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作品名:憧れの人 作者:涸井一京

最終回   1
 月曜日の午後五時五十五分、銀行に飛び込んだ。現金自動預け払い機で、現金を引き出すためだ。手数料を取られるのは、馬鹿らしい。それは、盗られるものだ。
 幸い、人は少なく、待たずに作業に取り掛かれた。ほっと一安心して、周りの異常に気付いた。一番端の機械の前で、半狂乱になっている男がいる。
「手数料が発生する」男は叫ぶ。
私と同じ、とは感じなかった。
中年の年齢だが、一見して働いていないと分かる。それは手数料を払う、払わないという金銭の問題ではない。ぼさぼさの髪に、よれた服。他人の目を気にする必要のない生活を長く続けた、澱みが見える。
自分の用事が済んだ後、様子を窺う。容易に想像できた。使い方が分からず、自分で何とかしたかったが、時間が迫った。銀行員を呼び出した。それでもうまく行かない。
男は、社会との接点を探した。きっかけを探しているうちに、子供の頃のお年玉の事を思い出した。いつも親が銀行に預けてくれた。現金自動預け払い機で、現金を引き出してみようと思った。子供の頃は、こんな機械とは無縁だったし、初任給をもらう事は無かった。この機械を使う事は挑戦だった。初めての経験である。別に金が必要な訳では無かった。
この日のために、計画を練りに練った。遠大な計画は、劇的な変化を望んでの事だ。
起床時間から、出発の時刻まで。銀行に到着する時刻から、初めての、現金自動預け払い機に戸惑う時間まで完璧に計算した。そのためには、早起きが必要だった。毎朝八時に寝て、午後四時に起きる規則正しい生活を送っている。それからあれこれやる事がある。普通に行けば、午後六時に銀行には行けない。その生活を変えなければならない。そのために早起きをする訓練も怠りない。訓練と言っても、頭の中だけで行われた。実際の早起きは大変難したかった。訓練が順調でなくても、心は晴れやかだった。訓練中、つい夢想した。希望に満ちていた。この事をきっかけに全てが好転するのだ。差し当たり、その夜に飲む、勝利の美酒の味を想像した。
失敗続きの訓練であったが、決行当日は、なんとか早起きできた。午後三時には目覚めた。緊張と興奮で身体が浮いていた。
世間の、「自分の金を引き出すのに、なぜ手数料がいるのか」という声に痛く感じ入った。「銀行員が楽をするための機械。しかも客には使いにくい。それで手数料とはふざけている。手数がかかるのは客の方や」それはひどい不正義だ。自分も決して盗られるまいと、固く誓った。それはケチでもあり、正義の実現でもある。そして何より増えない金をむやみに減らさないためでもある。
半狂乱になったのは、手数料の事ばかりではない。この作戦が失敗すれば、二度と早起きはできないせいだ。もう自分を奮い立たせる事はできない。
銀行員は、ただあきれている。ただ単純に簡単な操作を理解できないからかもしれない。あるいは、本人は、通帳に記載されている額が存在していると考えているが、すでに親に引き出されていた。通帳に記帳されていないだけで、すでに無い預金を引き出そうとしているからかもしれない。あるいは、引きこもりの中年を、客扱いする必要が無いと感じているのかもしれない。
結末を知る必要は無い。いや、じっと眺めていられるものでもないので、諦めた。彼は、一歩を踏み出したのだ。希望に満ちている。それが、今晩飲む酒が苦いものだとしても。彼が望んだ劇的な変化は無い。これから何もかもうまく行くなんて事は無い。踏み出した一歩分の変化しかない。彼は、二歩目を踏み出すと思う。しかし、残念ながら、望む場所にはたどり着けないだろう。彼の進む道の先にいる憧れの人が、さしたる幸せを感じていないのだから。


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