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作品名:偉人の帳面 作者:涸井一京

第8回   虚しい気持
 机に向かう。筆が走る。僕の鋭い感性は何でもない事にも心を動かす。日々の食事の味に感動し、窓から見える青空と陽の光に感謝する。正座して僕は執筆。幸い才能があり、快調だ。自らの才能に酔いしれる。外で働くなんて考えられない。書いている時間が減り、書くべき事が増える。とても二十四時間では足りない。
これは公表しなければならない。読むに値する物を読めない世間は損をしている。公表するのは自己顕示ではない。名誉欲や金銭欲ではない。
 一般人が仕事をしている時間、買い物に出かける。封筒を文房具店で求め、郵便局で切手を買い、貼る。出版社に送ってあげた。遊んでいるのではない。作家としての活動をしている。平日の昼間に普段着で街を歩く。通行人は、まさかそこに有名人になる人間がいるなんて、夢にも思わない。僕の正体を知っているのは、僕だけだ。軽く優越感を覚える。世間は、感激してすぐに反応があるはずだ。有名になる。心の準備をしておかなければならない。
 家に帰り、再び机に向かう。自分の勤勉さに驚く。月に一回程度の外出は、新しい発見と驚きに満ち、僕の感性を刺激する。書くべき事があふれかえる。
 乱雑に物が置かれた机の上。 何かそれらしくて良い。
 ふと新聞の芥川賞の記事が目に入る。これも取っておこう。どうせなら、史上最年少がいい。十七歳くらいが恰好良い。野球部と勉強と文学、忙しい。まあ天才だし。
 重要なのは、試合や野球そのものではない。苦しいふりだけでいい。それだけで、苦しみに耐え、頑張る人と思ってもらえる。他人に感動を与えられる。称賛を浴びることができる。世間に訴えたい何かがある訳ではない。世の中が良くなろうが、悪くなろうが自分には無関係なのだ。重要なのは、表彰式で称賛される事なのである。人々の感嘆の声が聞こえる。万能感が蘇り、圧倒的な自信と優越感が湧き上がる。
 架空の来歴とそれについて想像している自分。歌手となり、映画監督となり、俳優となり、野球選手になり、作家になり、・・・。政治家として討論会で雄弁に語る。無敵の僕は、大衆に語り掛ける。大衆はありがたい話に感謝する。話している内容が自分の知識を超えている事に気付いた。僕は、神となり、大衆を幸せにし、尊敬され、感謝される。 
 微睡んでいる。それは事実だ。意識が現実と夢の狭間に落ちて行く。思考だけは、動いている。少なくとも自分では、意識的な想像のつもりだ。しかし話す内容は自分のそれではない。
 一般人は、カラオケで有名歌手になりきる。自分はうまいと酔いしれる。友人、知人は慣習として拍手する。感情を伴わないただ手を叩く動作をする。歌手は目をつぶり、大観衆の称賛の歓声と拍手を聞く。
子供は、正義の味方になりきり、同じ小道具を持ちたがる。おもちゃを買ってもらえた子供は、無条件に勝者なのだ。
 そう考えてみると、大して特別じゃない。私は、そう変わった人間でもないのだ。自分の考えが、おかしい訳は無い。他人と少しだけ違うところがあるとすれば、それは絶対的に安全な聖域から出ずにすんだ事だ。
それは癒しか。自尊心の回復か。人生のやり直しのような行為。自分の部屋と台所と便所と風呂場でしか活動しない自分が、自信をつける術。それは妄想。真っ暗闇の底に落ちた。そこにあるはずの無い光を見つけた。この世の中に想像を伴わない快楽は無い。すべての快楽は妄想の中にある。妄想の中にしか快楽は無い。憧れは想像力なくして存在しえない。雄大な自然を目の前にして、感動したとしても、その先にある神の存在を想像できなければ、雄大な自然もただ何も無い荒涼とした風景に過ぎない。
 過去に戻る事が、問題の唯一の解決法なのだ。すなわち自分の楽しみは、一人部屋で酒を飲み、脳をしびれさせること以外にない。当然それはしみじみとさみしくつらい作業なのだが。
 繰り返し過去に戻った。麻薬が効かなくなるのと似ているのかもしれない。 虚しくなってきた。音楽を聴いて過去に戻っても目が覚めると現実に引き戻されるせいだ。いくら気分が良くても時間は戻らない。心が帰っても目が覚めたらたらそれで終わり。
 そう言えば、最近何を食べてもおいしくない。映画を見ても、マンガを読んでも、小説を読んでも、音楽を聴いても、何も感じない。新しい物を買えないせいでもない。どちらというと過去の物がマシだ。
あの頃、楽しかった事、今、同じ事をしても楽しめない。いや、そもそもあの日に帰ったら、さほど楽しいと感じていないのかもしれない。
 この世の中に、私を楽しませる物が無いと悟る。これから始まるつもりが、もう終わっていたんだな。妄想の世界に生きてきた人間の末路として、自殺というのは、ふさわしい。
 人は、他人を信じずに、家には鍵をかけるのだ。人間は悪意の塊。そして自信の無い哀れな存在。誰かをけなす事でしか、自分を価値ある者と思えない。妄想の中の登場人物には悪人はいない。私に諭されて改心する悪人以外は。何も苦も無く、他人に左右されない。それこそが自由そのものだ。打撃の神様と呼ばれた川上は、球が止まって見えたという。俺は時計の針が止まって見える。きっと俺は、時の神様なのだろう。
 適当に日付を入れ、日記とした。完成までには、まだ時間がかかる。


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