鍋とお玉がぶつかり、こすれる金属音。立ち上がる炎の音。客の注文を料理人に伝える大声。音を立てて食べる客。大きな話し声。騒然としている。落ち着いて食事を摂る雰囲気ではないが、ラーメン屋には、それが活気として理解される。 この店は、特に味に特徴がある では訳ではない。どちらかというとまずい部類に入る。 この商店街には、食べ物屋は、うどんと丼を出す店と、ここの二店しかない。準備と後片付けが嫌な人間や一人暮らしの人間が夕食時間にここに集まる。彼らにとっては、外食というほど大げさなものではない。日常の食事だ。それなりの代金を払うので、毎日という訳にはいかない。飽きる前に、他を考えなければならない。しかし面倒くさがり屋は、金がきつくても来てしまう。そして注文の品数が減る。日曜日には、家族連れが目立つ。ささやかな外食となる。親は瓶ビールを注文する。 「すいません」 「はい」騒音に負けない良く通る声。辺りを見回す若い店員。ばつが悪そうに仕事に戻る。誰も笑ったりはしない。客が見上げる先にあるテレビの中の空席の無い夕食時の大衆中華料理屋。インタビュアーが「すいません」ともう一度通行人に声をかけた。 「あんたに聞いてもろて、なんやすっきりしたわ」 背中越しに聞こえる中年女の言葉が、妙にはっきりと聞こえた。 (他人に話をして気を紛らわすなんて馬鹿らしやい)と毒づいた。(話しても現実は何も変わらんよ) 聞かされている女は、 「そうやね」と答えた。 しかし、話すことで記憶の共有ができる。自分以外の誰かが、その事実を知っているということが重要だ。理解して同情されるかなんて問題ではない。精神的負担となるような不正義を自分以外の誰かも知っているという事実が大事なのだ。それが重大な不正義であるかはともかくとして、聞いてくれる誰かが必要なのだ。幸運にも自分を肯定してくれる場合もある。いや、嘘でも肯定してくれるだろう。嘘でも正当性を認められる。嘘でも、「そうね」と同意されるのは快感である。 私には、他人は必要では無い。 帳面に書く。考える術として書く。感情の浄化として書く。過去を振り返り反省の術として書く。物理的に残るという事実があればいい。日記なんて書くだけで、読み返さない可能性が高い。それでも残る事に意味がある。幸運ではなく、確実に自分を肯定できる。揺らぎそうな正当性を強固に固めるのだ。 太った男が店に入ってきた。前の客が食べ終えた食器が残る席に座る。「早く片付けろ」若い店員呼びつけ、言った。安物の椅子の足が折れそうだ。料金を払うかぎり、威張らないと損だと考えているようだ。 中年男が食べ終わって、丼を灰皿に煙草を吸いだした。 俺は、店員に小銭を渡した。
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