その翌日、朝一番に秋山は真理子と連絡を取るべく、携帯を手にとった。数回のコールの後、真理子が電話にでた。 「もしもし、公平君?」 「うん。ごめんね、こんな朝から電話しちゃって」 「ううん、いいのよ。どう、あれから何か分かった?」 「ごめん、それはまだ……」 「そうよね、ごめんなさい。実は不安で、昨日はあまり眠れなかったの。ねえ、私、逮捕されちゃったりしないわよね?」 真理子は不安な気持ちを秋山に打ち明けた。 「大丈夫だよ。新沢さんは何もしていないんだから。心配することはないよ」 秋山はそんな真理子を安心させようと、優しい声で言葉をかけた。 「ありがとう……。それで、何か用?」 「実は新沢さんに、一つ聞きたいことがあってね。二十三日の午後九時に、君が榊さんと会うことを、事前に誰かに話したりはしなかったかい?」 「……いいえ。誰にも言っていないわ」 「じゃあ、電話の内容を誰かに聞かれたりはしなかったかい?」 それから数秒間考えた後、真理子が答えた。 「一人だけ心当たりがあるわ。確認してみるから、また後でこっちからかけ直してもいいかしら」 「分かった。じゃあ、待っているからね」 そして秋山は、真理子との電話を切った。 「心当たりがあるって、いったい誰なんでしょうね」 またもいつの間にか通話口のすぐそばに来ていた森村が言った。 「だから君は、人の話を盗み聞きするんじゃあないよ!」
秋山との電話の後、真理子はいつものように帝文出版第一編集部へ出社した。編集部へ入ると、脇目も振らず一人の男の前へ歩み寄る。 「ああ、真理子さん。オザーッス(おはようございます)」 その男とは、前田のことだった。真理子の存在に気がついた前田は、ひどく軽い挨拶をした。真理子は前田に顔をぐっと近づけて、他人には聞かれないように小声で言った。 「ねえ前田君。何か私に隠していることはない?」 「えっ、なんスか急に」 いきなり凄みを利かせて自分に詰め寄ってくる真理子に、前田は少し動揺しているようだ。 「『電話の件』って言えば分かるかしら」 「電話の件……?」 前田は数秒考えた後、何かを思い出したようにハッとしてこう言った。 「ひょっとしてあのことッスか? オレが彼女に、真理子さんの新しい携帯の番号を勝手に教えちゃったこと」 自分の想像していた回答とは違う答えが返ってきたことに、真理子は思わず面食らってしまった。そしてすぐにその真意を尋ねた。 「どういうことよ」 「オレの彼女に相談されたんスよ。その彼女の知り合いが、真理子さんの新しい携帯番号が分からないから、連絡を取れなくて困っているって。それで俺が彼女に番号を教えて、その知り合いに伝えてもらったんス」 「その彼女の知り合いって誰か聞いた?」 「確か、榊裕次郎とか言っていたと思うんスけど」 「ちょっ……! あんただったのね。あの人に私の新しい携帯の番号を教えたのは」 「え? 何かマズかったッスか?」 「不味いわよ! あんたのせいで私が今どれだけ大変な目に遭っているか……」 と、真理子は右手を額に押し当て、軽いため息をついた。 「何かあったんスか?」 「まあ、それはともかく。じゃあ私と彼の電話の内容を盗み聞きしていたのもあんたなのね?」 「何のことッスか?」 「それは違うの?」 「はい、何のことだか」 「嘘じゃないでしょうね」 「ほ、本当ッスよ」 前田は真理子の剣幕にたじたじといった様子だった。当てが外れた真理子は、また一つ小さなため息をついた。
「というわけで、やっぱり誰にも電話の内容は聞かれていなかったみたい」 真理子は再び、秋山と連絡を取っていた。 「ところで、その前田君の彼女っていうのは、何ていう人なんだい?」 「志田愛美って人ですって。何でも、丸の内でOLをしているそうよ」 「えっ、OL?」 「どうかしたの?」 「う、ううん。何でもないよ。分かった、ありがとう。また何か聞きたいことがあったら連絡させてもらうよ」 そして秋山は、電話を切った。 「新沢さんの身近なところに、こんなに意外な接点があったんですね」 いつものように電話のそばで、内容を盗み聞きしていた森村が言った。 「…………」 「やっぱりクラブでホステスをしているってことは、彼氏には言いにくいものなんですかね」 「さあねえ。そういうものなのかねえ。私にはよくわからんねえ」 秋山はもう注意するのを諦めたらしく、ただ投げやりな返事を返した。 「新沢さんが榊さんとの電話の内容を誰にも話していないとなると、一体誰が犯人ってことになるんですか?」 「う〜ん……。ということは、電話の内容を誰かに話したのは、榊さんの方だったのかもしれないねえ」 秋山は渋い顔をしながら腕を組んだ。 「じゃあ、榊さんが新沢さんと会う約束を取り付けた二十二日の午後二時ごろから、死亡推定時刻である二十三日の午後九時までの彼の足取りを調べる必要がありますね」 「じゃあ今日も、彼に助けてもらうとするかね」 秋山は再び携帯を手に取った。
連絡を取ってから三十分もしないうちに、渋谷が事務所へやって来た。 「悪いねえ、君の都合も考えずに呼び出してばかりで」 「いいんですよ。捜査だって言えばいつでも出られるんで全く問題無しですよ」 渋谷は笑顔で答えた。 「それで、榊さんの足取りについては調べてきてくれたかい?」 「バッチリですよ。榊さんは新沢さんとの約束を取り付けたあと、明日の彼女との食事に必要なものの買い物に出かけています。彼の財布から九月二十二日の日付が入ったレシートがいくつか発見されていますから、間違いありません。その翌日には、凶器となった花瓶と薔薇の花束を購入しています」 渋谷は、そのレシートが写った写真を秋山に手渡した。 「高級ワインにパスタ用の麺、各種食材に食器類なんかも買っているね……ん?」 秋山は決して見過ごせない物をレシートの中から見つけた。 「コンドームまで買っているじゃないか! まさかこの男、復縁したらあわ良くば、その日に結ばれようとしていたのかね。かぁ〜、図々しいったらありゃしないね」 秋山は顔をしかめた。 「まあ仲直りの後のセックスは普段よりも興奮するものですから、分からなくはないですけどね」 渋谷のこの意見に、勿論そんな経験があるはずもない秋山は、共感することができず、ただ心の中で指をくわえて羨ましがることしかできなかった。 「それから榊さんは、その日の夜、例のクラブ『アフロディーテ』を訪れています」 「ああ、それは志田さんも言っていたね」 「彼は『増田翔太』という人物と二人で、この店にやって来ています。これは、店の従業員の多くが目撃しています」 「その彼は一体、どういう人物なんだい?」 「増田翔太。二十二歳。彼はT大学附属病院の神経内科で看護師をしています」 「じゃあその彼が、真理子さんと会うことを事前に聞いていた可能性はあるね」 「本庁も我々も、女性関係にばかり気を取られて男にはノーマークでしたからね。ではこれから、話を伺いに行ってみますか?」 「そうだね。行ってみようか」 秋山と渋谷は事務所を出ようと、出口へ移動した。当然森村も、彼らの後に続いた。しかし秋山が、森村の歩を制した。 「森村君。悪いけど君は留守番していてもらえるかね」 「ええっ、どうしてですか?」 「だって今日は新しい冷蔵庫が事務所に届く日じゃないか」 「ああ、そうでしたっけ」 「ここの冷蔵庫、壊れたんですか?」 二人の会話から事態を推測した渋谷が尋ねた。 「そうなんだよ。冷えたミックスジュースが飲めなくなるのは私にとっては死活問題だからね」 秋山は大げさに言った。 「分かりました。その代わり、どんなことがあったのか後で教えてくださいよ」 「ああ、いいとも」 そして秋山と渋谷の二人は森村を事務所に残すと、渋谷の乗ってきた車に乗り、一路T大学附属病院を訪れた。T大学附属病院は、病床数七百を誇り、一通りの科が揃っている大病院だ。 二人はエレベーターで神経内科がある三階へ向かうと、渋谷が警察手帳を手に、受付の女性に要件を伝えた。 「すみません。私、警視庁捜査一課の渋谷と申します。こちらで働いている看護師の増田翔太さんにお話を伺いたいのですが、増田さんはいらっしゃいますか?」 受付の女性は、突然の警察の訪問ににわかに驚いた後、すぐに増田に連絡を取るため、受付の奥へ消えていった。それからすぐに秋山は、通りすがりの白衣を着た一人の女に声を掛けられた。 「もしかして秋山君じゃない?」 どこか聞き覚えのある気だるい声に、秋山は悪寒を覚えた。声のした方を見やると、そこにはじっと自分を見つめている一人の女がいた。 「さ、坂井美保……!」 秋山は思わずたじろぐと、目の前の女を力いっぱい指差した。突然の大声に、ホール内の視線は一斉に秋山に向けられた。 「ちょっと、いきなりそんな大声でフルネーム呼ばないでくれる?」 その女とは、真理子の高校時代からの親友である坂井美保だった。なぜ秋山がこれほどまでに動揺しているかというと、彼は高校時代から、美保のことが苦手だったからだ。歯に絹着せぬ物言いをする彼女に、秋山は目に見えない圧力のようなものを感じていたのだ。高校時代の美保が、秋山の女性恐怖症の症状を助長させてしまったと言っても過言ではないほど、彼にとって彼女は、天敵と呼ぶにふさわしい人物だった。 「いや、ごめんごめん。あまりにも急なことで、つい驚いてしまってね。ところでどうして君がこんなところにいるんだい?」 秋山は何とか動揺を押し殺し、美保に尋ねた。当然秋山は、美保のことを女としては見ていないため、接していて緊張するということはない。まあ全く別の意味で、圧力を感じることはままあるのだが。 「どうしてってここが私の職場だからに決まっているじゃない。この格好を見て分からないの? まったく探偵が聞いて呆れるわね」 美保は腕を組みながら、秋山の観察眼の無さを嘲笑した。この女は変わっていない――。秋山はこの時そう悟った。 「それで、秋山君の方はどうしてこんなところにいるのよ。見たところどこか病気ってわけでもなさそうだけど」 今度は美保の方から、秋山に質問を投げかけた。 「ちょっとある事件の捜査でね」 「言っておくけど、私は罪なんて犯していないわよ。まあ犯しているとしたら、私のこの美貌くらいかしら」 と、美保はうっとりとした表情を浮かべ、軽く右手を頬に当てた。秋山はなんと言っていいか分からず、ただ無表情のまま美保を傍観しているだけだった。そんな秋山を見て、美保が言った。 「ちょっと、冗談なんだから笑いなさいよ」 「……あはは、ごめん」 秋山は引きつったぎこちない笑顔を見せた。しかしもし本当にそのことを指摘していたら、じゃあ私が美しくないっていうの、とでも凄まれていたことを秋山は理解していた。これが自分にできる最善の選択だったのだ。秋山はそう自分に言い聞かせ、その苛立ちをグッと飲み込んだのだった。 「僕が増田ですが、何か……」 いつの間にか秋山達のそばには、白い制服を着た一人の青年が立っていた。美保のあまりの存在感に呆気にとられていた二人は、青年に話しかけられるまで、そのことに全く気がつかなかった。 「榊裕次郎さんが殺害された件で少しお話を伺いたいのですが」 渋谷が言った。 「えっ、榊さんが殺されたって……いつのことですか?」 「ご存知ありませんでしたか。二十三日の午後九時ごろ、自宅のリビングで……」 「そう……ですか。それではこちらへ」 増田は秋山達を、誰もいないとある一室へ案内した。 「なるべく手短にしてよね。こっちだって忙しいんだから。ねえ、増田君」 部屋へ入ろうとしていた彼らに、なぜか後ろから付いてきていた美保が釘を刺した。 「できるだけ早めに終わらせるから」 秋山はできるだけ自然な笑顔で返事をすると、部屋のドアを閉めた。増田はテーブルを挟んだ向かい側の椅子に、秋山達を促した。彼らが席に着いたのを見届けると、増田も席についた。 「それではお伺いします。あなたは二十二日の夜、榊さんと一緒にクラブ『アフロディーテ』を訪れていますね?」 渋谷が尋ねた。 「ええ、確かに二十二日は、彼とそこへ行きました」 「その時に、翌日の榊さんの予定を彼の口から直接聞きはしませんでしたか?」 「いいえ、そんなことは聞いていません」 増田は首を横に振りながら、顔色を変えずに答えた。 「ではあなたと榊さんは一体どういったご関係なのですか?」 今度は秋山が尋ねた。 「僕と榊さんは三ヶ月ほど前に、あるオンラインゲームのオフ会で知り合ったんです。その時に意気投合して、それからよく一緒に遊ぶようになったんです」 「それでは二十三日の午後九時ごろ、あなたはどこで何をしていましたか?」 「あの、ひょっとして僕は犯人だと疑われているのでしょうか?」 増田は不安げに尋ねた。 「とんでもない。あくまで形式的なものですから」 秋山は笑顔でそれを否定した。 「銀座駅で電車を待っていた頃だと思います。ここから家に帰る途中でしたので」 「それを証明してくれる方はいらっしゃいますか?」 「……そういえば、午後九時ごろに坂井さんに電話をしました。薬品棚の鍵をかけたか不安だったので確認して欲しいって」 なるほど、と秋山。そしてしばしの沈黙。 「あの……聞いてもいいですか?」 増田が恐縮しつつ渋谷に声を掛けた。 「榊さんは一体どうやって殺されたんですか?」 「部屋にあった花瓶で、後頭部を殴打されたことによる出血死です」 「じゃあ、生けてあった花ごと彼を花瓶で殴ったんですか?」 「ええ」 「それじゃあ、犯人はよっぽど彼に対して頭にきていたんですね。あの人、女遊びが激しかったから、その中の誰かに殺されたんじゃないですか?」 やはり増田も、愛美と同じ見解を述べた。 「分かりました。ご協力ありがとうございました。もしまた何かお聞きしたいことがありましたら、伺わせていただきますのでご了承ください」 秋山達が部屋を出ると、増田は軽く一礼して廊下の奥へ消えていった。 「あら、終わったの?」 それと入れ違いに、美保が廊下の奥からこちらへやって来た。 「ちょうど良かった。ちょっと坂井さんに聞きたいことがあるんだけど」 秋山が、心無しか怖々とした口調で言った。 「私はやっていないわよ」 「そうじゃなくて。二十三日の午後九時ごろ、増田さんから君に電話があったっていうのは本当?」 「ええ、確かにあったわ。銀座駅にいるっていう彼から。薬品棚の鍵がちゃんとかかっているか確認して欲しいって」 「でもそれが、本当に銀座駅から掛けてきたかどうかは分からないよね」 「そんなことないわよ。だって電話口から、『銀座駅に九時三分到着の電車が参ります』っていうアナウンスが聞こえてきたもの。周囲の雑音だって聞こえてきたから間違いないわよ」 「そう……分かった。ありがとう」 秋山達がその場を去ろうとすると、美保が何かを思い出したように言った。 「そう言えば、増田君からちょっと気になることを聞いたのよね」 「どんな?」 「増田君、毎年亡くなったお母さんの命日になると、母親のお墓参りに行っているんですって。それで毎年必ず誰かの手によって、そのお墓が綺麗に掃除された上、墓前に花が供えてあるらしいのよ」 「彼の親戚の誰かがしてくれたんじゃないの?」 「彼もそう思って、めぼしい親戚にあたってみたらしいんだけど、全員知らないって言うのよ」 「確かにそれは奇妙な話だねえ」 秋山は顎に右手を当てた。 「でも、今回の事件とは全く関係なさそうですね」 渋谷が呑気な口調で言った。 「貴重な情報をありがとう。それじゃあ私達はこれで失礼するよ」 こうして秋山達は、T大学附属病院を後にした。 「どうやら増田さんは、犯人ではなさそうですね。彼には榊さんを殺害するような動機もないようですし」 帰りの車中で、車を運転していた渋谷が言った。 「渋谷君。増田さんについて、もう少し詳しく調べてみてくれないかねえ」 しかし秋山は、渋谷とは違う意見を持っているようだった。 「何か気になることでも?」 「彼に凶器の花瓶の話をした時だよ。部屋に花瓶があったからといって、必ずしもそこに花が生けてあるとは限らないだろう? しかし彼は、さも当たり前のように『生けてあった花』という言葉を口にした。ひょっとしたら、彼は知っていたんじゃないかね。榊さんが殺害されたあの日、部屋の花瓶に、薔薇の花が生けてあったことを」 「なるほど。もしそうだとしたら、彼はやはり、事前に榊さんが新沢さんと会うことを知っていて、嘘をついたことになりますね」 「まあ単なる推測だけど、証拠が少ない今は、少しでも気になったことは積極的に調べてみないとね」 「分かりました。増田翔太について詳しく調べてみますので、一日ほど時間をください」 「頼んだよ」 藁にもすがる思いで、秋山は渋谷に、増田翔太に関する調査を依頼した。
翌日、渋谷は増田翔太の情報を持って、秋山探偵事務所へやって来た。 「どうやら増田さんが言っていた、オンラインゲーム内で榊さんと知り合ったというのは本当のようです。ゲームの運営会社に頼んで、彼らのログイン情報を調べてもらったところ、彼らの持っているパソコンの情報と一致しました。彼らのゲーム仲間にも話を聞いてみたのですが、二人はオフ会で初めて会ったと言っていたので間違いないと思います」 秋山は自身のデスクに座り、黙って渋谷の話に耳を傾けていた。 「彼は生まれた時からずっと母子家庭で育っています。母親は、彼が生まれる前には既に父親とは離婚していたようです。そしてその母親も、今から十年前に自殺して亡くなっています」 「自殺? 一体何があったの」 「今から十年前にT大学附属病院で、臓器複数同時移植手術が行われたのを覚えていませんか? それが医療ミスで失敗に終わって、病院側が世間やマスコミからからひどい糾弾を受けたやつです」 秋山は数日前に、この話を真理子から聞いたばかりだったのを思い出した。 「ああ、覚えているよ」 「彼の母親は当時T大学附属病院で看護師をしていて、その彼女が医療ミスの直接的な原因を作ってしまったんですよ。このことがマスコミにバレて、家には連日マスコミの連中が昼夜を問わず押しかけていたそうです。精神的に追い詰められた彼女は、首を吊って自らの命を絶ってしまったというわけです」 「どうやら新沢さんと増田さんの接点が見えたみたいだね」 「え、どういうことですか?」 秋山は真理子から聞いた十年前の話を渋谷にも話した。 「では増田さんは、あの事件が医療ミスによるものだと最初に公表した新沢さんに復讐するために榊さんを殺害し、その罪を彼女に着せようとしている、ということですか?」 「その可能性はあるね」 「でもあれは、十年も前の話じゃないですか。それに彼女に罪を着せるためだけに、何の関係もない友人である榊さんを殺害したりするでしょうか」 「…………」 確かに渋谷の言うとおりだ、と秋山は思った。真理子にそれほどの恨みを持っていたのなら、もっと早いうちに何らかの行動を起こしているのではないか。 「やはりこれは単なる偶然なのではないでしょうか」 偶然――。本当にそうなのだろうか。秋山はどうしてもそれが単なる偶然であると割り切ることができなかった。十年前のあの事件について、もっと詳しく知る必要があるのではないか。そう考えた秋山は、渋谷達と共に帝文出版を訪れることにした。 帝文出版にやってきた三人は、受付の女性に要件を告げた。エントランスの一角にある応接間のソファに案内された三人は、そこで担当者が来るまで待たされることになった。 「お待たせしました。私、第一編集部の編集長をしております牧野と申します。何でも十年前の記事について詳しく話を聞きたいということですが」 数分後、三人の元へやってきたのは、真理子の上司である牧野裕之だった。牧野から差し出された名刺を受け取りながら渋谷が言った。 「私、警視庁捜査一課の渋谷と申します。今回こちらに伺ったのは、十年前にT大学付属病院であった医療ミスの記事の件で詳しくお話を伺いたいと思いまして」 「分かりました。それではどうぞこちらへ」 とある一室へ招かれた三人は、牧野から十年前の事件の真実を聞いた。それは秋山達にとって、まさに思いもよらない事実だった。 再び事務所に戻った秋山達は、もう一度今回の事件について考えてみることにした。 「これで増田さんには、榊さんを殺害する動機があったことがはっきりしたようだね。彼は恐らく、『あのこと』を榊さんから直接聞いてしまったんだろう。それで、十年前の恨みが沸々と蘇ってしまったんだろうね」 「しかし彼には、被害者の死亡推定時刻にアリバイがあります」 「そうなんだよねえ」 自身のデスクの椅子に腰掛けていた秋山は、渋い顔をしながら両手を頭の後ろで組んだ。 「アリバイって何のことですか?」 応接間のソファに座っていた森村が尋ねた。 「ああ、君にはまだ話して無かったね。増田さんとの会話の内容を」 秋山は増田から聞いた事件当日のアリバイのことを全て森村に話した。 「ええ、それおかしいですよ」 「何が?」 森村の物言いに、秋山はただ生返事を返した。 「その日は僕、友達と電車に乗って秋葉原まで晩御飯を食べにいったんです。その帰りの午後九時ごろに電車に乗ろうとしたら、どこかの駅で人身事故があったらしくて、電車が三十分ぐらい遅れていたんですよ」 森村の発言の重要性に気が付いた秋山は、思わず席を立ち上がった。 「それ本当かい?」 「間違いないですよ。おかげで帰りはぎゅうぎゅう詰めの満員電車で大変だったんですから」 「どうしてそういう大事な事をもっと早く言わないんだよ!」 「そんなの先生が話してくれなかったからじゃないですか」 「渋谷君、鉄道会社にこのことを確認してもらえるかい?」 「分かりました」 渋谷は何故か秋山に敬礼すると、駆け足で事務所を後にした。
それから小一時間もしたころ、秋山の携帯に渋谷からの連絡があった。 「秋山さん、森村君の言うとおりでしたよ。二十二日の午後八時半頃、霞ヶ関駅で人身事故があったため、午後九時三分に銀座駅に到着予定の日比谷線の電車は、三十分ほどの遅れが出ています」 「これでアリバイも崩れたようだね。ただ肝心の証拠が無いんだよね」 「証拠といえば、秋山さんに言っておかなければいけないことがあるんです」 渋谷の深刻そうな口調に、秋山はただならぬ危機感を覚えた。 「実は現在我々は、凶器の花瓶についていた指紋が犯行の決定的な証拠として、新沢真理子さんを立件する方向で動いているところなんです。結局、犯行時刻前後に怪しい人物を見たという目撃者も見つかりませんでしたし、もう余り時間がないんですよ」 秋山はしばらく返事をしなかった。 「……秋山さん?」 「渋谷君。ちょっと彼に鎌を掛けてみようと思うんだ。協力してもらえないか」 そして秋山は、その発言の真意を詳細に渋谷に伝えた。渋谷はそれを了承し、三人は再び増田翔太と話をするべく、ある一人の人物を連れ、T大学付属病院へ向かったのだった。
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