◇Side 桐式紅葉
姫が霧に変えた自分の体であたしの手を覆う。目に見える訳じゃないけれどそうしているのが分かった。多分二人で話をしたからだろう、以前と比べて姫の存在をより近くに、より確かに、より大切に感じる事が出来るように思えた。姫の姿が白い手袋に変わる。まるで貴族が着けているかのような真っ白な手袋。手の平を広げると、そこから水が湧き出てきた。水の量は段々と多くなって手の平から零れ落ちる。しかしその水が地面まで落ちる事は無く、むしろ途中から落ちる方向を変えて天に向けて直立していった。水は剣の形を、握り慣れた木刀の形になると、中段に構えて刀野郎に向けた。 「……桐式、お前は下がってろ」 「何言ってんだよ、そんなちっぽけなナイフで刀と渡り合おうってのか?」 七緒の手に握られているのはせいぜい拳一つ分程度のバタフライナイフ。もっと刃渡りのあるものならともかく、そんな物で長物相手に立ち回るのは厳しい。 「あたしがやる」 言って、刀野郎ににじり寄る。既におばさんは刀野郎の後ろに下げられ、刀野郎は自分の主を守るかのように、しかし礼は欠かさずに頭を一度下げてから一歩、また一歩と刀を構える事も無く迫ってきた。一足一刀。剣道の試合で何度と無く立ったその立ち位置であたし達は止まった。 「桐式……! あ? 邪魔するなイチ――」 後ろで七緒が叫んでいる。しかしもうそんな事も聞こえない。目の前には刀を構え、あたしを確実に殺そうとしているシャドウが居る。最早後ろを気にしている余裕は無い。 刀野郎が構える。多分、自分が最も得意としている構えなのだろう、現代剣道では最強とされる中段ではなく、左手、左足を前に出す左上段の構え。剣を頭上に構える為に首下、特に胴の守りが非常に薄くなる。しかし、上段に構えると言う事はそこからの振り下ろしが中段に比べて早く、その速度、威力も半端じゃない。更に相手は真剣――木刀以上の重みで振り下ろされるその切先はこちらの守りを打ち崩して頭を割られる事だってありえる。ましてや相手は自分の体から武器を作り出せるのだから、その打ち込みで自分の刀が折れようが構いやしない。礼儀正しいその態度とは裏腹に攻撃的過ぎる構えだった。 上段への対抗法はどうだったか。中段の次に多い構えとは言え、それでも剣道では中段を使う方が圧倒的に多い。あたしは上段の構えとの対戦数は多くない。その対抗策が良く分らない。 「……君は、何故戦う」 構えたまま、あたしを睨み付けたままで刀野郎が呟いた。 「あ?」 「君達が夕子を追い詰めなければこんな事にはならなかった。妙な正義感を掲げて、自分が死ぬかも知れないのに何故戦う」 「……あたしは腹が立てば相手を殴りたくなる性分でさ。別にあんたには恨みは無いけど、人を殺すような相手を放っちゃおけないだろ」 「なるほど、人を殺すのがいけないと。……使い古された問答だけれど、何故人を殺しては駄目なんだ? 法律で決まっているからか? 人だって家畜を――」 「んなの関係あるか! 人は人だ。動物は動物だ! 人の世界の常識に動物を巻き込むんじゃねえ!」 「その言い口だと動物はいくらでも殺して良いって聞こえるけれど」 「頭の固い野郎だな!」 「君は深く考える事をしない奴だね。それと、何故人を殺しては駄目なのか、の答えを聞けてない」 「んなの――駄目なもんは駄目なんだよ! 人殺しなんてする奴は生きる価値が無ねえ、今自分で死ね!」 「そうか」 言って――刀野郎の視線があたしの後ろに、多分あたし達の様子を伺っているであろう七緒に向く。 「君の友人は、さっき僕と戦った時に一もニも無く夕子を殺そうとしたよ。それはそうさ、ただの人間がシャドウを相手取るには不利すぎる。ならペルソナを狙うのが手っ取り早いからね。つまり、そこの彼は人殺しを厭わない僕寄りの人間だと思うのだけれど、そのあたり君はどう思うかな」 野郎の言葉に思考が止まる。いや、考えすぎて自分が今何を考えているのかが分らなくなる。七緒は否定しない。野郎もそれ以上は何も言わない。多分、刀野郎の言っている事は全て真実。つまり、つまりつまり――七緒は人を殺そうとした。自分はさっき何を言った? 人殺しをする奴に生きる価値は無い? つまりあたしは七緒に死ねと言った――? 「……さっきの答えをちょっと訂正だ」 「ん?」 「人殺しはいけない。だから人を殺した奴は自殺でもしろ。それは変わらない。でも――」 七緒は頭が良い。何をするのが一番最善かを分かっている。それをすると何が起こり、その後にどうなるかも分かっている。それを踏まえた上であのおばさんを殺そうとしたのだろう。あたしは成績だけで言えばクラスで中の中と言ったところだけど―― 「なあ七緒、今の話本当なんだな?」 「……まあ、な」 それでも七緒の言い分は分る。理解出来る。でも、 「七緒は人を殺した事、あるのか?」 「それは無い」 断言した。なら、答えは一つ。 「人を殺すのは悪い。いや、何が悪いって言うなら、人を殺さなければならない状況が悪い。それならあたしはそんな状況を作り出した原因をぶっ潰す! さし当たってはお前だ!」 「そうか。でも、君はどうなのかな?」 刀野郎の視線は七緒に向いていた。真っ直ぐに、あたしなんか見えないかのように。 「僕は……」 七緒は答える。ゆっくりと、自分の意思で。 「目的の為に手段は選ばない。それを桐式が否定するのならそれはそれでいいさ。僕は勝手にやるだけだ」 刀野郎がそうか、と嘆息する。そうか、と感嘆する。七緒は良くも悪くも自分と言うものを持っている奴なんだろう。 「じゃあさ、あたしは邪魔するよ。お前が人を殺そうとするなら、それより早くあたしはそいつをぶっ飛ばしてお前が人殺しをする前にどんな問題も解決してやる」 「なんで桐式がそんな事をする必要があるんだよ」 「友達だからだろ。あたしは、友達に死ねなんて言いたくない」 そうか、と呟く七緒。前を向いているからどんな表情をしているかは見えない。でも、多分呆れているんだろう。多分、もうあたしの相手なんかしないとでも考えているんだろう。それでもいい。それでも、あたしは勝手にやらせてもらうだけだ。 決意し、覚悟し、決心し――刀野郎を睨みつける。七緒を睨んだままのその表情は酷く苛ついていて、酷くあたし達を憎んでいるようだった。 「……死ね」 刀野郎の視線があたしに戻った瞬間、刀が振り下ろされる。あたしはその一閃を一度避けている。それで刀野郎の動きを全て読めているなんて思いはしないけど、それでも初めて見るのと一度見ているのとでは全然違う。そう、初めて見るその一撃は、あたしの想像とも、一度見た記憶ともまるで違っていた。 「ッッッ!!」 右手を水の剣から離し、刀野郎に直角になるような形で体を大きく開く。右上から左下へ振り下ろされた剣線は紙一重のところであたしの体を掠めていった。あまりにも早く、あまりにも速く、あまりにも疾い。あたしからの反撃を恐れてか、二の太刀を繰り出す事はせずに即座に後ろに下がり、またも威圧的な左上段の構えを見せた。 中段の構えは常に相手に剣を突き出した形だから不用意に踏み込めばそのまま迎撃される恐れもあるし、まともな迎撃が出来なくともほんの少し剣先の位置を変えるだけで自分から剣に当たりに行ってしまうなんて事もある。しかしそれすらも――いや、あたしにそんな反撃をさせる事も無く、刀野郎の剣はあたしの命を絶つ為に振り下ろされた。 「……僕は、お前達が憎い。その憎しみが僕の剣に力を乗せる。逃げるなら見逃す。だから、退け」 あたしは、そこまで恨まれる事をしたのだろうか。いや、本人が言うのならしたのだろう。なるほど、あたしへの恨みが殆ど無かった一戦目は力が発揮出来なかった。だから簡単に避けれたと言う事だったのか。つまり今のこいつには簡単に勝つ事は出来ない、と言う事か。 「じょ、上等だよ……!」 剣を握り直す。しかし、あたしの手は震えていた。恐怖で、がたがたと震えていた。でも―― 「やってやらぁ!」 大声を出し、震えを止める。緊張を止める為にも攻撃の為にも声を出すと言うのは非常に効果的だ。それでも微かに震える手で、体で刀野郎に対峙する。 「キアアアアアア!!」 叫び、一歩踏み込み、あたしの得意技である突きを繰り出し――しかし、刀野郎の姿が消える。あたしの背後か、それとも頭上? どちらにせよ、何処かからか攻撃が―― 「ぐあ!」 しかし叫びはあたしの背後から。振り返ろうとした瞬間、七緒の持っていたナイフが力無くあたしの近くに落ちる。その延長線上にはおばさんの姿があった。それは、七緒が刀野郎を無視しておばさんを狙ったと言う事だろうか。 振り返る。そこには腹を刀で斬られた七緒と、刀を持って佇む野郎の姿があった。野郎が憎しみで力を増すと言うのなら、おばさんを狙った七緒に対する憎しみで姿が捉えられなくなるほどの動きが出来るようになったと言う事だろう。 「は! 掛かったな……!」 何とか致命傷にはなっていなかったらしい七緒が、しかし負け惜しみのように呟く。 「何を言って――」 だが、刀野郎は知らなかったんだろう。そう言えば刀野郎は七緒と戦った時にイチは居なかった。居ても、イチはただ駆けつけただけで戦いをしていなかった。だから―― 「紅葉!」 イチがあたしを押し倒して地面に伏せさせた。その数瞬後、イチが覆い被さってきている所為で見る事は出来なかったけれど――激しい爆音が轟いた。 「へへ、やったぜ」 言いながらイチがあたしの体を支えながら立ち上がった。爆音のした方向を見る。そこにはおばさんが倒れていた。恐らくイチが投げたのは爆弾なのだろう。あたしを助けてくれた時もそんな物を投げたらしい。そんな爆弾の直撃は受けなかったものの、おばさんは左半身に火傷を負っていた。それでも、生きてはいた。 「な……お前!」 刀野郎が自分の足元に倒れ伏す七緒にトドメを刺すべく刀を振り上げる。しかしその動きは止まり、数秒の躊躇いを見せてからおばさんの元に駆け寄る。それを見てあたし達も七緒に駆け寄った。 「やったか?」 血の流れる腹を押えながら七緒が体を起し、あたしに問い掛けてくる。 「その台詞を言う時は大抵やってない。て言うか無茶しすぎだ!」 「は、こうでもしなきゃ勝てな――」 「勝つ! あたしはあの刀野郎に勝つ!」 怒りに任せて剣を握り、刀野郎に向ける。しかし、しかし、しかし――刀野郎は、自分の主を、ペルソナを、自分の刀で刺し殺していた。 左手で顔を庇ったからだろう、焼け爛れた左手で刀野郎の顔を引き寄せ、綺麗な顔を近づけ、おばさんは刀野郎に口付けをし――そしてそのまま息を引き取った。 「何して――」 「君は、人を殺したい程に憎んだ事は無いか?」 「何してんだよお前!」 「僕はいつもそうだった。夫の暴言に耐え、それを悟らせまいと周囲に気を配り、常に円満な家庭なのだと意地を張るしかなかった。しかし僕は心底夫を憎み、そんな自分の心情を悟ってくれない周囲の人間を憎み、そしてそんな事をしなければならない自分を憎んで今まで過ごしていたんだ。僕が人を殺すのは、他人が憎いからだ。僕が人を殺さなければならないのは、他人が僕の事を知ってくれなかったからだ。僕が僕を殺すのは、全てを曝け出せなかった僕が憎いからだ。だから僕は殺す。全てを殺す。憎い者を殺す。僕を殺さなければならなくなったお前も、皆、全て、一切合切、全て平等に殺す――!」 意味の分からない事を口走りながら憎しみに顔を歪めた刀野郎は、ただその憎しみをぶつける為にあたし達に向けて走ってきた。脇に刀を構え、走る勢いを刀に載せて全速全力の胴。まともに受ければ同じ刀を持っていても砕かれ、体を真っ二つにされるその一撃を、あたしは水の剣で受ける。刀が――折れる。当たり前だ。ただの刀でこの剣は折れない。 「シアアアアア!!」 無我夢中だった。この剣で頭を叩けば人間は死ぬ。そんな事は分かっていたけれど――目の前で人を殺したこいつを見てあたしは冷静でいられなかった。 刀野郎が新しい刀を手の平から生み出しながらあたしの面打ちを防ごうとする。しかしそんな事が出来る訳も無い。刀は簡単に折れ、頭を狙った剣はしかし辛うじて避けた刀野郎の左肩にめり込む。いや、そのまま叩き切った。姫も怒ったのだろう――力の調整を誤っていたようだ。 「な――なんだ、その刀――!」 「は! プール一杯分の水を固めてんだ、テメエの頭なんざスイカみてえに叩き割ってやるよ!!」 もう剣道だなんて言えないような、バットでも振り回すようにして剣を振る。刀野郎は再度刀を生み出しながら大きく後ろへ下がった。叩き切られた肩からは血が吹き出ていたが、地面に落ちた腕からは血は流れ出ず、段々と霧のようにして消えていく。シャドウは体を魔力の霧に戻せば傷が治るらしい。腕が切られても治るのかは分らないけれど、それでも血を止める為にも一度はそうするだろう。その前に―― 「ペルソナを失ったシャドウは体を霧に出来ない。そんな事をしたらそのまま魔力は霧散して元の体に戻れなくなる。……そもそもペルソナを失った時点で自分の体を作る魔力が送られてこなくなるからシャドウは消えるしかない。もし人殺しが嫌だって言うなら、このまま逃げればあいつは勝手に消えるぞ」 腹の怪我が痛むだろうに、イチの肩を借りながら七緒は立ち上がって言った。あいつはそれを知らずにペルソナを殺したのだろうか。いや、知っている筈だ。シャドウは、そういう存在だ。ペルソナの事を全て知って、そして自分の事を全て知っている。そんな存在だ。だから――こいつはあたしが言った通りに、自分で自分を殺したんだ。もちろんそれはあたしが言ったからじゃないだろう。むしろ、それは―― 「自分が望んだからって、自分を殺す奴は人殺しと同じくらい大嫌いだ!」 剣を振りかざしながら駆け、大振りに、それこそスイカ割りをするかのように振り下ろす。逃げるような素振りは見せない。しかしあたしの剣を受けるようにして残った右手に刀を持ち、頭上に掲げる。もう何も分らなくなっていた。この一撃で、人間を殺してしまう事になるのは分かっているのに、何も分らなくなっていた――そんな矢先に、この秋空に不似合いな爽やかで温かな風が吹いく。あまりにも温かくて、暖かくて、今自分が何をしようとしているのかを思い出させるほどだった。 刀野郎の頭を狙って振り下ろした剣を強引に止める。止まった剣を見てしかし、野郎は頭上にかざしていた刀を振り、あたしに切りかかってきた。剣を止めるのに夢中でその反撃を避ける事も受ける事も出来ない。やられる、そう思った瞬間、あたしの体は後ろに引き倒された。空を斬る剣線。しかし返す刀で、あたしを後ろに倒した七緒の体に、 「やめ――」 あたしの声なんてまるで無視をして、その刀の切先は七緒を引き裂く。血を撒き散らして倒れる七緒。その体をイチが顔を蒼白にしながら抱き止める。トドメを刺すべく、刀野郎は血走った目であたし達に襲い掛かった。倒れたまま立ち上がる暇が無く、それでも刀野郎を迎え撃つ為に剣を構える。振り下ろされる刀。たとえその一撃を防いでも、座ったままの状態で二度三度と繰り返される攻撃を捌ききれるとは思えない。死。それを覚悟した瞬間、突風は起きた。 雑草を地面ごと抉るようにしながら己の突進の勢いを殺しつつ飛翔。空中で体を反転。その勢いを足に乗せた飛び後ろ回し蹴り。あたしに見えたのはその三つの動作だったけれど、その威力は人間を、それも大の大人を十数メートル吹っ飛ばす程の威力を持っていた。 見えたのは色気も何も無い緑のジャージ。セミロングの茶髪を頭の後ろでゴムで止めている姿は、普通にそこら辺にいるお姉さんにしか見えない。端正な顔立ちはテレビで見るような美人からは見劣りするのだろうけど、何となく体育会系な活発さが伺え、きっと男からは人気があるだろうと思える。そんな人が、温かな風を纏ってそこに立っていた。きつく睨む目は吹き飛んだ刀野郎に向いている。しかしその目はすぐに心配そうな様子に変わり、七緒の事を見詰めていた。 「大丈夫? もう少し早く気付いていれば……」 言いながら自分のジャージの上着を脱いだお姉さん。下は白いシャツで、汗で少し濡れている。小ぶりな胸を包むスポーツブラが少し透けて見えていた。イチが多少警戒しながらも近付いてくるお姉さんに七緒の体を委ねる。ジャージを傷口にきつく巻き、血止めをした。その間も痛みで呻いていた七緒。取り合えずまだ生きてはいるけれど、それでも命の危険があるのは変わらない。こんな時に昼間に会ったあのお姉さんが居れば、と無い物ねだりをするが今はそんな時じゃない。七緒のポケットを弄って携帯を取り出し、不慣れな携帯で何とか秋子さんの電話番号を見つけて電話を掛けた。すぐに電話に出た秋子さんに事の次第を伝えていると―― 「あ――う、後ろだ!」 あたし達の事を心配して刀野郎から目を離していたお姉さん。しかしあたしがその後ろから近付いてくる刀野郎の姿を捉えると、即座に叫ぶ。その声に素早く反応し、振り向き様に回し蹴りを刀野郎の頭に食らわせた。たたらを踏む刀野郎、しかしそれでも刀を構えて諦めようとしない。力ない足取りで、最早刀を持つ手も上げられないような足取りで、それでもあたし達を殺す為に強い足取りで――三歩、歩いたところで崩れ落ちるように倒れた。だが刀野郎は諦めない。右腕を使って這うようにしてあたし達に迫る。鬼気迫るその表情はまさに言葉通りに鬼のようだった。お姉さんが一歩後ずさりながら身に風を纏って更に追撃を加えようとし―― 「もういい! もう、いい……」 ごほ、と口から血を吐き出しながら七緒が叫んだ。刀野郎がぎり、と歯を噛み締める。しかしそれも一瞬――もう這う力も無くした刀野郎の体は断ち切られた腕を初めとし、怪我を負った部分から霧に変えていく。主を――ペルソナを無くしたシャドウは一度霧に代わった体を二度と人の形に戻す事が出来なくなる。もう、刀野郎は終わった。ここで消えていくしかない。それは魔術とかの知識をまったく聞いてなかったとしてもすぐに分かっただろう。それほどに目の前の殺人者の存在は希薄になっていた。 「……なあ、あんた、名前は?」 必要も無いだろうに、あたしは聞いてしまった。 「北……修一。夕子の初恋の相手の名前だ」 必要も無いだろうに、刀野郎――北修一は名乗った。 それからは誰も話さない。七緒の荒い呼吸音だけが聞こえてくる。既に秋子さんに場所も伝えている。すぐにここに来てくれるだろう。お姉さんは――そう言えば七緒の家の前で見た人だ――一緒に、あたし達を守るようにしてその場に居てくれて、秋子さんが到着すると何事も無かったように公園を出る為に歩いていった。その別れ際に、 「またね、お二人さん」 そう言ってジョギングとは思えない速度で走り去っていく。そして、爽やかで温かな風が吹く。今度会う事があればお礼を言おう、そんな事を、あたしは考えていた。
◇Side 無口七緒
赤い夕日の差し込む自室で茶色掛かったオレンジ色の柿の皮を果物ナイフで剥く。そう言えば今年初柿だ。貝の方のカキもそろそろ食べたい。 四つに切った柿を皿に置き、もう一個皮を剥く為に柿を取る。その間にイチが自分で皮を剥いた訳じゃないのに横から掻っ攫って行ったのに腹が立ったけど気にしないようにしておこう。気にしてたらキリが無い。合わせて三つの柿を剥き終わると、手を拭いてから僕も食べ始める。その頃には既に一個と半分が食べられていたから流石にイチの頭を叩いてやった。仕方無さそうに今度はイチが柿の皮を剥いていたのでそれで手打ちにしてやる。 刀野郎こと北修一とそのペルソナ、北夕子さんとの戦いが終わってから三日が経った。秋子さんの治癒魔術のお陰で傷の治りは大分早まってはいるけど、それでも学校に出れるようになるにはあと一週間は欲しいところだ。そんな訳で怪我を理由に学校、それと他のペルソナと金髪野郎の捜索を三日休んでいた。その間に新しく買ったゲームもクリアしてしまい、割と暇をしてるところだった。イチは父さんに甘えつつ外に遊びに連れて行ってもらったり一人で行ったりしてるのが何となく羨ましい。それに父さんは父さんでまた一人子供が出来たかのように、それも――中身はともかく――女だからとにかく可愛がっていたりする。それで服を買って貰ったりして、なんかいつも女のような格好をして気持ち悪かった。今もジーパンの上はなんて言う服なのかは分らないけれど、白いフリフリのついた服でとにかくキモイ。 「可愛いだろ」 なんて言うもんだから二、三回吐いたくらいだ。 「嘘をつけよ」 「何で僕の独白がお前に聞こえるんだ」 「知るか」 ぱっぱと柿を切り終わったイチが飽きずにまた食べ始めた。 さて、これからどうするか。柿を食べつつやり終わったゲームしかない棚を見詰めていると、廊下を歩いてくる足音が聞こえた。父さんだろうかと思っていると、ノックもせずに襖の戸が開かれると、そこに居るのは制服姿の桐式だった。よー、なんて声を出して部屋の中に無遠慮に踏み込んでくると、手に持ったビニール袋を部屋の中央、柿の皿の乗ったテーブルの上に置く。 「また来たのか」 「なんだー、嬉しくないのかーこのやろー」 時間的にも部活帰りなんだろう。ポニーテイルの髪からほのかに香るシャンプーの匂いは部活で掻いた汗を流したからだろうか。我が校の剣道部はかなり強い所為か優遇されていて、シャワールームまで付けられていたりする。進学校じゃないから割とギリギリまで部活に勤しんでいる三年生も居るらしい中でレギュラー入りしている桐式の腕前はやはり相当なものらしい。まあ、そうじゃなきゃあの刀野郎とは渡り合えなかっただろう。 そんな桐式はこの三日間毎日僕の家にやってきていた。何でもバイト代が溜まらなくてゲームが買えないから僕の家でやらせてもらうとか何とか。いい迷惑だよほんと。 「人の家を漫画喫茶か何かと勘違いしてるんじゃないか」 「んなこと無い。あ、柿おいしそうですね」 「それほどでもない」 「謙虚だなー。しかしだな、消費者が謙虚だと生産者が困る訳だ。宣伝が出来ないからな。どれ、味覚鑑定士百八段のあたしが味を見てしんぜよう」 言って、ひょいと柿を摘まんでぱくと食べる。しかも一気に三つ。そして感想は、 「美味い、おかわり」 だった。イチに視線を向けると、めんどい、と言って僕に振ってきた。ちくしょう、使い魔なのになんで主の言う事を聞かない。 「まったく暇人だな桐式は」 「学校休んでゲーム三昧。バイトをするでもない奴が言う事か」 「学校休んでるのは僕の所為じゃない」 と、軽口で言い合っているだけのつもりだったけれど――それもそうだな、と桐式は少しばつの悪そうな顔を見せて苦笑した。この女、僕が怪我をしたのを自分の所為だと思っているらしい。そんな訳もないし、そも自分でやった事なんだから気にするなと言っても聞かないから面倒だ。ただまあ、これで懲りただろう。殺し合いを体験したのなら、もう馬鹿な事など言わないだろう。そんな僕の想いは、 「そうそう、昨日もぱーっと守風と手分けして見回ってたけどさ、その金髪野郎は見つからなかったよ」 あっさりと裏切られていたのだった。って言うかあの件の翌日、僕が痛みで起き上がる事も出来なかった時に見舞いに来て、あたしは諦めないぜ、なんて怪我人に鞭打つような事をただでさえ無駄にでかい胸を張って言うんだから溜まったもんじゃない。しかも言っても聞かないし、あのお姉さん――その日の帰りに家の前で会ったらしく、名前は守風(かみかぜ)さんと言うらしい――と協力までしてるんだから性質が悪い。僕は、僕が関わっている事に僕を無視して事を進められるのが一番嫌いなんだ。なんて言っても聞く気が無いと言うよりは、怪我を治るまでは寝てろ、とまるで母親のような事を言うから腹が立ち、もう不貞腐れる事にしたのだ。勝手にやって勝手に野垂れ死ねば良い。 「あ、でも昨日見つけたラーメン屋は美味かったなぁ。守風の奢りだったし」 「おー、そうそう。俺塩ラーメンあんま好きじゃなかったけど、あそこのは普通に食えたよ」 にはは、と笑って自分の青い髪を弄っているイチ。うん? 昨日守風さんと見つけたラーメン屋の話に、何でイチが混ざれる。 「……退散」 「まてこの!」 僕の拳は体を霧に変えたイチの所為で空を切る。そのまま顔を――多分滅茶苦茶眉間に皺が寄っていると思う――桐式に向けると、そっぽを向いて自分で勝ってきたペットボトルのコーラを飲んでいた。 「……勝手にしろ」 言って、不貞寝する。もう人の話を聞かない奴なんて無視だ無視。 「おうい、起きろよー。ゲームしようずぇー」 「知らん」 「なんだよー、つまんねーじゃねーかよー。あ、まあいいや」 そう言って何やら携帯を取り出した桐式。イチも出てこないし、もう何もかもが面倒になったからこのまま寝てしまおうかと思った矢先、テーブルの上に置いておいた携帯からコール音が鳴る。 「お、電話だぞ七緒」 ぽい、と桐式が放って来た携帯を寝そべったまま掴む。画面には数字が羅列されていた。つまり登録してない相手から掛かってきている訳だ。振り込め詐欺とかだったらイマイさんのように何度も掛け直して、って言うのをやってみたいが、今までそんな詐欺野郎からの電話は掛かってこなかった。とりあえず出なくても良いかと思いつつ、数秒の間を取って悩んだ結果、電話に出てみた。 「もしもし」 聞こえる声は、携帯と目の前の桐式から。呆れながら電話を切り、 「何してんだよ」 「や、お互いの番号知らないと困るだろ。メアドは登録しといたぜ」 ぐ、と親指を立てた右手を突き出した桐式。ぺろと出した舌はペコちゃんを思い出させた。言われてアドレス帳を確認すると、確かに桐式紅葉の名が――無い。代わりに、地母神モミジの名前が。お前はどこのアトラスゲーの悪魔だ。 「分りにくいから名前は変えておく」 「なんだとこの野郎。人が三日間考えて考えたあたしの愛らしい愛称になんてことしてくれやがる」 「うるせえこの野郎。お前勝手に携帯見たんだからな、後で謝罪会見開くからな」 「この度は、大変申し訳ありませんでした」 正座に座り直し、深く頭を下げる桐式。なんだろう、自分でネタを振っておいてなんだけど大量のカメラのフラッシュを焚いた方が良いんだろうか。 「ま、登録を消さないと言ったから許してやろう」 「許すのは僕だろ! 消すぞこの野郎!」 「なんだなんだ、ななちゃんは口が悪いなあ」 「桐式の所為だ。ったく……」 そんなやり取り。そう言えば確かにお互いの連絡先を交換していなかった。まあ――別にそれくらいはしてもいい。 「ん、嬉しくなさそうだな」 「嬉しくはないな」 「なんだと。あたしと話をしてもつまらないってか」 「……いや」 「ん?」 頭を掻きつつ、桐式から視線を外す。まあなんと言うか、楽しくない訳はないわな。 「楽しくて楽しくて仕方ないぜ。結婚しよう、紅葉」 「てめえは引っ込んでろ!」 イチが出てくるタイミングはもう把握している。馬鹿を言ったイチがまた消えてしまう前に顔面に拳を叩き込む事に成功すると、むきゅう、と声を上げながらイチがまた姿を消した。良い気味だ。 「なるほど、楽しいか」 「んな訳ないだろ」 「はは、七緒はまだ知らないからなー。ま、だからこそからかってて面白い」 「は? 知らないって、なにが」 「さーな。ま、一度位腹割ってイチと話したらいいんじゃねーかな」 けけ、と笑いながらまだ僕をからかおうとする桐式。なんだか腹は立つ。 「ま、いいか。それにしてもあのぶっきらぼうな七緒と友達になれるとは思わなかったな」 「ソウデスカ」 「ははは、照れんなよ。ま、コンゴトモヨロシク」 言って、桐式が左手で頬杖をしながら右手を差し出してくる。僕はその手に体を起しながら右手を差し出し、 「なんてな」 握手をしようとする桐式の手を、自分の手をサッと引いてかわすのだった。 「おいおい、ツンデレだなぁ。でもちょっとツンが長すぎるゾ」 そう言って桐式は笑うのだった。柔らかく、温かく、無垢な、そんな笑顔で笑うのだった。
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