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作品名:偉人の帳面 作者:涸井一京

第6回  
電気のついた自分のいる部屋。
家の中で、光があるのはここだけだ。いや、この辺り一帯で、明かりがついているのはここだけだ。みな寝静まっている。夜に活動するのは珍しい事ではない。遠いどこかで行われている生放送。その女性の声は届いている。
 尿意をもよおす。便所に行くには、戸を開け、闇を切り裂く必要がある。戸を開ける瞬間はいつも恐怖だ。開けた瞬間、驚いたネズミが走り去った事がある。ネズミは、人に驚き逃げ去る。襲ってこないので、自分に害は無い。が、理屈と感情は別問題だ。嫌悪感というのは、恐怖を連れてくる。
 恐怖と尿意を天秤にかけ、思い切り戸を開ける。何も起こらない。廊下の電気をつけ、歩く。
 ほっと一息つき、部屋に戻る。安心したのもつかの間であった。無音の真夜中、明らかに自分以外が出した音がした。
 今回は幻が相手ではない。玄関付近に人の気配がする。新聞配達かチラシ配りの可能性を考える。希望的観測。能天気すぎる。真夜中、自宅を守るのは自分しかいない。
好きな人でさえ入れない、大きな犠牲を伴い作り上げた聖域。他人のいない世界。何故、害にしかならない賊が入る。手を洗った後でしか触らない大事なものを、汚れた手で触られる。許されない理不尽だが、世間的に無い話ではない。とうとう自分の番が来た、という事だ。
 強い殺意を抱いた。子供の頃からの宝物。完全無欠、無敵の活劇の主人公が持つ万能銃と同じ物を持っている。その万能銃で撃ち殺すのも止むを得ない。
 怒りの感情を爆発させている間は良かったが、すぐ冷めた。不届き者を成敗しても楽しみの時間が減る。なくなった時間は返らない。この事実に愕然とする。
 不安は連鎖する。そもそも現実を前にしては、いつも通りの連戦連勝という訳にはいかない。現実に対し、無力な自分を思い知る。この事実に愕然とする。俺は弱かったのだ。負けて死ぬかもしれない。
 棒切れが目に入った。活劇と違いこちらが有効なのだ。いや、ましという程度だ。現実はその方が効果がある。万能銃は役に立たない。それに気づいてしまうのがダメなのだ。
 俺は玄関に近づく。これだけで足が震える。じっと部屋にひそんでいる事はできなかった。それが妄想の世界を守る、その中の自分の尊厳を保つ最低限の行動だった。決死の覚悟で廊下から玄関に出る。
 物語のまぬけな三枚目と同じく棒切れを闇雲に振り回した。気合の入った奇声を放ったつもりだったが、耳に入った声は情けなく、か細い。そして何も手応えが無い。それは自分の無力のせいではない。
 賊は存在しない。
 拍子抜けではない。安心はない。妄想の中で敵を作り上げたのではない。何とも言えず、何もやりようの無い状況。予想しない結末。
 この行き場のないもどかしい感情を持て余し、泣く事も笑う事もできない。
 賊がどこにいるのか分からない不安。いないかもしれない希望。
 危険は去ったと思いたいが、まだその辺にいてもおかしくは無い。玄関のカギを確認する。かかっている。賊が侵入して、後、鍵をかける訳が無い。逃げにくいのだから。 しかし、そう言い切れるのか。中にすでに侵入して、俺を安心させた上で、襲う機会をうかがているのではないのか。
 外で、俺が出るのを待っているのかもしれない。ふらふらと外に出ると刺されるのかもしれない。
 部屋に戻る事も出来ない。外に出る事も出来ない。ここが安心という訳ではないが、どこにも動く勇気が無い。すなわちただ耐えるしかない状況だ。
 俺には知識がある。それを活用する。こちらが怖い以上に奴は怖いのだ。俺の影を見て、侵入する勇気は無いはずだ。中にいたとしても見つからないように潜んでいのがおちだ。
 手にした棒切れが目に入る。恐怖が湧く。
 ただじりじりと時間が過ぎる。ひたすら退屈している。時間が無駄に過ぎる。あくびが出る。涙が流れる。この油断で命を落とすかもしれない。ただじっと立つ苦痛に耐えるのは、恐怖のためだ。
一つ光明が見えた。向かいの早起きのじいさんの下駄の音がする。じいさんが異変に気付かないないのだ。
 俺は、外に出る。ようやく一息つく。はっきり異音が聞こえたのだが、空耳だったというのか。いや、やはり違う。俺の気合が、恐ろしい気合が、賊に伝わり、賊は逃げ去ったのだ。
 勝利だ。しかし、敗北に近い勝利だ。やはり、もどかしさが消えない。
 手にした棒切れが目に入る。恐怖が湧く。家の中に入れなくなる。


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