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作品名:地図から消えた街 作者:涸井一京

最終回   1
 何の変哲もない朝だった、はずだ。記憶は無い。平凡な一日の始まりなど一々記憶しない。それが普通だ。記憶から消去される時間の連続を、人は生きている。
 通勤時間の、はずだ。会社に向かっている、はずだ。到着すれば、また記憶か消える日常が始まる、はずだ。
 通りには、車も人もいない。人工物しかない街。それを作った人間がいない。美しい朝の陽の光が辺りを輝かせる。街は照明に照らし出された舞台のようだ。幕が開いているのに、役者が出て来ない舞台。客はざわつく。私の心もざわつく。街はいつも通りなのに、人の気配がないだけで随分と不気味だ。
 平静を保てているのは、車内がいつもと近い風景だからだ。いつもより乗客は少ないが、いないわけではない。しかし、だ。この状況を、誰も異常だと感じていないとすると、自分だけが、この世の中で起こっている事を知らないのかもしれない。皆が平静を保っている理由は、二つ考えられる。一つは、大したことがない。もう一つは諦念だ。
早朝と言うのに、どこに行くのか老婆が一人。会社勤め風の男女数人。学生風数人。三十過ぎの運転手が一人。いつもの速度でバスは走る。交差点に差し掛かる。対向車線に車はいないが、一旦停止する。いや、かなり長い時間停止する。丁寧に確認しているようでもあるし、見えない車をやり過ごしているようでもある。更に横断歩道の手前で、再び停止し、存在しない歩行者を待つ。歩行者信号が赤になるまで待って、やっと動き出す。しばらく直進し、次の交差点で再び同じ動作で右折する。運転手は、大きな物体を制御している事で、自信に満ちている。それを誇示するように、ゆっくりと大きなハンドルを回す。それが優雅な動作でもあるかのような態度だ。運転手は自分の有能さに酔いしれている。本人以外だれも特殊な能力とは認めていないが、その運転には免許がいる。この車内では、その免許を持っているのは一人だろうが、外の世界では違う。自己満足と自己陶酔の運転手は、次の角に来ると、再び右折の動作に入った。そしてまた次の角で右折した。
要するにさっきから同じ道を循環している。どこにも行けない。当然会社に着かない。バスは正方形の軌跡を作る。
元々バスの乗客というものは、運転手に、降車する旨を告げる以外に何かしらの指示はしない。黙って乗って、黙って料金を払って降りる。今日も、いつも通りだ。車外に人はいないので、停留所から乗る人はいない。一人減り二人減り、とうとう一人になった。
最近常に悩んでいる。何かをしている時は、まだいいのだが、暇が出来るとつい考えている。無意識になると勝手に悩み出し、袋小路に陥っている。
ある芸術家の言葉を思い出した。「才能は溢れ出すもので、ひねり出すものではない。止めても、止めても溢れ出し、困り果てるものなのだ。それは日常生活に支障を来たすほどである。芸術にして吐き出さないと病気になる」それから芸術がくだらなく見えた、ということはない。ただあの名作もただの排せつ物に過ぎないとは思う。自分の悩みの漏出の仕方と似ている。ただ私の悩みは作品に昇華しないし、吐き出す場も無い。病気になりそうである。
他に考えるべき事はたくさんある。意識的に考えるべき事を考えるが、油断すると、いや、やっぱり自然に悩んでいる。寝付けぬほどに悩むべきものではないと、頭では分かってはいても、布団に入るとやはり悩み出す。悩みと言いながら、それが楽しいのかもしれない。考えるべき事は、本当は考える価値が無いのかもしれない。他に考える事も無いが、自分は常に何かを考えていなければならないのかもしれない。
窓から見える空に雲は無い。実に美しい朝だ。快晴である。
ほんの一瞬、人と車の流れが途切れただけで、すぐに元に戻る。正方形の軌跡も自分の錯覚だ。ほんの暇つぶし。朝の余興。私の妄想だ。
しかし、相変わらず街に人はいない。黄泉の国に連れて行かれるような不安。
あの世というのはどうして極楽と地獄しかないのだろう。中間が必要だ。大半の人間はどちらにもふさわしくない。地獄に落ちなければならないほどひどい悪人でもないし、一点の曇りも無い、極楽に行くべき善人など、すでに人間ではない。普通に生きていれば、極楽に行けるのなら、多少の悪行も大目に見てもらえるということだ。それなら、地獄に行く人間との境目はどこにある。紙一重で極楽と地獄に分けるのは実に不公平である。
極楽というのは、楽しいを極める場所なのか。楽が極るのか。今、自分の置かれた状況は、どちらにも全く当てはまらない。
ここは地獄かもしれない。本当の地獄は前後左右苦しむ人間であふれているのでなく、一人だけ苦しむものだ。空がどこまでも青く、人の心を晴れやかにするのに、濁った不安を抱える今の自分のように。
収入がある。日常の生活で金は使うが、それ以外でも使わないといけない気がしている。楽しまなければ、という強迫観念がある。高額のカメラを買わなければいけないような気がしていた。写真を趣味と名乗る以上は、このくらいの出費をしなければならないと感じた。ただ、撮るべき写真が思いつかない。写真を撮るための機械にも関わらず、写真を撮る予定が無い。物としての魅力もさほど無い。おそらく手に入れてもうれしくはない。趣味の品としてそれは間違っている。それはただの義務だ。高く高性能な物を買う。それは企業に対する寄付かもしれないし、自分が趣味にこれだけの金を使ったのだと、趣味にこれだけ真剣だと、誰かに主張するためのものかもしれない。
 母の遺品整理をしていた。自分が赤ちゃんだった頃の写真が出てきた。自分で持つ物ではないと感じた。これは母の宝物である。大事にしていても捨てられるのだ。母が、これを一生の宝物だと感じた頃は、一生は永遠と同義だった。が、一生は意外に短い。終わってしまうと実に呆気ない。
写真を趣味にしている。何か撮る気が無くなった。冷水を浴びせられた。新しいカメラを買う気もなくなった。では、何を悩んでいるのかとも思うが、悩んでいるのが幸せなのだとも思った。
 目標も目的もあいまいになった。ただ惰性で、習慣で生きている。
 その時、冗談みたいな雨が降った。誰かに言ったら、「冗談みたいな雨ってどんな雨だ」と聞かれるだろう。天気雨の事だろうかと想像してくれるだろうか。私が認識していた天気雨とは少し違う。雨が大粒だ。地面を濡らすくらいに。
二十世紀に生まれて、育った。二十一世紀の今も、二十世紀の音楽を聴き、二十世紀の小説を読み、二十世紀の映画を見ている。今は未来だ。想像していたのと随分違うが。二十二世紀は、ただの数字の変わり目に過ぎない。二十一世紀の終わり頃に、誰も次の世紀の夢を語らないから。
ただ、この無人の世界は、過去の自分が想像した二十一世紀らしい光景だ。悪い方の想像ではあるが。
昨夜、撮りためた映画の中から見るための一本選ぶのに、人生最後の一本ならどれかと考えた。最後が何であろうとどうでもいいのだが。何しろ記憶に残る事は無い。人生を変える一本は無い。最早人生に選択肢は無いのだから、変わりようがない。
ふと音が消えた。街から消えただろうと考えた。一瞬の出来事だろうと、不安を覚えなかった。
一瞬ではなかった。少し不安になった。それでも間もなく回復するだろうと考えた。が、いつまでも音がしない。考えたくはないが、聴力が消えた可能性がある。目の前が真っ暗になった。世の中から光が消えた。視力を無くしたのか、太陽が消えたのか。どちらにしても大ごとだ。慌てた。これから先の生活を想像してしまい、叫び出しそうになった。
 金銭で解決するのだろうか。無くした地点から考えるなら、聴力や視力を得た、ということになる。無くす前から考えれば、元に戻るだけだ。何の変化も無い。ただ金が消えただけだ。
自分はこの交差点で事故に遭って死んだのではないか。交通事故に遭う直前の記憶なんて無い。そのかなり前の記憶、そして次に気が付いた時は病院で包帯をぐるぐる巻きにされている。死亡事故なら死んでいる事にも気づかない。
しかし、バスは星に向かっているのではない。地上を走り続けている。時間が正方向に流れると、人は生まれてから死ぬ。降りる人が無くて、乗り込む乗客しかいないはずだが、逆だ。
魔が差すというのがある。鬼が足を引っ張り、闇の世界に引きずり込む。
人生を無価値と感じ、先に良い事も無いと気付いた時、もうこの辺でいいか、と思ったりする。常時、魔が差したような状態でいる自分。前向きな病人が、気力で病に打ち勝ち、生きようと強い意志を持つのとは逆だ。
水の事故に遭った時、必死にもがけば助かったかもしれないが、ふっと諦めた人もいるだろう。いつもは丁寧に左右の確認をして渡る通りを、面倒くさくなり、適当にやる事もあるだろう。いや車が来ているのに渡ろうとする。別に自殺というのでもない。丁寧にするのが馬鹿らしいというか、無価値な自分が、価値ある命を持っているが如くふるまうのが、恥ずかしい。そうすべきではないと感じてしまう。
踏切で電車が通るのを待つ時、自殺する意思が無いにも関わらず、何かに引き込まれるように、電車に向かって倒れこむ。遺族が「思い当たる事が無い」なんて言うのはよくある話だ。
消極的な自殺。遺書を残して死ぬと、周りが悩む。これなら周りの人間が悩まなくて済むし、遺品整理もしていない方が、自殺を疑う事も無い。迷惑をかけないやり方だ。しかし、自殺志願者とは身辺整理を望むものだ。それに衝動的な自殺と区別がつかない。やはり周りは悩むのだ。
これは夢ではない。目が覚めたら、それだけで解決するという事は無い。これは夢ではない。現実だと思い込んでいる、夢を見た事がある。今回もきっとそうなのだ。現実だという確信があるのだが、夢の時も確信があった。全ての問題が、目が覚める事で解決する。思い込もうとしている。可能性を探るのが、生への執着だろうか。
目が覚める事は無い。無気力に何もせずにただ時間が経つのを待っている。有効な手立ても打てず、事実と対峙する勇気も立ち向かう気力も無い。何かが勝手に好転するのを待っている。いずれバスは右折を止める、はずだ。
しかしバスは、私の楽観を打ち破り、右折を続ける。
人間は、小さな別れを繰り返し、別れに慣れる。そしてやがて来る大きな別れに備えている。
学校を卒業する時、「別れ」と言う言葉は何度も聞いたが、実感は無い。会う必要の無い奴は、在学中も目に入らない。会うべき人間は、学校が長期の休みでも連絡を取り合い、会う。街でも偶然に会う。卒業しても何も変わらないと思っていた。毎日は会わない、夏休みにでもなる感覚だ。実際、会うべき人間とは卒業してから一か月目に街で会った。新しい生活の話をして、「じゃあ、また」といつものように別れた。約束は無いが、また会うと思っていた。しかしそれきりとなった。随分時間が経ち、もうすれ違っても分からないくらい容姿も変わってしまっただろう。奴は、もう記憶の中にしか存在しない。あれが今生の別れだったのだ。そうなるとは夢にも思わない。随分時間が経ってから、卒業の意味を知った。
降りて行った乗客はどうしたのだろう。何度も同じ停留所を通る。当然だが、降りた乗客の姿は無い。私は、降りるべき停留所でなくても、降車の意思を示し降りるべきなのだろうか。
このまま何もしないとどうなるのだろう。
相変わらず街には、人影が無い。


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