そんなトホホなデートの翌日、事務所にいた秋山に、真理子から電話がかかってきた。 「もしもし、公平君?」 「やあ、どうかしたのかい?」 「昨日のことなんだけど、私、あなたに変なこととかしなかったわよね?」 真理子は申し訳なさそうな感じで言った。変なこと、といわれ真っ先に秋山の頭に浮かんだのは、酒に酔った際の真理子の乱れ具合だ。しかしそれが変なことかといわれれば、あえて指摘するほどのことでもないと思った。秋山は真理子の名誉のためにも、そのことは黙っておくことにした。 「変なこと? 別にしていないけど」 「そう、よかった。私、酔うとよく記憶がなくなっちゃうことがあるの。それで、あなたに何か迷惑を掛けたんじゃないかと思って……」 「ううん、全然そんなことはないよ。真理子さん、ちゃんと自分でタクシーに乗って家に帰って行ったしね」 「……公平君、今何て言ったの?」 「えっ? ちゃんと自分でタクシーに乗って家に帰って行ったしねって」 「ううん、その前」 「全然そんなことはないよ?」 「そうじゃなくて、そのすぐ後!」 「…………真理子さん?」 秋山は真理子が何を聞き返したいのかが分からなかった。今自分は、それほど重要なことを口にしただろうか、秋山の頭はその疑問でいっぱいになった。 「ちょ、ちょっと公平君ったら、どうしちゃったのよ。急に私のことを下の名前で呼ぶなんて、照れるじゃないの、もう!」 真理子は戸惑いながら、しかしどこか嬉しそうな口調で言った。それに輪を掛けるほどに戸惑ったのは秋山の方だった。 「ええっ、だって昨日、真理子さんがそう呼べって言ったんじゃない!」 「もう、男はそうやって人のせいにしないの! 格好悪いわよ。なんだか下の名前にさん付けなんて、昭和のアベックみたいだけど、まあいいわ。公平君が女の子を下の名前で呼べただけでも、大きな進歩だものね。じゃあ、また今度一緒に食事にでも行きましょうね。その代わり、今度はちゃんとあなたの方から私を誘ってよね」 「う、うん分かったよ。今度は男らしく、僕の方から君をデートに誘うよ」 「や、やだ公平君ったら気が早いんだから……あれは友達同士のただのお食事のつもりだったのに。デートだなんてそんな……。物事には順序ってものがあるんじゃなかったの?」 「ええっ、それだって昨日、真理子さんが……」 「まあ公平君がそう思ってくれているんだったら別にいいけど? 早く私にも、あなたとデートをしているんだって思ってもらえるように、公平君も頑張ってね。それじゃあね、バ〜イ」 「ちょっと、真理子さん、真理子さん!」 真理子は自分の言いたいことを言い連ねると、そのまま電話を切ってしまった。 (公平君、昨日一日で随分積極的になったみたい。何があったのかしら……ま、いっか。これは間違いなく、私達の恋が大きく前進したってことだものね) などと真理子は昨日の自分の醜態など完全に忘れ、一人幸せ気分に浸っていたのだった。 秋山は真理子の勘違いに、しばし呆然としてしまった。しかし秋山はふと思った。今自分は、高校の頃に憧れていたマドンナを下の名前で呼んでいる。自分は十六年前のあの頃よりも確実に成長している。秋山は、来るべき童貞喪失の日が決して遠くないことを確信していた。そしてそのお相手は勿論――。 「今の電話、真理子さんからですか?」 今日も応接間のソファに寝転がりながら、文庫本の推理小説を読みふけっていた森村が、顔を上げ尋ねた。自身のデスクの椅子に腰掛けていた秋山は、笑顔でその問いに答えた。 「うん、まあね」 それから秋山が、森村の発言に違和感を覚えるのに、そう時間はかからなかった。 「ちょっと待ちたまえよ。どうして君が真理子さんのことを下の名前で呼んでいるんだよ。図々しいじゃないか」 「だって真理子さんが言ったんですもん。新しい冷蔵庫が事務所に届いたあの日、先生の留守中に真理子さんが事務所に遊びに来たんです。その時に『森村君も私のことを気軽に真理子って呼んでいいからね』って」 「…………」 秋山は椅子をくるりと回転し、窓の外を見つめた。 「……先生?」 「森村君、ちょっとミックスジュースを買ってきてくれないかね」 「先生、怒っています?」 「そんなわけないじゃないか。ただ私はミックスジュースが飲みたいだけだよ」 「分かりました……じゃあ行ってきます」 森村は秋山の態度の変化に疑問を感じつつ、事務所を後にした。確かに秋山は、怒っていたわけではなかった。ただ、女性を下の名前で呼ぶということは、これほど常人にとっては容易なことなのだという事実を痛感していただけなのだ。やはりまだまだ、自分の童貞喪失への道は遠い――。秋山は人知れず、深いため息を一つ漏らしたのであった。
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