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作品名:朝陽と夕陽の見分け方 作者:涸井一京

最終回   1
 つい昨日まで、暑いとぼやいていたような気がする。ほんの少し暖かい恰好をして、これで一先ず安心と思っていたが、これでは足りない。急に冷え込んだ訳ではない。ただ追いついていない。時間の流れと、自分の感覚にズレがある。
 前から、半袖、素足にサンダル履きの男が歩いてくる。自分より下がいると安心する。近づいて行き、様子がおかしいと気付く。 
 すり足で、足の大きさ分だけ動かしている。左、右、左、右とズリズリと動かしている。連れている犬も主人に合わせ、ゆっくり同じ速度で歩く。そして、時々立ち止まり、飼い主を見上げる。遅すぎないか、早すぎないか、犬は気を使う。哀しげな表情で周りに異変がないか探った。
 男は、髪を真ん中できれいに分け、横を流す、三十年前の髪型。顔はひどく男前だ。目に生気は無い。
 犬は殺処分寸前に助けてくれた恩を忘れない。これを散歩と呼ぶなら、運動にならず不満だ。しかし、犬は主人を外に連れ出す、任務についているのだ。
 いつか元気になってほしい。そして一緒に駆け出すのだ。

 学校から帰る。「行くぞ」と父ちゃんが声をかける。おれは無言でついて行く。駅前に出ると、父ちゃんは、アメを一個くれる。勝手知ってるおれは、誇らしげにそれを受け取る。父ちゃんは、店に入る。おれは、前の花壇に腰かける。そして野生味にあふれる鋭い目で、四方をにらみつける。それが終わると一息つく。アメの包みを開けて、口の中に放り込む。これは与えられた物ではない。仕事の報酬だ。足を組み、腕を組み、赤黒い顔で、再び辺りを見回す。敵が来ないか見張るのだ。父ちゃんの邪魔をする奴がいる。仕事を中断させようとする奴がいるのだ。あるいは、先におれを家に帰そうとする奴もいる。働かずに、親にただおやつをもらう奴は、おれを見て心の中で笑う。そういう奴は、次の日に学校で殴る。陰からこそこそおれを見ている奴がいないか探す。
 着ている服が一枚少ないようだ。痩せて脂肪の無い身体にこたえる。もう家にも着る物は無いのだが。手が冷たい。息を吹きかける。父ちゃんが教えてくれた。ましにはなるが、暖かいというほどではない。父ちゃんの仕事が長引いている。勝っているのなら、いい。寿司でも食わしてくれるだろう。しかし、負けているのなら、その後の事は考えたくもない。
 店の扉が開くたびに期待して、その度がっかりした。
おれは球技ならなんでも得意だ。球を使うものは何でも好きだ。縁日の露店で、これもやってみる。楽しいし、いつも勝つ。こんな小さい球は球技とは言わないが。本当は父ちゃんの隣で打ちたい。おれならきっと父ちゃんの力になれる。しかし、店に子供は入れない。

 その男は、生来依頼心が強い。はかなげで、か弱い王子様は、女の好物だ。頼りなさは、母性本能をくすぐる。美声年を飼うのに苦労はつきものだ。それは覚悟の上だが、想像以上に手がかかった。 
「働くのが嫌なの」
 黙り込む男にイラつく女。男は察知して、
「いや、そういうんじゃ、ない」
 声にならない声を出す。女は聞き取れないが、
「じゃ、なぜ」
 と、会話を成立させた。
 再び、重い空気。
 沈黙する男にイラつき、女は声を荒げる。
「なぜ、働かないの」
 男は困る。言葉が見つからないが、何かを言わなければ、更に困った事になる。
「やり方が、分らない」
 上出来だと自賛した。
「やり方って何。職業安定所に行けばいいでしょ」
 暇はもらえなかった。
「行って、どうしていいか分からない」
 女は、少しうれしい。男に頼られ、役に立てそうだ。恩を売れる。この恩は、自分と彼の容姿の落差を埋める。
「一緒に行こうか」
 男は恰好悪いと思った。しかし、問題が解決するとも思った。
 小学校の入学式の新入生と母親の様に、男は女に手を引かれてやって来た。手取り足取り教えられながら、求職活動をし、面接までこぎつけた。
 面接会場の前まで送ってもらい、ほんの少し一人で歩いて、面接を受けた。不安で叫び出しそうになるのを抑えながら、耐える。失笑を浴びながら、外に出る。彼女の、「どうだった」という問いかけに、「まあ、まあ」と、ばれない事を願いながら、答える。
 二度と絶対に入る事はないと思っていた会社の敷地に入る。おどおどと声をかける相手は、外の世界では絶対に話しかける事の無いダサい男。それに頭を下げ、教えを乞う。それが嫌というのではない。むしろなぜだか話しやすくてありがたい。全面的な彼女の世話で入った会社。しばらくすると、ここは自分の居場所ではないと感じる。ここではないどこかへ行かなければならない衝動に駆られる。
 一度しかないと思われた奇跡の就職。彼女の魔力で何度も成功した。同じ数だけ裏切った。

 学校から帰る。「行くぞ」と父ちゃんが声をかける。おれは無言でついて行く。駅前に出て、そのまま仕事場を通り過ぎた。
「えっ。ひょっとして祭りに行くの」
 父ちゃんは、無言で笑顔だ。
「仕事はいいの」
「気にすんな」
 友達と行くのもいいが、父ちゃんと行くと、見慣れた風景も違って見える。
 綿菓子、水飴、甘い菓子はもう卒業だ。
「たこ焼き、食いたい」
「ん、いいぞ。買ってやろう」
 青のりの香り。少し大人に近づいた気がした。大人になりたい訳でもないのに。
 木の低い台にへばりつくようにして、熱心に作業をしている集団が目に入る。図工が得意な奴は、工作を誇らしげに掲げる。算数の得意な奴は、高得点の答案用紙を掲げはしない。なぜか、図工の得意な奴に許された特権だ。
 自分より少し年上のお兄さんたちが、熱心に針で溝を削っている。楽しそうだとは思わなかった。かけらを口に入れたのを見たとき、あんな物は食べられないだろうに、と思った。と、同時にひょっとしたら、おいしいのではとも思った。お兄さんたちは、格好良く見られていると誇らしげだ。何か職人ぽいし。おれには、その技術は無い。抜いた型を、店のおっさんに見せる。いちゃもんをつけられているのもいるし、おっさんを黙らせる技術をもったのもいる。そして景品をせしめた。
「型抜きなんてやめとけ」
「うん」
 やっぱりおれには無縁なのだ。そう思いながら、見ていた。でも一度でいいからやってみたいとも思った。
「大した景品じゃないだろ。無駄な労力を使うな」
 確かにそうだが、それで納得できるものでもない。 父ちゃんは、これから仕事をする気かもしれない。そう思う事にした。型抜きは時間がかかりそうだし、それで納得しようとした。

中学生のおれは、働く事にした。同級生が部活動に勤しむ夕方、新聞を配達した。働く事は、親にも学校にも簡単に認められた。職場もあっさり見つかった。おれは、母親の血を引いているようだ。何もせずに手をこまねいている事ができなかった。
 同級生に会うのが苦痛だった。しかし、逆に誇ろうとした。以前と同じ様に。
 金が入っても、自分の楽しみに使える訳もなく、ただ自分の目の前を通り過ぎるだけ。それで人並みの生活ができるかというと、そうでもない。ただ、まあ小学生の小遣い程度の金は自由になった。
 働くようになり、父ちゃんの言葉が軽くなった。 
 通りすがり、馴染みの無い街で祭りをしているのに出くわした。ここにある何物もおれを楽しませてはくれない。もう魅力は無い。それでもおれは、鳥居をくぐらざるを得ない。通り過ぎる事はできない。
 露店を見て回り、目的の店を探した。昔のままの低い木の台を見つけた。少し年下の男の子が台にへばりつくように遊んでいる。おれは、恥ずかしいとも思わず、仲間に入った。
 おれは、初めてにも関わらず自信があった。子供のお遊びは、中学生には他愛も無い事だと思っていた。溝をガリガリと掘り進め、端っこを大胆に割り、かけらを口にいれた。ひどくまずかった。これは、現実という名の味だ。
 出来ない事など想像もしていなかったのに、いともあっけなく割れてはいけない本体がかけてしまった。これも現実だ。むきにならずに、ここで止めた。簡単に思うようにいかない。特におれには。成功や成果とは無縁なのだ。そして何より、自分らしいのは、一回であきらめる事だ。
 ふと思った。あの日、父ちゃんが型抜きをやらせなかったのは、単に時間がかかって待つのが嫌だったからではない。あれは、おれが成功する場面を見るのが嫌だったのだ。きっとあの日も失敗しただろうに。
 高校に行けなかった。行かなかったのかもしれない。収入を期待されているのは、感じた。
 卒業の意味は分からなかった。別れの意味は分からなかった。すぐに会えると思っていたし、実際、すぐに街で会った。高校に行った友人に、「校則とかきついんだろ」と聞いた。「厳しい」と言わせ、今の生活もまんざらでもないと思い込もうとした。そんな自分が嫌になった。「また」と言って別れた。が、それきりだ。もう会っても、お互い分からないくらいの時間が経った。あれが最後になるとは思わなかった。

 数十年が経っても、店は相変わらず存在する。座り込んでいた植え込みは、もう無い。この店に休みの日に通えたなら、人生は単純で良かったのかもしれない。
 おれは、仕事に打ち込んだ。休みは疲れてただ寝ていた。十八歳になっても、おれは、ここに足を踏み入れなかった。父ちゃんのようになりなくなかった訳ではない。おれの居場所は店の前の植え込みであり、店の中ではないような気がしていただけだ。
 店から、男が出てきた。夢遊病者の如く、ただふらふらと動いている。虚ろな目は、そこに存在する何物も認識できてない。確かにあった数度の快感。それを求める。いや、その記憶しか無い。うまく行かないのが、特別に不運なのだ。何度も破滅した。あらゆる物を失った。命だけを失わなかった。博打以外の何物にも興味は無いが、何かしら飲食しなければ、博打を続けられない事は理解しているようだ。食べ物を買いに向かいの店に入った。しばらくして出てくる。飲み物の缶とおにぎり一個を右手に持っている。そのまま博打場へと再び入る。痩せこけているはずだと納得した。六十前の男は、もう後戻りはできない。する気も無い。今の苦しみに堪えれば、先には明るい未来が待っているのだから。白髪が目立つが、三十年前の流行りの髪型。ひどく男前だ。
仕事に打ち込んだ、と言えば聞こえが良い。周りの評価も高いだろう。しかし、見たくない現実から目をそらし、慣れたものに逃げ込んだのだ。
 この男とおれは似た者同士。この世とあの世の境をさまよい歩く。
 あの日の父ちゃんは、大真面目に仕事をしていたのだ。生気のある目をしていた。

 全うな職に就き、懸命に働けば報われる。何でも手に入り、それを楽しむ事が出来る。人並みの幸福がやって来るとぼんやり思っていた。他人と同じような映画を見て、同じような小説を読み、同じような場所に食事に行っても、他人の様に楽しめない。仕事と私生活は別物だった。仕事の努力は、会社では一定の評価があった。それは私生活の充実とは無関係だった。
 何をするのも面倒になる。食べるとか風呂に入るとか。
 楽しくもない遊びを延々と止めない。やるべき事をしない快感。それでも間際に会社に行ってしまう。
 職場でぼんやり過ごす。それでも他人より役に立ってしまう。
 虚しさが募り、ここでないどこかに行かなければならないという衝動にかられ、失業者となる。それは、客観的に見れば、の話であり、おれは自由の身になったのだ。
 失業者になった直後は毎日が楽しかった。夜、寝るのがもったいなくて仕方ない。何とかなる様な気がしていたし、何より解放感にあふれた。現実に気付かされて、「大丈夫、何とかなる」と自分に言い聞かせる必要が出る。しかし、そんな不安は、楽しさが麻痺させてくれる。
 時間が経つにつれ、麻薬は効かなくなる。
 恨みはある。時は、それをも溶解させる。
 殺して、首を切断。恨み事を、生首に向かい延々と言いたかった。言うべきだ事があったのに、それが具体的に何であったか思い出せない。
 人生に、もしは不必要だ。あるのは現実のみ。受け入れるしかなく、受け入れれば、こだわりは無くなる。こだわりが無くなると、何もかもがどうでもよくなる。仕事など自分にとって、大した事ではなかったのだと思う。仕事以外の積み上げた物がガラガラと崩れ落ちようがどうでもいい。何もしたくない。そもそも自分は何を望み、何をしたいのか分からない。再び、ここでないどこかに行く時が来たようだ。その場所は、この世のどこも思い浮かばない。

 早起きするようになった。昼夜逆転が治ったのは、夜遅くまで起きていても面白くないせいだ。深夜に何かが起こると信じていた。いや、確かに起こっていたのだ。しかし、その何もかもが問題を解決しなかった。
 早起きの得が三文程度なら、遅くまで寝ていたい。だから、逆に三文以上の得が何かないかと探した。朝はともかく、夕方に犬を散歩に連れて行けない生活をしていたのだが、今はその障害が無い事に気付いた。無職は素敵に自由だ。
 長年の夢が叶う。夢であったと忘れるくらいに古くからの夢だ。目的ができると、今でもこんなに迅速に行動できるのだと、自分でも驚いた。
 夢が叶うと、すぐにそれは日常になった。うれしくない事はないのだが、子供の頃のうれしさとは、明らかに違う。それが年齢のせいなのか、今の自分に問題があるのかは不明だ。
 毎朝、念願の犬の散歩。
 犬の散歩のつもりが自分が連れて行ってもらってる。心配そうにおれの顔を見上げる。気にかけてくれる生き物が存在する。言いようの無い喜びと安心を与えてくれる。しかし、犬は自活する事は出来ない。おれが先に死ねば、と考える。と、言って道連れにはできない。愛してくれている愛犬を二回も同じ気分にさせる訳にはいかない。それだけが生きる理由。
 買い置きって、最後には無駄になるな、とぼんやり考えた。死ぬのに合わせて、数を合わせては買えない。安心のために買い置きはあるが、今それが悩みの種になっている。他に考える事が無いばかりに、こんな事が気になり出す。普通は、それは残った人間が分ける。おれには無い。
 向かいから来る男が不思議そうに、おれを見る。人が他人のために生きるべきであるのであれば、おれは、正しい生き方をしている。おれは、奴に優越感と安心を与えた。
 寒々した気分に合う、重苦しい鈍色の空。冬らしい天候。太陽が出たと思えば、次の瞬間には、時雨れる。小さな水滴に顔を打たれながら、歩く。
 北風に吹かれ、カラカラカラ激しく音を鳴らす風鈴。望まれるそよ風ではない。風鈴は、本来与える涼ではなく、騒音を撒き散らす。取り外すのを忘れられた風鈴は、近く、その家の住民によって取り除かれるだろう。

 年齢を重ねるにつれ、残り時間が少なくなる。本来なら時間は貴重になるはずなのに、時間の価値は下がり続ける。早く過ぎ去り、中身は薄くなる。
「蚊が来るだろう。眠れないだろう」
 そんなでもないけど、黙っていた。
「蚊帳をつってやる」
 仰向けで寝ているおれは、父ちゃんの動きを見ていた。子供の頃からやっているのだ。慣れた手つきで手早く完成させた。
「暑い」
「そんなはずはない。穴だらけで、風通し、いいぞ」
 圧迫感がそう感じさせたのだろう。
「暑くて眠れない。蚊取り線香がいいや」
 蚊帳は、物置にあるが、蚊取り線香は、店にある。そんな事は、分かって言った。
 裸電球の黄色い光で蚊帳の網を眺めていた。まるで動物園の檻の中の動物だ。安全かもしれないが、捕われの身だ。蚊帳の外が人間のいるべき場所だと思った。
 後年、願いが叶ってしまったのかどうか知らない。おれは、囚われの人間を、外から眺めている気でいた。おれは、あらゆる社会の束縛から逃れ、自由なのだと感じていた。が、文字通り、おれは、蚊帳の外にいたのだ。
 今、自分がどこにいるのか分からない。時間も分からない。以前もそんな事があった。熱でうなされ、目が覚めた時、自分がなぜ布団の中にいるのか分からなかった。昼間のはずなのに、辺りが暗い。真夜中のはずなのに、人が活動している。
寝ぼけた。ただそれだけの事だ。ただ正気に戻るまでの数分間、不条理の物語の世界の中に入り込んだ様な気分だった。抜け出すまでひどく不安で落ち着かず、正気に戻ると、もっと楽しめば良かったと後悔する。

 晴れた日に太陽へ顔を向けて、目をつぶる。強い光は、瞼では遮れない。瞼が赤く光る。目をつぶっていても、まぶしい。まぶたに暖かさを感じ、幸せを感じる。
 おれは子供ではないし、大人のおれは、こんな事はしない。窓から新鮮な光が入り込んでいるのだ。そしておれは、部屋でうたた寝をしている。
 弱い北風に吹かれ、つけっ放っしの風鈴が揺れる。弱々しいカランという音。外国人には、年中つけておく、ただの飾りなのだろう。
 ガラスの乾いた透き通った音は、暑すぎる夏の空気を涼しくする。冬には不要な物だ。熱という点においては、弱々しい太陽。しかし明るい太陽に照らされ、青が輝く空。気分だけでも暖かい。その中に溶け込む、暖かい空気を割くガラスの冷たい音。背筋に冷たい刃物を当てられたような不吉な感覚。
 暖かさと明るい光は幸せを表す。幸福の中に、禍禍しい物が侵入する。
 カラン、カランと黄泉への導きの様な音。


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