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作品名:検算人生 作者:涸井一京

最終回   1
 自分の家から出ない完全引きこもり。夜中にそっと部屋からは、出る。台所に忍び込み、食う。それだけが楽しみだ。食糧が存在する。それだけでうれしい。並べて眺める。食う、組み合わせを考える。ひどく安心する。巣篭りにとって、食料の確保は最大の仕事だ。
夜中に朝刊と夕刊を読む。新聞を読み、見識を深める。あらゆる事情に精通し、全ての解決策を持っている。世界はおれを称賛する。
運動もする。手を振り回すだけでぶつかる狭い部屋だが。工夫する。むやみに家の中を歩き回り、腕立て、腹筋を十回ずつかかさない。社会復帰した時に困らない体力は維持している。
音楽を聞く。それを唄っているのはおれである。
映画の中の完璧な美形の俳優はおれである。
野球で剛速球を投げる投手はおれだ。取材を受ける。完璧な人生について語る。聞く人間はただ感嘆する。
普通の人生でもいい。一流大学を出て、一流の会社に入る。美人と結婚し、優秀な子供が生まれる。快適な家を買い、高級車に乗る。人の妬みを買うのも快感だ。強靭な精神力で自分を思い通りに操れる。勝負には負けたことが無い。全てが思い通りの人生。完璧で間違いが無い。
人は、他人の役に立ちたいという願望を本能的に持つ。それを叶えると快楽を得られる。いや、実際役に立っていようがいまいが関係ない。ただ感謝と評価を欲しがるものだ。人間は社会を構成する。その社会で然るべき地位を得るには、人の役に立つ必要がある。
自分と似た存在を発見した。
奴も、おれと同じだ。勝っ放しの負け知らず。選挙は連戦、連勝。完璧だ。上位に多くの政党がいるが、誰も勝利に疑問を挟まない。だから、誰も責任を取らない。取る必要が無い。
命を懸けて反対した法案は通るが、通った後、反対していた議員が自殺したりはしない。本当は命を賭けていなかったのではない。勝利したからだ。三日に一回やる子供の「一生のお願い」並みに公約が軽いのではない。
当選の暁には、即座に世の中が変わると宣伝する。当選して、何も変わらないと指摘する有権者を、小ばかにして、こんな馬鹿を相手にして苦労していますと苦笑してみせる。
何も矛盾は無い。それを理解しないのは、高尚な革命を理解しない無能な人間だからだ。
華麗なる反対運動を展開する。それは効果無く、相手の思い通りになる。でも大勝利。自画自賛、いや絶賛だ。型通りに反対運動ができたがどうかが問題だ。
良心のある党員は、頼む相手が間違っている。敵に頼むべきだと思うが、カモを可哀想と思うが、党を止める事は無い。積み上げた物の完全否定は怖いものだ。例え、良心が痛んだとしても。
下っ端の学生は、学校に行く事を許されず、党員勧誘をやらされる。勉強しないという点では同じ。無為に過ごすという点では同じ。
脳内のみの社会参加だから、無敗。完璧で失敗が無い。世間の問題は自分の指導に従わないからだ。完璧な解決策も持っている。称賛も受ける。
自分が共産主義者であるという事実は、いかなる場合も自分が絶対に正しいという信念を生む。その信念は揺らがない。自分は共産主義者だからだ。事実を目の前に突き付けられようとも、揺るがない。事実が間違っているという訳ではない。事実を事実として認識は出来る。しかし共産主義者であるという自覚は、全てを、あらゆる矛盾を超越する。
おれの実体験とは、本や新聞を読んだり、部屋で映画を見たりする事だ。他人より薄い体験だ。それでも感情を動かされるのは危険だ。混乱を極める。壁に向かってじっと時間をやり過ごすのがいい。妄想の世界は平和で安全だ。
おれは無敗の格闘家だ。試合をした事は無いが。勝利の経験が無い事は重要では無い。無敗、これが勲章だ。働いたことのない者が、労働の価値を高らかに謳いあげるのと似ている。

家人との会話だけが声を出す機会だ。これだけ薄い人間関係でも悩まされる。
父親は、あほだった。あほは記憶力が弱い。恥知らずというより、記憶が無いから、恥を感じる事も出来ない。相手が言った教訓。なるほどと思ったまでは良いが、それを教えた相手に、その教訓を滔々と語る。
あほは嘘をつく。うそをつくにも、事実を覚えておく記憶力がいる。事実と違う事を言えばうそになるが、事実を覚えていない。平気でうそをつく、というよりその前提の知能が無い。事実と違う事を言えば嘘になる事も分からない。自分に都合の良い事が真実で、都合の悪い事を嘘と考える。
その場しのぎの言い逃れを繰り返し、取り返しがつかなくなったら、開き直る。というより、言い逃れをした記憶が無い。
そして父は、何よりも他人の幸福を呪った。他人が幸せそうだと、自分が損をした気分になる。幼かった頃、ソフトクリームを舐める事を禁じた。「噛んで食べろ」と。目の前に楽しみをぶら下げて、禁じて楽しんだ。
小学生の時、進学塾に通わせた。そして強硬に、わめきちらしながら受験をさせなかった。その行動に矛盾は無い。受験勉強で苦しめ、受験させない事で苦しめた。二重に喜びなのである。
そういう事が続くとどうなるか。例えば、他の子供がお菓子を食べていて、自分だけ食べていないとする。食べたいと思っても、食べられないのが当たり前で、その事を疑問に感じず、欲しいとも思わなくなる。
同年代の若者が青春を謳歌している。おれは暗い部屋でうずくまる。だからと言って羨ましいと感じない。自分のいるべき場所でやるべき事をしている安心がある。
夏休みが永遠に続くのなら、誰も夏休みの宿題をしない。
不老不死の薬を飲めば、真っ当な人生を歩めない。堕落した無意味な時間を過ごし、無為な人生を歩み続ける。何年牢獄にいようが、構わない。時間は無限にある。牢獄は限りある命に効果がある。
厳しい冬を乗り越えたから、暖かい春が有難い。秋の収穫の喜びは種をまいて、育てた苦労が実ったものだ。何もしないで秋が来ても、それはただ時間が過ぎただけだ。
時の流れを押しとどめようとした。それが願い。しかし、確実に進む。しかしひどく歩みは遅い。毎日、新聞の日付を見るが、一日ずつしか進まない。しかし、振り返ると、一年前がほんの昨日の事のように感じられてしまう。一年があっという間に過ぎたと気付く。それでも新聞の日付を見ながら、昨日から数字が一つしか違わない事を確認し、まだ大丈夫と思いこみながら過ごす。時は、何も努力しないのと同じ速度で進む。

鏡を見ながら、自分で髪を切る。器用なもんだ。散髪屋に行っていた時の記憶をたどり、櫛からはみ出たところを切る。
その夜、散髪屋に行く。衝立の後ろの椅子に座りながら、順番を待つ。やっとここに来られた。問題が一つ解決した。ほっとした。心よりの解放感を味わった。夢から覚めた。何も問題が解決していないと理解しつつ、あの解放感は本物だと断言できる。心が軽い。常時苦痛にさらされている者にとっては、麻酔で一時的にでも苦痛から逃れる事が必要なのだ。

老いた男が一人、夜の街を歩く。一軒の店に入る。看板に、「電波が入り込まない店」とある。そこは健康に良い場所。飛び交う電波に不安を覚える人が安心できる場所。そして電波を浴びない時間を持ち、健康を取り戻す空間。椅子に座り何をするでもない。ただじっと休んでいる。自分の家の方が、ほっこり落ち着くだろうが、この男はそうではない。家の壁は、電波を遮断できない。
若い客が入ってきた。携帯電話を手にしている。
趣旨を理解していない。
常連客と目が合う。つながらないと冷笑を浴びせましょう。意志の統一が形成された。
「君、ここでは電波は入らないよ」
「いや、大丈夫ですよ。屋内でもつながりやすい周波数を持っているんですよ」
 と携帯電話をかざした。
「ここは電波の入らない不便な店ではない。電波を浴びたくない人の店だ。携帯電話の性能ではなく、店の遮断能力でつながらない・・・」
言い終わる前に、呼出音が鳴った。携帯電話で会話を始めた。
 驚く他の客に、「屋内でもつながりやすい周波数を持つ携帯なんですよ」と同じ説明をした。
 常連客は、
「ここは電波の入らない不便な店では、・・・」同じ説明をしようとして、途中で止めた。
「君には未来が無い。不健康の極みだ」
 声に怒気が含まれる。それは自分の土台を揺るがされたせいだ。目の前の男が悪いのではない。店の不手際だ。理不尽な怒りである事を理解しても、目の前の男を叩かなければ、気が済まない。
「電波は人体に有害だ」
「まあ、即死する訳ではないし。それにあなた、そんなに健康に気を使って、どうするつもりですか。失礼だが、あなたには時間が無い。健康体で死ぬことに意味があるのですか。買った電気製品を、満足できるまで使ったとします。その後、壊れていても、正常動作していても、あまり関係ないって言うか、どうでもいいでしょ。それともあなたは永久に生きるつもりですか。それでいつまでも健康でいる必要があるのですか」
 完璧に決まってしまった。皆、おれの高説に平伏す。これから彼らは、そこそこ健康に気を配りながら、健康に振り回されることなく、生きていくだろう。

高校まで貯めた、貯金がある。それは十年動かさないと没収されるという。大した額ではない。しかし、大きな損失が気にならないにも関わらず、こういう小さな損失は気になる。
それは目標では無かった。その日に決行するのだから、それまでゆっくりしているという、引きこもり生活の免罪符だった。十年は永遠に来ない未来だと信じていた。事実、毎日新聞の日付を見ても、一日ずつしか進まない。いつまで経っても十年はやって来ないはずだった。
しかし。
見逃す手もあった。また新しい言い訳を見つければいい。しかし面倒だったのだ。
そして、社会的引きこもりに昇格した。

久しぶりの外出。
靴が捨てられていた。つっかけで出た。怪しい人間は、自然と怪しい格好になるようだ。まともに歩けない。家の中を歩いているのだが、外は違った。フラフラした。間合いがつかめないのである。手を伸ばせば、何かをつかめる状態の家の中とは違う。広いのである。距離感がつかめない。自分の力だけは、立つ事さえ不安なのである。ましてや歩くなんて、できない。恐怖で足がすくむ。家の中で歩くのと同じだと言い聞かせて、一歩を踏み出す。
歩いても、歩いても一向に慣れない。ゆらゆらしながら、目的の郵便局に近づく。
桜が散り始める頃、頭上には公園の敷地からせり出した枝。太陽の光がその間から差し込む。自分を照らし出しているように感じた。風が吹く。花びらが散った。紙ふぶきで祝福されているように感じた。生まれて初めて桜を見た気がした。生まれ変わったような気がしたのではない。大人になって初めて桜を見た。本で読んだ桜。子供の頃見た桜。どれとも違った。社会の思い入れを、その意味を知識として知った後に見た、初めての桜だった。
郵便局に着く。そこに巨大な敵がいると思っていた。全てを拒絶、否定されると想像していた。
家族以外の人間を見るのも久しぶりだ。不思議な生き物に感じる。向こうも同じだろう。
実に呆気なく目的は達成された。局員は相手が無職あろうと、引きこもりであろうと、一向に構わない。いつも通りの手順をこなすだけだ。いくばくかの金を引き出した。
何度も繰り返した机上演習通りに、散髪屋に行く。夢にまで見た。まさに夢に見たあの場面が実現する。しかし、夢から覚めても、尚あった解放感は無かった。実現すれば、実に呆気ないというのでもない。あの日にできなければ、意味が無かったのだ。数年後の今では、無意味だったのだ。現実も見せられた。おれの頭を一目見て、嫌そうに洗髪から始めた。普通は刈った後にする洗髪を。何かが違うかなんて、考える必要も無い。自分で切った頭が不潔に見えたのだ。そしておれは、ここは自分で稼いだ金で来て、日々の苦労を癒し、くつろぐ場だと理解した。
今のおれは、嘘でも金を払う立場の客である。金を得る立場の労働者までは、途方もない高い壁がある。必死の思いで、一つの大きな壁を乗り越えてみたが、その次に、それより巨大な壁がある事に気付いた。絶望的な気分になったのは、そのせいではない。なぜそんな事に思い至らなかったのか。なぜそんな簡単な事を見落としていたのか、賢いはずのおれの浅はかさを思い知る。

帰って、何度も外での行動を反芻した。右に曲がろうとした角で、老人とぶつかりそうになった。おれは右側を歩いていたし、歩行者は右側を歩くべきだ。これでぶつかりそうになったのは、老人に非がある。まあ、第一ぶつかっていない。そのまま行ったが、もし驚き飛びのいた老人の骨にひびが入っていても、おれに非は無い。あらゆる可能性に対して、おれに非が無い事を確認した。他の些細な出来事に対しても、他人に何か迷惑をかけてはいないか、間違いが無かったか確認した。
そして、次の計画を練った。月一回の冒険を自分に課した。何度も頭の中で計画を実行した。完璧な計画であると確認し、自分の有能さに酔いしれた。
本屋に行く。求人雑誌が目に入る。手に取る。付録の履歴書を見つけた。書く、想定をする。ありえない。雑誌の中身を見る。履歴書の必要の無い求人が、何とか無いものかと探す。あるはずがない。
楽しい事をしなければ、と感じ、場所を移動する。部屋の中でも様々な情報が入る。話に聞いて、欲しいと思った本がある。それを何気に購入するのは憧れの行動だ。夢はおおむね叶う。
帰り道、ラーメン屋の前を通る。求人の貼り紙が目に入る。職種、皿洗い。時給を見る。それが高いのか安いのか分からない。ただ、収入があれば、なんやかんやと買えるのは間違いない。夢のような話で現実的でない。通り過ぎた。
かなり歩いてから、戻った。もしおれが働くとしたら、ここしかないのではないのか。これを逃せば、一生後悔するのではないのか。条件に履歴書の件は書いていない。店の周りをぐるぐるする。ふんぎりがつかない。
そろそろ怪しまれる。入るか、帰るか。おれはまだ客としてさえ、一人でラーメン店に入ったことが無い。それすらないおれが、なぜ店内に入っていけたのかは、分からない。発作的に自殺するようなものだったのかもしれない。しかし、英雄的な自慢したい気分だ。それは一瞬で打ち砕かれた、「いらっしゃいませ」客と勘違いされた。「あの・・・、貼り紙を見まして、・・・」店主はいかつい顔で、凶暴そうだ。にもかかわらず優しい口調で話す。露骨に嫌な顔をされる場面のはずだが。知らぬ間に世間は、随分とやさしくなった。いや、勝手に世の中は敵しかいないと思い込んでいただけなのか。「一応、ここに名前と電話番号を書いて。社長に報告して、電話してもらうから」言われた通りに書く。丁寧にしまってくれた。
家に帰る。電話は無い。あの貼り紙は、新たに人が必要なほど店が繁盛していますという、ただの景気づけ。真に受ける人間がいるとは思わなかったのだろう。
努力はした。不運にも無職。おれは、免罪符を得るのがせいぜいのようだ。

数百円の文庫本をいつくしむようにゆっくり読む。随分生活が充実した。
大型家電量販店の中をうろつく。パーソナルコンピュータが目に入る。全ての問題を解決する魔法の箱に見える。こいつの可能性は無限の宇宙だった。何でも出来ると信じていた。それは昔の話だ。性能が高まると、できない事が見えてくる。ただの道具になった。それでも魅力的な製品だ。値段と性能を調べ、どれを買うか検討する。金を得る術の無いおれには永遠に手に入らない物だが。
子供の頃、お年玉で何を買うかと下見した。それは楽しかった。今も楽しい。今は、正月が来てもお年玉は入らないから、子供の時より悪くなっている。でもいい。下見をしていた時間が一番楽しかったのだ。
性能と値段。一番のお買い得を決めた。隣の不慣れな年配の男に教えたい。
使える金は無い。金があっても見るだけの人間もいるから、目立たない。いや、店員は、買わない事に気付いているかもしれない。
嫌味のように、「いらしゃいませ」と言った。慌てて、場を離れる。振り向いて、ちらと顔を見る。邪魔者を見る目に軽蔑が混ざる。その言葉は、店を活気づけるものだ。おれは無言で会釈する。敗北に気付いた。なぜ今まで気付かなかったのか不思議だ。おれは人生の敗残者だ。
「『八』が縁起の良い数字なんて言うけど、『八』って漢字で書かないと、末に広がらないよね。子供は三人以上産まないと、末には広がらないよね。二人だと平行だし、一人だと尻すぼみだよね」」
「そう、・・・ですよね」店員はにやりとして、納得して、知性と教養、更に洒落の分かるおれの柔軟性に感服する。

昼夜逆転の生活から、人並みに朝に起きる生活になった。
午前中、窓際に行き、電気を点けずに新聞を読む。一度それをしてしまうと、電気を点けて読むのがもったいない。それが理由と言えば、理由だ。そして一度習慣になると、もう変えられない。まあ、それでいいのだろうが。
図書館を見つけた。ひどく敷居が高かった。子供の頃の記憶をたどり、出入り自由だと思い出した。それでも勇気が出ない。店員に見られる目を思い出した時、やっと一歩進めた。中に入る。誰も何も言わなかった。拍子抜けした。
ひどく居心地の良い空間だ。本が好きな訳ではない。誰でも無料で利用できる。という事は、稼ぎ無き人間でも本来の目的の利用ができる。店にとっては流通する通貨を持たない人間は客ではない。紛れ込んだゴミなのだ。
母は、毎日行く所がある事を喜んだ。社会復帰の一歩という淡い期待を感じた。現実が厳しい事を知っているようにも見えた。

数年後、いつものように夕方に家に帰る。冬なのでもう暗い。
門燈が消えている。
鍵がかかっている。
何かあったのか。倒れて病院に運ばれた。携帯電話を持たない、収入が無くて、持てない自分のところに連絡が入らない。能天気に本を読んでいたのだ。
どきりとはする。この不幸は、何の罰だ。あれこれ考えるまでも無い。思い当たる事がある。しかし、何も行いが悪くなくても訪れる不幸でもある。
それは日常にほんの少し刺激を与えるだけの事。今回も何も無かったとほっとするのだ。しかし、それは一回あれば、それで終わり。人の死とは一度しか訪れない。「もう私たちも歳だから、いつ何時、何があるか分からない」それは警句。奮い立たせようとする警句。そして何か劇的に改善するかもしれない呪文。
何年かに渡り、口にし続けると、それは色褪せる。しかしこの警句は年々重みを増す。年月が重なる毎に、現実味を帯びる。
今回も何も無かったとほっとするのだ。錆びついた危機感の錆び落としだ。色褪せた言葉の再生だ。
鍵を出す。完全引きこもりから、社会的引きこもりになった時に作った合いカギだ。これが必要な人間に進歩したのだ。しかし、他人から見れば、一歩に満たない無意味で無価値な事だ。
カギを使い、家に入る。書置きがある。

子供の頃、よい子供である事を望まれた。教育は将来のためではなく、おれ自身生きる力をつけるものではなく、大人になって何者かになるようにではなく、その準備でなく、良い子供自体である事を望まれた。それは母自身の評価のためのもので、自分が良い母であるためのものであった。
四歳の時、「おれ」と口にした。母は驚いた。幼稚園で汚い言葉を覚えてきた、と嘆いた。家に閉じ込めたかった。それはしなかった。しかし、「おれ」は遠くには行かなかった。そして、数十年後。きっと夢が叶ったのだろう。
親が死ぬ。それが嫌なのは、情愛ではない。日常がかき乱されるのが、煩わしいのだ。そして実害がある。一人を考える。便所や洗面所の排水溝が詰まったり、何か機械が故障しても、時間が経てば、直っているなんてことはない。食事の用意。洗濯。掃除。おれの世話する人がいなくなる。新聞を数人で読むから、国営放送の受信料も数人で見るから、その値段を我慢できるだけだ。一人で見るには高すぎる。一人だと固定電話は必要無い。解約する。卒業名簿に載っている番号が消える。連絡がつかなくなるという事だ。誰もおれと連絡を取ろうとはしないだろうが。ほんの細い糸が心のよりどころだったと知る。可能性がほとんどないのと、全く無いのでは、大きな違いがあるという事だ。金はある。多分死ぬまで。しかし一切増えないとなると不安だ。今もしないが、無駄遣いは一切しない。歩いて行ける無料の図書館だけが、行ける場所だ。食糧を含め、どうしても必要な物以外は金を使わない。一人を考える。
曲り形にも今まで平穏無事に過ごせたのは、誰かの祈りのおかげかもしれない。もう誰かが祈ってくれる事は無い。
どうなるのか想像もつかない事も起こるだろう。古い屋敷の偏屈じいはこうして出来上がるのだ。
 高齢化社会で、子供が会社の定年になる年齢まで、親が生きていることが珍しいことではない。親がその年齢でも元気に家事をこなすこともざらだ。子供の世話を子供の定年まですることもある。自分は、働いている訳ではないのだが、そのくらいの年まで、親には生きていてほしい。その後の目途がある訳ではない。むしろ早い方がいいのだろう。その年で放り出されるよりは。独居老人の方が困るはずなのに、その方がマシに思える。それは多くの同じ人間がいるからだろうか。あらぬ方向に歩んできたが、到着点は変わらないような気がする。
親を、その独居老人にしないのが、唯一の親孝行だ。
年下の若手だったはずの野球選手が引退した。美人女優を美人に感じない。見ていて楽しくない、消化するだけの録画番組。初めから録画しなければいいのだが、他にする事が無い。好きな映画監督は新作を出さない。見るべき映画は見たのだと思う。映画の寿命より自分の寿命が長かったという事だ。
大量生産され、消費される音楽を、語り合う事はない。語るべき何かも無い。語り合う相手もいない。簡単に忘れられるなら、初めから無くてもいい。共有される事の無い音楽は、本来の目的から離れている。聞くべき音楽は聞いた。他人と時間と感情を共有しないなら、いなくても誰も気づかない。
画面に老人が映し出された。つるつるの頭に数本の毛がついている。立ち上がった毛と毛の間から向こう側が見える。しわだらけの顔。それが同い年の俳優だと気付いた。自分自身ではないが、自分の状態を映し出す鏡だ。
懐かしいは、自分の生まれる前の自分の知らない世界だ。自分が知っている時代を懐かしいと呼ばれる、今は未来だ。未来は想像するものであり、体験するものではない。あらゆる要素が、お前はもう終わりと告げている。
理解はする。しかし、方法を知らぬ。武士ならば、切腹するのだろうが、現代の市民に、その選択肢は無い。出来る事と言えば、思い出の品を処分する。それを眺める将来は無い。いつか役に立つかもしれない品物。そのいつかはもう来ない。時間が無くなる。それが死ぬという事。

幼かった、ある晴れた午前十時。
「ひなたぼっこをしよう」
明るい場所に、母がおれを連れ出した。不思議な響きの言葉だと思った。
「なにをするの」
「なにも」
「なにもしないの」
「そう、じっとしているだけ。おひさんにあたっているだけ」
日の当たる場所に出て、しゃがんでいるだけ。言われるままにじっとしていた幼い頃。
数十年後、おれは、南向きの窓を背に正座している。陽の光が暖かい
足の裏が妙に心地よい。植物が根から栄養を吸収するのは、こんな感じかもしれない。
立ち上がり座布団を見る。強い光が目に痛い。反射光である。それにも関わらず、座布団自体が発光しているようだ。
雲が太陽の前を横切る。輝きが失せた。
母がこと切れたと悟った。
母は、病院には来るな、と言った。いつものように図書館に行け、と言った。それを仕事のように感じ、親の死に目にも会えずに仕事に励む息子と思いたかったのだろう。言いつけを破って家にいた。小さな子供に残酷な場面を見せまいと、目を手の平で覆うような感覚だったのかもしれない。最後まで、母親だったのだ。
おれは妄想の中では無敵だ。しかし、現実は無力だ。全力で阻止したはずが。そして生き返る事も無い。

外を歩いた。散歩をしたい気分だ。あてはない。
ポカポカの陽気 どぶ川の流れをじっと見ていた。きらきら輝いて美しい。天国の様だ。浅い川には、カップ酒の空き瓶。ひなたぼっこという不思議な響きの言葉。母の声がどんなだったか、思い出せない。
『これでやっと何もかもから解放される』母は、おれの問題を解決不能と理解していた。生きているゆえのこだわりだったのだ。見捨てられた。いや、死んでなお心配をかけることもあるまい。
父は、「医者が大げさに言っているだけだ」と言った。現実を受け入れられない。そして、見たくないものから逃げる事しかできない。今までから現実逃避を繰り返してきた。もう逃げられない現実を目の前に突き付けられてさえ、見ないようにして逃げた。他人の死や母を失った息子の悲しみは、父の喜びだ。しかし自らにも大きな悪影響があると、なんとなくは分かるようだ。
そして呆けた。人生を逃げ切ったのだ。

どこからおれの人生は無価値だったのだろうか。生まれた時、赤ん坊の笑顔は、全ての人に喜びを与えたはずだ。父は初め物珍しく、そして飽きた。後は面倒くさい存在になったのだろう。時が経つにつれて、笑っていると嫌がった。他人の幸せは自らの不幸だ。他人の不幸を目の当たりにしてこそ幸福を感じる。
子供の頃から違和感があった。顔が変だと感じていた。普通でないと感じていた。他人のように普通になりたいと願った。
が、大人になって、子供の頃の写真を見ると、普通だった。
変だと思いながらも、小さい頃は、他の子供と同程度の幸運は自分にも訪れると思っていた。いつしか、おれは我慢し続けるべき存在だと感じるようになった。のどが渇いても、水を飲むでもなく、求めるでもなく、ただ食事の時間まで我慢し続ける。それは単に出来るから、したのかもしれない。時間が経てば、確実に手に入る確信があったため、我慢したのだとも思う。母親の存在が、そう感じさせた。
歳を取るにつれ、異世界に身体半分はまりこんだようだった。世間で起きている事がうつつか夢か判別がつかないような状態だった。周りの人間からは、自分は半透明で、見えているのか、いないのか、そこにいるのか、いないのか分からないような状態だった。
母親にとって、おれの人生は、母自身の作品だった。良き母親である事が、母の人生の目的だった。いや、残された、許された唯一の自己実現の手段だった。
明らかに失敗作だ。しかし母は決して認めない。他人の成功話を聞いて、羨ましいという感情があって、悔しくとも、いつまでも近くにいてくれて、良かったのだと思い直す。それは決して負け惜しみではない。本心だ。むしろ最初の計画通り、おれが成功者で、遠くに行ってしまったら、と考えるだけでぞっとする。
しかし、おれは、世間的にはともかく成功者なのだ。
足し算をする。一度目の計算は間違っているかもしれない。答えから片方を引いて、検算する。検算して間違いが無いと分かると、再び計算を繰り返す。あらゆる角度から検討し、間違いが無いと確認する。安心する。安心という快楽を得るため検算を繰り返す。完璧である事があらゆる事に優先する。何度も完璧であると確認し、快感を得る。快感を得るために確認をする。確認をするために不安が起こるような気もする。
この世の中は、完璧な世界だと思っていた。不完全なおれが混ざると迷惑だと感じていた。世の中は、おれが思っていたような世界ではなく、いい加減で不完全なものだと分かってきた。
それでもおれは、完璧にできる事しかしない。行動に間違いが無いか絶えず確認している。いや。無い事の確認をしたいのだ。おれの世界は狭くなった。それでも完璧である事が優先される。確認に多くの時間を割いている。大本で間違えているので、無駄なのは、よく理解している。が、おれ自身はそれで満足できる。傍から見れば退屈で無駄な人生だ。おれも毎日、退屈だ。もうやりたい事も無い。いや、元々無かったような気がする。無駄、いやそうでも無い。他人に自信と喜びを与えた。
 これからは、物が壊れても買い替える必要は無い。それを使い込む時間は無い。おれより物の寿命がほんの少し短かったというだけの事。心中する順番程度の事だ。後の者が、これからの人生をどうするかなんて考えない。一人で生きていくのではない。まだ死んでいないだけの事。


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