20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:消えない 作者:涸井一京

最終回   1

   消えない

 私は小さな町工場で働いている。従業員の数は少ない。その割に広い床面積を持った工場だ。故に従業員は点在している。顔を合わすのは、便所に行く時と、昼休み、そして行き帰りの時くらいだ。
 月曜日、午後三時。女性事務員が、やって来た。両手で箱を持っている。ふたが開いている。この格好を一目見れば、事情は簡単に飲み込める。週末、同僚の一人が旅行に出かけた。女性事務員に、然るべき時刻に、みんなに土産を配るように依頼した。皆が一つずつ、つまみやすいように箱のふたを開けて、配って回っている。
 箱の中を覗く。同じ物が並んでいる。何個か分は、空になっている。私は、一つつまんで、「ありがとうございます」と取りあえず、女性事務員に礼を言った。
 それは、わざわざ配って回ってくれている事に対する労のねぎらいである。そして、旅行者から、お土産を受け取った時に、皆を代表して感謝の言葉を述べたであろう彼女を、旅行者の代理と見立てている。礼も代理で受け取ってもらっている。
 もう一度、本人に会った時に、礼を言わなければと思う。
個包装の菓子を眺めた。いかにも安物そうだ。土産をくれた人物の人となりがよく分かる。袋を開けて、一口で食す。
「まずい」思わず声が出た。
女性事務員が去った後に口にして良かったと思った。間違いなく、安物だ。
 増々、気が重くなってきた。高級か、安物かなんて事は問題では無い。これが、不味くなければ問題は無い。うまければ尚良い。滅多に口に入らない美味な菓子であれば、心も弾み、これからの仕事もはかどるというものだ。しかし、この味では気が滅入る。その上、この不味い菓子は、新たな問題まで発生させた。
せめて、直接本人から土産を受け取っていれば、食す前に、味を知る前に、軽く礼を言えた。しかし、何せ不味かったのだ。素直に感謝の言葉が出て来るはずがない。これが美味ければ問題は無い。上等な品に違い無いと感じられたら、皆に配る物にそんな多くの金を使って、と、その点からも感謝の念が湧き、礼は自然にでるというものだ。
私は、不自然な礼を言わなければならなくなった。
気が重い。仕事を続ける。時間が経つほどに言いにくくなる。堅苦しいあいさつの如く、自然な感情の発露で無い言葉は、口から出にくい。
 想像は悪い方に転ぶ。すでに近くにいた同僚が礼を言っているだろう。わざわざ後から行く。すると相手にはしてみれば、もう終わった話で、忘れている。キョトンとする。そしてあろうことか、「ああ、この人は、こんな安物の菓子でさえ、普段口にする事も出来ないのだ」と、思われかねない。
 悩む。いや。その言葉は適切ではない。ただ重苦しい。事態が些細過ぎて、悩みにもならない。だが、重苦しい。思考はその事一色となる。心の中のすべてを占めた。対策を考える。と、言っても、会って一言礼を言う以外にはない。この心苦しさを思えば、わざわざ出向いてでも終わりにしたい。しかしそれは変だ。何しろ、一口で食せる菓子一個の礼を告げるだけだ。
他の解決方法を考える。
ある訳が無い。菓子一個の礼を告げるだけだ。
心はますます重苦しくなり、その重みに耐えかねた。そして制御不能となり、爆発した。
「死ね」
心に光が差し込み、一瞬で当たりは明るくなった。心を完全な真っ暗闇にし、心の全てを完全に占めていた悩みの原因は、土産を託した旅行者にある。礼を言うのが義務となり、重苦しい。その存在の消去は悩みの消去につながる。何しろ礼を言うべき相手がいなくなるのだ。人の死を願う気持ちに根拠がある。
しかし、冷静になるまでもなく、客観的にみると、その小さすぎる悩みと、人の命の重さが全く釣り合ってはいない事に気付く。それどころか本当に死なれてしまうと不利益がある。
当人が他人から、死を願われている事を知り、気に病んで本当に自殺でもしたら、もちろん私が気を病んでしまう。偶然に事故死してさえも、私が願ったから、こうなってしまってしまったのだと、私は罪の意識に苛まれる。一生悔いる事は必定だ。
それでも人はすぐに忘れて、再び同じ言葉を口走る。悩み出すと、他の何もかもが、目に入らなくなるせいだ。どんな小さな悩みでも、否、小さいからこそ、解決できる、できそうだからこそ、だらだらと悩む。小さな悩みこそが、心の全てをとらえて離さないのだ。
解決不能な大きな問題は、解決方法が無いのだから、悩まずに忘れるしかないのだ。忘れられない場合は、死ねという言葉は自分に向かうしかない。
偶然ではある。私の発した「死ね」は見事に的を射た。
心のぬかるみからはい出たうめくような声。心の中で叫ぶ言葉が音となった。自然な感情の発露は言葉に力を与えた。
「何で、便所に入ったくらいで、死なないといけないんですか」
旅行者の顔は笑いながらも、引きつっている。
衝動でなく、理性を伴う言葉。心情を表す真に迫った言葉。それには生命が宿り、獰猛に襲い掛かり、威力があった。ただの音。上っ面の言葉ではない。相手に言葉の表す中身が伝わった。しかし、相手ににわかに信じられない。
「いや、独り言」
それなりの理由と言い訳で納得させる。ごまかす。独り言を聞かれた恥ずかしい自分、と相手をだます。忘却する。そしてさせる。それは消す、のとは違う。
 とにかくやり過ごした。お互いそれしかない。何かしらの引っ掛かりを我慢しながら。
害は無い。発した言葉について後悔がある。害があった方がやりやすい。「あれは、誤解で…」と言い訳して、誤解としてしまって、それを解いてしまえば終了だ。相手を納得させればすっきりする。
しかし今、気まずい時間が過ぎる。そのまま忘れるしかない。忘れられるまでの時間が不快だ。今から事情を話すか。さほど傷ついていない相手を傷つけて、謝ってそれですっきりするのだ。現時点で、誰も傷ついていないのに、被害者を作ってすっきりするのだ。自分のために、他人を犠牲にして何が悪い。そもそも嘘をつく事に罪悪感を覚える必要も無い。世の中、真実一色でぬりこめられている訳ではないのだ。
しかし、そもそもなぜに気分が悪いのか。相手に対して、割り切れない不快を与えた事は、むしろ自分の感情の浄化につながる。元々の原因なのだから。
いや、気分が悪いのではない。傷つけてしまったとか、相手の事を思っているのではない。怖いのだ。巡り巡って、自分のところに帰ってくるのを恐れているのだ。因果応報というか、心のこもった、「死ね」という言葉を他人に向けて発した事に対する罰のようなものを恐れているのだ。そのせいで不快なのだ。
この恐怖が再び心を占めた。目の前は真っ暗で何も見えない。ただ重苦しいだけだ。これを取り除く方法は無い。少し前に、不快の原因が存在しているうちに、それを消して解決しておいた方が良かったようだ。


■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 457