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作品名:ずっと空を見ていた 作者:涸井一京

最終回   1
 正月は、普通は実家に帰るのだ。終わると元の場所に戻って行く。家を出ず、したがって戻る場所の無い引きこもりは、ただ眺める。冷たい視線。憐れみの視線。
 初釜、旗開き、一年が始まって行くのを、ただ眺める。去年も同じ。今年も同じ。そして来年も。
 他の家族が正月用に買い込んだ酒、つまみ。余った物をいただくのが楽しみ。並べると幸せ。減っていくが、増えない。また来年だ。
 
 強迫神経症を患い、大学受験に失敗。さらに崩れて、受験もしない。そして働かない。昼夜逆転。
 生活を立て直してから、社会復帰。そんな強い気持ちがあるのなら、ハナから引きこもりになってない。
 試しに、一日徹夜ならぬ徹昼して、夜早いうちに寝る事にした。高揚を伴う大作戦。昼間立って眠気に耐える。何もする事が無いので何もしない。退屈で余計眠くなる。睡魔と戦う勇者の俺。夜十時、人生最高の快楽を伴う眠りにつく。
 早朝目が覚める。はずが、いきなり寝坊。人生うまくいかないと言うか、慣れない事をして疲れすぎた。昼過ぎ起き出し、再び夜更かし。昼夜逆転に逆戻り。
 連日の小言。嫌味に耐え忍ぶ。
 ある夜中、頭が混乱した。動けなくなった。時間だけが過ぎていく。やる事があると、それに引っ張られるらしいが、自分には無い。自分の体感では、それはあり得ない。この混乱が、何かやる用事があるから解決するとは思えない。
 一歩を踏み出したからと言って、何も困ることが起こるわけではない。それは頭では分かる。何しろ家の中に居続け、何もしていないのだ。
 勇気を出して、踏み出す。更に頭が混乱する。蟻地獄にはまり、一層の混乱に陥る恐怖で、足がすくむ。慌てて元に戻る。
 時間が過ぎる。辺りが白み出す。時間が経ち過ぎて、何が原因で頭が混乱したか、分からなくなる。問題が起こり、その問題が何か分からない。解決不能だ。
 家族が次々と起き出してくる。ギョッとされた後、究極の白い目をくれる。また一段進んでしまった。
 母は掃除機をかける。全くの邪魔者。寝ていてくれた方が良い。俺にしたところで、他人の視線は痛い。どのくらい時間が経ったのか。忘れてしまうというのも解決方法の一種のようだ。動けそうだ。
 寝るという、用とは言えない用事がある。
 布団に入る。やっとここまでたどり着けた。疲労と安心。ぐっすり寝たようだ。深夜に目が覚める。世間は寝静まっている。布団の中で考え事をする。ふと思い立つ。この時刻に起床したのなら、主観的には、それは深夜ではなく、早朝かもしれない。
 外に出る。
 起きていたのか、起きてきたのかなど、他人に見分けはつかぬ。他人の目は無いが。
 この状態は実に気分が良い。車道をふらふらと歩いていても、咎める車は無い。自由とは他人のいない、社会として成立していない状態かもしれない。ただ、今は見せかけに過ぎぬ。朝道という言葉は無い。早朝、早起きした体にして、外に出たのだとしても、夜ではないと言い張っても、自然界では夜の延長。人間の都合など考慮しない。暗いので、夜道と同じく気をつけなくてはならない。
 家に帰る。非日常の経験は、それなりの高揚感を伴う。これをきっかけに、今日で全ての駄目が終わる。今日で全てが変わる。今日で全てが新しく始まるはずなのに。
 いきなり頭は混乱する。強迫神経症の症状がいつものように出る。高揚感は消える。
 幸か不幸か、遅刻する会社も学校も無い。する事は無い。時間は簡単に狂って行き、元の深夜型に戻る。ある意味、これが自然なのだ。 
 しかし失望はなく、安心している。何か自分らしい感じがする。何より変化は恐怖なのだ。いかなる変化であろうとも。

 負の連鎖というやつは、暴力や貧困だけでない。価値観というのもある。
 母は、子供の頃、家賃を払えず家を転々とした。親切で間貸ししてくれる人も長引くと嫌な顔をした。
 結婚して夫婦で営んだ商売は成功した。大金を得た。「よその奥さんみたいに宝石を買い漁ったり、美容にお金をかけたりはしない」それが口癖だった。「 会社員ならもらっただけ使えるが、商売人はそういうわけにはいかない。終身雇用じゃない。来月も再来月も確実な収入があるわけじゃない。いつ無収入になるかわからない。倒産して無一文になるかもしれない。 家を追い出されるかもしれない。世話になった人達に迷惑かけるかもしれない。そんな人たちに少しでも返せるように、お金を残しておく」何か欲しがると、よく口にした。「贅沢三昧はしない。でも必要なものは買えば良い」商売が傾いても、家だけは守るという固い決意があった。金はそのためのもの。
 子は無駄遣いしない。通り越して極端な節約をする。残してどうするではない。ただ安心のためにそうする。
 よりやっかいな母親の無念は、学歴が無い事。息子は自己実現の道具で作品。息子の成績は、母親たる己の評価。
 望外の成績を得た。次に進学する学校については、良い所に行けるという希望がある。学校自体が目的化し、その先は想像もできない。学校はただの通過点で、社会に出てからが本当の勝負だと知る由もない。
 故にあの日感じた希望のその結末は、必然であったのだと思う。
 心は壊れた。
 輝きを失った、有名な天才のその後の悲惨な人生は、凡才の人生を肯定する。心の拠り所となる。俺には特に必要だ。
 人生、終わってると実感するのに、死なない。死ななければ、死ぬべきとは思うが死なない。
 楽しくないと生きてちゃダメですか。生きる。それは本能か。そんなはずはない。大器晩成だから生きているのだ。はずだ。
 働こう。

 他人が活動する時間に何とか布団から抜け出す。それは大事件のはず。感慨は無い。そもそも普通のことだ。大したことでないことが、大げさに感じられていた。もっと早く、という後悔もない。精神的な問題とはいえ、身体が動かなかったのは事実だ。
 街をさまよう。本屋に入る。昔から、時間があってもできることは、この程度のこと。この時間に街を歩いている。無職なのか、ただ平日休みなのかは、他人には区別がつかない。いや そもそも興味がない。
 飲食店の前の貼り紙が目に入る。引っかかるが、通り過ぎた。逡巡の泥沼は永久に続くと感じた。なぜあの時思い切らなかったのかと永久に後悔するような気がした。永久に苦しむような気がした。かっこ悪くてもバカにされても、入ってしまうのが一番楽なはず。来た道を戻り、ためらいなく一気に入る以外に道はない。
 踵を返す。
 飲食店が近づいてくる。怖くて仕方がない。逃げた方が楽な気がする。逃げない方が楽な気がする。迷いに迷った。自分でもどうなるのか分からない。飲食店の前に来た時、たまたま振り子がそちらに振っていただけだ。全てを投げ捨てる覚悟、そんなものはない。ある意味、発作的に自殺するようなものだ。
 店内に入る。
「いらっしゃい」見事な肩透かし。 客と思われる。それが普通だ。当たり前のことに気づく。
 わずかだが金は持っていたので、今なら逃げられる、と感じた。客として注文してしまえばいいのだ。しかしここで逃げれば永久に逃げ続けることになるだろうと予感した。
「違います。貼り紙を見て」
 相手は戸惑う。いかつい顔の店員はひどく優しい対応をした。世の中が変わった。文字通り隔世していた俺だからこそ感じる。
 社長に知らせるからと、名前と住所を書かせてくれた。
 家に帰り、母に報告した。
 母は、社会復帰になるかもしれないその第一歩を喜ばず、泣き崩れた。 自分にとっては社会復帰の第一歩だからこんなもんだろうと思った。皿洗いというのが悪かったのだろうか。中年にさしかかる男がする仕事ではないのだろう。 
 何日待っても、不合格の連絡すらない。それでも相手を優しいと感じる。 相手にする価値のない相手をまともに相手してくれた。ある行動が習慣化する時、どんどん洗練されて行く。一人一人の行動や意識の変化は社会の変化となる。そして社会も洗練されていく。自分が生きている短い間でも、人間社会は変化して行く。見た目も中身も。懐かしの映像とは見たこともない奇異な風俗と風景だった。現実に見たことのない髪型だったり、服装だったりする。懐かしの映像の中に、己の見慣れた髪型、自分もしていたような服装を見た。現実に見てきた見慣れた風景。記憶の中にある風景。それが懐かしいのだそうだ。
 あの貼り紙は、古ぼけて、貼りっぱなしのようだった。ただの景気づけか。人が欲しいほど繁盛していると、世間に対して訴えているのか。本当は、人を雇う気がないのか。いや俺が全くの不合格人間なのだろう。
 しかし、どこかに受け入れてもらえそうな気がした。

 同年輩の他人のいない平日の午後。自転車で川に行く。まばらでも散歩する人がいる。河原に立つ。座り込みはしない。大きな空と水の流れ。自然の中で人間は油断してはならぬ。危険に備えるのだ。
 陽光をずっと見ていた。木や水面やら地面の草に反射する光だ。
 空に浮かぶ雲の色が変わって行く。その様を認識する力は無い。ふと気付くと、さっきとは違う。白色に変わって乳白色となっている。
 冬の横から来る光が目に入り、開けられないほどに眩しい。黄色がかった弱々しい光が眩しい。そのくせちっとも暖かくない。やさしい光だ。
 人間社会の一員ではあるものの、とある星の上で生きている、ただの生物と言うという実感が湧く。人類が他の惑星で生物を見つけたならば、彼等が生きているというだけで価値を見出す。
 一仕事終えた気分で、 家路につく。歩道で初老の女性とすれ違う。お互い寄せて待つ。先に行かせてもらう。会釈する。笑顔を返してくれた。自分が嫌になる。待ってくれそうなのに止まった。念のためではあった。しかし、いい人ぶった。
 俺は後何年生きるのだろう。何をすべきなのだろうか。 そもそも何かができるのだろうか。


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