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作品名:偉人の帳面 作者:涸井一京

最終回   社会復帰

 この世界は完璧だと思っていた。不完全な自分は、居場所が無いと考えていた。出来上がった、工業製品を見て、これに自分が関われば、それは完璧でなくなると考えていた。金を稼ぐつもりが、失敗の代償を払わされ、借金がかさむのだと考えていた。弁償するために会社に行く。そんな愚行を避けただけだ。 
 肉体は、記憶の容器だ。肉体が滅びれば脳に存在する記憶は消える。しかし霊魂というものが存在するならば、話は別だ。霊魂は肉体を必要としない。
 生前、肉体と霊魂が一体だった場合、霊魂の年齢は、肉体が滅んだ時の年齢だ。そして霊魂は成長を止める。大きな欠陥を抱えた人間の死に伴い、霊魂は、永遠に欠陥を抱え続ける。
 死んでから初めて霊魂が表出する場合、霊魂は記憶を持つのか。霊魂には年齢があるのか。肉体が生きていたどの年齢にでも、いつでもなれるものなのかもしれない。
人間は価値観が変遷する。二十代で左翼だったものが四十代で右翼になる事もある。霊魂は、どの年代の価値観を持つのだろう。霊魂は生前の人格を継承するのか。人間の価値観を超越する存在なのか。ならば,霊魂は私と他者を区別する要素はあるのか。肉体を持たないので容姿の違いは無い。私という個を構成する他の要素は思考、価値観等がある。現世のあらゆる判断基準から超越したものならば、霊魂は、私、たりえない。
 偉人が死んで霊魂になったら、自らの偉人伝を見ることになるのか。手に取って読めなくとも、内容は把握しそうだ。
 私が子供だった頃、偉人伝に創作が加わっているなんて夢にも思わなかった。偉人の霊魂は、脚色に苦笑するのだろうか。美化された作り話に安心するのだろうか。
 書く事より、書いていられる時間の方が長い。日記を書き始める前にも人生がある。その黒い海の底にはまる事にした。
 自分史を書き始めた。記憶を遡って書く。実に情けない地味で何も無い人生をなぞる。青春時代を振り返るといつも切なくなる。その感情はいつも後悔から始まる。あまりにも自分が哀れに感じた時、ふと気が付いた。
人間の記憶は曖昧だ。それを補完するために文字での記録や写真がある。思い出の品がある。
 人間の記憶は曖昧だ。人生とは、その曖昧な記憶の積み重ねに過ぎない。集積された記憶は、悪意が無くとも変わるものだ。事実と異なる歴史もある。嘘が、事実と違うのが嘘と言うのなら、この世界は嘘であふれている。
 人生の改ざんなど簡単ではないか。自分の記憶ですらあいまいだ。影の薄い自分は、社会から隔絶された自分は、他人の記憶の中に存在しない。完璧な人生を帳面の中に作ってしまえば、そういう来歴を持つ人物ができるのだ。
 他人の称賛に何の意味がある。俗な虚栄心を持たない私の満足は、己の内にある。
 自分には学歴詐称などというチンケな嘘をつく必要は無い。だから追求される心配も無い。求めているのは現実の金ではない。爪を隠す能ある鷹となるのだ。
 文字通りの絵に描いた人生。いや、帳面の中の人生。完璧な人生。

年末。多くの人が後悔と反省をする年末が、今年もやってくる。自分が特別にやる事と言えば、大掃除くらいだ。世間の恒例行事を眺め、季節を感じる。「今年の十人」が発表される。あらゆる分野で大活躍する俺はもちろん入る。そこかしこから称賛されるはず。
 「今年の十人」なんて下世話だと思う。選ばれても、否定的な意見を述べるつもりだ。しかしどこかうれしさを隠せない。
 一人、一人発表されていく。俺の名前は無い。最後か、それは格好いい。そう思いながら、まさかの落選もあるのでは、とドキドキする。それは、まさかであり、楽しむ危機感だ。が、十人、発表されてしまった。自分の名前が無い。愕然とする。青ざめる。そして、もう一つ別の理由で青ざめる。自分は現実と妄想の区別がつかなくなってきている。
 投稿した小説の反応が無い事に、今気づいた。
そうか、俺は死後に評価されるのだ。生前は無名のまま終わるのだ。まあ、それはそれで仕方がない。それは、それでかっこいいのだし。
 出版社は原稿を保存する。そして死後に発見され、再評価されるのだ。しかし、そのためには印象的な死が必要だ。差し当たり、思いつくのは自殺だ。それは死後の評価を高める劇的な出来事。どういう劇的な死を選ぶべきか考えていた。
 年が明け、落ち着いた日常が戻った頃、念のために複数の出版社に別の小説を送った。やはり反応は無い。やはり評価は死後なのか、と少しがっかりする。
 数日後、私宛の郵便物が届いた。送り主も中身も想像できる。それしか思い当たるものは無い。直感通り、送り主は出版社だ。とうとう運が回ってきた。急いで、封を開ける。
それ衝撃的な事件だ。中身は見覚えのある原稿だった。評価は下ったのだ。生きているうちに。
 これでは、発見のされようが無い。世間との接点が切れた。複数の出版社に送っといて良かった、と気を取り直した。無能な、見る目の無い出版社に送ってしまったのだ。反省の必要は無い。すでに複数の出版社に送ってある。
 間抜けな出版社の逸話を語る未来の大作家の俺が頭に浮かぶ。
 安心したのも束の間、今度は、あろう事か、ハガキ一枚寄越し、「返却はしない。責任を持って処分する」と書かれてある。更に悪い事に、処分されるのは、俺の代表作「偉人の帳面」だ。こんな事は予想もしない。複製は無い。これでは死後に発見される事は無いどころではない。俺の努力の結晶も消滅してしまうのだ。
 手元に残った、自信作でないものや不完全な物はある。それを誰かが発見する。それは、それだけでは低い評価しか得られない。それは耐えられない事だ。何もかも無くした。絶望。自暴自棄。破壊せずにいられない。帳面をすべて焼いた。
 現実と妄想の差異を思い知る。感傷的な気分は、それなりに快感ではあるが、他人の評価が全くないというのも味気ない。誰にも認識されない、悲劇の主人公は面白くない。
 それから、永遠に来ない遠足の日を待ち続ける日々が続く。
 
 なんとなく、というか習慣を変えられず、日記を書くために、新しい帳面を買った。それは、再生と呼んでもいいのかもしれない。
 偉大な作家になる。そのために謙虚になる。俺は、大器晩成だったのだ。もう一段上に行くために、弱点を克服しなければならない。俺には実体験が不足している。働きに出なければならない。労働とは、俺の経験のためであり、会社の利益は無関係だ。苦悩するのだ。現実の生活を支える労働。退屈な毎日に耐える。人間関係に悩み、苦しみ、苦しみぬいて、それを小説の糧とするのだ。
 かくして、就職。苦しい労働。やがてやってくる休日。ささやかな自分へのご褒美。呪い続けた、平凡な人間。いや、それにさえなれず、かなり低い人間であると自覚させられる。
風の便りで、同級生が結婚した。子供が生まれたと聞く。お決まりの親の嘆き。俺は、それを聞きながら、盗み癖は遺伝するのかな、とぼんやり考える。遺伝しなくとも、盗み癖のある親が育てる子供は、どんなだろうと考える。
 勉強は、競争で勝つから楽しかっただけだ。何かになりたかった訳ではない。で、何者でもないまま人生を終える。

平和な日曜日。うららかな太陽。俺は散歩がてら、商店街に出る。忙しい日々を送る俺には、こんな時間が愛おしい。商店街はすっかりさびれた。しかし、馴染みだったラーメン屋はまだ営業している。久しぶりに入るか、という気になる。客が少ない。これが最後になるかもしれないとも思う。通りを歩く人も、心なしかいつもよりゆっくり歩いているような気がする。自分自身の時間もゆっくり流れる。
 少年漫画誌を取り、席に座る。毎週読まなくなって久しい。あのマンガの続きはこうなっているのか、と、ぱらぱらめくる。順調に年を重ねているのだと思う。発売日には忙しくて買いに行けないし、毎週読む時間も無い。適当なとこで切り上げる。
 のんびり座って、注文を待つ。通りを眺める。ぼけっとしていられる。それが毎日だと、それは苦痛以外の何物でもない。
「お待ちどう様です」
 注文したラーメンはうまい。しかし、感動を覚えるほどの事はない。千円未満の味しかしない。収入に見合っている。それほど高級料理を食べたい訳でもない。第一太るのは嫌だ。毎日、感動するのも疲れるだけだ。以前は、雑誌に載っている店を探して、食べに行った事もある。まあ、うまい、という程度だった。遠くまで毎日通う気はしない。話の種という程度の価値だ。
 空腹なら、少々不味いものでも感動的な美味と感じるはずだ。しかし、私は何日も食べないという生活をする必要は無い。飢餓の無い平凡な日常に幸福を感じるには、感性が必要だ。幸い俺にはある。
 店を出る。古い、元喫茶店が空き家となり、廃墟と化している。ここも開店当時は店長は希望に満ち、明るい未来を信じていたに違いない。そして、今が未来だ。当時の流行りの造りの建物を見て、失われた時代を感じ、戻ってこない時間を感じる。

日記を書き続けている。一日の大半は、これに費やされる。仕事をしていても、この現象をどう書くか考えている。食事をする時も、味をどう表現するか考えている。寝ている時も、見た夢をどう書くか考えている。自由な時間の大半は帳面に書きものをしている。それは苦痛だ。少しでも減らしたい。日記は感動を書きとめるものだ。だから、日記の量が増えないように感動を抑える。行動を制限する。書く量の多さに恐れ、感動を押さえる本末転倒。
 日記はすべて過去の出来事を書く。過去にこだわるだけの人生だ。こんなものを続けると偉いなどと言ったのは、どこのどいつだ。実践している自分は間抜けそのものだ。止められないのは、病気だ。依存症だ。
 依存症とは、そうしたものだ。当初、確かに書く事によって楽になったのだ。不安が起こる。その原因を探る。事態を客観的に見る。大したことが無いと分かり、楽になる。楽になって、書く事が無くなると、苦が来た時、書く事ができたと、何かうれしい。その矛盾はよくない。しかし、もっとよくないのは、楽になったという記憶だ。そのせいで、日記を書くという行為がすべてに優先する。当初の楽になるという快感は最早無い。にもかかわらず、得られないと理解している快感を求めて書き続ける。快感が無いのは、努力が足りないからだと感じている訳ではない。しかし大量に努力、いや苦しめば、苦しむほど快感が得られるのではと錯覚している。
 いや、分かってはいるのだ。戻れないと。それでも戻れそうな方法がこれしか思い浮かばない。最早苦しいだけなのに、どこか安心感がある。
 私に文才が無いことは自覚している。こんなものを書いて、後世に残したいとか、これを誰かに読んでもらいたいと考えている 訳ではない。むしろ逆にこんな帳面は、誰にも読まれたくはない。
別段、日記を書くという行為は特別なことではない。発表し、自己顕示欲を満たそうとする者もいるだろうが、多くはせいぜい自分で読み返すくらいのことだ。ただ書き散らして満足する場合もあるだろう。私の行為はそのどれとも違う。自分が特別というのではない。
 これを書くのは記憶の補完だ。頭の中だけで記憶として処理することに不安を覚えるのである。何か、どうしても忘れてはいけないことがあるというのではない。記憶がすり替わり、思い出が美しくなるのであれば、それにこしたことはない。そんな忘却が悪いと考えているのでもない。
 私の苦しみの原因は、二つある。一つは、自分は一切悪くないと証明する必要がある。もう一つは、記憶の堆積を公平に扱おうとするせいだ。底にあり、ほとんど忘れ去られたものや、印象に残ったもの、最近のものなど、その全ての記憶を公平に保とうとするせいだ。記憶と事実に一切の齟齬があってはならない。そしてできた自分の行動の一切が書かれた帳面。これに一切の価値が無い事は分かる。しかし書かずにはいられない。書く意義など探してもみつかるはずもない。
 私は、自らの記憶の世界を司る神なのだ。
 その死によって、記憶や思い出を肉体と棺桶共々焼いてしまうように、この帳面も、私の死と共に焼き捨てるつもりだ、ただ、困ったことには、記憶がその死と同時に消えるが、この帳面は、私の死と同時に消え去る事は無い。死ぬ間際にどうやって処分するのか、それが問題だ。
 それでも止める訳にはいかない。現実より、この帳面の中の世界の方が大切なのだ。完璧な日記を書く自分が、不幸な訳がない。完璧な人生を歩んでいるのだ。

日曜の夜、「明日からまた休日を待つ生活になるんだなあ」と独り言。この循環は、呪うべき物のはずだった。実際、それをやると、悪くはない。いや、それほど苦痛でもない。この輪を抜け出す勇気は無い。苦労が報われる事は無い。自分のこと分かってくれる人がいると、救われる。実利以上に求めているものがある。目に見えない、その快感は、あるいは思い込みかもしれない。
脳が目から入る情報を認識した。現実の風景を認識した。見慣れた自分の部屋が見える。 
 現実感のある空想の方が、しみじみ幸せを感じる事が出来ると考えていたが、緻密に組み上げて、一から人生を創作しても楽しくない。楽しい場面だけ想像した方がいい。矛盾があっても外連味があって、ぶっ飛んだ妄想の方がいい。元々現実ではない。
 理想の俺は、何にでもなれる。夢の中で生きる。子供のころのごっこ遊び以上に楽しいものが、この世の中にあるだろうか。本物よりも、あの頃のごっこ遊びが楽しいのは、自分が憧れの存在になりきる想像力を持っていたからだ。それは神秘の力だ。
 俺は、特別な人間だ。将来、偉くなる。そう信じていた。偉い人間は公共の交通機関で移動したりしない。ましてや満員電車で通勤したりはしない。だから、大人になった時に起こる一般的な苦痛とは無縁だ。
 そして、その通りになった。夢は願えばかなうのだ。完璧ではない。八割がたではあるが。俺は公共交通機関を使わない。満員電車に乗らない。通勤しない。想像していたのとは、少し違う。無職というオチつきではあるが。 夢を実現しても虚しいだけだから、夢は見るだけが良い。
長い冬眠をする。春が来て、起きだす。と、春眠を貪る。そして夏の暑さに負け、秋に回復し、再び冬が来る。冬眠の準備をする。
 これが悪夢ならあらゆる困難な問題が、目覚めとともに解決する。次は、悪夢から覚める夢を見て、また世界で大活躍しよう。










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