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作品名:偉人の帳面 作者:涸井一京

第7回   桜の季節
 どこの会社にも、頭のおかしい人間はいるものである。だから、自分だけが、特別に不幸だとは思わない。頭で分かってはいても、イラつく。
 一子は、何もできないが、自信満々。あほすぎて、自分の仕事が何かも分からない。たまに仕事をしても、さわりだけ。一から十まで完遂する事は無い。どこかで聞きかじった仕事のできる女を真似して、できる女になった気分になる。厄介なのは、妄想と現実の区別のつかない事だ。
 嘘でも、「料理するの好き」「家事こなせます」と言って、地味に平凡に暮こらして、家庭的である事を売りにすればいいものを、あろうことか今をときめく女優の真似をする。髪型や服装、仕草。どれも安っぽく偽物っぽく、頭の悪さがにじみ出る。家庭的な事を何もできないが、女優の真似をするよりはましだろう。まだ可能性がある。騙せる。女優と同じ土俵で戦えば、結果は悲惨なものとなる。女優が持たない地味な魅力を強調すればいいものを。女優でもないくせに生活感が出る事を極端に嫌う。無駄な減量を続け、不健康に痩せている。魅力は無いが、本人は満足だ。男にもてるためにやっているつもりだが、逆効果。馬鹿なので気付かない。
 二子は、ひたすらにしゃべる。あったことを、順を追って物語にする。聞いている相手の事など考えない。個人的な記憶の整理だ。昨日見たテレビ番組の内容を反芻する。出演者のはいたセリフを繰り返し、自分が言った気分になる。自分が出演している気分になる。出演者が笑いを取った場面を再現し、皆の愛想笑いを、自分が受けたと勘違いする。
 架空の恋愛話を作る。自らを主人公に仕立てた失恋の悲劇に、皆が、けなげで最善をつくした自分に同情していると勘違いする。状況描写と心理描写、それは会話ではない。自らが主人公の物語を語る。相手に伝えるべき内容であるとか、ないとか、相手の知りたいとか知りたくないだとか、お構いなしにしゃべる。みんなが自分に興味を持っていると考える。女優のように大衆が自分の私生活を覗きたがってると考えている。まるで記者会見で語っているようにしゃべる。そして妄想の中で注目されている自分に酔いだす。
三子は、背が低く、童顔。騙される男は多い。いや知り合った男は全員騙される。本性が知れると、欠点が目につく。なぜ騙されたのかと疑問がわくが、それまではいい所を見ようとする。童顔という点では、かわいいという言葉が似合う。小さい女の子がかわいいというのと同義ではあるが。勝手に純粋無垢と想像する。何しろ工場は男ばかりだ。女というだけでモテる。
 病的な嘘つきというのは共通点がある。
 嘘とは、心の疚しさが隠せずにばれるものだ。話が現実離れしているかなんて関係無い。自信を持って語れば、相手は信じてしまう。普通の人間は、人をだますのに平静を装えず、嘘がばれる。
三子は、疚しくなるような健全な心を持っていない。そもそも事実と違う事を言えば、嘘になるという常識を持ち合わせてはいない。
 自分に都合の悪い事が嘘であり、都合の良い事はすべて真実なのだ。自分に都合の良い、事実に反する事を語っていても、それは嘘つきにとっては嘘ではない。故に心が痛む事は無い。嘘つきと評判が立ってもその不都合な事実こそが嘘なのだ。
 食事に行こうと、声をかけられた。おごってもらったまでは良かったのだが、美少女と食事ができたのだから、感謝しろという態度。
「私は父から教えられた通りにする良い娘なの。『お金を大事にしなさい』と言われたの」
「まあ、普通だね」
「だから、私、食事に行っても、お金を払わなかったの。ね、お金を大事にしてるでしょ」
驚き戸惑う俺を、物事を理解できない馬鹿を見る目で、
「金は使うものじゃなくて、ためるものでしょ」
 善行を自慢する風だ。
「相手の男のお金は、大事にしなくていいの」
 三子は、こちらの意図を理解した訳ではない。褒められなかった事に対して、戸惑い驚いた。そして目の前の馬鹿を軽蔑した。
 誕生日が近いという。そこに嘘はなさそうだ。二十九歳になるという。去年も誕生日が来て、二十九歳になった。三十半ばというのが定説だ。二十九歳でもまだ物足りないらしく、「夜の繁華街で、高校生と間違われて補導された。私って、若くてかわいいから。みんな幸せね。こんな美少女と仕事ができて」と言う。それは嘘でも作り話でもない。本気であり、皆を楽しませるための親切であり、自分が気分良くなるための行為である。現実と妄想の区別がつかずに声に出しただけだ。皆の冷笑に気付く事も無い。
「実家に帰ると、いつも車を運転するの」
「免許、持ってないでしょ」
「自宅の庭だといらないのよ」
「・・・」
「父が大企業の役員なの。自宅は大豪邸で、庭が自動車を運転できるくらい広いの」
 その娘は工場で働く。嘘つきという評価が定まる。が、本人は馬鹿なので、若くてかわいいい、良家の子女と評判が立っていると考える。
「工場の従業員、全員から、『好き』『付き合って』と言われて困った」と自ら言い回った。
「全員から嫌われた、の間違いでしょ」
「なんのために、嘘をつくのでしょうか」
「頭の中は、どこまでもおめでたく、息をするが如く。つかないと死ぬんじゃない」
 マジックの補充インクを机にぶちまけた。重要な書類を読めなくした。
「ふたが開いていたのよ」
「自分がひっくり返して、ふたが開いたんだろうが」
「ここに置いてあるのが悪いのよ」
 自分に過失があるなんて考えもしない。皆から非難されても、理不尽ないじめに遇う、不幸な自分に酔う。限りなく前向きに妄想の世界で生きる。自信の根拠は、自分の人生は祝福されているという思い込みだ。不都合な現実は、現実が間違っているのだ。自分に都合が悪いことが嘘で、都合のいいことが真実。事実など無意味だ。

 心臓を締め付ける冷気が緩み、気分も明るくなり始める季節。世間は花見に浮かれている。楽しいだろうと想像した。
会社の同僚で美人のヨーコから誘われた。冗談だと思った。が、心弾む。楽しいだろうと想像した。いや、楽しい場面だけを想像した。人間は二十四時間楽しい訳ではない。準備や後始末など煩わしい事が何も無い行事は無い。
 会社の帰路、バスの中から夜桜を見た。いや、それに集まる人を見た。人工の光。中で行われる宴会を想像する。自分は外から眺めるだけ。今までの人生もそうだった。それが自分の居場所で、ある意味居心地が良い。
 何事も無く、数日が過ぎた。
「そろそろ日時を決めないと、桜が散ってしまいますよ」
「えっ、本当に行くの」
 その反応に、ひどくがっかりした様子を見せた。断られたと思ったようだ。意外な気もしたが、そうでもないような気もした。悪いとは思ったがそのままにしておいた。一安心だ。自分にとっては、習慣が崩れる事が重大だった。帰ってすぐ寝るなんてできない。潔癖症なので、入念な手洗いの必要がある。日記もつけなければならない。ましてや美人と花見など、書く事は膨大な量だ。夜中まで、いや朝までかかる。
 人間にとって楽しいのは非日常の空間に身を置く事だ。基本的には私にも楽しみだ。しかし、それは習慣から外れる事だ。想像の中にしか、極楽は存在しない。
 ヨーコは美人だ。俺に固執する必要は無い。俺は、人生で唯一機会を逃した。

恋人がいる。彼女は女優だ。誰でも知っている有名人。いつも電波に乗って僕の部屋にやって来る。予告は新聞に載る。新聞でその名前を見ただけで、激しく心が揺さぶられる。美しい名前は見ているだけで幸せな気分になる。そしていつまで経っても飽きない。ただの字なのに、彼女の名前になる漢字を組み合わせると魔法がかかる。とても魅力的だ。声に出してみる。彼女が照れる。僕も照れる。彼女は、僕をとても愛してくれるし、僕も愛している。僕の望む事を、すべてやってくれるし、僕のしてあげた事は、全て感謝してくれる。理想と現実が乖離する事は無い。永久に。想像した通りに彼女は変化してくれる。
 でもある日、他の男と口づけをした。僕の目の前で。深夜放送の映画。裸になった。男と抱き合った。激しく動揺し、心の整理がつかない。ただ受け身の僕。浮気を許す、寛大な僕。しかし次の瞬間、僕は画面の中に入る。僕は彼女の相手役となる。初めからやり直しだ 。口づけを交わすのは僕だ。
 彼女の素顔は、女優であることが不思議な地味な女だ。 僕の前では、仮面を脱ぎ捨てる。
 ある日、彼女が言った。
「私とあなたが結婚すれば、あなたはどうだか知りませんが、私は幸せになれます」
「じゃあ、結婚しようか」
 こうして二人の生活は始まる。一切の生活感無しに。あらゆる困難な問題は、簡単に想像通りに解決され、すぐに笑い話となり、二人の絆を強める。そして、僕は感謝され、称賛される。


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