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作品名:雨の降らない街 作者:涸井一京

最終回   1
 停留所に向かう足は重い。うつむき加減の俺の視界に異物が入る。俺の感性が危険を知らせる。それが何か認識しないまま避ける。通り過ぎてから、気分が悪くなる。
 朝から、他人の吐瀉物を見せられた。酔っ払いは病人ではないが、苦しいという共通点がある。その経験がある者は、同じ穴のむじなとして同情するべきなのだろう。しかし、不愉快になり、見知らぬ酔っ払いを非難し、飲酒量を制御できないマヌケと軽蔑している。
 停留所に向かう足はより重くなる。前夜、早い朝に備えた自分と羽目を外した奴。いつまでも不快だ。一人暮らしだろうか。酔いつぶれた家人の不始末を詫びる気持ちから、水を流す者もいない。
 毎日、吐瀉物は乾いて行く。本人も知らぬ顔を決め込む。
 跡だけが残り、知らぬ者には、それが何だか分からなくなった頃、道端に、新しいおにぎり一個が落ちている。どうして一個だけ、おにぎりだけ転げ落ちたのか、想像できない。古くなったゴミと長きに渡ってたまった砂の上で随分目立っている。食べ物を粗末にしたくない。見た限り、完全包装されている。中身は汚れてはいない。食べようと思えば、食べられる。誰かが食べるべきだ。それは自分なのかもしれない。しかし、毒が入っているかもしれない。第一、自分の物ではない。食べたその刹那、所有者が現れる。「泥棒」と罵られる。見捨てる良い言い訳を思いついた。
 視線は感じない。言い訳にならない。
 いや、そもそも見過ごすのが、常識的な行動だ。言い訳は必要無い。
 次の日には、消えていた。ゴミと砂はそのままに。浮浪者に食べられたのか。あるいは、落とし主が回収したのか。近所の住人が、おにぎりだけを拾って捨てた、というのが自然な考え方だ。古いゴミと砂はそのままに。
 吐瀉物の跡はいつまでも、完全には消えない。

 美人と鏡越しに目が合う。目が運転しにくいと文句を言っている。俺は座席に座り、前を向いているだけだと無言で言い訳する。 
 美人は、次は右に曲がるだとか、左だとか、馬鹿に丁寧だ。ここが何通りで、この先の交差点を右折するだとか、まるで実況中継だ。
 さっきから気になるのは、運転席に場違いな美人が座っているからだけではない。口が動かないのだ。それは録音の類ではない。全くの腹話術だ。
 再び目が合う。運転手は美人の自覚が無さそうだ。彼女は、美人とは見られる定めとは、知っている。
 彼女は、仕事にケチをつけられていると、感じているかもしれない。
 彼女は、こちらを見ないと、決めたようだ。
 そして俺は、困った乗客となる。

 この街を流れる大きな川は、昔から、何度も氾濫を繰り返してきた。大げさに見える対策にケチをつける者はいない。渇水で、より無駄に見えてしまっても。
 所々底が浮き出て、小さな島ができている。水の無い、以前、川であった場所になっているが、全体としては、水はぼちぼちと流れている。
 大きな橋の下。橋脚を背に、若い女がいる。太股を大きく露出した部屋着で体育座り。携帯端末をじっと見つめている。そこが自宅の自分の部屋であるような寛ぎ方だ。
 彼女のサラサラの前髪が揺れた。
 水で冷やされた風は、街中の風より幾分冷たい。川べりは、街中より涼しい。水辺で日陰。冷房とは比べるべくもないが、何もないよりかはましだ。冷房が苦手なら、我慢できる暑さになる。彼女はどうなのだろうか。あるいは単に電気代を節約してのことなのか。
 整った顔。美しい肌。女として誇るべきものは、不快な視線を引き寄せる。
 彼女は、ここが自分の部屋でないことを改めて気付く。
 彼女は、身体を半回転させ、大きな橋の橋脚と向かい合わせになった。大きな橋の橋脚は、壁そのものだ。美人は、壁と無言で会話をする変人となった。
 同じ橋の下には、同じ年頃の男女が集団で縄跳びの練習をしている。彼等に背中を向ける女一人。彼女も彼等も、お互い声をかけない。
 彼等は侵略者なのか。もしくは同じ年頃の人間か近くにいて安心なのか。仲間に入ることはない。お互い声をかけることもない。
 雨が降れば、彼女は部屋を出る必要がないのかもしれない。ただ水を感じたいだけかもしれない。
 後ろ向きで見えない彼女の目は、「早く消えろ」と言っている。
 彼女の意志とは無関係に、俺はただの通りすがりだ。

 休日の住宅街は、穏やかでゆっくり時間が流れる。平日の慌ただしさが、何に由来するものなのか考えた。すべては事実ではなく、気のせいなのだ。無意味で無駄な感情の集合なのだ。
 空気か澄んでいる。それは車が少ないせいだ。
 ひどく気分が良い。気分が晴れると言う方が正しいようだ。見るべき物も無いのに不思議だ。日常と違えば、何でも良いのかもしれない。子供の頃、本で読んで、想像した大人の休日は、こんな穏やかな何でもない散歩だった。理屈でなく、気分が良いのは、今の自分が想像の中をふわふわ歩いているせいかもしれない。
 民家から、大きな音にもかかわらず、それなりに気持ちの良い音が出ている。言葉として認識できないが、人が口から発した音であるとは分かる。祈祷の類であることが、想像できる。
 雨乞いが必要な人間は、農業をしているか、野菜の値上がりを気にしているか、節水が嫌な人間だろう。雨乞いは確実に成功する。期限を決めなければ、雨はいずれ降る。
 参加者は、充実的な善行の効果で、希望の朝を迎える。明日からの週間天気予報に傘印は無い。祈祷が、雨乞いでないかもしれないが。
 俺は、まだ穏やかに流れる時間の存在に希望をつなぐ。

 朝の慌ただしい時間。家を出ようとした時、年老いた母が、「胃の調子はいいの」と問うた。なぜこんな時刻にという疑問と、もう一つ疑問かある。何しろ、胃が痛いと言っていたのは、一週間も前の事だ。
 不吉な予感が走る。最後に聞く声のような気がした。
 幼い頃、「日向ぼっこに行こか」と呼びかけた、あの日の口調と優しい声と同じだった。あの日、優しいと感じたのは、勘違いだったのかもしれない。単に弱々しいだけだったのかもしれない。疲れ切って、自分が陽に当たり、休みたかっただけなのかもしれない。
 今朝の言葉は、自分が弱っている事に、無意識で気付いていたのかもしれない。
 無駄に快晴である。俺には希望の朝は来なかった。理屈ではない。気分だ。足が重い。意外に感じないのが、意外だ。昨日の感情も気のせいだと、分かっていたのだろう。
 知らなければ、それが何か分からない跡。シミのようなものが、くっきりと残ってしまった。それは雨が降っても消えはしないだろう。


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