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作品名:童貞紳士の事件簿3 作者:木城康文

第6回   第5章 十年前の真実
「ああ、刑事さん。まだ僕に何か御用ですか?」
 病院の一室に通された秋山達の前には、すでに増田翔太が椅子に腰を下ろしていた。三人もその対面に着席する。
「単刀直入に申し上げます。榊裕次郎さんを殺害したのはあなたですね?」
 秋山が静かに言った。
「……え?」
 増田は僅かに微笑を浮かべながらそれを聞き返した。
「だって僕にはアリバイがあるじゃないですか。あの時間に僕が榊さんを殺害するのは不可能ですよ」
「あなたはご存知ではなかったようですね。実はあの時間、別の駅で起こった人身事故の影響で、電車が三十分ほど遅れていたんですよ」
 秋山の言葉を聞いた増田は、その微笑から一転して眉をしかめた。
「つまりあの日、午後九時三分に銀座駅に到着予定だった日比谷線の電車が、九時三分ピッタリに到着するはずは無いのですよ。恐らくあなたはこれを使ったのでしょう」
 秋山はズボンのポケットから小型のICレコーダーを取り出し、おもむろに再生ボタンを押した。するとそこからは、電車が到着するアナウンスと共に、周囲の雑踏の音が流れてきた。一通りそれを聞き終えると、秋山は停止ボタンを押した。
「あなたはこれを電話口で流す事で、電話の相手である坂井さんに、自分が今銀座駅にいるものと錯覚させたのです。実際にはあなたは榊さんの家の近くで、新沢さんが家を出てくる様子を窺っていたのでしょう。あなたはこうして、榊さんを殺害するためにアリバイを工作したのです」
 秋山の話を聞き終えた増田は、何故かふっと場違いな笑顔を見せた。
「あれは単なるイタズラですよ。僕、普段からよく坂井さんにこき使われていたんです。それで、少し彼女をからかってやろうと思ってやっただけですよ」
 その気持ちは分からなくもない、と一瞬秋山は思ったが、すぐにそんなはずはないと思い直した。
「ではあなたは実際にはその時間、どちらにいらっしゃったのですか?」
「家にいましたよ」
「家、とおっしゃいますと……」
「そんなの自分の家に決まっているじゃないですか」
「榊さんの家、の間違いではありませんか?」
 秋山の疑念に満ちた態度に腹を立てた増田が、声を荒げた。
「いい加減にしてくださいよ! さっきから僕を犯人扱いして……。そこまで言うのなら証拠はあるんでしょうね。僕が犯人だという確固たる証拠は」
「ええ、勿論ありますよ」
 秋山は堂々とした口調でキッパリとそう言い切った。その明らかに自信満々な態度に、増田は思わず怯んだ。
「指紋が検出されたんですよ。現場にあったあのパスタの乗った皿から、あなたの指紋がね」
「……嘘だ」
「嘘じゃありませんよ。恐らくあなたは、自分でも無意識のうちにあの皿に触れてしまったのでしょう。ほかのところからは、全くあなたの指紋は検出されませんでしたからね」
「僕はそんなものには触っていない」
「何にです?」
「……え?」
「あなたは何に触れていないのですか? ご自分の口ではっきりとおっしゃってください」
 秋山の言葉の意図がよく分からなかった増田は、苛立ちを隠しきれない口調で言った。
「だから僕は……あのカルボナーラの皿には触っていません!」
 それから部屋には、数秒間の沈黙が流れた。
「聞いたね? 渋谷君」
「はい、しっかりと」
「森村君も聞いていたね?」
「はい、バッチリです」
 秋山は自分の左右に座っている渋谷と森村のほうを交互に振り返り、同意を求めた。益々その意味が分からなかった増田は、戸惑いながら言った。
「な、何なんだよ一体」
「今あなたは、自分が榊さんの死亡推定時刻前後に彼の家にいたことを自供したんですよ」
 増田は口を歪め、秋山に訝しげな視線を向けた。
「確かに現場のテーブルには、カルボナーラの乗った皿が置かれていました。ですがなぜあなたがそのことをご存知なのですか?」
「だからそれは……さっきあなたが……」
「いいえ、私は『パスタの乗った皿』としか言っていません。しかしあなたは、数あるパスタの種類の中から、迷うことなくそれがカルボナーラであると断言した。それはあなたがあの日あの時間に、榊さんの家にいたという紛れもない証拠です」
「それは……」
 増田は反論しようと試みたが、適当な言葉が何一つ浮かんでこなかった。
「説明していただけますか。なぜあなたがそんな時間に榊さんの家にいたのか」
「…………」
 そして増田はただうつむいたまま、黙り込んだ。
「それは自白と考えてもよろしいですね」
 増田は何も反応しなかった。秋山は気にせず言葉を続けた。
「動機は十年前この病院で起きた、あの医療ミス事件に関係していますね」
 一瞬驚いて秋山のほうを向いた増田だったが、すぐにまたテーブルとにらめっこの状態に戻ってしまった。
「あなたに会って欲しい人がいるんです。その人は今回の、そして十年前の事件に大きく関わっている人物です。そしてあなたは、彼女の事をよくご存知のはずです」
 秋山は席を立ち、部屋の引き戸を開けると、誰かを部屋の中へ促す仕草を見せた。そして部屋の中へ入ってきたのは真理子だった。増田はうつむいたまま、真理子の顔を見ようとはしなかった。
「公平君、どういうことなの? こちらの方は?」
 真理子はなぜ自分がこの場へ呼ばれたのか理解していないらしく、秋山にその真意を尋ねた。
「新沢さん。君はそこに座っている彼と、過去に面識があるはずだ。そして彼は、榊さん殺害の罪を君に着せようとしていたんだよ」
 真理子は目を見開いて驚き、じっと増田の顔を見つめた。しかし真理子には、その顔が誰なのか思い出すことができなかった。
「君が覚えていないのも無理はないよ。何せ君が彼と会ったのは十年前、彼がまだ小学生だった頃の話だからね」
「十年前……」
 真理子再び増田の顔を凝視した。そして何かに気が付いたようにハッとして、両手を口元へ移動した。
「翔太君……増田翔太君ね?」
 増田は、自分の名前を真理子がまだ覚えていたことに驚き、思わず真理子を顔を見つめた。
「そう。彼は十年前、君が書いた医療ミスの記事がきっかけで亡くなってしまった看護士の息子、増田翔太さんだよ」
「まだのうのうと記者を続けていたんですね。人一人の命を奪っておきながら……」
 増田は真理子を蔑むような嘲笑を見せた。真理子はただ視線を下に落として、その言葉を甘んじて受け入れていた。
「あなたは最近知り合った榊さんから聞いてしまったのでしょう。彼とあの十年前の事件との関わりを。それがあなたの積年の恨みを蘇らせ、彼を殺害する動機になってしまった」
「ええ、そうですよ。あの男と知り合って間もなくのことです。僕がT大学付属病院で看護士をしていると話したら、あの男も以前ここで研修医として働いていたことがあると言い出しましてね。その後ですよ。ここだけの話と言って、僕に十年前のあの話を打ち明けてきたんです。雑誌では氏名を伏せて公表されていた、医療ミスを起こした看護士である僕の母の個人情報をマスコミに売ったのは自分だとね! 当然僕が、その看護士の息子であるとも知らずにね」
 増田は声を荒げ、吐き捨てるように言った。
「その時にマスコミからもらった多額の謝礼金を元手に株を始め、今では不動産の家賃収入で裕福な暮らしをしていると、そう言っていました。この話を僕にしていたあの男は笑っていました。罪の意識なんてこれっぽっちも感じていなかった」
 秋山達は黙って増田の話に耳を傾けていた。
「それから少し経ってからあの男に、今本気で付き合っているという彼女の写メを見せてもらったんです。驚きましたよ。まさか母の命を奪った二人が付き合っていたんですからね」
 増田はあごを上げ、冷ややかな視線を真理子に浴びせた。
「あの男を殺す前日、二人で呑みに行った時に聞かされていたんですよ。翌日の夜九時に、奴とあんたが会うってね。しかもあんたが一方的に奴と別れたがっていて、その復縁が目的だって言っていましたよ。それを聞いたときに、今回の計画を思いついたんです。でもまさか、あの時にテーブルにあったカルボナーラでそれがばれるなんて考えもしなかった」
 増田は開き直ったような苦笑を浮かべた。
「増田さん。あなたに聞いて欲しいことがあります。十年前に起こった、あの事件の真実を」
 秋山の言葉に、増田はっゆっくりと秋山のほうを見やった。
「あの事件が医療ミスによるものであると新沢さんに告白してくれた人物というのはほかでもない……君のお母さんだったんだよ」
「公平君、どうしてそれを……」
「牧野編集長から全て話は聞いたよ。君のお母さんは自分の罪の意識に耐えかねて、当時病院を取材していた新沢さんに告白したんだ。手術中の自分の判断ミスによって、患者の死の原因を作ってしまったことをね。そして彼女はそのことを、実名で公表しても構わないと、新沢さんにそう言ったんだ」
 増田は目を見開いて真理子を見つめた。しかし真理子は、増田の顔を直視することができず、視線を床に落としたままだった。
「それでも当時新人だった新沢さんは、編集部の反対を押し切ってまでそれを匿名のまま公表することにしたんだ。それを公表しては、君のお母さんが周囲の批判に晒されることが目に見えていたからね」
「でも、あんたが家に謝罪に来た時には、そんなこと一言も言わなかったじゃないか……」
「そんなことを打ち明けたところで、当時幼かった君の心が救われるはずがない。そんなことはただの自己弁護にしかならない。新沢さんはそう思ったんだよ。それから彼女はずっと、君のお母さんの死の責任を背負ったまま生き続けてきたんだ」
「嘘だ……。そんなの、すぐに忘れたに決まっている。口でなら何とでも言えるさ」
 増田は真理子から目を逸らし、吐き捨てるように言った。
「嘘じゃない! 君のお母さんが亡くなってから十年間ずっと、命日の前日になると欠かさずその墓前に花を添え続けてきたのは……この新沢さんなんだからね」
 秋山の言葉に驚いた増田は、再び真理子の方に目を向けた。
「どうして……そのことは編集長にも誰にも言っていないはずなのに……」
「それは牧野編集長もまた、君と同じ日に、彼のお母さんの墓前を訪れていたからさ。勿論、君と同じ目的のためにね。君は丁寧に墓を拭いた後、いつまでも熱心に墓前で手を合わせていたと牧野編集長が言っていたよ。命日の前日を選んだのは、万が一増田さんと顔を合わせることで、彼に当時の忌まわしい記憶を思い出させたくなかったからだね?」
 真理子はただ小さくうなずいた。
「彼女はずっと苦しみ続けていたんだ。人の命を奪ってしまったのではないかという罪の意識に。そしてそれから逃げることなく、しっかりと正面から向き合ってきた。それは彼女の十年間の行動を見れば、君にも分かってくれるんじゃないかな」
 秋山は優しく諭すように増田に問いかけた。すると増田は突然下を向き、小さな嗚咽を漏らし始めた。その瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れている。それは、彼が十年間抱き続けてきた恨みという名の冷たい氷が、涙となって溶け出していることを表していた。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい」
 真理子は深々と頭を下げた。その声は涙で震えているのが、ここにいる全員が分かった。その心からの謝罪の言葉を聞いた増田は、一層大きな嗚咽を上げ、いつまでも後悔の涙を流し続けたのだった。


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