街で無職の人間を見つけるのが得意だ。もちろん確認はしない。勝手にそう思うだけの事だ。かつて自分がそうだったから、似た人間を見れば、そう思う。 先ずは髪型だ。明らかに働いていない分かる髪型だ。その髪型ではどこの会社も雇わないという髪型だ。伸び放題だったり、ひどく不潔だったり、金が無く、不器用に自分で切ったと分かる髪型だ。誰かに批判されようとも、聞き流すだけですむ立場だ。 重い物を持つ必要の無い生活をしてきて、子供の細すぎる身体のまま大人になったり、太陽に当らなくて、しなびた植物のような色をしていたり、あるいは、自堕落な生活でぶよぶよな体形だったりする。 そして、時間の使い方が違うのだ。ただ何かを待っている。向こうからは、決してやって来ない何かを待っている。 それは、私に言いようの無い安心感を与えてくれる。防波堤のようなものだ。まず奴らに批判は行く。そして調子に乗って、優越感と変化する。目の前の男に対して勝利者となれるのだ。同じ穴のムジナの二人。働いている自分と働きたいが働けない、負けている目の前の男。自分の人生も結構マシだと思える。自己肯定という快感をくれる。幸福とは相対的な価値のせいだ。 しかし実は、私が、その男に快感を与えているかもしれない。彼は、趣味だけに生きる。好きな模型を一日眺めていられる。それで幸せを感じていられる。働く事に時間を奪われている私を、憐みの目で眺めているのかもしれない。 私は、ついさっきまで優越感を覚えていた男を、羨ましいと感じる。外に出歩く引きこもりなど、ただの甘えだ。でも羨ましい。理想的な生活かもしれない。買い物できる金が不思議にもある。しかし、やはり思い直す。他人から見れば羨ましいその様な生活も、本人は本心では楽しめず、焦燥しかないのかもしれない。 働かかない人間など、昔からいた。違いは一つだ。昔は不真面目な、怠惰な人間が働かなかった。 今でも引きこもりでも、おかしくない。無職でもおかしくない。どこが分岐点だったのだろう。その事がひどく私を不安にする。今あるのは、ただの偶然だ。 自ら這い上がった覚えはない。何となく逃げられなくなって、流れに身を任せた。だからと言って幸運ばかりだったとも思わない。
高校時代は、強迫神経症だった。潔癖症だった。外の世界と、そこに出て行った自分がひどく汚れていると思った。正気に戻るまで、長い儀式と手洗いが必要だった。 何とか高校は卒業したが、それまでだった。大学には合格した。父親が学費を出し渋ったために、あほらしくてやめた。父親は他人の幸福を呪った。子供の頃から楽しそうにしていると怒られた。そしてアホだった。偉い父親と思われようと、受験勉強をさせたが、受験勉強の先に、入学が待ち、それに金がかかる事を想像できなかった。 自分の勤務評定は、気になってしょうがないが、他人の人生に興味の無い担任には、浪人という事にして 納得させた。彼が気になるのは大学合格率だけである。高校生にでも、扱いやすい人間だ。 当然だが、無駄な努力を続ける気は無い。高校時代も大して努力をした訳でもない。ただ本気を出せないまま、もどかしいまま、流れに身を任せただけだ。うすうすおかしいと感じながら、建物の建たない柔らかい地面に建物を建てる作業をした。金銭的に、砂上の楼閣だ。元々無かった話なのだ。いや、金銭の話ではない。大学の話だけでは済まない。就職して、結婚して、子供ができて、育てるために金を稼いで、という真っ当な人生など、自分には無いのだ。芽の出ない種を渡されて、やせた土地に蒔けという。水をやり世話をしろと。私の人生とは徒労の事だ。芽は永久に出ない。 前を向いて歩けない自分を雇う会社は迷惑だ。入れてくれる会社に恨みは無い。結婚は嫌いな呪うべき相手とするのではない。好意を持つ女から結婚を承諾されたとしても、彼女をふざけた家族に一員にするという不幸にする訳にはいかない。ふざけた血脈は断つべきだ。一人で生きていくという選択肢もあるだろう。しかし、もう気力は無い。全ては、無駄な努力だ。これからそれを継続する気は無い。目標を失った強迫神経症患者というのは、救いがたい。楽しい事でもあれば、それが引っ張ってくれるのだが。 外から帰ると、手の皮がずる剥けになるまで石鹸で洗い、何十時間と呪文を唱え続けなければ元に戻れない。もう、どの道、後には戻れない。決意の必要も無い。 私は、自殺予備軍と言うか、その準備中だと思っている。恨みを抱く、父を殺そうとも思う。今まで生きてきて出たゴミを処理してからとも思う。それは思ったよりも、困難だ。遺品の整理は一日ではできない。やっているうちにうんざりしてきた。「生きろ」「生きろ」の大合唱。「生きているだけで意味がある。価値がある」そんな声に惑わされているのではない。自分が生きてきて、たまったゴミを処分してかたら死のうと思っただけだ。 言い訳はいくらでも思いつく。決断はしたが、実行していないという事実は隠せない。 準備が長引いているのだと思っていた。仮の状態だ。いつ発作的に親を殺しても、そのまま外に飛び出せるように、夜も寝間着には着替えず、布団にも入らず、仮眠状態の毎日を送る。世間が、夕食の時間に起き出す。それでも朝食を食べ、九時頃に一人で夕食を摂る。夜中に、食パンに砂糖をのせて食す。台所に自分で買った物でないが、食べ物があると安心する。正月用に買い込んだお菓子の残りがある、一月中旬が最高の幸せの時期だ。そんな正月が楽しみ、という事はすでに何回も経験しているという事だ。 そんな仮の生活も、続けると、それが、呪うべき、それこそが日常と呼ぶべきものとなる。認めようが、認めまいが、自分の意思とは関係無い。 そんな日常生活でも不安は起こる。何に対しての不安なのか不明だ。もう死のうと考えている人間に、なぜ不安があるのか。矛盾に満ちた日常と不安の日々。そして不安は、そもそもあるはずの無い日常生活に支障を来たす。 イライラは頂点に達して、うまく行かない。何がうまく行くという事なのかさえ分からない。精神が不安定な時に、物音に思考を邪魔され、ひどい混乱状態に陥る。ただ時間が過ぎるのを待つ。待っていても混乱はひどくなるばかりだ。不安は際限無く連鎖する。連想が連想を呼び、果てしなく増殖する。早く死なないから、こんなに苦しむ事になる。それは分かっている。ひたすらに考える。不安の一番初めの原因は、手を洗ったかどうかだ。洗っていなくともなんともない。そもそも忘れて良いような些細な事なのだ。だから記憶に無い。が、この忘却がひどい不安を起こす。行動の一つ、一つを記憶しておかなければ、不安が起こる。必然として行動は制限される。ただじっとしている以外に無い。 どのような状態であろうとも、生きている限りは、人間には快感が必要なのだ。かゆみのある場所を掻いて、それを取り除くのは快感である。かゆくも無いのに、掻いたりしていた。それは疑似体験のようなものだ。そのうち本当に、皮膚がかゆくなりだした。そして皮膚炎となった。快感は本物となった。 行動の確認中にかゆみが起こる。快感の道具のはずだったが、混乱の種となった。途中で思考が途切れ、余計に混乱する。だが、かゆみを我慢していると、どこがかゆいのかも分からなくなる。掻く場所を無くしてしまったが、ただ不快感はある。取り除く方法は無い。神経でつながった、明らかに無関係な場所が痙攣を起こす。神経は逆立ち、自分に強い痛みを加えたくなる。それは怒りのせいでもあるし、狂ってしまった身体を破壊したい衝動でもある。 何の解決も無いまま、その方法も思いつかないまま、途方に暮れる。時間が過ぎるのを待つ。待っていても何も始まらない。しかし、待つ。何もしないでも、最悪の事態にはならないという淡い期待がある。 物干し台から夜空を眺める。昼間に約束は無い。時間はある。気分転換だ。見えない電波を見ようとした。無数に飛んでいる電波を見ようとした。誰も彼もが寝静まっている。こんな生活をして、生きているのは世界中で、自分一人だ。 他人と会うのが怖く、後ろめたいから夜型の生活をしていると非難された。確かに他人に姿を隠すべき人間ではある。 昼間働いていない引け目から、夜に起きていると言われた。誰も分かりはしない。いや、分かっていて神経を逆なでするのだ。自然にこうなっている。苦しみ、のた打ち回っていると、この時間になり、この、人と会う危険の無い時間帯に起きている。ただ生活するのにも追い込まれないとできない。期限ぎりぎりにならないとできないのだ。期限が来る直前に事態が改善するはずだ。根拠は無い。人間には自然治癒力というものがある。それはここでは忘却の事だ。しかし、それが不安の原因でもある。だから、それは期待しない。と言うか、それは最も、自分を困らせるものだ。 部屋に戻る。電気はつけない。必要無いし、金もかからない。増えないので、使わない事で自己満足を得る。 真っ暗だった闇に、白い光が差し込む。何も見えなかった、辺りが見えてくる。夜が明けつつある。とうとう一線を越えた。夜が明けるまでに、混乱は収まらず、まだ風呂にも入っていない。絶望的な気分だ。体内の体液がすべて噴射するような感覚に襲われる。混乱を治めるのを諦めて風呂に入る事にする。順序が違う。混乱を治める前に、次の事をすれば、それでより一層の混乱を引き起こす事は明白だ。地獄の時間の延長だ。 本当は何でもない事なのだ。しかし、楽や、楽しみがあると、それは罪であると感じる。ひどい罰が当たると不安になる。いっそ自分で自分に罰を与えた方が安心するのだ。苦しんでいるとある意味、楽なのだ。地獄は自分が作る。 風呂に入るのは、ひどく億劫だ。潔癖症なので入りたいのだが、入れない。完璧でなければならない。洗い残しは許されない。一度入ると真夏でも二時間は出て来られないため、倒れそうなる。目の前が真っ暗になり、しばらく横になっていないと治まらない。故に毎日は入らない。汗で気持ち悪い。せめて涼しい夏を望むのだ。そして、たまにしか入らないので、より一層洗い残しは許されない。そしてまた一層、入るのが億劫になる。 天気に無関係な生活。雨が降っても、濡れることは無い。些細な事で、解決のしようの無い不安は起こるが、将来の不安なんて無い。ただ生活するだけで精一杯だ。生活と言っても、ただ寝て起きて、食事をするだけだ。それは良い言い訳になった。だから、神経症は改善しない。見事な悪循環だ。 決行の日を決めた。また不安が起こる。死に対してではない。いつもの不安だ。それを起こす自分を抹殺するのだから、むしろ好都合のはずだが、すっきりした気分で死にたいと願ってしまう。そして混乱し、足は前に出ない。それは不安のせいばかりではなく、それを言い訳にして、死に対して向き合えないのかもしれない。 自分に電話がかかってきた。ドキリとする。隠すべきこの生活が、知人の誰かにばれたのだ。絶望的な気分で受話器を取る。 そして、当たり前の事実に再び驚愕する。 そう、誰からも忘れられているのだ。安心もし、悲しくもある事実だ。 受話器の向こうに、見知らぬ若い女がいた。勧誘の電話だった。職業を尋ねられた。「無職」と答えた。自分の立場を声に出して言った。やっと自分の立場を理解した。人生に負けたと気付いた。どうして今まで気付かなかったのか不思議だった。喫茶店で会おうと誘われた。人生で初めての事だし、これが最後の事だろう。そういう意味では行くべきだ。例え、金を掠め取られたとしても。 単に外に出られないという理由で断った。相手の女は不思議そうだった。お前が、美人と喫茶店で話すなんて、一生無いよと言いたかったに違いない。親切で。 電話が続いた。数年無かったのに、なぜか二日続いた。そして恐れていた最悪の事態だ。高校の同級生からだった。仲良くもなかったのに、なぜ連絡して来たのか不思議だ。いがみ合いながら、それが仲の良い証拠などと考えたのか。 同級生の死亡の連絡に、「えっ」と驚いて見せたが、感情は動かなかった。連絡してきた男は動揺で、こちらの様子を窺う余裕も無い。交通事故を想像したが、癌だった。死んだ人間に何の落ち度も無い。何かを選択した訳でもない。運命は不公平で理不尽だ。死を望む人間には、だらだらとした生を、そして強く生きる事を望んだ人間には死を与えた。 奴は生きたかったはずだ。何かにつけ、前向きな人間だった。しかし努力が報われない性質でもあった。未だ浪人中だったという。今年は志望校を受ける事もなく終わった。葬式に出てくれと言われたが、断った。死を望む人間が、他人の死を悼むのは滑稽だ。何より、外に出るという選択肢は無い。しかし、これで決行しにくくなったのは事実だ。それが、ただの言い訳だとしても。 新聞の日付をにらんで、まだ大丈夫だと、まだ、若いのだと、安心する。死んでいない状態を続けると、自然治癒力というか、本能というのか、妙に前向きな事を考える。求人の年齢を見て、まだ大丈夫だ、雇ってくれる所はありそうだと安心する。 引っかかる文に出合い、これが人生を変える一文だと思い、何度も読み返す。すべてを好転させるのだ。全ての問題が解決される。 しかし、何も変わらない。 新聞を読むのに六時間はかかる。他にやる事が無いから、意識的にするのではない。自己防衛本能のようなものだ。退屈はひどい不安を引き起こす。その上、このような状態だから、無職でも仕方が無いのだと、言い訳できる。無職だから、時間があり、不安を引き起こす。見事な悪循環だ。 それでもやる気がみなぎる時があるが、やれる事が無い。そんな時、それを少しでも短くしようとする。成功する。しかしそれは世間的には無意味だ。袋小路でもがき、自己満足にさえ浸れない自分を知る。 私はケチだ。そういう類の人間は、目の前の事に拘泥し、大局的な大損に気付かない。いや、気付いていても目の前の、小さな損失を我慢できない。 郵便貯金は、十年間動かさないと、没収されるという話を聞いた。四万円入っているのだが、その損を許せない。四万円よりも、十年間引きこもっていた事の方が一大事だ。 不要な物を捨てられない性質の人間だ。自分の命も不要と感じながら、捨てられないでいる。ケチで執着がきつく、それで、脱出した。
十年ぶりに外に出ると決めた当日、靴を履こうとしたが、捨てられていた。まだ新しかったが、履かなくとも十年経っていたら、まあ古靴だ。 太陽が眩しかった訳ではないが、目が眩んだ。足元はふらついた。十年間、狭い空間しか経験していない。広い空間は、感覚がつかめない。家の中だと目の前に何か物がある。壁であったり、扉であったり。歩くのに支えが必要な訳ではないが、手に触れる事のできる何かが遠くまで無いと、豪く不安になり、足がもつれて倒れそうな気がする。家の中では、長い距離を歩かないせいだ。 世の中はひどく平和で穏やかだった。前回、外に出た時は、全てが敵に見えていた。誰も何も企んでいないようだし、暴力の強弱が人間の価値を決める世界でもない。誰かを貶めることでしか、自分の価値を計れない世界でもない。 踏切に来た時、遮断機が下りた。電車にひどく驚いた。恐怖を感じた。その質量と速度。家に収まりきらない大きさの物が動いている。圧倒的な力だ。人間なんて簡単に潰してしまう。自分の目は、小さい子供の目と同じだ。まるで初めて見る気分だ。小さい子供が電車を好きな理由が分かった。それは神に会うのと同じ事だ。人間の力が到底及ばない。 街が、私に奉仕する。社会とは、そういうものなのだろう。貯金は、親切な職員が、丁寧な口調で接してくれ、簡単に引き出せた。金を郵便局の封筒に入れた。それを眺めて、顔がにやけた。散髪に行く事にした。目くばせで、先に洗髪された。浮浪者のように感じたのかもしれない。それでも文句を言われる事は無かった。金を持っていたので、客だった。ここまではうまく行くが、金をもらう立場の働くいうのは、ここから随分と遠いと感じた。 度の合っていないメガネを長々と使っていた。メガネを新調する事にした。死ぬ人間に必要は無い。最後に世の中をはっきり見たい、と言い訳した。 店に入ると、当然歓迎された。商品を決めた。レンズを加工する前に、店主が耳元に口を近づけ、前金を請求した。「えっ、全額払いますけど」と引き出した金を見せた。店主は慌てた。おかしくも無かったし、腹も立たなかった。 冒険は終わった。良い経験をしたと思った。十年ぶりに、家から出る人間なんて、他にいない。十年間、外に出る事を渇望し、叶えられずにいた。何度も夢に見た。飢えていた。十年、腹を空かせて食べた食べ物はうまい。 しかし、それでも帰ってから、元に戻るまで時間がかかった。過去の儀式は忘れていた。元々無意味な物である事を思い知るのだが、新たな儀式をして、精神の安定を図った。 ひどく疲れた。大した事もしていないのだが。散歩程度だが、足はひどく傷んだ。布団に入ると、足は溶けたように、無くなったような感覚がした。電車の圧倒的な迫力を思い出した。初めて見た訳ではないのに、初めて見た感動があった。私は、再び生まれたのだ。その夜は中々寝付けなかった。
何週間も休んだ後、二度目の外出をして、また何週間も休んだ後、三度目の外出をした。本屋に入った。これは現実だった。興味を引く魅力的な本が並んでいた。何度も本屋にいる夢を見た。覚めてがっかりという事は無く、いつも幸せな気分になれた。夢が現実になった。しかしさほどの感慨は無い。通帳を探した時、財布を見つけた。財布の中は、高校の時のままだった。いつも千円札を三枚と小銭を入れていた。その事を数年ぶりに思い出した。残りの金は、封筒にしまっていた。その、小遣いの残りで文庫本を買った。 足は繁華街にまで伸びた。映画館に入りたかったが、高い入場料を見て、ぜいたくに思えた。 それでもたまりにたまった物を吐き出した。新聞で広告を見て、気になった物を買いに行けるのが、不思議でたまらなかった。なんて便利な世の中なのかと思った。外を不浄の世界と感じていた時は、世の中は不便極まりなかった。流れてくる音楽がかっこ良く聞こえ、そう感じる自分をかっこ良いと感じた。 一度出ると、回復に時間がかかった。それは夜中までかかるのだが、その事で、働かない言い訳にはしなかった。焦りを感じた。それは喜ぶべき事実だ。健康になりつつある証拠だ。 履歴書を書かずに、雇ってくれる所は無いのかと探した。あるはずも無い。偽造する決意をした。 深夜に働きたかった。夜しか起きていないのだから、それが自然だと思った。夕方だけの短時間の求人を見つけ、それでもいいかと応募した。 面接で恥をかいた。恥と感じただけ、成長したという事だ。自分としては夜型なので、妥当なところと考えたが、この仕事は昼間も働いて、尚夕方も働くのだと知った。相手は、夕方だけ働こうとしている私を不思議な目で見た。面接するのは仕事のうちだが、相手にとっては無駄な時間だ。私の事を理解しようとはしなかった。一々詮索する必要も無いし、興味も無い。その事で安心もしたが、壁は厚いと感じだ。検討対象ではない自分には、社会復帰に向けて、他人と話す貴重な時間だ。これも小さいながらも一歩だと思い込もうとした。 八時間働く覚悟を決めた。選択の幅が広がると思った。それに何より社会復帰するためには、社会の常識と妥協しなければならない。世間は、自分の都合を考慮してくれない。自分は失業者でなければならない。家業を継いでいたが、不況でどこか働きに出る事にした。そんな嘘の脚本が必要だ。それに夕方だけの仕事では、もう一段上に行かないといけない。一気に片付けるつもりだ。無謀だと思ったが。 作戦は一から練り直しだ。経験は無いが、足も無いので、自転車で通える範囲で、機械を相手にできそうな工場を探した。人と関わるのは無理だと思った。無論、未経験で雇ってくれる所だ。いや、探しているのではない。そんな条件の求人が無い事を良い事に、「仕事が無い」とぼやきたかっただけだ。街を歩いていても、ただの無職に昇格した気がした。隠れる必要は無い。ただの無職は恥ずべき事ではない。 しかし、ある日曜日、新聞のチラシに、条件の揃った求人を見つけた。自分に言い訳する事にうんざりしていた。いや、不可能だ。逃げた場合どういう混乱を生むか知れたものではない。止むを得ず応募した。 電話をする。面接日を指定された。 何も期待はしていない。劇的に変化し、全ての問題を解決する事は無い。過去に帰り、やり直せない限りは。 いや例え戻ったとしても、道は、この進んできたこの道しか無かったような気がする。ただ、悪い事ばかりではない。言い訳をする必要が無く、面接日までの二日間、平穏に楽しい日々を過ごす事ができた。 面接日、会場が見えてきた時は、その場所を目指していたにも関わらず、暗澹たる気分になった。面接は散々だった。十年間、家にいた人間が外に出た。奴らは想像もできない。目の前の男は、ただの覇気の無い男だ。優越感を与えたのも良かったのかもしれない。 結果を知らせると言っていた日に、電話が鳴った。相手は直感通りだった。結果は意外、だったのか、どうか不明だ。なぜだかうまく行くような気もしていたし、面接で、散々けなされたので、その通りの結果になるとも思っていた。 何か、足がかりをつかんだのは間違いない。先は全く見えない。これから自分がどうなるのか、自分が一番興味を持っている。
初対面の人間とあいさつを交わす。こちらの妄想では、好印象を与えたはずだ。現実は、どうにもならない人間がやって来たと困っている。いや、暇つぶしと優越感の対象となり役に立っている。散々、役立たずの扱いを受ける。そのうち仕事に慣れてしまって、役に立ち出すと、凡庸でどうでもいい人間になってしまう。これは闘いだ。会社に対してではなく、時間を盗む社会の仕組みに対してだ。単純に時間を奪われる。労働とは、それ自体に意味が無く、自分の楽しみの時間が減るだけの事だ。何かを実現したり、自分が何者かになる事は無い。未経験でもできる、簡単な作業というのは、実に本当に誰でもできる単純な作業だ。入りやすい。十年以上社会と隔絶された人間には、それが一番重要ではある。しかし、いざ入ってみると、欲が出るというか、我慢できない単調さだ。自分に何か優れた技能が無くとも、ここまで落とす必要は無いだろうと感じる。 元々特殊な技能が必要な事ではない。ただ職に就くという事は。だから、簡単に元の流れに戻れた。いや、それは表面的な事だけだ。周りは違和感を覚える。自分にも引け目がある。そんな事はよくある事で、ただの被害妄想かもしれない。しかし自分の中で、どうしても違和感が拭い去れない。働き出して、自分にとっては重大な事に気付いた。高齢でも雇ってくれる所もあるが、それは、それなりの経験を求められるという事だ。初めて働く年齢が高齢でも良いという訳ではない。隠し通すのは、入口だけで終わるのではない。永遠に隠しつづけなければならない。職場にいる間中、そしてそれ以外でも隠し通すしかないのだ。 仕事が終わり、不機嫌に家に帰る。時間を盗まれた自分に残された時間は少ない。なんとか楽しみの時間を確保しなければならない。しかし、無理やり作った隙間の時間で楽しめる訳も無い。それでも考えていた事を一通りやる。午前二時に寝た。まだこれからが楽しい時間なのに、眠らなければならない。夜型生活の人間が、昼夜逆転をして昼に活動する。ここがぎりぎりの妥協点だ。 給料日というのが来た。金が入る。それがとても不思議だった。これは、社会復帰であり、家から出る事のみが目標だ。もしくは劣等感の払拭なのである。自分で金を使う気は無い。と言うか、戸惑って使い道が思いつかない。これまでの迷惑料として、他人に渡した。 次の給料日が近付くと、人並みに楽しみとなった。袋を開けて、がっかりした。相当に、少ない事に気付く。世間を知って、相場と言うものを知った。初回は、途中入社なので、中途半端な額だった。そのため、多すぎる小遣いの様に感じた。今回は月給として受け取った。かなり少ない。働くまでは、それは大きな問題では無かった。毎日行く所がある、という事が唯一の関心事だった。 しかし、それも危うくなってきた。どうやら途中入社で人を採用する会社というのは、人は使い捨てるべきものらしい。入りやすいが、放り出されやすいという事のようだ。会社の人間は、会社にどれだけ貢献できるかが、興味の対象だ。常識的な意味ではない。ケチな社長は、定刻より早くに来て、遅くに帰り残業代を請求しない人間を、お買い得と感じるようだ。 休日は、家から一歩も外に出ない。元の生活に戻っている。劇的な変化はない。徐々にしか変化しない。職に就くという事は、こういう類の人間にとって、一大事であっても、人として普通の出来事であり、大げさにしているのは、自分自身なのだ。引きこもる事、それこそが我が望みだったのかもしれない。ならば、望み通りの生活に戻るだけだ。 復帰の第一歩としては、上出来ではないか。会社は都合の良い労働力として利用したつもりだろうが、本当に利用したのは、こちらの方だ。 仕事の帰り、俺は本屋に入る。求人雑誌が目的だ。いや、目的と言う程のものではない。途方に暮れ、暗闇から一縷の望みを求めた。他に術が思い当たらない。気休めだ。奇跡は二度と起きないと感じる。恐怖を覚える。永久に無職かもしれない。永久にどこにも行く所が無いかもしれない。否応無く、死ぬしかしかないかもしれない。資格本が目に入る。一瞬希望の光が差したと感じる。しかし、すぐ覚める。三十男が何年もかけて資格をとって、それからどうする。若者のように、遊ぶか、勉強するかの選択ではない。仕事をするか、否かの選択だ。ましてや失敗したらどうなる。ただ年だけ食った、役立たずが残るだけだ。短期で取れるのもある。失敗しても被害は小さい。しかしそれは、例外無く無力な資格だ。就職に役立たない。工場では、仕事ができる人間も、そうでない者もいた。できた人間が何かの資格を持っていて、できない人間は資格を持っていなかった訳ではない。仕事ができる、できないに、そんなものは無関係だ。会社に入ってから、必要な資格を取らされるというのはあるだろう。入る前に取って役に立つかどうかは不明だ。情熱を燃やしたとして、資格を取ったとしても、それからさらに就職しなければならない。その情熱は最初から就職に向けるべきだ。時間が無いのは無論だが、何より、カモにされないためだ。 しかし、困った。知らないと夢を見られた。不安も大きいが、根拠の無い自信もある。知ったが故に、厳しさを理解する。夢のようなことは起こらない。あるのは現実がただ一つ。雇うところは、人を使い捨てるまともでない会社だ。まともな会社でないから、まともでない自分を雇った。もう雇われる事が無いような気がする。運が良くても、入れるのは、まともではない会社に違いない。 本屋という場所は、入り口ではない。俺は暗澹たる気分で後にする。
再び無職となった。しかし、今回は少し違う。遠慮なく使える金を持っている。その点に関しては、実に満足だった。後ろめたくなく、引きこもる。真っ当な失業者になれた。無職でも生きているだけで、社会に貢献している。生きるとは、消費する事だからだ。消費者とは客の事である。客が、社会では一番偉いのだ。 働いていた会社は社会保険に入っていなかった。職業安定所に行くと、職員は戸惑った。出ていくとほっとされた。どちらかと言うと、私は被害者で同情される立場だ。平日昼間の、本屋の求人雑誌の棚は人だかりだ。人をかき分け、一冊手に取り、立ち読みする。これは、暗闇から抜け出る出口ではないと気付く。 新聞広告で工場の臨時雇いの求人を見つけて応募した。職種は違っても、工場同士似たようなものだ。軽くこなした。期限が来た時、正社員から、「次は決まっているのか?」と聞かれた。一人前に他人から心配までされた。私は、彼が心配してくれる程、常に働いている訳ではない。 再び、遊んで暮らした。金が減ってきた時、不自由を感じた。金はあったが、尽きるのが嫌で、欲しい物が買えなかった。 真剣に仕事を探したが、無かった。何度も不採用となった。予想通り就職は無理だった。諦めた。しかし、非正規と言う働き方に光明を見出した。非正規と言う働き方は、引きこもりには都合がいい。過去を問われる事が無い。面接で空白を追及される事は無い。会社はただ頭数が揃えば良い。揃わない可能性のある行為は、あえてしない。 逃げたのだ。現実から。しかし対外的には、探しても正社員は無いと嘆いて見せていればいい。 ただ非正規の労働に価値は無い。学校の得意科目を生かした、得意分野を仕事とするはずだった。そして社会から称賛を受けるはずだった。しかし、社会は自分を望んではいなかった。自分である必然性は無かった。 今の自分は、社会に害をなす、悪意を持った人間に手を貸しているだけだ。ただ悪者と利害は一致している。ただし短期間の話だ。長引けば徐々に敵対し、憎しみ合う事となる。 休みの日は、元の引きこもり生活に戻った。一歩も外に出ない。海や山に憧れたりもする。しかし出ない。本当に好きなら元々そちらの引力が勝り、部屋の引力に引かれる事はない。憧れて、想像しているだけが、平和なのだ。全ての現実は、厳しい面があるのだ。そもそもこの世の中に自分の部屋以上の場所は無いのかもしれない。新しい社会と時代に対応した生き方が引きこもりなのだ。 欲しい物は、一通り買った。金がたまる度に。高校生が想像できる物だ。それ以上の物は欲しくなかった。否、身分不相応な気がしたのかもしれない。金が無い方が、物が欲しくなるのかもしれない。金が更にたまると何も買わなくなった。それが身分相応のような気がした。飢えが癒されて、楽しくなくなったのかもしれない。魅力が半減したのかもしれない。 働くというのは、部屋にいる時間が短くなる事だ。「ゲームを買えてもやる暇がない」そんなことを言っている会社員が不思議だったが、まさか自分がそうなるとは。働いていないと時間が無いという感覚は無い。この世の中、遊ぶ時間も無いのにおもちゃを売る。それを買わずにいられない消費者がいる。自分もそうなってしまった。ゲームを買う金はできるが、それで遊ぶ時間は無くなる。どちらかと言うと、金が無くてできない方が良い。店の前で憧れて眺める時間はある。そうして手に入れた物には価値がある。働いて、手に入れても時間が無いと、楽しめない。前の方が楽しめた。それは年齢を重ねたせいかもしれない。好きだった映画を見ても、心動かされる事は無い。もう騙されないのだ。何もかもが、年々面白くなくなって行く。子供の喜ぶ顔を見るのが幸せだ、と言う大人の事が、子供の頃は不思議だった。今は分かる。楽しめた頃の事を思い出して、疑似体験する必要がある。自分自身、単独で楽しめないのだ。 友人もいないままだ。生きているのは苦しいだけだ。働かなかった時間の借金を払っているのかもしれない。働く利点とは何か。憲法にある、「労働の義務」に対する違反として、罰でもあれば別だが、何も無い。後ろめたさ、他人の視線。他の引きこもりへの優越感。人間は、少し上に憧れるのだ。はるか上は憧れではない。はるか上はおとぎ話だ。だから自分は、引きこもりには憧れの人のはずだ。後ろめたさを感じない引きこもりには、通用しないが。 それでも総合的に見ると、今の方が良い。たまの優越感のせいか。悩む必要が無いせいか。可能性は引きこもりの方が感じられる。夢を見ていられるから。 可能性を感じたまま終われば、物語の結末として、一番良い終わり方だ。楽しい気分で終われた。後は見なくてよかったような気がする。そしてだらだらと生きる。そのために多くの矛盾を抱える。そして、全てを破壊したい衝動に駆られる。特に自分を破壊、破棄したい。 後悔は、過去に何かをし損ねたからではなく、時間が過ぎるために起こる。完璧で後悔の無い人生を送ったと断言できる人間など、ただ勘違いしているか、鈍感なだけだ。満足してばかりなら、向上は無い。向上も無く、満足できるには、最初から完璧でなくてはならない。 歳を取るという事は、後悔を重ねるという事だ。後悔の多さに耐えきれないのではない。道に迷った訳でもない。間違った選択をした訳でもない。進むべき道を歩いてきたら、先には、絶望的な孤独しか無い事に気付いた。 若さというのは人間で最大の武器だ。若い人間は、絶対に負けない勝負をしている。ただ憧れられる存在なのだ。圧倒的に有利な状況にいる時は、これがいずれ失われる時が来るとは思わない。望んで得られるものではない。自分は若者という生き物であり、人間がある日、突然鳥にならないのと同じように、自分は若者であり続けるはずだった。それはある日、突然やって来たのではない。気付いた時には、手遅れだった。と、言って何か手を打てる訳でもない。古来、権力者や金持ちが不老不死を求めた。全ては偽物だ。良くて、見た目だけ若返る高級化粧品がせいぜいだ。 古い写真を見る。そこには時代遅れの失われた風俗が映り込む。しかし、それは自分が説明できる自分の時代だ。一日では変化に気付かない。徐々に変化すると昨日とさして変わらない、毎日が積み重なる。積み重ねは大きい。そして残酷だ。ふとしたきっかけで大きな変化に気付き、時間の流れに気付く。自分の生きていた時代がすでに過去のものであると思い知らされる。自分がいつの間にか憧れる側にいる。しかし、それでも自分が若さに憧れる事は無い。二十代には、言葉の響きから連想されるほど、良い事は無かった。いや、悪い事しか無かったような気がする。それでも三十歳になる時、絶望的な気分になった。終わり、と誰かに宣言されたような気がした。 何もしないまま、終わりを宣言されると、自暴自棄になるかというと、そうでもない。希望は無いが、習慣がある。傍から見れば、平凡な人だ。
職場に入る。「お早うございます」と丁寧にあいさつする。誰に対してもだ。年上はもちろん、十八歳の少年に対しても、同じ非正規にも。年下の上司にもへりくだっている訳ではない。皆に丁寧なのだ、と、自分に対して言い訳しているのだ。ケンカしない。負けるのが嫌で、争わない。 働いた。目標も無いのに。本棚が整理されていないと気が済まない。それと同じだ。目の前の仕事をきっちりとこなす。仕事が完璧でないと気が済まない。ただそれだけのことだ。低収入でも金がたまる。使う当ては無い。結婚もしないので、必要な金が少ない。 また、首を切られた。悲劇の主人公気分を味わうだけだ。非正規でも保険に入っていたので、職業安定所に行けた。職員に離職理由を聞かれて、「クビ」と大げさに言った。 毎日通い、条件の悪いところを選んだ。簡単に入れた。正社員になれた。一瞬うれしかったが、時間が経ち過ぎていた。感慨は無い。給料をもらい、安い人間なのだと思い知った。低収入という点において、変わりがない。それでも奇跡的幸運かと思っていたが、そうでもない。こんな仕事しか残っていないのだ。そしてこんな仕事は、こんな人間を欲している。 毎日、今日死ぬかもしれないと思いながら、通った。苦しくて仕方がない。こんな事はいつまでも続く訳がない。今はともかく、年を取って体力が落ちたら、もつ訳が無い。冷たい床に倒れこんだら、どんなに幸せだろうかと思った。道を歩いていると、ここから逃げ出すために、とにかくここから抜け出せれば良いと、車に飛び込む衝動にかられる。大きな石が足に落ちてきた。思わず払いのけるのに、理由はいらない。払いのけた先に何があるかなんて考える余裕も無い。それと似ている。後先考えずに、苦しみを取り除くのだ。死んでから後悔するなんてありえない。後悔する自分が存在していないのだから。目の前に飲んだら、毒になりそうな薬があるとする。怖いのは死に切れずに苦しむ事。苦しみを取り除こうとするのは、生への執着なのだろうか。じっと苦しみ続けるのが、自殺志願者としてのあるべき姿か。それでも仕事を辞めない。会社に通うのが習慣だから、それが止められないだけの事かもしれないし、非正規が長かったせいかもしれない。結果として、働いた。とても辛い。あの時、死ななかった報いだと思った。 休みの日は、充実とも楽しみとも無縁だ。それでもうれしかった。会社に行かなくていいだけで、幸せだった。 幸せな気分が消える午後、鬱屈した気分で街を歩く。金はある。使い方を知らない。高校生のまま時間が止まっている。高校生が入るべき場所でないパチンコ屋は、自分が入るところではない。風俗店も飲み屋も食べ物屋も喫茶店も、すべて自分とは無関係の場所だ。高校生の頃、それらは大人のもので、自分とは無関係だった。それが中年になった、今も続く。一応自分の年齢の自覚はあるが、それらが自分を対象にしていると思えない。 それが望みという訳でもないのだが、世間的な楽しみと言うやつをしないといけないという強迫観念に駆られて、店に入る。楽しみと言うやつを選ぶ時、消去法で消して行くと、何も残らない。だから楽しみと言う言葉から、一番に連想したものに決めた。飲みたくはないが、家で酒を飲むと決めた。 麦酒が並ぶ棚を見る。高級品から、普通の、ただし本物の麦酒。そして安い麦酒もどきが並ぶ。自然と一番安い物に目が行く。安い人間だから、それがふさわしい。高々小銭で買える物だから、別に高級品でも買える。買おうと手にしても、ひっかかるものがあり、結局買う事はない。身分不相応な高級品は落ち着かない。飲んでも、楽しめる事は無いだろう。だから哀しいかというと、そうでもない。最も種類が豊富で、製造会社が一番力を入れていると感じるのが、この一番安い偽物麦酒だ。自分を高級と信じている人間は、一番活気がある物を手にする事ができない。 商品は、客を選ばないが、店員は値踏みする。百貨店に紛れたりすると、白い目で見られる。買えば、態度を一変させるだろうが、買わないので、拒絶されたままだ。軽蔑されても、嫌な気はしない。自分の首を絞めていると笑えるからだ。困るのは向こうだ。面白いから、「私は安い人間ですから、場違いです。すいません」と心の中で謝る。安い人間が増え、こちらが主流派であり、少数派の彼らは、青色吐息となっている。 世界を神が創造したというのなら、美人ばかりでもよかった。なぜにブスが存在するのか。種類が多い方が良いからだ。ならば自分も種類を豊富にするために、という存在価値がある。の、はずだったが種類は減るのかもしれない。 楽しめないのが分かっているのに、休みが終わると、無駄に時間を過ごしたと後悔する。しかし月曜日の朝は、安心する。習慣をこなすだけが、人生となっている。 いつも通りに、塩化ビニールの配管の継手から、ぽたぽたと水が漏れ出している。一つ一つの水滴が集まって、地面に水溜りを作る。そして蒸発して消える。漏れ出た水が、配管に戻り、そこを通って、本来の目的の場所に辿り着く事はない。 一定間隔で落ち続ける水滴を見続ける。焦点が合わなくなってきた。水滴が二重に見え出した。そして、何も見えなくなった。 これから何も無い事をよく理解している。それどころか生き恥を晒すだけだ。 引きこもりなんて言葉は、脱出してから知った。こんな人間が他にもいるとは夢にも思わない。私は、憧れの人のはずだ。尊敬され、目標とされるはずだ。働いている人間に負い目を感じている人間には。 その私がこんな気分で生きているのだから、それを知った引きこもりは絶望するのだろう。 人生が途切れて、空白がある。高校生で死んで、親が部屋をそのままにしておいたように、人間だけ古くなり、部屋はそのままだった。その空白は埋めることはできない。時間を逆回転される事はできない。その事と、自分が非正規で働いてきた事とは、直接は関係が無い。多くの非正規には空白は無い。非正規が増えるのは、自分にとっては都合が良かった。追いつきやすかったから。しかし、その先が無いのも事実だ。どうも幸せと無縁だ。が、自分は幸せにはなれないと思えば、気が楽だ。「なぜ」と悩まなくてすむ。自分は幸せにはなれないのだから、それで普通だと思える。そういうものだと思える。単に事実を認めただけかもしれない。不自然でないから、楽なだけかもしれない。 子供の頃は、汗だくで遊んで、冷水器で冷水を飲むだけで、幸せだった。この世の中にそれ以上の幸福は無いと思っていた。他に何かあると思い出して不幸が訪れた。元々幸せなんて、そんな大したものじゃない。子供の頃、あんなに楽しかったものが、楽しくない。そんな事は山ほどある。加齢とはそういうものだ。 色々なものが揃っていると、欠けているものが目立つ。元々無いのだと思えば、あるものが目立つ。 語るべき来歴は無い。隠すべき来歴がある私には、結婚して、子供を持つという選択肢は無い。無かった。非正規の時代は気が楽だ。自分が悪いのではない。世の中が悪いのだと責任転嫁できる。他の人間を見て、俺は結構うまくやっていると、自信を持つ事もできる。悪い世の中は、いずれ正社員も直撃する。復讐心まで満たしてくれる。 街で無職の人間を見つける。実際どうだか分からないが、私には無職に見える。この男が本流に戻る事はない。今、自分はしがみついていれば本流で終われる。手を離せば配管から漏れた水となる。それが良いのか悪いのか、不明だ。引きこもりだった人間には、それにふさわしい終わり方というものがあるだろう。それは何かわからないが。 人並みを望むのは、高望みだ。引きこもりとして、夢は総て叶えた。充分だ。もうそろそろ死んでもいいだろう。しかしながら自殺の選択肢は無い。習慣を壊すほどの力が今の自分には無い。
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