこみ上げてきてしょうがない。 「まただんまりかよ。お前もさ、いい大人なら今うちがどういう状況にあるのかくらい分かるだろ。そんな時に、問題なんか起こすんじゃねーよ」 西島は、重たそうな体を椅子からあげると、スタッフルームに設置されている自動販売機の前に立った。コーヒーのおかわり。こちらに向ける頭のてっぺんはそろそろキテいて、つむじが大きく広がっている。財布から小銭を出し自販機に入れると、つま先と一緒に短い腕をうんと伸ばして、最上段にある缶コーヒーのボタンをやっとのことで押す。低身長の短足デブ。誰よりもマスコットらしい彼であるのに、威厳やプライド、図々しさやねちっこさの度合いは、(もちろんうちのものではない)、蜂蜜が好きなあの有名なクマの愛くるしさのそれと比べてなんら遜色がない。 「いいか、お前の代わりなんていくらでもいるんだからな。次に何かやらかしたら、本当にくびにすっぞ」 ういーっす。と心の中返事をし、俺は着ぐるみをかぶって仕事場に戻ろうとした。自分がクビにされないことなど分かっている。電車を降りてからもバスやロープウェイ、そこからさらに十数分歩いてやっとたどり着くことができるこんな田舎の遊園地には、アルバイト希望の人間など滅多に現れやしない。ましてやこんな不況時に、仕事の勝手を覚えている一人の人間をクビにして、新しい者を雇うリスクの大きさを考えれば、西島が自分のことをクビになど出来るわけがないのだ。 「あ、おい、ちょっと待って」 客の集まりが悪いローラーコースターの辺りでもうろつこうかと考えていた時、背中に西島の声がぶつかった。俺はクマに扮したまま、後ろを振り返る。 「なんすか?」 「ああ……さっきの言葉は、本気だったのか?」 すぐに、西島が何を言いたいのか分かった。風船をもらえず泣きじゃくる娘。それを、きつく抱きしめる母親。ひたすら、何度も薄い頭を上げ下げする西島。 ――おたくのその可愛くないマスコットは、一体どういうつもりなんですか? 嫌味すら言われているというのに、申し訳ございません、申し訳ございません、西島はそれでも頭を下げ続けた。情けない男だ。こういう男にだけは、絶対になりたくない。西島の、水気をおびた声を耳にしながら、俺は……。 ――自分は、ただのアルバイトですから。 そう、魔法の言葉を持って逃げ切ったのだった。 「ええ、本気です」 そう西島に言い放ち部屋を出ると、俺はローラーコースターへと向かった。
この遊園地に初めてやって来たのは、今から約二年前のことだった。 はてはて、あれは何度目の退職の後だったかは思い出せないのだけれど、とにかく、またできた暇を持て余すために、電車やバス、さらにはロープウェイにまで乗ってやってきた遊園地が、ここだった。 いくら田舎にあるとはいえ、遊園地、と名を語っているくらいだから、個性豊かなマスコット、興奮度の異なる様々なアトラクション、家族の笑顔、カップルの間に立つソフトクリーム、そんなもので溢れかえっているのだと思った。 しかしここには、不気味な笑顔を浮かべるクマのマスコットが一匹しかおらず、アトラクションだって両手の指で数えきれるほどしかない。値段が高いわりに、段差を重ねないアイスを見て大人達は辟易とし、基本的に薄暗く、パレードも何もない遊園地自体に、子供達は魅力を感じていなかった。 だが不思議と、俺はそんな遊園地に次第と惹かれていった。ハンドルのよくきかないコーヒーカップに、やたらとスローモーなゴーカート。傾斜の緩やかなジェットコースターや、故障していて、いつまでも井戸から顔を出すことのないお化け屋敷のお化けなど、全てが仕事を辞めたばかりの俺の肌にあっていた。気がつけばちょくちょくこの遊園地に通うようになっており、スタッフとも挨拶を交わすほど顔なじみになったちょうどそんな頃、ローラーコースターに並んでいる時に背中を叩かれた。振り返ればそこにはスーツに身を包んだ男が立っていて、ぽてっとした腹をこちらに向けながら、にこりと笑ったのだ。そうして、俺の遊園地でのバイト生活が始まった。 「マックーちゃんだー!」 珍しく『マックーちゃん』の名前を知っている女の子と一緒に、写真を撮った。風船を手渡し、バイバイと手を振る。西島から言い任された仕事は、一日中着ぐるみの中に入って、園内を歩き回ることだった。初めのうちこそ西島は、 「気楽に気楽に。好きなように動いてもらってかまわないから」 と、体型に似合った優しさを見せていたのだけれど、徐々に注意する口調は厳しくなっていき、しまいには「ボケ」だの「でくの坊」だの、会社にいた頃と変わらぬ罵声を俺に浴びせるようになった。 「恥ずかしくねえのかよ。マスコット一つ上手に演じられねえで、お前はよ」 ところが俺は、やがてそんな西島の罵声から、この遊園地に初めて訪れた時に感じた、あの妙な高揚感と似たものを覚えるようになっていった。毎朝の朝礼では、日本一の遊園地作りにかける思いを熱く語り、スタッフのミス(特にお客様を怒らしてしまった場合)は徹底してねちねちと怒り倒す。その一方で、来客数は日に日に減っていき、そんな中でもあがこうとする西島の姿は酷く滑稽に目に映り、いくらなんでも自分はこいつよりはマシだろうと、心から思えるのだった。そして、たとえどんなに客から怒られようが、全ての罪は社員である西島が率先してかぶり、ミスをした俺らはただ頭を下げればいいだけという、そんなパターンにも慣れてきた。自分はアルバイトなんで〜、社員はこっちなんで〜。今日も、なにやら騒がしくなりだしたゲームコーナーに猛ダッシュする西島を傍目に、俺は出来るだけ人の集まらない場所を求めて移動する。問題に巻き込まれるのはごめんだし、西島が面倒に対してあたふたしている姿を想像すると、ちょっとだけ気分がいい。ああ、『アルバイト』という肩書きは、なんて素晴らしいのだろう。 向こうの方では観覧車が、オレンジ色の太陽を背中に負いながらゆっくりと回転を続けている。各アトラクションの影が、地面に大きな闇を作りはじめる。今日ももうすぐ終わりだ。閉園後はスタッフみんなで掃除をし、社員である西島の怒号が飛ぶ中でミーティングを行う。帰りは、他のスタッフ達と西島の悪口を言い合いながら、駅前の屋台でラーメンをすする。そんないつもと変わらぬ日であるはずなのに、今日に限って言えば、あからさまに西島の様子がおかしかった。日中にゲームコーナーで起きた客同士の喧嘩を、的確に素早くおさめることができなかったスタッフがいるというのに、声を荒げることなく、むしろその話題にすら触れることなく、たんたんと今日の売り上げを述べた後に解散を告げたのだった。拍子を抜かれたスタッフ達は、せっかく久しぶりに早く帰れるというにも関わらず、その場にしばらく立ちすくんだままだった。 「お前らどうした、帰らないのか?」 ない頭を撫でながら、西島が低いトーンでそう口にすると、そそくさと一人、また一人、いつもより早く帰り支度を済ませて部屋をあとにしていく。俺はしばらく、その場から動くことが出来なかった。丸められた背中に、先ほどから手のつけられていない缶コーヒー。そんな、とことんらしくない姿を見せつけられてしまっては、ラーメンをすする気にはなれない。 「なんだよ、お前もさっさと帰れよ」 かといって、心配して近づいたら近づいたで、そう憎たらしい言葉を吐くものだから、俺は、ふんっ、とバックを抱え部屋を出ると、ラーメン組に追いつくように夜の園内を駆け出す。おおかた、奥さんと喧嘩でもしたのだろう。実に無駄な感情を、あんな奴に抱いちまったもんだ。近くにある森からは、フクロウの鳴き声が聞こえてくる。空に出てる丸い月は、こうこうとした白い光で園内を照り輝かせていた。
何の連絡もなしに、西島が遊園地を休むようになった。 いつも誰よりも早くに出勤して、スタッフルームの一番奥の席、そこにどっかりと偉そうに座っている短足デブの姿を、ここの所めっきりと見なくなっていた。今日も代わりに座っているのは、カジュアルな服に身を包んだ優男。 「あれ、今日も西島さん休みか」 「さあね」 それから一ヶ月、二ヶ月と休みがたて続き、今となってはアルバイトのスタッフ達が、西島の不在を珍しがることはなくなった。それどころか、彼の代理としてやって来た近藤というまだ二十代半ばの男に、女共はうつつすらぬかしはじめていた。 「さあ、みなさん、今日も元気よくいきましょう」 いつもと変わらない近藤の文句に、スタッフ達はだらだらと、それぞれの持ち場に散らばりはじめる。欠伸をする者、首の間接をやたらとならす者、早くも夜のコンパでの作戦を、熱心に練りだす者達。 もし西島が、こんな光景を目の当たりにしたら間違いなく怒声を飛ばしているだろう。ばかやろー、お前らなんかやめちまえ、代わりはいくらでもいるんだからな! ……はて、けれど西島に、そう怒られて本当に辞めた奴ってまだいないよな。俺はそんなことを考えながら、安い居酒屋で安い酒を飲んでいる。隣ではさっき出会ったばかりの女が、あなたの働く遊園地に行ってみたいと、壊れたCDのように繰り返し口にしている。メリーゴーランド担当の男は、気に入った女がいないのか酒を黙々と飲み続けていて、この合コンを企画した観覧者の男は、いつのまにか一人の女と姿を消していた。 「ねえ、遊園地で仕事なんて、楽しいでしょう」 注がれたビールを一気に飲み干し、俺は首を傾げる。 「あら、どうして」 「さあね」 素っ気なく席を立ち、奥の席でぐったりとうな垂れている近藤に近寄った。彼のはだけた胸元からは、少しだけコロンの香りが漂っていた。 「近藤くん、大丈夫かい?」 「ああ、すみません。せっかく誘っていただいたのに」 水を渡してやると近藤の中指につけられた、まがまがしいデザインの指輪が目に入った。ドクロ、いや、若い子はスカルって言うのかな。 「なあ近藤くん。近藤くんは、いつも私服で出社してくるね」 ええまあ、と、アルコールのせいか、それとも若さからか、特に悪びれる様子もなく、 「うちの会社って、割と自由がきくんですよ」 と、指輪を撫でながら続けた。 「まあそんな中でも、バカ律儀にスーツで現場に向かう者はいますが」 「例えば西島さんとか?」 「そうです、そうです」 笑いながら近藤は、水の入ったコップに口をつけ、勢いよく喉をならす。今回の合コンに見切りを付けた女達が、一人、また一人と、何かしらの理由を述べて帰っていく。その様子をうつろな目で眺めていた近藤が、ババア、と小さく呟き、だしぬけに口をひらいた。 「あの人は、バカですよ」 「え?」 居酒屋の照明が、明度を一つ落とした。グラスにはりついた水滴が、机の上にぽたりと垂れる。 「でも西島さんは、君の上司だろ」 「そうですけど……上司を選べないのも、サラリーマンの辛いとこです」 気持ちが分からないわけではない。俺だってサラリーマン時代、上司の理不尽なキレ方や仕事の押し付けに、いい加減うんざりしたからこそ今の状況にあるのだ。それから近藤は、西島に対する愚痴を吐き続けた。やり方が古い、精神論がナンセンス、偉そうに大口を叩いたわりに、遊園地を再建できなかったじゃねーか。だけど、どうしてだろう。これらの愚痴に、こうも共感を示せないのは。 「皆さんには悪いですが、僕はあの遊園地はもう終わりだと思っています」 エンジンのかかってきた近藤は、頭をふらつかせながら語り続ける。 「この際だから言わせてもらいますけど、社ではもう閉園した方がいいという声も上がっています。このまま続けていても赤字が増えるだけだし、僕もさっさと内勤業務に戻りたいんだけどなあ」 「……そのことに、西島さんはなんて」 「『マックーちゃん』は今にきっと名物になります、だから、スタッフ達と一緒にもう少し頑張らせてくださいの一点張りですよ。そうあまりにも上にたてつきすぎて、今は中でつまらない仕事をさせられています。ああ、西島ってめんどくさいんだよなあ。社に戻る度に、遊園地はどうだった? 売り上げはどうだ? ってしつこいんだもん」 小鉢にたまった枝豆の皮を眺めながら、ただ黙って近藤の話を聞いていた。明らかに、アルコールではない何かが胸の動悸を早くする。何故か頭には、『マックーちゃん』を初めて身にまとった日が思い浮かんだ。絶対に、『マックーちゃん』でこの遊園地を盛り上げてやろうぜ。同世代にだからこそ言える、そんな熱くて臭いセリフを西島から吐かれたあの日、俺はたったの一瞬でも、やってやろう! という気にはならなかっただろうか。それなのに、いつの間にかアルバイトという肩書きにどっかりと身を預け、楽を覚え、さらには、自分を遊園地に誘ってくれた西島の、足ばかりを引っ張っている。 翌日、俺は珍しく早起きし、電車に乗り、バスに乗り、ロープウェイではまだかまだかと足をならし、遊園地までは走って向かった。今日の業務が始まる前に、アルバイトとしてではなく人生の先輩として、近藤にガツンと言ってやろうという気になったのだ。走りながら、らしくないことをしているなと思う。けれど、朝靄の中で輝くローラーコースターの鉄柱や、ゴーカートのコース脇に咲き乱れる花々が、らしい、らしくないなど、すぐにどうでもよくさせた。足取りは軽い。観覧車の向こうに広がる空の青は、どもまでも遠くに澄み渡っている。 しかし、勢いそのままにスタッフルームのドアを鍵で開けようとした瞬間、内側からドアが開かれた。一番乗りではなかったことに驚いたが、それ以上に、部屋の中から現れた人物を見て息が止まった。 「おう、久しぶりだな」 親戚が久しぶりに実家にやって来たかのような軽々しい口調で、スーツ姿の短足デブは、にこりと笑い手をあげた。
「あー、マック―ちゃん!」 女の子の握手してー、というリクエストに、俺は素直に応じる。写真を撮りたいと言われれば、おどけたポーズでカメラの前に立ち、夜のパレードでは、俺が一番それらしく動けるからという理由で、率先して『マックーちゃん』の中に入った。 「どうも、今月もお疲れさまでした」 「ありがとうございます」 月末、茶封筒に入れられたちょっとしたボーナスと来月のスケジュール表を、タックの入ったチノパンに、カーディガン姿の細谷から受け取った。一身上の都合から会社を辞めた近藤の代わりにやって来た細谷は、今のところはまあよくやってくれていると思う。四十半ばという年齢がそうさせるのか、冒険心や決断力に少し欠ける場面が見られることもあるが、スタッフが働きやすい環境を作ることに関しては、まぎれもなく一流である。 「ちょっといいですか?」 受け取ったボーナス(その月、どれほど園に貢献してくれたかを細谷が独断で評価し、わずかながらも現金が入れられてある)をバックの中にしまい帰ろうとすると、細谷に呼び止められた。 「来月に行うショーのことなんですが」 「ああ、それは大丈夫です。相手にちゃんと連絡がつきましたので、日付の変更はナシでお願いします」 さすがですね、お疲れ様、と細谷は安堵の表情を浮かべて、 「そうそう、それと、例の件も真剣に考えておいてくださいね」 そう言って、締めの仕事に戻っていった。 あの日、久しぶりにこの遊園地に現れた西島が、二度と姿を見せなくなってからちょうど一年が過ぎた。細谷の経営手腕ももちろんそうだが、やる気を出したスタッフ達の働きもあり、遊園地は少しずつではあるが活気づいてきた。 「ありがとう、ヒーローショーは大成功だったね。今月末のボーナスもはずんでおくから」 今では俺も園の行事にバンバン口を出すようになり、社の人間と一緒になって、企画会議に出ることだって珍しくない。アルバイトリーダーとして日々やることは多く、他のスタッフに比べて帰りはどうしても遅くなってしまうけど、それでも『マックーちゃん』の中に入って園内をぶらぶらしていただけの頃に比べたら、毎日がとても充実しているように感じた。 「おめでとう! 閉園が先送りになりました。これも、皆さんがよく頑張ってくれたおかげです」 細谷のその発表に、スタッフ達は手を取り合って喜んだ。しかし俺は、一年前に園の存続と引き換えに会社を去る羽目になった西島が、ちゃんとこの報告を受けたのかどうかそのことばかりに気をとられ、乾杯した衝撃でビールを少しテーブルにこぼしてしまった。 ――俺なあ、会社辞めることにしたんだよ。 ふと、西島の言葉が蘇る。 ――そんな……じゃあ、俺も辞めます。 ――馬鹿言ってんじゃねえ。お前まで辞めちまったら、だれがマックーちゃんの中に入るんだよ。 笑われながら、トン、と胸に押し当てられた、毛深い拳。 ――遊園地を頼むぞ。同世代だから言ってるんじゃねえ。お前は、やる気になれば出来る奴だって知ってるからだ。 青臭いと思う。そういうの、ナンセンスだとも思う。拳を押し当てられた胸が、いつまでたっても熱を帯びていてる。じゃあな、と去って行く西島の背中は、アイロンがかけられたよう真っすぐに伸びていた。まだ、近藤や他のスタッフが来るまで時間がある。気がつけば、誰もいない遊園地でただ一人、ゴミを拾っていた。 「どうですか、例の件は考えてくれましたか?」 「いえ、その、もう少しだけ考えさせてください」 言うと細谷は残念そうに、空いているグラスをテーブルの端の方へとよせ始めた。かちゃかちゃとグラスのぶつかり合う音。一緒に遊園地の再建を誓った他のスタッフ達は、気持ち良さそうに体を揺らしている。俺は、細谷をはじめとする会社からの誘いに、未だいい返事を出来ずにいる。アルバイトではなく社員として働かないか、給料だって桁違いによくなるし、君だったら大歓迎だよ。このご時世にそんな有り難い話をいただけたというのに、なかなか首を縦にふることが出来ない。 「まあ、気が変わったらいつでも言ってね」 今日も、遊園地までわざわざ足を運んでくれた社員の方に、俺は『マックーちゃん』の頭部を手に抱えながら頭を下げる。ふんぎりがつかない。社員となった自分が想像つかない。そして何より、誰よりも遊園地に想いをはせ、一生懸命に動いたはずの、西島の去り行くあの背中を見てしまっては、何を持って正社員となるのかが、よく分からないのだ。
それからさらに、数年の月日が経った。 四十を目前に控えた今、着ぐるみの中に一日中入っているのは体力的にしんどくなった。夜のパレードにはここ何ヶ月と出演しておらず、夏場の特に暑い日などは、新人の若い奴らに『マックーちゃん』をまるまる任せるなんてことが、しょっちゅうになった。 「おい、ちょっとこっちに来い」 俺は、新人をスタッフルームに呼び出した。 「なんすか?」 「なんすかじゃねーよ。お前、マックーちゃん脱いでみろ」 新人は、舌うちをならしながら頭を外し、顔を露にした。何度注意してもいっこうに切ってこない茶色のロン毛が、汗でしっとり湿りながらきらきらと輝いている。 「お前、ガム噛んでるだろ」 「ガムぐらいいいじゃねえっすか。どうせクマに隠れてて、客には見えねーんだし」 「……ちゃんだ」 「は?」 「クマじゃなくて、マックーちゃんだ」 そういうのわけわかんねーっす、と新人は言いながら、だらだらと持ち場へ戻っていった。 俺は今、かつて西島がよく座っていた席で頭を抱えている。遊園地はガイド本に取り上げられるほど大きくなり、来年からは、また新たな『マックーちゃん』グッズが発売されることも決定した。アルバイトリーダーとしての給料は申し分ないものの、以前のように細谷から、社員にならないかと誘われることはなくなった。 「おはようございます」 「おう、おはよう」 朝は一番早くに出勤し、次から次にやってくるスタッフ達の様子を眺める。茶色い髪に、指輪にピアスに。ここ数年で、スタッフ達の平均年齢はぐっと若くなった。遊園地の復興を誓い合ったかつての仲間達は、次から次へとここを離れていき、細谷の誘いに乗って本社勤務となった者からは、結局は地方営業に飛ばされる羽目になったとメールがあった。 「すみません、お客様からクレームが入りました」 かかってきた内線電話をとり、またか、と思う。『マックーちゃん』を着なくなって、こうしてスタッフルームで暇を持て余す時間が多くなると、必然的にクレーム処理へと駆り出される回数が増えた。不在がちな細谷の代わりに、遊園地の勝手をよく知っている俺に、アルバイト達は責任を押しつけるのだ。 「どんなクレームだ?」 「それがよく分からなくて。お客様が、マックーちゃんに一方的にキレだしたっていうか」 「もういい。すぐに行く」 若い奴らは、起きた問題の報告すらも的確に伝えることが出来ない。現場に向かう前に、鏡の前でネクタイを締め直していると、なんだかこの仕事を辞めたくなってきた。話しのまったく合わないスタッフ達と一緒に、もっともっと遊園地を盛り上げてやろうなどという気には、もはやならない。自分に向けられるアルバイト達からの陰口や、こうした面倒なことばかりを押しつけられる今の環境には、もううんざりだ。もっと楽な仕事を、もっと、重圧の少ない職場に。けれどもはたして本当にそれでいいのか、今では自分自身、分からなくなっている。 現場であるローラーコースター前にたどり着くと、こちらに気づいた『マックーちゃん』が待ってましたと言わんばかりに駆け寄ってきた。 「どうしたっていうんだ」 「どうしたもこうしたもねっすよ。あのオヤジが、マックーちゃんの動きが全然なってないって、いちゃもんつけるんすよ」 『マックーちゃん』のイメージを壊さない為にも、俺は新人にスタッフルームへ先に帰っているように指示を出し、男の方を見た。するとそこには、よれたスーツに身を包み、大きく手を振る短足デブの姿があった。そしてその隣では、こちらに向かって深々と頭を下げる女性がいて、彼女の手をしっかりと握るまだ幼い少女は、買ってもらったアイスを宝物のように大事に見つめている。 「おーい、久しぶりだなー」 俺は、溢れ出てくるものを堪える為に空を仰いだ。相変わらずゆっくりと回る観覧車は、風になびかれ揺れていた。こんな時にこそ、『マックーちゃん』の中にいたいと思う。久しぶりに会う元上司に見せる顔は、常に笑顔の、『マックーちゃん』がいいに決まっているから。 (了)
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