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作品名:童貞紳士の事件簿3 作者:木城康文

第7回   第6章 十六年前の真実
 それから数日後の日曜日、秋山と真理子は探偵事務所の最寄の駅前にある一軒の居酒屋『竜宮の使い』を訪れていた。ここは正真正銘、秋山が普段から通っている店で、とにかく料理の値段が安いことで有名な、チェーン店の大衆居酒屋である。前回の高級イタリアンの店とは違い、秋山にとってはホームともいえる場所だ。そのためもあってか、秋山の緊張も前回の食事のときよりも幾分和らいでいた。
「さてと、何頼もうかな?」
 秋山の対面に座っている真理子が、メニューを開きながら声を弾ませた。休日の夕食時とあって、店内のほぼ全ての客席が埋まっており、それぞれのテーブルからは活気のある笑い声が響いている。
 今回の食事も、真理子からの誘いだった。そして今度こそ必ず、秋山が普段通っている店に連れて行くようにと強く念を押していたのだ。当の秋山は、こんな安っぽい店に真理子を連れてきて、嫌われるのではないかと内心不安に思っていた。
「私、ここのトマトとモッツァレラチーズのサラダが大好物なのよね」
 突然の真理子の意外な発言に、秋山は面食らってしまった。
「新沢さんもこういう店に来ることがあるの?」
「ええ。会社の飲み会でもよく来るし、女子会なんかでもよく使ったりしているわよ」
「へえ、意外だな。僕はてっきり新沢さんは、もっとオシャレな店にしか行かないものだと思っていたよ」
「ちょっと、公平君。私のことをお嬢様か何かと勘違いしていない? 私ってこういう賑やかな雰囲気が大好きなんですからね」
 と、真理子はからかうような笑顔を見せた。その表情に安堵した秋山は、ずっと心に抱いていた一つの疑問を真理子にぶつけてみる決心がついた。
「あ、あの……新沢さん」
 その声に気付いた真理子が顔を上げる。
「実はその、この前食事に行ったときに話していたじゃない? ほら、高校の頃、僕が言った言葉で、十年前のあの事件の辛さから立ち直ることができたって。その言葉って一体何だったかなと思ってね……」
 秋山は右手で後頭部を掻きながら、目を逸らしつつ言った。実は秋山は、今日までずっとこのことが気になって、夜もろくに眠れなかったのだ。
「やっぱり覚えていなかったのね。そうじゃないかと思っていたのよ」
 真理子は口を尖らせて叱咤した。
「ご、ごめん」
「まあいいわ。教えてあげる。あれは高校二年生のある冬のことよ。当時、公平君は柔道部の主将で、私はそのマネージャーをしていたじゃない? 部活終わりに偶然部室で私達が二人きりになる機会があったのよ。そのときに私が、公平君に将来のことについて相談したの。その頃私は、芸能界からのスカウトを受けていて、昔からの夢だった出版業界とどちらの道に進もうか悩んでいたのよ。そうしたら、公平君がね……」
 秋山は真理子の次の言葉を、固唾を飲んで待っていた。
「本当にやりたいことをやったほうがいいんじゃないかな。そのほうが辛いことがあっても頑張れると思うし、って言ってくれたのよ」
「…………ええ、それだけ!?」
 その後に、真理子が言葉を続けるものだと思っていた秋山は、少し間を置いてみたが、どうやらこれで真理子の発言が終わりであることにようやく気が付き、思わず大声を上げてしまった。
「そうよ、どうして?」
「いや、てっきりもっと気の利いたことを言ったものだと思っていたからね」
「公平君が女の子に気の利いた台詞なんて言えるわけがないじゃない」
「…………」
 確かにそのとおりだ、と秋山は思った。しかし同時に、そんなごく一般的な助言をしたのであれば自分が覚えていないのも無理はない、とも思った。
「じゃあ君は、そんなありきたりな言葉で、人生のどん底から立ち直ったって言うのかい?」
 秋山は自分が感じた疑問を素直に真理子に尋ねた。すると真理子は柔和な笑顔を浮かべながら答えた。
「ねえ公平君。言葉ってね、『何を言われたか』だけじゃなくて『誰に言われたか』っていうのも、言われた側にとってはすごく重要なことなのよ」
 鈍感な秋山は、それが何を意味しているのか、全く理解していなかった。
「えっ、それってどういうこと?」
 そして真理子もまた、自分の発言が半ば秋山に対する告白になっていることに今頃になって気が付いた。
「ちょっ……な、何言わせるのよ、公平君のバカ!」
 真理子は分かりやすく動揺の色を見せた。周囲を見回し店員を見つけると、勢いよく右手を挙げ、その店員に大声で叫んだ。
「すみませーん! ビールの大ジョッキ二つお願いしまーす」
 その声に店員は、威勢のいい返事を返した。秋山は真理子の一連の様子を、ただ目を丸くして見つめていた。
「さあ、今日はトコトン呑むわよ。いいわね?」
 真理子は気合の入った、しかしどこかおどけた調子で言った。秋山はその勢いに気おされて、ただ機械的に返事をすることしかできなかった。
 それから小一時間もした頃、秋山は真理子に起きている明らかな異変に気付き初めていた。
「ねえ、こうへいくん……どうしてこうこうのころからずっと、わたしのことをしたのなまえでよんでくれないの?」
 真理子はまるで子猫のように、とろけるような甘える口調で秋山に尋ねた。完全に出来上がってしまっていたのだ。高校の頃に真理子に会って以来の秋山は、当然彼女と酒を呑んだ機会などは一度もなかった。従って真理子が酔うと、このように乱れてしまうことなど全く知る由もないことだった
「それはさ、ちょっと馴れ馴れしいと思ってね……」
 秋山はハンカチで額の汗を拭いながら答えた。何故なら秋山は、相当戸惑っていたからだ。普段はサバサバしていて、あまり女の部分を表に出さない性格の真理子が、これほど露骨に男に甘える姿など想像もしていなかったのだ。
「だってわたしぃ、ずっとしたのなまえでよんでもいいよっていっていたわよね?」
「う、うん。それはそうなんだけれどもだね……」
 秋山はこれまでの人生において、夫婦を区別するために、その妻を下の名前で呼ぶことこそあったが、それ以外で一度も女性を下の名前で呼んだことがなかった。もしそんなことをして、相手の女性に馴れ馴れしいと思われ、冷たい態度をとられてしまったら、もう一生立ち直れなくなってしまう、と秋山は考えていたのだ。
「そっか……こうへいくん、わたしのこときらいなんだ……」
 真理子はうつむいて、悲しそうにつぶやいた。
「そ、そんなわけないじゃない!」
「じゃあよんでみてよ、『まりこ』って」
 真理子は再び顔を上げ、秋山の顔を見つめた。その大きな瞳は涙で潤み、頬は淡い薄紅色に染まっている。僅かに首をかしげた切なげな彼女は、三十代半ばという年齢を全く感じさせないほど幼く見え、まるでまだ恋を知らない少女のような可憐さに満ちていた。秋山はその儚げな美しさに思わず息を呑んだ。
「ねぇ、はやくぅ〜」
 真理子は駄々をこねる子供のように体を揺すりながら、言葉を催促した。秋山は高鳴る胸の鼓動を感じつつ、声が裏返らないように腹にぐっと力を込めた。
「ま……まり……」
 なおも真理子は、潤んだ瞳で秋山の目をじっと見つめている。秋山はその大きな瞳という名の小宇宙に吸い込まれてしまいそうな錯覚に捕らわれながらも、何とか最後まで言葉を続けた。
「まりこ…………さん」
 秋山の往生際の悪さに、真理子は口を尖らせた。
「もう、『さん』はいらないの!」
「そんなことは一言も言わなかったじゃないか。僕はちゃんと下の名前で呼んだんだから、これでいいんだよ」
 秋山は照れ隠しのために慌てて目の前の箸を手に取ると、蛸ときゅうりの酢の物の小鉢から蛸をつまみ上げ、口の中に放り込んだ。このときの秋山の顔も、この蛸に負けないくらい真っ赤に染まっていたのは言うまでもない。
「まあいいわ。きょうはこれでゆるしてあげる。そのかわり、こんど『にいざわさん』なんてよんだら、にどとデートしてあげないんだからね!」
 と、真理子は両側の頬を軽く膨らませた。しかし秋山はそんなことより、真理子もこの食事をデートだと認識してくれていることに内心、歓喜していた。
「じゃあ、がんばったこうへいくんにごほうびをあげるね」
 そう言って真理子は、テーブル越しにぐいっと自分の顔を秋山に近づけた。秋山の胸の鼓動はさらに加速する。
「ねえ、めをとじて……」
 たっぷりと息を含ませ、囁くように真理子は言った。その表情は、先ほどまでの少女のようなそれとはまるで別のものになっていた。瞳を薄く閉じ、少しだけ口を開け、ふくよかな唇を誇示したその表情は、まさに男を惑わせる魔性の女そのものであった。真理子からはあの女性特有の甘く芳しい香りが漂い、秋山の鼻腔を、そして理性をかき乱していた。
「う、うん……」
 一体これから何をされるのか、それはいくら鈍感な秋山にも分かっていた。彼は言われるがままに、しっかりと目を閉じ、少しだけ唇を尖らせた。その唇は、緊張と興奮で小刻みに震えているのが分かる。
「はい!」
秋山の緊張が頂点に達したその時。真理子の快活な声とともに、テーブルに載せていた自分の右手に、何か平たいプラスチック状のものを掴まされたことに秋山は気が付いた。秋山は目を開けて、右手のものを見つめた。それは、先ほど店員が持ってきた、この店の伝票だった。秋山が真理子の顔を見ると、真理子はただイタズラな笑顔を浮かべて微笑むだけだった。
「あ、ありがとう……」
 秋山は自分のはなはだしい勘違いに赤面し、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「うふふ、どういたしまして」
 真理子は目の前のグラスを持つと、そこに注がれていたセックス・オン・ザ・ビーチをぐいっと一気に飲み干した。こうして秋山のトホホな夜は更けていくのであった。


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