私は今ベランダにいる。何でもいいから絵を一枚描いてこいという課題が出たので、そのための対象を探している最中なのだ。「何でもいいから」という要求は私にとって一番窮屈なものだ。山を描いてこいと言われれば、自然の中から取り出したばかりの山を描くことができるし、人間を描いてこいと言われれば、誰も描いたことのないような内面性を暴露している人間を描くことができる。だけど、何も指定がない状態では私は何もそこから生み出せない。 私はスケッチ用の鉛筆とキャンバスを灰色の地面に置くと、タバコに火を付けて一口大きく吸い込んだ。そして、唇を細めて煙を吐き出し、目の前の景色をぼんやりと眺めた。私の目の中にはいつも通りのビルといつも通りの民家があった。時折、カラスやスズメが私の目の前を横切って行った。大きなカラスは黒くてうるさく、小さなスズメは茶色でかわいかった。ベランダから見える景色の中に私が描きたくなるような題材は見つからなかった。そうかといって、外に出てわざわざよい対象を探しに行くにも気が引けた。髪もぼさぼさで化粧もしていない。そんな状態の私を知り合いにはもちろんのこと、他人にも見せたくはなかった。 私はベランダから身を乗り出して商店街の通りとそこを歩く人々を眺めることにした。いつも通りの八百屋さんがいつも通りのお客さんを相手に商売をし、お客さんもいつも通りの品物をいつも通りの買い物袋の中に入れていた。前を見渡しても駄目。下を見下ろしても駄目。この世界には私が描くべきものなんてないのかもしれない。私はまたタバコを取り出して口にくわえて火を付けた。箱の中のタバコは残り二本。大学の帰りにタバコを買いだめしておけばよかったと私は後悔した。私はライターを室外機の背中に置いて、諦めたようにまた目を前に向けた。目の前のビルの屋上に掲げてある広告看板にカラスが一匹とまっていた。そのカラスはその場所に落ち着くと何度もうるさく鳴いた。そのうちにまたカラスが一匹やってきてそのカラスのそばにとまった。広告看板にとまる二匹のカラスか。悪くないなと私は思った。私は地面に置いてあるキャンバスと鉛筆を拾い上げた。しかし、実際にスケッチを取ろうとして鉛筆をかまえると、なんだかどうでもよくなってしまった。そして、しばらくの間そのような中途半端な気持ちでいると、カラスも羽を広げてどこかへ飛び去ってしまった。私は鉛筆とキャンバスを地面に放り出した。 最後のタバコを灰皿に押しつけた時にはもう夕暮れ時だった。今日のところはやめにして、タバコを買いにこうと思った。夜になったらまた吸いたくなる。明日もまた吸いたくなる。明日はベランダに出るのはよそうと思った。私は鉛筆とキャンバスをわきに抱えて後ろに振り返り、部屋の中に入ろうとした。だけど、そこには窓がなかった。私がベランダに出た時に開けた窓がなかった。光の反射で一瞬窓が見えなくなっただけだと私は思った。しかし、そこには本当に窓がなかった。私は一歩下がって目を閉じた。そして、また開いてみた。やはり窓がない。あるのは白い壁だけだった。私は鉛筆とキャンバスを床に置いた。床も真っ白だった。私はその白い壁に手を当ててみた。何の変哲もないただの白い壁。暖かくも冷たくもなかった。今度はその壁を叩いてみた。壁はとても厚くできているらしく音はあまりならなかった。 私は昂る気持ちを抑えて一度声を出してみた。声は出る。通りを歩く人に助けを求めようと私は考えた。しかし、振り向くとそこにはまた白い壁があった。さっきまで見ていたビルや家はもうなかった。あるのは私の背後にあるのと同じ白い壁だった。私は同じようにその白い壁を点検してみることにした。しかし、返ってきた反応はさっきと同じだった。気がついてみると、私の周りは一面白い壁だった。災害時に突き抜けることができるバリケードも白い壁に変わっていた。隣人に助けを求めることもできない。 私は白い壁で囲まれたベランダの中を当てもなくうろついた。真っ白な壁が突然出現しただけで、ベランダに置いてあったものはそっくりそのままの状態だった。植木鉢も、タバコの吸い殻も、干してある洗濯物もそのままだった。そして、非常用梯子が収納されている箱もそのまま床に埋もれる様に設置されていた。私はしばらくの間、非常用梯子が収納されているアルミ製の収納箱をじっと見ていた。非常用梯子がこういう時に役立つことは分かっていたが、どうして役立つのか私はしばらくの間理解できずにいた。しかし、私はとりあえず非常用梯子の収納箱に近づき中身を確認することにした。中に梯子がなかったらどうしようか、梯子がどこにも繋がっていなかったらどうしようかと考えると私の手は震えた。 収納箱のふたを開けると中には折りたたまれた梯子が収納されていた。ふたの裏には梯子の使い方が図で説明されていた。折りたたまれた梯子をほどき、下に垂らすと、正方形に切り取られた収納箱の口から下の階の様子が見えた。下の階の非常用梯子の収納箱が見え、その周りには白色の床が広がっていた。視界の隅には花が咲いていた。私は驚きのあまり長い間呆然としていた。それから、顔をあげてあたりを見渡した。白い壁に変化はなかった。上を見上げると白い天井があった。しかし、上の階に続く非常用梯子がなかった。 私は首を正方形の口の中に戻すと、下の階をまた見渡した。それから、「誰かいませんか」と声を出した。しかし、私の声が反響するだけだった。私は気を引き締めて梯子に足をかけた。梯子が大きく揺れた。私は足に力を入れ体を支えると、もう一方の足も同じように梯子に掛けた。梯子が安定すると私は慎重に下の階に下りていった。 下の階に着くと、周りは同じように真っ白な壁で囲まれていた。壁に背を向けてそろえられたサンダルや様々な種類の花が植えられた鉢植えがそこにはあった。私は今下りてきた梯子に手をかけて上を見上げた。ぽっかりと開いた正方形の口から舌のように梯子が垂れ下がっていた。梯子から手を離すと、私はその場に座り込んで花をいじくりまわした。この階でも私には何の選択肢もないようだった。私は立ち上がって上の階でしたのと同じように当てもなくうろついた。時々、無駄だと分かっていながら近くの壁を握りこぶしで叩いて歩いた。痛いだけで叩きがいは全くなかった。だから、私は途中で握りこぶしをやめて、はり手で壁を叩くことにした。手のひらは痛かったが、ぺチぺチ音が鳴ったのでいくらか気は紛れた。それに飽きると私は床に座って大声で歌を歌った。アドリブだったので出来はひどいものだった。歌を歌うことにも飽きてしまうと、私は大声でどなった。すると近くの壁の中からカーテンを勢いよく開ける時の音が聞こえてきた。私は体をぶるっと震わせると、その音が鳴った方向に顔を向けた。すると、次に「誰だ、うるせぇぞ」と怒鳴る男の声が壁の中から聞こえた。 私は立ち上がって恐る恐る壁に近寄った。そして、白い壁に向かって「あの、私上の階に住んでる柿木なんですが」と言った。 「えっ?あんた上に住んでるあの嬢ちゃんか。何勝手に人んちのベランダに入ってきてんだよ」と男は言った。怒った顔が目に見えるようだった。下の階の男とは親しい近所づきあいをしているわけではなかったが、顔は覚えていた。ぷっくりと膨れた顔の中に小さな目が黒いゴマのように置いてあり、その眼もとには真っ青なくまが蓄えられている。髪は常に油でギトギトになり、あちらこちらにはねていた。そして今、タコのように突き出た肉付きの良い唇から声が出ているのだ。お世辞でも親しみを与える顔つきとは言えない。エレベーターの中で顔を合わせた時にも、私から挨拶しない限り向こうから挨拶をすることはなく、とても付き合いずらい男だ。 「聞いてんのか?」と男が怒鳴った。 「はい、聞いてます」と私は焦りながら答えた。 「何でそんなところにいるんだってこっちは訊いてんの」 「あの、助けてほしいんです」 「助けてほしい?何があったんだよ」 「私、えぇと、ベランダにいて、絵を描いてて、部屋に入ろうと思ったら部屋に入れなくて……」 「警察呼ぶぞ!」と男がまた怒鳴った。「何かしようとしてそこにいるんじゃないの?」と今度は訝しげな声で男が言った。 「違います!本当に部屋に入れないんです」と私も叫んだ。 「何で入れないんだよ。鍵なんて外から閉められないじゃんか」 「はい、そうです。鍵なんて閉めていません。白い壁が突然現れて、それで、私部屋に入れなくなっちゃったんです」 「白い壁?お前、本当に警察呼ぶぞ!正直に話せ!」 「全部正直に話してますよ。なんで信じてもらえないんですか?あっ、そうだ、今も、ほら、白い壁があって、あなたの声は聞こえるけど、あなたの顔やあなたの部屋の中も見えないんですよ」 「お前何言ってんだよ。白い壁なんてどこにもないじゃんか」 「えっ、本当ですか?だったら、窓を開けてみてくれませんか?私を中に入れてください。窓を開けて私を中に入れてください!」 「ふざけるな!なんでそんなことしなくちゃいけないんだよ。そんなこと言ってお前、中に入ったら何かするつもりなんだろ?何が目的なんだよ?」 「何の目的もないですよ。警察でも何でも呼んでいいので、私をここから出してください」 「そうだな。不法侵入は罪だ。でもなぁ、お前、他にも何かしようとしたんじゃないのか?罪が軽くなることに内心ほっとしてるんじゃなのか?」 「何言ってるんですか。私は何もしようとしてません!それに、不法侵入でもありません。緊急事態だから非常用梯子を使ってここに下りてきただけですよ!私はあなたに助けてほしいんですよ」 「不法侵入じゃないだって?お前いい加減にしろよ。これのどこが不法侵入じゃないんだよ?これのどこが緊急事態なんだよ?」 「私にとっては緊急事態なんですよ!一度ベランダに出てきてください。そうすれば分かります。本当です。あたり一面が白い壁で、どこにも行き場がなんですよ!」 「そんなこと言って、お前、おれがベランダに出てきた瞬間をねらってるんだろ?何をたくらんでんだ?金か?」 「もう、何でも好きに言えばいいじゃないですか……」 「何だって?ってことはお前、窃盗しようとしたのか!」 「違います!でも、それでいいです、はい、それでいいです!私は窃盗しようとしました」 「ってことは、これは窃盗未遂ってことになるのか」 「はい、もうそれでいいです。私の罪は不法侵入および窃盗未遂です。だから早く警察を呼んでください!」 「まてよ、警察が来たら俺の家の中に入るわけだよな。ふざけるな!おれは警察なんかに家の中を見られたくない」 「警察を呼んでベランダに来させなければ私は捕えられないじゃないですか!」 「知るか!何でお前の都合を俺が聞かなくちゃいけないんだよ」 「じゃあ、どうするんですか!」 「お前、一回自分の家に戻れよ。それで警察に逮捕されるんだ」 「言ってるじゃないですか!私は部屋に入れないんですよ」 「ん、あぁ、白い壁があるんだっけ」 「そうです」 「っていうか、お前、俺と話せるんだったら家族とも話せるはずだろ。何で家族に助けてもらわねぇんだよ?」 「母と父は旅行に行ってて、今はいないんです」 「旅行?いつ帰って来るんだよ?」 「三日後です」 「まぁ、確かに三日間もベランダで過ごすわけにはいかないな。でも、まぁとりあえずお前、もう一回そこの梯子で自分の家のベランダに戻ってみろよ。お前、たぶん何かあったんだよ。今度は中に入れるようになってるかもしれないだろ?」 「警察を呼んでください!お願いです!もし、私の家の窓が開かなかったどうするんですか?第一、あなたの家の窓が白い壁で見えないのに、どうして私の家の窓が見えるようになってるんですか?」と私はいって壁を両手でバンと叩いた。 「おい、止めろ!」と男は怒鳴った。「分かった。警察は呼んでやる。ただし、俺の家には呼ばない。お前がベランダに閉じ込められて緊急事態だということを警察に電話で言ってやる。そうすれば警察はお前の家に来るだろ?」 「でも、私の家は空いてませんし、インターフォンに出られない私はどうやって警察を中に入れればいいんでしょうか」 「そんなこと、おれは知らない」と男は言った。 「何を言ってるんですか!無責任にもほどがあります」 「おい、いいか、お前がどれだけ緊急事態にあるとしても、おれにとってはお前の行動は犯罪以外の何事でもないんだよ。お前を犯罪者ではなく、災難に見舞われてる人間として連絡するだけでもありがたいと思えないのか?」 「では、せめて、管理人にも連絡してください。そうしないと、警察も中に入れないじゃないですか」 「おれは警察に連絡すると言ったんだよ。管理人に連絡するなんて言ってない」 「管理人に連絡してもあなたに被害を与えるわけではないでしょ?」 「いいや、与える。それに、お前はもうすでに十分と言っていいほど俺に害を与えてるじゃないか。俺は社会人なんだよ。週五日働いて、休みは二日しかないんだぞ。そして、今日はその二日の内の一日なんだよ。お前は大学生だろう?俺は大学生みたいに時間を持てあましてるわけじゃないんだよ」 「それとこれとは話が別でしょう!」 「別じゃない。犯罪者におれの時間を奪う権利があるのか?」 「私は犯罪者なんかじゃない!」 「何言ってんだよ。お前はさっき自分が犯罪者であることを認めただろう?」 「そうしなくちゃ、あなたが警察を呼ぼうとしないから認めたまでですよ。私は嘘をついたんですよ」 「嘘をついたんだな。お前はさっきおれに嘘をついたんだな。それじゃあ、なおさらお前のことが信じられなくなったよ。白い壁が見えるなんてのも嘘かもしれないなぁ」 「何ですって!いいですか、最初から私の話をあなたが受け入れてくれていたら、私はあなたに嘘なんてつきませんでしたよ」 「どうやったらお前の話しを最初から信じられるんだよ。突然人ん家のベランダに侵入してきて白い壁が現れて緊急事態です、なんて言うやつの言葉を誰が信じると思ってんだよ!」 「そうかもしれませんが……現にこうして起きているんですよ!」と私は叫んでその場に座り込んだ。「わかりました……申し訳ありませんでした。説得力がないのは私の方かもしれません」 男は彼女の丸まった背中をカーテンの隙間から見下ろした。「おい、警察だけは呼んでやる。それ以外はお前に協力することはできない」と男は言った。 私はそれを聞いて、座りながら口を開き「はい、お願いします」と言った。 少しの間その場に座り込んでから、私は立ち上がり上の階から垂れ下がる非常用梯子に手を掛けて登り始めた。ベランダから顔が出ると、下の階でカーテンが閉じられるような音が聞こえてきた。私の様子をあの男が見ていたと考えると無性に腹が立った。梯子の不安定さはそのいら立ちをさらに煽った。化粧もしていない顔をあの豚男に見せたのは初めてだ。あの豚男が私を意識して見ていたとは考えにくいけれど、それでも気分の良いものではなかった。ジーパンを履いておいてよかったと思った。梯子を登り切るとさっきと変わらない白いベランダがあった。時間帯は夜のはずなのに白い壁で囲まれたベランダの中は明るかった。私は光源を探そうと思ったが、思い直してやめた。こんな状況の中でもまだ自分に探究心があることに私は少し驚いた。 私は窓があったはずの場所に近づいて、そこにある白い壁を手の平でなでた。今回もまた暖かくも冷たくもなかった。この壁が何でできているのか見当もつかなかった。石やコンクリートでできているならどこかに境目の様なものがあるかもしれない。しかし。それらしき切れ目はどこにもなかった。果たして、これ以上に白い壁と呼ぶことのできる壁がこの世界にあるだろうか。もしここから抜け出すことができたらこの白い壁を描いて提出しようと私は思った。先生や友達からなんと言われようとも、私が描くべき対象はこれしかないのだ。だけど、この特徴もない白い壁をどのように描いたらいいのだろう。 私は近くに置いてあるキャンバスと鉛筆を拾い上げ、目の前の白い壁とキャンバスを交互に見た。鉛筆を握ってはみたものの、この壁には本当に描くべきものなんて何もなかった。私はキャンバスと鉛筆を置いて、その場に座り込んだ。絵は描かなければ絵にはならないのだろうか。 私は体育座りをして両膝の間に顔を突っ込み目を閉じた。タバコが吸いたくなった。私は立ち上がって灰皿の中を物色した。そして、一番形の良いタバコの吸い殻を一本取り出して灰を払って火をつけてみた。少し燃えたので一口吸ってみたのだが、とても吸えるような代物ではなかった。私は近くの排水溝に唾を履いてその吸い殻を灰皿に戻した。 この壁を描くか描かないかは部屋の中に戻ることができた時に考えればいい。今はもっと別のことを考えようと私は思った。タバコだってここから抜け出せればいくらでも吸える。とりあえず、今の私に分かることは下の階の豚男に望みはないということ。それから、壁があっても声なら聞くことができるということだ。ということは、豚男以外にも下の階に住んでいる人の声を聞けるかもしれない。そして、助けを求めることができるかもしれない。あの馬鹿な豚野朗以外の人にだったら私の話を信じてもらえるかもしれない。たぶん。 私はこのように考えると顔を上げて立ち上がり、非常用梯子で下の階のベランダに行くことにした。豚男に気付かれないように一段一段ゆっくりと梯子を下りた。ベランダに下りると、次の階につながる非常用梯子を慎重に組み立てた。梯子を下の階に垂らす時に高い金属音を立ててしまったが、豚男の怒鳴り声は聞こえてこなかった。私は意味もなく白い壁に目をやりホッと安堵した。下の階のベランダに着くとその階も一面白い壁で覆われていた。私は窓があるはずの壁に近づきこぶしで何回も同じ場所を叩き続けた。声を出すことはためらわれた。豚男に気付かれてしまう。もう、あの男とは口を聞きたくはない。管理人を呼んでやると言われても私は断るだろう。 しばらくの間壁を叩き続けたが何の反応も返ってこなかった。私はそれでもあきらめずに何度も壁を叩き続けた。しかし、いつまでたっても人の声は聞こえてこなかった。私の存在を知りながらも、意図して声を掛けてこないことも考えられた。向こう側からなら私の姿を見ることができる。憎き豚男のおかげでそのことを知ることができた。すると、この階の住人は私の姿に怯えているのかもしれない。無理はない。もしかしたら、すでに警察か何かを呼んでくれているかもしれない。それはそれでありがたいことだ。この場所で待機していれば警察が私を逮捕しに来てくれるかもしれない。 私は壁を叩くことをやめてあたりを見回した。特に目立つものはなかった。この階の住人はベランダにその機能性しか求めていないようだった。私はこの階の住人が警察を呼んだことを祈りながら座って何かが起こることを待つことにした。しかし、することもなければ、見るべきものもない空間は私にとって苦痛以外の何事でもなかった。私は少し考えてからキャンバスと鉛筆を持ってくることにした。何も描くつもりはなかったが、何も無いよりはましだと思った。もと来た非常用梯子を上ってキャンバスをわきに抱え、鉛筆をポケットに入れると、また同じ場所に下りてきた。数分の間に何かが起こっていればいいと思ったが何も起こってはいなかった。 キャンバスと鉛筆を床に置くと、私は下の階に下りる時のためにこの階の非常用梯子を垂らしておくことにした。しかし、一旦梯子を垂らしてしまうとそれを使わないわけにはいかなくなってしまった。私はまたキャンバスをわきに抱え、鉛筆をポケットに入れると、下の階に下りることにした。 梯子を使って下の階に下りている途中、この非常用梯子を使うと最終的にどこにたどり着けるのだろうという思いが私の頭の中に生まれた。私は今までそのようなことを考えずに非常用梯子を使っていた。助かる道は人に助けてもらう以外にないと考えていた。だけど、非常用梯子はこのマンションから脱出するためのもの。この梯子を使って下に下り続ければ外に出られるのだ。私の頭の中で考えはこのように収束した。この結論を導いた時、豚男に食ってかかった自分を思い出して私はとても恥ずかしくなった。 私が住んでいる階は七階だからあと三回梯子を使って下りれば一階のどこかに出られるはずだった。そう思うと私の気持ちは昂った。心臓の鼓動が速くなった。緊張と興奮でうまく梯子を下に下ろすことができなかった。下に下りる際に足ががくがく震えた。キャンバスを持つ手に汗がにじんだ。四階から三階へ、三階から二階へと下の階に下りるごとに酸素が薄くなるように感じた。鼓動もより速くなった。目がうまく開かないように感じた。額から汗が流れた。 二階のベランダに着き、私は深呼吸をして気持ちを落ち着けようとした。しかし、私の意志とは無関係に心臓は今にも爆発しそうだった。二階のベランダも白い壁で覆われていることに意識を向けてしまうと緊張感はさらに高まった。私は心臓が落ち着くのを待たずに非常用梯子の収納箱を開けた。絡み合いながら収まる梯子の向こう側には空間がひらけていた。私は急いで梯子を下に垂らして首を突っ込んだ。 私の眼には見慣れたエントランスホールの床が映った。床は白ではなく茶色だった。それを確認すると私は下に下りていった。エントランスホールに異常はなかった。白い壁もどこにもなかった。エレベーターの表示灯は七階を示していた。エントランスホールのガラスドアの入口からは外の様子も見えた。外は暗く、遠くの方にぼやけた赤い信号の明かりが見えた。しかし、よく見るとそれは信号の赤色灯ではなかった。パトカーの屋根に設置してある赤いランプだった。警官の姿も数人確認できた。私はそれを見てあの豚野朗のことを思い出した。私はエントランスホールの入口を通って警官達がいる場所へと歩いて行った。見覚えのある人々が一人一人警官達と何かを話していた。私がパトカーのそばに近づくと、一人の警官が書類に落としていた目を私の方にぎょろりと向けた。そして、少しびっくりしてから「いたぞ!」と叫んだ。 私は警官の発言に驚いて分けもなく逃げ出してしまいそうになった。警官の叫びに含まれた語調や戸惑いの表情からは喜びや安心といった感情をくみ取ることはできなかった。私は分けもわからずその場に立ち尽くした。そのうちに警官が三人やってきて私を取り囲み始めた。確かに私は災難に見舞われた。緊急事態だった。だからと言って、ここまで大事になるだろうか。あの豚野朗は一体どのような報告の仕方をしたのだろう。警官四人の後ろには見覚えのあるマンションの住民達が群がっていた。あの豚野朗はいなかった。 「君は柿木恵だね?」と口ひげをはやした警官が訊いた。 「はい」と私は答えた。 「君はこのマンションの七階に住んでいるんだよね?」と言って警官はマンションを見上げた。 「はい」 「このマンションから四件の通報が入った。内容はどれも同じ。若い女の子がベランダに侵入したというものだ。若い女の子って君でしょ?」 「そんなに通報が……あの、はい、確かにベランダには入りました。でも、侵入ではありません」 「侵入ではないといのは?」 「緊急事態が起こって、それで、非常用梯子を使って脱出するために仕方なくベランダに入ったんです」 「このマンションで緊急事態が起こったという報告は入っていない。君自身に何かあったの?」 「そうです!」と私は叫んだ。そして、私は警官達に白い壁が現れたことを説明した。 「白い壁ねぇ。それのせいで君は部屋の中に入れなくなったと言うんだね?」 「そうです」 「うーん、それじゃあ、少し話は変わるけど白い壁が現れたとして、どうして非常用梯子を使ってまっすぐ地上に下りてこようとしなかったの?」 「どういうことですか?私は非常用梯子でここまで下りてきたんですよ」 「五階に住んでいる方の話なんだけどね、君が何度も何度も窓を叩いてきたと言っているんだよ。何してたの?」 「あっ、それは、私が助けを求めるためにしたことなんです。閉じ込められた時、私頭が混乱してて非常用梯子でここまで下りられることに気が付かなくて、それで……」 「それで窓を叩いたんだね?」 「そうです」 「ちょっと私についてきてもらえるかな?」と口ひげの警官が言うと、残りの警官達は道を作った。私はその警官の後に従った。マンションの住民から、見たことのない人まで野次馬が増えていた。その警官はマンションの周りを少し歩いてから立ち止まった。私は警官が何をしようとしているのか理解することができた。 「ここからベランダを見てみるとね、白い壁らしきものは見当たらないんだけど、君が言う白い壁はここから見ることができるものなの?」 私は陰で覆われた警官の顔を見て、次にマンションを見上げた。そこに白い壁はなかった。「いいえ、見えません」と私は言った。キャンバスを抱える手に力が入った。「あの、私嘘なんかついていません。これだけは信じてください」 「君が嘘をついてるなんて思ってない、大丈夫、そんなに心配しなくていいから。私達はただ事実を確認してるだけなんだよ」と口ひげの警官は言った。 私はその言葉を聞いて少し肩の力が抜けた。「あの、今度は私の家に来てベランダを見てもらえませんか?」と私は言った。しかし、口に出してから私が家のカギを持っていないことに気が付いた。 「そうだね。そうする必要もある」 「ありがとうございます。だけど、私家のカギを持っていないことを忘れてました。両親は旅行に行ってて家には誰もいません。だから、中に入れないんです」 「それじゃあ、このマンションの管理者を呼んで開けてもらうことにしよう。管理者が到着するまで詳しい話を聞かせてほしい。いいね?」 「はい」と私は答えた。 私と口ひげの警官はパトカーが駐車されている場所に戻った。 「外で話すのもあれだから、車の中で話を聞かせてくれ」と口ひげの警官は言い、パトカーのドアを開けて私を先に中に入れた。私が奥の座席に座ると口ひげの警官が次に中に入って来た。警官はドアを閉めると制帽を取って髪を後ろにかきあげ、また制帽を被った。私は窓から野次馬の姿を眺めていた。他の警官達はまだマンションに住んでいる住民達と話をしていた。 私が外を見ていると横から口ひげの警官が「さっきから君は何を持ってるの?」と訊いてきた。 「えっ、ああ、これですか。これはキャンバスです。私美大に通ってるんです」 「へぇ、じゃあ絵を描くんだね」 「はい、今日も絵を描くためにベランダに出てたんですよ」 「何も描かれてないけど、何を描くかはもう決めたの?」 「決めましたよ。それに、もう描き終わりましたよ」と私は答えた。 私がそういうと警官はキャンバスをじっと見つめた。 「暗いからよく見えないなぁ。もうちょっとよく見せてくれ」と言って私の方に片手を差し出した。 「どうぞ」と言って、私はキャンバスを警官に手渡した。 「何も描かれてないよ」と警官は残念そうに言った。 「はい、何も描いてないんですよ」 「私には芸術ってものがよくわからないなぁ」と言って警官は顔を掻いて笑った。 「芸術は奥深いんです。私にだってよくわかりません」 「題名はあるの?」 「はい、あります。白い壁」
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