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作品名:永遠 作者:涸井一京

最終回   1
 平均寿命がどうであろうと、人生五十年と考える。
 実際五十になっても、危機感というものが全く無い。二十歳より人生の終わりが近いという実感が無い。身体の不調などがまるで無いせいもある。やっておかなければならない、後始末があるはずだが、先延ばしにしてしまう。
 何も手をつけないまま、時は過ぎる。五、六年経つと、身体の突発的な奇妙な痛み。原因不明のなんとなくな不快。微妙な異変を感じる。終わりが近いという、お知らせのような気がしている。自分もそう遠くはない将来消えてなくなる。
 重い腰が上がる。そしてすぐに日常に埋没する。追い詰められないとやらない方の人間だという自覚はある。実際、それですらないようだ。追い詰められたら追い詰められたで、言い訳を見つける。今日、明日に死ぬ訳ではないし、将来使う事があるかもしれない。この判断が正しい未来を信じる。もう少しいいかな。いい訳がない。手をつけてもふんぎりがつかない。
 ゴミのはずである。簡単に捨てられるはず。しかし、いざ目の前にすると、当時の感情が蘇る。全く忘れていたのに、ちょっとした物を見ただけで鮮やかに記憶は蘇る。
 日記をつけている。これは更に恐ろしい。読んでみる。書いた記憶がある。後から現実の出来事を思い出す。書くという行為の方が、体験より印象に残っている。一瞬の体験より当てはまる言葉を探す行為の方が、時間と労力を要するせいか。脳の神秘に感心する。そんな場合ではないのだが。
 日記をつけ出してから、もう何十年にもなる。残す気も、誰かに見せる気も無い。終わりにしなければならないと思う。更にこれを処分する必要がある。何のために苦労して書いたのか分からない。まだ若い頃は、残す事に意味があると思っていた。若いとは、終わりを感じない事だから。
 雇い止めにあったあの日、それを知り絶句してくれた正社員。感謝し、握手を求める非正規は、色々教えたためか。「数々の危機を乗り越えたのにな」と言う上司は、仕事上の困難を超えた事ではなく、仕事が減った時の首切りの話。「涙が出てくるわ」と言った女子。別に俺の事が好きだったわけではなく、非正規同士同じ境遇の人間がそういう目に合った事に対してである。明日は我が身、そして風景は変化する。日常が崩れる。ありもしない平穏な日常。それが初めから存在しないという当たり前の事実を突き付けられた。
 荒っぽい工場なのに、敬語が混じり出す。元の他人に戻って行く感じがした。送別会のように丸めたゴミでキャッチボールをしてくれた。名残惜しむと言うか、今までの苦労をねぎらうように。「一度、そんな長期で休みたい」「次が決まってるわけでもないので、落ち着かないよ」彼流の慰め。悪い事を、まるで羨ましい事のように言ってみせた。
 若い男が、「最後にいつもの作業を」とやらせてくれた。引退する野球選手のようだ。愛用のカッターは会社の備品だ。「これ使ってくれ」と渡す。「殿堂入りにします」と。普段、ぶっきらぼうで無愛想な男は、「がんばってください」と言った。最後の着替え。早く終わった男は、正面を向いて、丁寧に頭を下げ、帰って行った。新入りの頃、仕事を教えたせいだと思う。
 誇れるものが何もない人生だと思っていた。日記を読み、何か誇らしい気分になった。当時は何も感じなかったが、年を重ねて振り返ると、幸せな人生だったと思う。社会的成功は無いし、客観的に見れば、そうではないのだろうが。
 過去の自分とその感情を簡単には捨てられない。物を捨てると、失った記憶を再び蘇らせる事はできない。完全に忘却される。永遠に消え去る。日記帳を眺めながら、手は止まる。また躊躇する。

 あの日の翌日は、全くいつも通りだった。行く所が無いと焦る事も無い。昨日までの職場では、自分以外の皆が、昨日と同じ日常を送っている。でも何の感慨も無い。ただ単に出勤しない、まるで休日のような一日だった。平日にもかかわらず。それが唯一の違い。自発的に休んでいるのではない。それが休日と錯覚させたのだろう。失業は大きな事件のはずだ。それでも新たな日常はすぐに生まれる。日常は徐々に変化する。過去の記憶は薄れて行く。その時に強く印象に残る特別な経験、旅行であるとか部活で優勝したとか。そういう類の記憶ではない。日記で思い出した過去はいつもと少し違うが、日常の範疇だと感じていた。後になって良い事だと気がついた。その後の日常がくだらないものだったせいだ。相対的に平凡な過去が輝いて見えた。そして今がある。過去を忘れていた今がある。
 十代の友人の死は、次は自分と感じない。他人の不幸だ。今回は違うのだ。再確認する。自分の番が回ってきた。使っていない物はもちろん、愛用品とも別れる。なぜこんな悲しい事をするのか。将来、使う事があるかもしれない。その将来は無い。寿命があるからだ。死は確実に来る。そう遠くない予感もある。頭では分かっている。しかしながら死はどこまでも想像であって現実感が無い。それ自体も、その後の自分の亡き世界も。
 無意識に未来の事を考える。七十歳が将来の夢を語る。滑稽だが、故に人間は生きていられるのだろう。常に自らの死を直視できる精神の持ち主はいないのかもしれない。

 暖かく明るい陽射し。風が頬に冷たい。まだ冬なのだと分かる。今日やっておかねければ、明日が無いかもしれないのも分かる。
 恥をかいてもよいではないか。それを感じる者が消え去る。
 父親から何かを託されたのではない。父親は、愛用品に死ぬまで囲まれたい。そんな願望を持っていたのではない。まだまだ先と高を括っていたら、それが来た。散らかしっ放しで死んで行った。そういう事実だけが残った。先人の過ちに学ぶべきだ。永久保存版の永久とは次世代に継ぐ者が存在する事。もしくは本人が若く、未来と永久が同義語となる事が条件だ。
 父親の後始末と自分の後始末を同時に行う。死とは、学校を欠席しているようなものだ。この場にはいないが、家で寝てるみたいな。
 その寝ているはずの家で、俺は他人の領域に入り込む。使えそうな物は使う。別に欲しくはないが、使い道を見つければ、それで片付いたとなる。新しく物を買う気がしない。必要な物も家にある物でなんとかしたい。父の荷物を置いてある、かつての父の部屋は、だんだん自分の持ち物で溢れて行く。持ち主変更で。
 遺品整理は人の歴史を見せつける。物語を読むのと似ている。登場人物という他人か、もしくは肉親ではあるものの、自分ではないという意味での他人。その人生を覗き見る事だ。
 物を買ってきては、丁寧にしまいこんでおしまい。使うことはなかった。所有することに意味があったようだ。母はよく怒っていた。使ってこそ意味があると。人生の終盤になると片付けろと口やかましく言った。「業者に任せたらしまいや」その場しのぎの言い逃れ。当然そう考える。遺品の中から、遺品整理屋のチラシが出てきた。にわかに信じられないが、これを見つけて、ここに連絡しろという意味なのか。古いチラシだ。その業者が自分が死ぬまで営業しているとは限らない。古い情報が役に立たないと分からぬアホではある。チラシすらしまい込んでおしまい。責任を果たしたと満足できるのか。自分の子供は人間なので、寿命があり死ぬことは分かっている。それでも自らの死は想像できない。自分は子供より長生きする気だったのだろうか。
 遺品整理が新たな日常となった。日常は遺品整理すら飲み込む。そして日常は続く。
 庭付き一戸建てが夢だった時代があった。そう長くは続かなかった。新しい家の前に地植えの植物は無い。落ち葉掃きは、老人の唯一の趣味もしくは仕事だった。老人は死人となり、できなくなった。枯れて行く植物を見るのは忍びなく、水をまく。落ち葉だらけの家の前も、近所の迷惑になる。やむを得ず掃く。代替わりとなる。
 不意に見知らぬ若い男が挨拶してきた。実に丁寧だ。困惑した。ポカンと顔を眺めていた.。面影が残っていた。
「あぁ、久しぶり」相手はニコッと笑った。「もう大学生なのかな」「そうです」 とっさに年齢を計算したわけではない。見た目がそうだった。丁寧な挨拶は、野球部に入って先輩、後輩のしきたりを学んだせいだ。俺はただ年上というだけだが。小さい頃一緒に遊んだ記憶が不意に頭をよぎった。彼を生まれた時から知っている。
「では」深い会話も無く行った。互いに照れた。
 服装、表情、その他の子供の頃とは異なる外見の変化。話し方や内容で、その内面と歴史を想像する。それは物語を読むのと似ている。そして自分の人生を知る。目の前の現実の変化は、嫌でも自分の年齢を客観的に理解させる。 

 雲一つ無い晴天の日が続く。とても気分が良い。もう二度と雨は降らないのではないかという気がしてくる。いずれ雨が降る。分かりきってはいるのだが。
 備えあれば憂いなしという。災いに対して備える。その準備が無駄に終わったとしても、それは喜びとなる。そもそも本当に起こるとは考えていない。やっている備えは、日常の安心のためである。自らの死も、地震や火事のように、本当は来ないかもしれないのではないかという気がしてきた。人は、ところてん式に追い出される。分かっているはずなのだが。


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