20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:偉人の帳面 作者:涸井一京

第5回   妄想
 私の一日の仕事の始まりは、夕方に朝刊を読む事から始まる。軽く食事を摂った後、新聞の折り込み広告も丹念に調べる。家電製品は見ているだけで楽しい。人の欲求が具現化され、不便だった機能がどんどん改善される。時代の進歩。未来がやって来たことを実感する。新しい製品を買う計画を立てる。どの商品が、一番性能が良く、安いのか。他人から感心される選択をする。
 次は不動産の広告だ。一人暮らしだと、マンションが良い。優雅な生活を夢見る。人がうらやむ高みに上り、憧れを具現化する。高級な家具に囲まれ、高級なステレオでゆったり音楽を聴く。夢と希望にあふれる新しい生活。豊かになる生活を想像し、うれしくなる。それふさわしいソファにゆったりと腰かけ、高級カメラを手入れする。人から称賛される写真を撮る才能あふれる私。
車の広告が目に入る。不動産の広告に戻って確認する。盗難防止に優れた駐車場があるマンションでないとダメだ。高級車に乗るのだから。写真の車を見比べる。一番性能が良く高いのが良い。馬力と値段で他人を圧倒するのだ。
趣味もふさわしいものでなければならない。鉄道模型が良い。値が張る分、見栄えがする。帆船の模型作りは絶対必要だ。子供が想像する金持ちは、これを洋式の応接間で作ったものだ。決して、工作に向く部屋ではなかったが。
小さな部品をつなぎ合わせる。根気のいる作業だ。丁寧に困難を乗り越える。語るだけの困難は神経をすり減らさない。

 収益型マンションも買う必要がある。今は安いが、私だけが知っている、値段が上がる土地も買っておこう。高級酒の入ったグラスを傾け、構想にふける。どんな高級な酒も、私のもうけ話に比べると、取るに足りない安い物だ。
旅行にも出かける。旅行会社の広告にある写真を見て、行き先を決めた。行き方は旅行会社の言う通りではない。自分で計画を考える。古い時刻表を引っ張り出してくる。確か、ダイヤ改正があったはずだ。しかしそんな事は問題ではない。私の時間は止まっている。こちらの時刻表が正しいのだ。乗る電車を考える。朝は、早すぎない方が良い。どことどこに行くべきか。効率よく名所を巡るのだ。無駄の無い乗り換えを考える。旅行会社では考え付かない数の行き先を回る。自分の完璧な計画に酔う。行先の広告写真を眺める。旅行は計画している時が一番楽しい。

 「夜の海って怖い」
 麗子がつぶやく。
 麗子は、僕がいてほしい時にいるし、僕が一人になりたいときは消えてくれる。完璧に気の利いた女だ。
大きな、ただ大きな平面。不気味だ。大きな魔物を連想する。水なのに真っ黒で水色していない。水である事を忘れさせられる。高い所から覗きこんでいると吸い込まれそうになる。飛び込みたくなる。飛び込むと、いい事がありそうな気がする。本当に飛び込むと、水面は、僕をあっという間に飲み込む。冷たい水の中に沈み、凍えて死ぬのだ。水面に寝転ぶ事も、歩く事も出来ない。地獄に続く水面。美しい平面は地獄の入り口。
 夏の海を謳歌するなんて、自分の人生とは無縁の世界のだった。いや世界そのものと無縁だったような気がする。そんな人生だった。海は、冬になり夜になると、僕を誘う。
今、こうしている間に、不在中の家が燃えているかもしれない。原因は漏電かもしれないし、放火されたかもしれない。全焼し、全てが失われているかもしれない。ただ連絡がつかないだけで、すでに家は存在しないのかもしれない。
 泥棒が入っているかもしれない。自分でさえも手を洗ってからしか触らない大事な物は、勝手に汚れた手で荒らされているかもしれない。自分の苦労と努力は、一瞬で無駄なものと化しているかもしれない。金目の物は、全て奪われているかもしれない。旅行から帰って、それから発覚するのだ。あるべき物が、そこにあり続ける保証など無い。
しかし、今回も杞憂に終わるのだ。だからこそ不安でいたくなる。危機感をばねに問題を解決しようと考える。平凡な日常に価値を見出す。それを喜びとするしかない。あきらめをつけるのだ。
 いつもと変わらない光景を見ると、ひどく安心している自分に気づく。妄想的不安が一掃されるのは、気分が良い。だからと言って、これが病みつきになる事は無い。
変わらず存在する家に入る。
 旅行から帰ってきて、家が、自分の部屋が一番良いとしみじみと感じる。家にいれば、何かしらの対応ができる。それが大事なのだ。人は、どの場所にいようとも、自分が一番落ち着ける場所を確保しようとする。そうして確保した自分の部屋を離れて、旅行に行きたがるのは、なぜだろう。帰って来て、安堵する。初めから行かなければいいではないか。
私は、事故を極端に恐れる。外は危険がいっぱいだ。皆、自分は大丈夫だと考える。確率が低いからだ。しかし同じく確率の低い宝くじは大金が当たると思って買うのだ。この、根拠の無い自信が来る先は、自分は祝福されているという根拠の無い思い込みだ。自分にだけは、不幸は訪れないと考える。不幸は他人に訪れ、自分はそれを教訓にして、より良く生きる役回りだと勝手に信じる。事故に遭った人間は、皆、自分が事故に遭うとは考えていない。その可能性を考えていると、遭わないというのでもない。備えていても、備えていなくても遭う。
旅行は、危険を冒す価値があるのかもしれない。しかし心から楽しめない。何も考えない子供ならよかった。
 いや、子供の時も何かしら不安だった。
食事は、嫌いな物から食べると決めていた。好きな物は後にとっておいた。嫌いな物が目に入り、これを食べなければならないと思うと、好きな物も楽しめなかった。一番うれしいのは、嫌な事が片付いた瞬間で、おいしい物を食べる時ではなかった気がする。
 学校から帰って、初めにするのは、宿題だった。遊びよりを先に済ます。終えてから、明日の時間割を合わせる。それから遊びに行く。同級生が、これからやらなければならない宿題に、気が重くなっている様子を見て、自分には来ない不幸だと思い、少し安心する。
 外に出るのは義務だった。「遊んできなさい」母に言われ、従った。友達の誘いなど無い。嫌がられながらも、誰かにどうにかくっついて行ければ、ましな方だ。それができない時は、「子供らしく外で遊んできなさい」という言葉が頭の中でぐるぐる回り、途方に暮れた。子供らしく、というのが何か分からない子供だった。
 全ての不安は、的外れなものだったかもしれないが、不安とはそうしたもので、不安の大きさは大人と変わらない。いやそれ以上だ。それなのになぜか楽しめた。夢中になれるものがあった。確かにあった。大人には無価値な事だった。いたずら書きをするだとか、空想の世界で遊ぶだとか。他愛も無い事なのに楽しめた。夢中になれた。なぜなのだろう。何か特殊な能力を持っていたのか。そして、年を重ね、無くしてしまったのだろうか。
 不安は、取り除けると考えていた。不安を取り除けば、人生を楽しめると考えていた。しかし。不安は取り除けない。出来たとしても、それができた時、残りの人生は無くなっている。
不安が付きまとう旅行を心から楽しめない。楽しいだけで終われば良いではないか。楽しむものは世の中にいくらでもある。しかし妄想が一番だ。不安から、安全な場所に避難する。それは自然な事だ。特別変わった事ではない。みな思い出作りなどと口にするではないか。すべての快楽は脳の中にある。
 そして日記をつけるのだ。旅の思い出として広告の風景写真を切り抜く。
旅の車窓から見る光景と部屋の窓から見る風景。見える源である太陽の光は同一だ。
陽の光を眺める。
生まれたての汚れの無い朝の光。勢いがあり、熱を帯びた昼。やがて傾き始める三時の黄色が入った光。赤くなるまでの刻々と変化していく光。ただじっと眺める。暖かいという事は、幸せの条件だ。陽の光は熱を感じさせる。これ以上の幸せはこの世の中には無い。しかし、これを幸せと感じる感性が必要だ。
 陽の光を眺める。
 じっと眺めていられる時間を持つ自分が、この世の中で一番贅沢をしている人間だ。社会との折り合いは悪かったが、この星の住人としては正しく生きてきた。

 ラジオから流れる高尚な音楽に耳を傾ける。優越感に浸る。退屈でも構わない。これに耐えられる時間がある。ここが他人との違いだ。俺には余裕がある。局を変える。よく知っている曲、懐かしい。「あの頃に戻れる」なんてよく言われる。何度も聞いていた曲なのに、ひどく新鮮で感動する。それは見知らぬ誰かと共有しているせいか。それは無い。ラジオとは、送り手と受け手、彼女との一対一の対話があるだけだ。いや、これは新曲だ。この春休みが終われば、いよいよ高校最後の一年だ。あらゆる傷が、心にも経歴にもついていない俺。気分が軽やかだ。
 しかし、なぜかその後を知っている。未来を知っている。暗い未来だ。
振り払うように、改めて手持ちのものを聞いてみる。さらっと流れて心に引っかからない。染み入らない。
 そう、所有というのがいけない。手に触れられない物を所有して、それを再生しても感動は伝わらない。音楽も時間も流れるものなのだ。それをとどめるのは、不自然なのだ。ラジオ、テレビの情報は妄想を豊かにする栄養源だ。音楽は脳内再生するために聞くのだ。心の中で再生する音楽が最高の音楽なのだ。

 私の一日の仕事の終わりは、夜、寝る直前に来る。布団に入るという意味ではない。睡眠に入る直前という意味だ。何しろ私の思考には休みが無い。つまりは、起きている間に心が休まる暇は無い。



← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 2392