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作品名:姿見 作者:涸井一京

最終回   1
 大人買いとは、子供の頃、できなかったことを実現する。子供時代の夢を叶える。
 喜びは、子供の時にどれだけ欲しかったか、その欲望の、強さに比例する。いや、大概はあの日にできなければ、無意味と知る。もうあの頃のように楽しめない。ただ現在の財力に酔うのだ。
 酒は苦く、食べ物はまずい。読書はすぐに眠くなる。映画を見るために座っているのは苦痛だ。綺麗な景色に感動することはあるが、そこにたどり着くまでの労力と見合わない。博打は退屈ではあるが、勝てばそれなりに嬉しい。自分が祝福されていると感じる。しかし、博打の本来の目的である金が必要ない。使い道がないのだ。それでもないと不安になり、必要以上に貯まると、足りないのではと不安になる。
 睡眠中か唯一悩みのない時間だ。悪夢は、目覚めと共に完全に解決する。
 生きていても仕方がない。心底、実感している。これから、いいことは何もない。いや、今までもなかったような気がする。はっきりしているのは、これから先、苦しいことしかない。
 あそこは、通うだけでは無意味で、結果が必要だ。子供の頃なら、学校に通ったり、毎日、水泳教室に足を運ぶだけで、えらいと褒められた。
 あそこは、結果が出たところで、それから別の苦しみが始まる。
 生きていても仕方がない。それは、人生は価値あるものと認識しているせいだ。しかし、その人生は自分のそれではない。だから、生きている。
 生きていても迷惑なだけだ。それは他人に迷惑をかけるのは良くないと認識しているせいだ。人間は、生きているだけで、他人に何かしらの迷惑をかける。しかしそれはお互いさまである。自分も迷惑をかけられ、それに対処していれば、卑下する必要もない。
 
 砂利を敷き詰めた空地は駄目だ。便利だろう。雑草を処理しなくていい。虫がわかなくて、近所からの苦情も出ない。しかし、空き地は灰色ではだめだ。緑色でなくてはならない。雑草が生い茂り、名前を聞いても誰も答えられない花が咲く。小さな、小さな花。きれいなのに花瓶に生けられることはない。牛乳瓶にさされるのがせいぜいだ。草を掻き分けると虫の死骸が、そこになくてはならない。時々、現金の抜かれた財布などが出てこなくてはならない。
 砂利を敷き詰めた空地は駄目だ。これでは、管理されている事が、子供にでも分かる。敷居が高く、侵入できない。基地ができることはない。
 侵入しにくいなどと感じない、生まれたての子猫が、ピョンピョン飛び跳ねる。生きているだけで、楽しくって仕方ないという風に。地面が、柔らかい土でなくてもお構いなしだ。
 まだ自分で狩りをできるようには見えないが、親も飼い主も見当たらない。捨て猫だと思う。捨てられたのに、そうと分からず楽しいのか。年齢的に、狩りを失敗してもかわいらしいだろう。しかしこの子猫は飢える。死に直結する。
 他人の不幸は蜜の味。所詮、幸福は、凡人にとって相対的なもので、絶対的なものではない。他人が不幸だと自分が浮かび上がるのだ。今日は、絶対的な幸福を持つ子猫も、長く生きれればなくしてしまうのだろう。

 職業安定所に通う生活。そこは八時間滞在する場所ではない。時間は余る。やることはない。家に帰る気もせず、街を徘徊する。平日昼間の太陽ほど、無職を実感させるものはない。
 金がある時は、時間が無く、時間がある時は、金が無い。時間的に何でもできると、何をしていいのか分からない。結局決まらないまま迷走し、何もしないまま時間が過ぎる。間違った時間の使い方をしたと反省するのだが、では何をやればよかったのか分からない。何をやっていても、時間の使い方が不正解だと感じる。
 生きていくのなら、子供にとっての甘い菓子のような楽しみが必要と考えた。敷居の低い大型家電量販店に、足を踏み入れる。紛れてしまえると思える。客ではないが客扱い。それが心地良いというのではない。何しろ、金を使わないのは、見透かされている。許される範囲かなと思う。大型書店も条件に合う。しかし行かない。本が好きだから。本はそんなに高価ではないから。金を使ってしまうかもしれない。
 通う事が日課となってしまった。まとまった金ができれば買うのだ。未来の生活。夢の再就職。目標作りの前向きな行動。言い聞かせても、疑問がわく。
 その男を認識したのは、いつの事か分からない。常時、首を掻いている。前も後ろも絶え間なく搔いている。首全体が痒くて耐えられないようだ。ひどい皮膚炎の男。首も顔も赤黒く、粉がふいている。掻き破り、血だらけでも、痒い箇所を掻く快感には勝てない。掻き破りはひどく痛み、掻けば掻くほど痒くなり、悪循環である。しかし奴は、後先考えない。ただ今があるだけなのだ。
 血と汗と垢でべとべとの手。その手で触ったものを触りたくはないが、子供はそんなことは気にしない。遊びの魅力に勝てない。代わってくれると考えて、けなげに待つ子供もいる。あるいは高等技術に憧れ、見入る子供もいる。
 長い戦いに勝利し、人心地付く。「どうだ」と振り返った。次の戦いが始まるまでの一瞬に休憩をすませる。そして再開した。
 交代を期待した子供を裏切る。大人に力で勝てない子供は理不尽を知る。我慢して見てるだけ。やれることと言えば、技を盗むしかない。まあ、それはそれで楽しいのだ。憧れの技を、見たこともない技を見られるのだから。
 子供のために、販売促進のために、ほんの試しをさせるためにあるそのおもちゃを、絶対に購入しない大人が独占している。その姿を見た店員は営業妨害と感じても無理はない。
 途中で記録することもできないわけだから、毎日一から始め、終わりまでやり切る。その根気。技術。見上げたものだ。奴の日常に迷いはなく、毎日、達成感がある。
 手を後ろに組んだ店員が身体を寄せた。口頭注意は何度かしたのだと思った。
「もういい加減にしろよ」と口が動いた。
 画面を指し、
「ここまで行ったら止める」
 宿題をしない子供が、親と交わすような約束をした。店員は横でじっと監視している。すぐにでも止めさせるべきなのだが、ぎりぎりの妥協をした。
 約束の地点を軽やかに通り抜け、いつものように続けた。店員は怒り出し、力づくでおもちゃをひったくろうとした。赤黒男が怒声を上げる。遠巻きに見る客。他人事なので、気楽だ。
 赤黒男にしても、これがいつまでも続くわけないと分かってはいた。が、本当にその日が来るとは思っていなかった。占拠するのが、悪い事だとは分かっていた。買う選択肢は無い。客ではないが、見逃してくれる。これくらい許される。人はやさしいと信じていた。人の善意を信じていた。障害者はいたわられるべきだ。第一、世間と折り合い悪く、皮膚炎となった。世間は、俺に償うべきだ。追い打ちをかけられる謂れはない。
 延々と続くと思われたせめぎ合いは、あっけなく終了。約束違反をしたから、後ろめく、力が入らないのではない。占拠を続けるうち、この場所とおもちゃは自分の所有するものだと感じられてきた。これを取り上げられると、自分の物を強奪された気分になった。だから、あきらめる選択肢はなかった。それでも終わりは来た。
 同僚が裏から電源を切った。真っ暗な画面を見て、観念したのだ。そして、これが店の物だと思い出した。
 赤黒男は、コントローラーを店員に投げつけた。店員は、何か言おうとして止めた。奴に人の道を教える義務は無い。
 問題は、単にゲームができない事ではない。日常が壊れた。世界が崩壊したのだ。明日から、通うところがないという意味では、失業に近い。それどころか、日々をしのぎ、生きる意味をこれにしか見いだせていない。明日から、何もする事が無い。最後の命綱を絶たれた。
 明日から、部屋でじっとうずくまるしかない。何かを待っているような格好だが、待っても何もやっては来ない。永遠の暗闇。何も変化しない。布団から出る必要もない。一生寝続けるしかない。死んでいるのと違いが分からない。ただただ、かゆみと痛みに耐え、栄光の日々を振り返るだけだ。

 次の日、当然いない。
 本屋の立ち読み客は、買わなくとも客と呼ばれる。今日、買わなくても、明日は買うかもしれない。店にとっては、人が来ないと始まらない。絶対に買わない乞食は、図書館に行く。金のあるなしは無関係に利用者となれる。 赤黒男は、金が無い。しかし、勉強のようなものでは駄目だったのだ。遊びの類である必然性があった。痛み、かゆみ、社会から隔絶された孤独に耐える代償として。仮想の世界は、子供の頃から馴染みの世界だ。金の無い自分でも最新の世界に浸れる。上に行くための、どんな苦労も努力も厭わなかった。その何もかもを失った。
 羨望、哀れみ、嫉妬、優越感。
 俺は、失業手当もあるし、買える。しかし奴のようには楽しめない。
 また次の日、いないことを確認した。安心した。変化は希望だ。
 店を出た。金曜日の夕方。この時間を楽しみとする時は来るという希望の俺と、二度と来ないと感じる弱気の俺が、頭の中で互いに罵り合う。
 いつも通りの横断歩道。目の前に来るまで、それが警察官だと、気付かなかった。いつもよりほんの少し流れが悪いとは感じていた。
 交通事故だと理解した。身なりのいい男が警察官と話している。彼の新車に血がついている。落とし穴に落ちた。神を感じ、常の行いを省みる。
 男には、他人の悪意で作られたものであれ、偶然にできたものであれ、そんな落とし穴に落とされる謂われはない。仕返しや罰を受ける理由はない。
 一週間をしのいだ褒美として、少し高い酒を用意しておいた。楽しみにしていた。それを飲むだとか、映画を見ようとか、待っていた週末の、ほんのささやかな楽しみさえ消える。楽しみのはずの時間は苦悩の時間に変化する。
だから退屈無為な日常をありがたがっておれば、よかった。
 赤黒男が加害者ならよかった。何者でのはもなかったのが、交通事故の加害者という者になれる。日常にささやかな楽しみもない。
 ふと、店員に浴びせた怒声が、俺の脳内で響いた。血みどろの赤黒男が、事故車に同じ怒声を浴びせる。
 自分なら被害者の方がましだ。傷は時間が経てば、癒える。罪悪感は消えてはならない。
 あの男に、心配な未来はなかった。それでも被害者では不幸すぎると思った。

 あれから、半年経ったのか、一年なのか分からない。
 繁華街の雑踏の中、他の連中には見えないが、俺の目を引く男がいる。
 皮膚と布の接触を極力避ける。それは対策なのだろうが、半裸と言っていい恰好をした男がいる。
 何しろ真冬にできる限りに皮膚を露出するのだ。寒いに決まっている。常人には耐えがたい。痛みはそれを凌駕する。男は、自信ありげに街を闊歩する。身体全体を掻き破り、傷だらけで、血が滲む。失うものが何もない者は強い。
 赤黒男と同一人物の確証はない。しかしそうであってほしかった。相変わらず、皮膚炎の不幸を背負う。どうやって生きてきたのか、想像がつかない。金銭的なことも、自信の源についても。何か別のものを見つけたのか。
 しかしそれは、達観ではない。単に他を気にする余裕がないだけかもしれない。
 あれから俺は、手当は切れる。預金は底が見える。それでも気の進まない面接には行かない。非日常の失業状態が日常になり、その、あってはならない日常の習慣を守ろうとしているようだ。惰性で生きている。楽しくもない日常を守る。死ぬのを待つだけのようだが、待ち望んでいるわけでもない。 
 俺は、迷い続けている。何をすれば、楽になれるのか、幸せにとはそもそも何か。守っている習慣に、何の価値があるのか。
 これが楽しくって生きてます。他人が、いくらくだらないと言おうが、とにかく心底楽しい。そんなものがない。
 失業してから、まだ日が浅い、はずだ。復帰できる可能性は、奴より高い。優越感に根拠はない。
 楽しいはずのことを、想像しても心が弾まない。楽しいはずのことをしても、落ち着かず、楽しくない。いつもいらいらして、早く終わらないかと思っている。ただ苦しみを避けたいだけ。それが望みだ。
 通りに並ぶ、店の陳列窓に映る男の姿は、ぼろを纏っているわけでもないのに、ひどくみすぼらしい。猫背で、常時、謝っているような格好。赤黒男の自信とは比べるべくもない。五分くらいに、思っていたが、内も外も負けていたのだ。
 それでも入れ替わりたくはない。不幸同志、どんぐりの背比べが嫌なのではない。他のどんな客観的に評価の高い人間とでも入れ替わりたくはない。
 それは自己愛ではない。ただ自分に慣れているだけだ。


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