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作品名:偉人の帳面 作者:涸井一京

第3回   風物詩
 夏、テレビで高校野球をやっていないと物足りない。特段見たくもないが、あると安心する。じっくり見入る事は無い。通りすがりに目に入るものだ。家電量販店の売り物のテレビだとか、会社の休憩室だとか。
 扇風機のようなもので、夏の風景にあって当然のものだ。終わると夏も終わる。季節を告げる時計のようなものだ。
 毎年楽しみにしている者も多い。そんな奴らでも何年には誰が活躍して、どこが優勝したとか、強く印象に残っているもの以外の記憶は曖昧だ。何しろ毎年行われる。記憶は、上書きされ続ける。
 若い男が、
「いよいよ甲子園の季節ですね」と言った。特に高校野球が好きな訳ではない。ただ話題が無かっただけだ。
「実はね、行ったよ」
「観客席、というオチですか」
 中年男は、楽しそうに笑った。
「観客じゃないさ。ちゃんと選手としてね」
 さえない中年男は、遠い目をした。若い男は、中年の細い腕を眺め、どう答えていいか分からない。中年男は視線を感じた。
「投手だったんだ。打つ方は全然ダメ」
 若者は、羨ましいと感じた。事実と仮定して、打ち込めるものがあった事、結果が出た事、称賛を受けた事。
「同級生に天才捕手と謳われた男がいてね。県外の名門高校に入学がほぼ決まっていたんだ。奴は小さい頃から、どこかの立派なグランドでユニフォームを着て、大人から教えられていた。俺は近くの児童公園で草野球だった。仲は良くも悪くもなかった。ほとんど交流が無かったんだ。
 ある日、たまたま通りかかった公園で、俺の投げる球を見て、奴は驚いた。その時は、何も言わなかったが、負けた、と思ったらしい。自分は月謝を払って野球を教わっているが、教わってなくても、こんないい球を投げる奴がいるんだ、と。
 中三になって、皆が進路に頭を悩ます頃、話す機会があった。その時、奴は、その事を告白した。俺は、噂で、奴が名門高校に行く事を知っていた。俺は励まそうと思ったが、口が悪くてね。つい嫌味を言ってしまった。いや、単に素直に感じたままを口にしただけかもしれない。『あの高校だったら、甲子園に確実に行けるな。しかし、決まってもうれしいというより、ほっとするだけだろうなあ』奴は表情を曇らせた。俺はまずいと思った。
 その時奴は、思いがけない事を口走った。『お前、高校に行ったら、野球部に入る気は無いか?』『えっと、何、それ。俺、卓球部だったんだぜ』『お前は地元の公立に行くんだろ。お前が野球部に入るなら、俺も同じ公立に進む』『あそこじゃ甲子園は無理だろ』『お前と二人なら、行けるさ』そう奴は言った」
 中年男は、再び遠い目をする。
「一年目は、準々決勝まで行った。三年生は、感激してくれた。『お前たちのおかげだ。ありがとう』そう言われた。十年連続初戦敗退の高校だったしね。部室の壁には、『努力』とか『一球入魂』とか普通は書いてあるんだろうけど、我校の部室には、『みんな楽しく』と書いて、貼ってあった」
「よくそれで、準々決勝まで行けましたね」
「まあ、楽しく練習したよ。基本練習ばっかりだったけどね。何しろ、指導者がいない。本とか読んで練習したよ」
「監督はいたでしょ」
「もちろん。でもあまり野球に詳しくなかったよ。何しろ十年連続初戦敗退校だしね」
「少しの満足はあったが、現実は厳しいとも思った。俺は、負けない人間だと思っていた。だから、どこかで優勝する気でいた。だから、三年生には、申し訳無いと思った。
 二年目は決勝まで行ったよ。勝てる寸前だった。味方の失策で逆転サヨナラ負け。この時も、みんな笑顔だった。失策した選手を誰も責めなかった。いい感じだった。甲子園なんて、どうでもいいと思った。
 しかし、最後の夏の予選の決勝戦、俺は責任を感じていた。この年は、あまり楽しくはなかった。まだ一度も行けていない。俺の一言が無ければ、奴は五回、甲子園に行ったはずだ。とっくに有名人のはずだ。それもこれも、俺のせいだ。ただ甲子園出場を決めた瞬間に心底喜びたいという幼稚な発想のために、奴の人生を狂わせるかもしれない。『そんなに甘いものでは無い』と、奴は言ってくれた。でも、この最後の機会、絶対に勝たなければならない。魂の乗った切れのある直球が、強打者の懐に吸い込まれていく。バットが空を切る。そう想像した。結果、そうなったのさ」
「すごいっすね」若者は信じた訳ではない。
「草野球やりましょうよ。伝説の直球を見てみたい」
 中年男は、
「今は、とても無理だよ」落ち着いて答えた。
 中年男はうまくごまかせたと思い、若い男は、やはりと思った。
若い男に追い込む気は無かった。
「天才捕手は今どうしているのですか」
「いきなり、一軍という訳には行かなかった。猛練習がたたったのか、故障した。まあ、一般人としてがんばっているよ」
 若い男は、ここを修羅場にする気は無い。割り切れない思いを引きずる覚悟をした。誰にも話さないと決めた。

 開け放たれた家の窓から、高校野球の実況の声が流れる。今日は四試合あるから、遅くまでかかっているようだ。
 家に帰り、即興で語った物語を日記に認めた。勿論、日付は二十年前の夏の一日だ。
経験とは脳に記憶を埋め込む作業だ。
経験した事の無い事を、したかのように語る事は珍しい事では無い。語っているうちに、語っている記憶と実際の経験と区別がつかなくなる事もある。その場合、本人に嘘をついている意識は無いから、聞いている人間は、だまされやすい。そのうち、嘘は真実となる。違いはある。身体で覚えるというのが無い。その瞬間にしか味わえない感覚を得るのも経験の重要な要素だ。賞状の類も無い。しかし捨てた事にすればいい。過去に拘らない男というのは、格好いい。
 意図せずずれる場合もある。自分に都合の良い様にすり替わる場合もある。
 経験した事でも忘れる事がある。元々無かったのと同じ、ではない。
 勢いがつき、日記は八月に入る。
 甲子園は当然優勝。
 八月の終わりから、受験勉強を始める。そして東大現役合格。新聞を再び賑わす。
 半年ぶりに記者に囲まれる俺。
「よく『「俺、勉強なんて全然していない』と見え透いた嘘を言う奴がいるけど、俺は本当に夏休みは、野球をやっていたよ。みなさんよく知っているでしょ」なんて冗談を言う。喜ぶ記者を見て、ほんの冗談でも有難がられる自分の価値を知る。止まない称賛の声が頭の中で鳴り響く。これをうるさいなんて言ってはいけない。


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