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作品名:ひなたぼっこ 作者:涸井一京

最終回   1
 父は人より早く昼食を始める。十二時前には食べ終わる。世間が食べている時にテレビを見る。それで優越感に浸れる。世間はまだご飯を食べてるが、自分はもう食い終わった。子供の早食い自慢とも違う。食事は仕事。にも関わらず、食に対する執着が激しい。一人でこっそり買ってきた物を隠れて食べる。  
 アホの頭の中は想像しても無意味だ。夕食も同じように早く食べ出す。調理中に米に塩をかけて食べる。食べ終わった頃に出来るおけずは、次の日の昼飯となる。人より早く食べ終わるために、前日から用意するのだ。できたてが美味しいと感じる能力は無い。母はストレスになると怒る。良妻賢母たらんとするため、作らないという選択肢は無い。「友達に言うと、『私やったら捨てるわ』て、言うたはる。私も捨てようか」良妻賢母は、食べ物を捨てない。本気でないのを見透かされてる。父は安心して残し続ける。「作ってる最中に食べ始められるとイラッとくる」昼は、「十一時前に買物から帰っても、先に食べている」。
 父は、人の喜ぶ顔を見るのが何より嫌いだ。人が喜ぶのは、自分が損をしているためと考える。他人が嫌な顔をするのは、自分が得をしている証拠と考える。子供の頃、「ソフトクリームは噛んで食べろ」と言った。子供が嬉しそうに舐めている姿を見たくない。金があるので買い与えられると、他の大人には自慢したい。
 父も母も高齢である。母は、「後、何年も生きひん」と言い、父は想像できない。生前にこれだけは言っておかねば死ねない、という感じで、毎日同じ罵詈雑言を浴びせた。自分は高齢であると自覚していた。必然的に先は長くないと分かっていた。これだけは言わずに死ねない。聞かせずに死なせない。「『今、行かんでも嫌と言うほど旅行に行ける』って、嘘ばっかりや。全然行ってないわ」母は、常識的な愚痴をこぼしていると感じている。実際それは正しい。毎日同じ話を繰り返す以外は。自分でも自覚があるようだが。そして父が非常識な行動を取り続けたのは事実。その場しのぎの嘘を重ねたのも事実。
 食事の間中罵詈雑言を吐く。楽しみの様子。ただ子供を旅行に連れて行けなかった事に対して後悔があるよう。わずかに母らしさは残る。
 それは仕方がないとして、これから、どうすれば幸せになれるのかを考えるよう説得してみる。笑ってごまかすばかりである。今からどうしたいのではない。悪口を言うこと自体に意味がある。
 相手は誰でも構わないよう。徐々に内容も無くなって行く。身近な者から順に対象となる。不幸自慢ができればそれで快感。すでに昔の母はいない。話は転がる。事実と違う事を言うという意味では嘘をつく。他人の迷惑に思い至らない。嘘をつかれても覚えていない。簡単にごまかせてしまう。問題は起こらず、むしろ丸く収まる。

 父の様子がおかしい。まあ、本当に悪かったら、病院から呼び出されるし大丈夫、と自分を納得させられた。
 それ故である。ぐうの音も出ない。
「家族を連れて来るように言われた」と告げられた。
「大した事はない」変わらず現実から逃げる父。本心では分かっている。青ざめて声は弱々しい。
 ガン告知が来てしまった。唯一の望みは、日常の平安をかき乱されない事。そんな事すら叶わない。
 父は、相手が強敵だと理解した。闘う気力はなく、何に対しても興味を無くした。隅から隅まで新聞を読んでいたが、配達された新聞は郵便受けにそのままになり、遅い時刻に家の中に持ち込まれた。テレビも、ラジオもつけず、ひたすら布団の中で時間をやり過ごす。いくら待っても時は解決しない。しかし父は奇跡を信じる。誰かが何とかしてくれると。
 玄関を入ってすぐの客間に布団を敷き、そこで寝起きした。すぐ外に出られる。病院から帰ってすぐ横になれる。戸は開けっ放し。夏というのもあるが、少しでも手間を省くのも理由。便所までの廊下の電気は夜中も付けっ放し。
 父の姿を見る機会は少なくなった。

 同居の家族が死んだ。父親という役柄だ。母にとっては配偶者の死。
 結果は出た。そう、終わりが来たのだから。母の罵詈雑言については、それしかなかった。母にしても予想していたのではない。父に高齢の自覚は無かった。母にはあった。結果は逆だった。何の用意も無いまま終わりが来た。こんなにあっけないとは予想もしなかった。両親の、「晩年」という状態が続くのだと思っていた。少なくとも、自分が高齢者になり、早く逝ってくれと願うくらいに。仕事を辞め、暇な日常を送っている時に、暇潰しがてら、手続きを進めるのだと思っていた。
 二人共悲しくない。涙も出ない。手続き等、面倒臭いと思った。
 その夜も客間に父はいた。安置と言うのだろうが。戸を閉めた。開けておく必要が無くなった。「お休み」なぜかそんな言葉が出た。感情は動かない。死体を見ても、寝ているのと区別がつかない。
 淡々と葬儀社が進める。自分は乗るだけだ。
旅行か何かの長い不在という感じしかしない。元気な時も、ずっと姿を見ていた訳ではない。いない時も空気を感じた。その空気は今も感じる。食べかけの食料や買いだめた酒。持ち物がそのままになってるせいだ。何の整理もせずに死んでしまったせいだ。本当に何もしないまま死にやがった。「死ねば何もかも終わり」そう言っていた。何も準備しなかった。「整理業者に任せたらしまい」その場しのぎしかしない。後の事は何も言ってない。葬儀も誰に連絡するとか。遺産となる物は、持って死ぬべく完全に秘匿した。そもそも自分が死ぬとは思ってない。
 主のいない腕時計が、時を刻む。時計の方が寿命が長かった。自分は、後何年生きる。残りの時間で何をすべき。自分の思い通りに並べた物も勝手に崩され、めぼしい物は抜かれる。自分の物も遠くない将来にそうなる。いくら大切にしていても。亡くなった父の遺品として、次の所有者の物となる。使い続けると、前の所有者の影が消える。
 生前、住んでいない土地を売り、車を処分した。身体がしんどくて乗りたくなかったのだが、客観的に見ると生前整理に見えなくもない。ただの高齢故だが、高齢とは死が近い事という意味では生前整理は自然に為されるものでもある。

 初めての記憶は、「何かわからんけどお母さんは悪ないと思うわ」 と 、殴り続けられる母と父の間に割って入った事。暴力は一層激しくなり、自分も殴られた。後年母は、「えっ、そんな事、覚えてるの」と驚いた。記憶の残らないはずの幼い頃の話らしい。
 父は他人の気持ちを理解する能力は無い。その後、母が言わせたと、更に激しく殴ったらしい。
 晩年の父に浴びせた罵詈雑言。その締めに、「何度、川に飛び込もうかと思った事か」という決まり文句があった。聞き流していたが、不意に記憶が蘇った。
 幼い日、「ひなたぼっこしよか」と玄関先に連れ出された。
そして明るい場所にしゃがみこんだ。
「ひなたぼっこって、なにするの」
「なにも」
無表情に答えて、ただ何もしない状態が続く。理解出来ずに、同じ質問をした。
「おひさんにあたるだけ」それだけ言って黙った。混乱し始めた幼い息子を見て、影を指差した。
「こことちごて、あたたかいやろ」
ずっとしゃがみこんだ母を時々横目で見た。
あたたかいやろは、真実。太陽からの自然のあたたかいは、チリチリして気持ち良い。冬なのにポカポカ。明るくて柔らかい陽の光。不思議ではあるが、不気味とは感じない。
でも、母が立ち上がり、「おうち、はいろか」と言った時には、ほっとした。

呆気なさすぎて、死が遠いものではないという実感がわく。死とは、どこかの他人の不幸と感じていた。母もそう先のことではない。無から一より、一からニは、ただでさえ敷居が低い。
一人になる。終わりの始まり。これからは終焉に向けた準備の期間となる。生きてる事で出てしまうゴミの後始末だ。人間関係は連絡を取らないようにして、自然消滅させようか。日記を書くのを止めなければ。
 止めるだけでなく、すでに書いた物も、時期を見て処分する必要がある。処分するとなると、読み返したくなるのだろう。進まなさそうだ。帳面は古紙回収に出すべきか。他人に読まれて困る物は無い。
いつか買おうなんていう、憧れの高級商品も諦める。楽しむ時間が無い。使えるまま処分されるのは忍びない。
その場で消費出来るので、食品ならいいかとも考えるものの、値段に見合う美味しいを、感じる能力に自信が無い。
世の中で一番うまい食べ物は、三日間何も食べなかった後に食べる握り飯だ。それは病み上がりであってもいいし、貧乏でもいい。三食食べられるのは幸せだが、時間が来れば、食べる。それは義務か仕事になり、必ずしも味わうことはできない。生命維持の観点から、胃に入れるだけでも意味はあるだろうが。
ある意味金ができた。使える金という意味で。終わりを感じるとは、そういう事だ。老後の為の備えの金。その老後はそう長くはなさそうだ。しかし、高級な物を買い求めても、あの握り飯には及ばない。
 死ねば、現世の何もかも、あらゆる事が出来ないのだ。完全なる無。
 しかし残るものもある。死後の処理だ。自分で自分の遺体は処理出来ない。それは金で解決する。
 ぐずぐず患いながら死ねない場合はどうなる。助けてもらうにも金がいる。いくらあっても不安は尽きぬ。そう、使える金は無い。それは性分に由来する。
 残された唯一の将来は、それだ。何、長生きしたのだ。故に遭遇した事態。悲しむ事でもない。
 残りの人生を一人で過ごす。客観的に見れば、そこは廃墟かお化け屋敷かもしれない。中には多くの位牌と動く人間が一人。
 廃墟は最も新しい遺跡。管理人として少々。死んで、見つかるまでは、死体入りのお化け屋敷。


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