父は、中学卒業時、就職試験に失敗した。企業が人員確保に奔走している時代なので、有り得ない事だ。本人も落ちるとは思ってもみない。あの時は、一時はどうなるものかと思ったと、後に述懐していた。 担任教師が旧友に頼み込んだ。旧友は、個人商店で人を雇う気はないと断った。困った教師を見て、住み込みの丁稚という形で落ち着いた。 商売は予想以上に繁盛し、人は増えていった。一番弟子たる父は大番頭を期待された。将来の社長たる息子の世話を任された。それはお互い慣れるため。将来の若き社長の右腕として、幹部たちに睨みを利かせるためだ。 社長は時々、従業員に大きな小遣いを渡した。繁華街へ繰り出し、高級カメラを買わせた。従業員一同、思い思いのカメラを持つ姿を見て、悦に入る社長。息子の代になっても、恩は忘れられないはずだった。 将来の大番頭は周囲と衝突した。とりわけ社長夫人に嫌われた。あいつを追い出せと社長にせっついた。社長は一抹の不安を覚えた。が、嫁に逆らう選択肢は無い。息子の後ろ盾は、結婚させて、暖簾分けという穏便な形で退社させる方針が決まった。相手を探す必要ができた。 茶道教室に通う社長夫人は、ある娘に目をつけた。我慢強そうに見えた。聞き合わせで、良い情報を得た。 そして見合いの席が設けられた。 娘は呆れ返っていた。ろくに話もせずに、出された饅頭をぱくつくのに夢中。「どうしてもあんな人は嫌や」と断った。しかし話は進んだ。結婚式の三日前には、自ら仲人である社長夫妻に断りに行った。「じゃあ、あんたのお母さんに貸したお金、耳を揃えて全額今すぐに返して」。 母親に問いただす。「住むとこ用意すると言われた」「そんな話してない。お金は」「うん」。 借金の壁は厚かった。払えないし、母親をほっとこうにも、「恩知らず」だの、「縁を切る」だのと自分の責任を棚に上げ、近所中に嘆いて回った。近所中から親不孝者と罵られ、泣く泣く式を挙げた。 更に、家賃をもってもらえる気でいたが、紹介だけ。家賃は娘が払い続けた。 嫁は懸命に働いた。 母子家庭で育った。持ち家の無い生活。点々と間借りを続けた。どんなに親切な人でも、長くなると嫌な顔をする。居づらく、また放浪することになる。いよいよ行く所がなくなった。「公園で寝よか」と母から言われ、「いやや」と泣いた記憶が鮮明に残っている。 暖簾分けされた商売は、それなりにうまく行った。家が買えた。「やっと」 母は涙ぐんだ。「追い出されずにすむ家が手に入った」。
社長は見栄っ張りで、内部留保が少ない。悪い風が少し吹いただけで会社は揺れた。 丁稚として住み込みで働いた人間と就職として入社した社員との違いは明らかだった。社長の悪い予感は当たった。若い新社長は軽く見られ、良いように古参幹部にあしらわれた。会社が傾いた時は、いいように食い物にされた。会社は耐えられなかった。社長一家は蒸発した。
電車が通るのだと、我が事のように言う祖父。別に自分がそれに関わってるわけでもないのに。 電車が通る。それに大した意味があるとは思えなかった。自分の住む家の近所を走っている。それは特別な事ではなく日常である。 敷設されつつある状態を誇らしげに語る祖父。通る頃にはこの世にいない。本人も見る事、乗る事は願いもしい。遠すぎる未来の話だ。
今は未来。あの日、想像しても霧がかかって何も見えなかった未来。今、霧が晴れた。 父は、田舎を走る電車を見た。が、乗る事は無かった。必要も、思い入れも無かった。街に出て、車を手に入れた。恩義を感じていたのか、いないのかは分からない。「就職試験に落ちて、かえって良かったんだ」とは言っていた。が、社長の悪口もよく言っていた。しかし若社長のことは気にかけていた。 俺は今、鞄に父を詰め込み、それを背負い、祖父自慢の電車に乗っている。貧乏でなかったら行っていたであろう村で唯一の高校。その前の駅で降りる。父は、母校でもないのに野球部の結果を気にしていた。夏は故郷を思い出す季節なのかもしれない。俺はこの高校には初めて来た。父とてわざわざ用も無い高校に来ることは無かった。骨になって、この高校に来た。それは全く無意味だ。遺骨は身体の一部ではあるが。 美しい秋晴れ。稲刈りを思い出す。うちに刈るべき稲が無くなってから、随分時間が経つ。日曜日に田舎に帰り、手伝った。あの日の収穫の気分はよく覚えている。稲刈りの高揚感は、秋晴れが良く似合う。今年の秋は特に美しい。それは終わりを感じるせいだ。終わりのないものはないと、頭では分かっていた。今は、実感としてそれがある。次が無い。来年の秋は無い。その可能性を感じる。 秋晴れの太陽の光は黄色だ。日本シリーズの舞台を照らし出す光。そう言えば、あれも一年の終わりの日だ。黄金色に輝く稲を見て、黄泉の国へ歩いて行く気分になった。それは漢字から連想したのだろうが。 菩提寺を目指す。時々通り過ぎる車は俺が背中に人骨を背負っているとは夢にも思うまい。自分に酔う。何か特別なことをしている感じがする。 十五歳で村を出て、街に出た。 時々帰省はした。八十二歳になり再び村に戻る。そして、そこから永久に動くことはない。 順番が回ってきた。旅は終わる。一番長い旅が。
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