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作品名:童貞紳士の事件簿3 作者:木城康文

第4回   第3章 マドンナは殺人犯!?
 真理子との食事から三日後、秋山は未だにあの時の失態の数々を後悔していた。自身のデスクに座り、何度も定期的に大きなため息をついている。
「先生、どこか体の具合でも悪いんですか?」
 森村が秋山の異常ぶりを察知し、そう尋ねた。すると秋山は
「え? まあ、これも病気と言えば病気なのかもしれないね、ははは……」
 と、力なく笑った。その言葉の意味がよく分からなかった森村は、訝しげに首をかしげた。
(ああ、きっとこれでまた愛想を尽かされたんだろうな……)
 秋山はこの時、そんなことを考えていた。これまでの人生において、秋山にも数度、女性と二人きりで食事に出かけたという経験がある。しかしその都度、真理子との食事のとき同様、挙動が明らかに不審だったり、普通ではありえないような失態を繰り返してしまい、相手の女性に愛想を尽かされてしまっていたのだ。当然、二度とその女性の方から連絡が来ることはなかった。秋山にも自分から連絡をするほどの勇気もなく、二人の関係がそれ以上進展することは一度としてなかった。
 そして秋山にはもう一つ、気がかりなことがあった。食事の時に真理子が言っていた、彼女を絶望の淵から救ったという自分自身の言葉のことだ。秋山はどんなに当時の記憶を辿っても、その言葉とやらが思い出せなかった。そのせいで昨日はあまりよく眠れないほどだった。
 秋山がもう一度深いため息をついたその時、彼の携帯の着信音が鳴った。秋山はテーブルに置いてあった携帯を手に取り、液晶画面に視線を落とした。そこに映っている名前を見て、秋山は思わず生唾を飲み込んだ。そして大きく一つ深呼吸をすると、震える指先で通話ボタンを押した。
「も、もしもし」
「あ、公平君……?」
「うん。そうだけど」
 真理子からだった。しかしその声には、いつもの彼女らしい明朗さがなかった。
「実はちょっと、相談したいことがあって……」
「え、何? なんでも言ってよ」
 それから数秒、真理子は黙ったままだった。本当に打ち明けるべきか悩んでいたのだろう。そして彼女は驚愕の一言を口にした。
「私、殺人事件の容疑者にされちゃったみたいなの」
「……え?」
「さっき警察の人が来て、色々聞かれたのよ。私が昨日の夜に会っていた人が誰かに殺されたんですって。私、犯人じゃないって言ったんだけど、でも……あまり信じてくれなかったみたいで……」
 真理子はひどく取り乱している様子だった。
「落ち着いて、新沢さん。もっと詳しく話してくれないと分からないよ」
「う、うん……」
 そして真理子は、ゆっくりと昨日の夜の出来事を語り始めた。

 九月二十三日の夜、午後九時。真理子は六本木の閑静な高級住宅街の一角にある、一件の豪邸の前に来ていた。勿論、自分自身の苦い恋愛を清算するためだ。真理子は意を決して、正門にあるインターホンを押した。
「はい」
 数秒後、聞き慣れた男の声がインターホン越しに聞こえてきた。
「私よ。真理子」
 真理子は感情のない声で、自分の名を告げた。
「待っていたぞ。入れよ。鍵は開いているから」
 真理子はおもむろに玄関の扉を開くと、家の中へ足を踏み入れた。すると、一人の男が彼女を出迎えに、玄関へやってきた。
「上がれよ。ちょうど今、お前のために食事を用意したところなんだ」
「…………」
 この男こそ、真理子の元恋人で、名前を『榊裕次郎』といった。榊は真理子を家の中へ促すと、真理子は渋々それに続いた。
 廊下の先にあるリビングダイニングのテーブルには、皮肉にも先日秋山と食べたばかりのカルボナーラが二人分用意されていた。出来立てなのか、皿からは白い湯気が立ち昇っている。そしてそのテーブルの中央には、白い花瓶に十数本の薔薇が生けてあるのが見えた。花を見つめる真理子の視線に気づいた榊は、白い歯を見せながら言った。
「お前が来るからついさっき買ってきたんだよ。お前のような極上の女には、やはり薔薇がふさわしいと思ってな」
 付き合っていた当時は気にならなかったこの男の歯の浮くような台詞も、気持ちが醒めてしまった今、真理子には嫌悪以外の感情は何一つ湧き上がってこなかった。
「私、薔薇って嫌いなのよね。なんだかお高く留まっているみたいでいけ好かないわ」
 真理子は吐き捨てるように言った。
「言うねえ。お姫様」
 榊は真理子の態度に思わず苦笑した。
「ねえ、あの花、水切りした?」
 真理子が、まじまじとテーブルの薔薇を見つめながら言った。
「水切りって何だよ」
「やっぱりね。あなたが水切りなんてするわけがないと思ったわ。ねえ、ハサミある?」
「ああ、あるけど」
「じゃあ持ってきて」
 榊は言うとおりにリビングを出ると、ハサミを持って戻ってきた。真理子は花瓶を両手でしっかりと持ち上げ、それをキッチンの流し台へ運んだ。そしてシンクに置いてあった桶に水を注ぐと、その中で薔薇の花の茎を次々と切り始めた。
「何をやっているんだ?」
 真理子の隣で、その様子を眺めていた榊が尋ねた。
「水切りよ。こうして水の中で、花の茎の先端部分を斜めに切っているの。そうすることで水を吸収する部分の表面積が増えて、花が長持ちするのよ」
「へえ、よく知っているな。お前のそういう家庭的な部分、好きだぜ」
 と、榊は馴れ馴れしく、真理子の肩を抱いた。真理子は無言でその手を振りほどいた。
「これでいいわ」
 すべての花の水切りを終えた真理子が言うと、花瓶を元あったテーブルの上に戻した。
「さあ、今度こそ飯にしようぜ」
榊は、真理子を食卓へ促した。
「いいえ、私はあなたと話をしにきたの。食事をしにきたわけじゃないわ」
「だから食べながら話せば……」
「もう今後一切、私に連絡してくるのは止めて」
 真理子は榊の言葉を遮り、キッパリとそう言い切った。
「おいおい、いきなりだな。一体俺の何が不満なんだよ」
「知らないとでも思っていたの? あなたが私以外にも、何人もほかの女と付き合っていること」
 冷ややかな視線を浴びせながら、真理子が言った。しかし榊は顔色一つ変えずに平然とこう答えた。
「あいつらは全員ただのお遊びさ。本当に愛しているのはお前だけだぜ、真理子」
 そして僅かに微笑むと、その顔をぐいっと真理子に近づけた。真理子は反射的に自分の顔を背けた。
「その考え方が嫌なの。私は、私のことだけを見ていてくれる人がいい。あなたとは根本的に合わないのよ」
「いいじゃねえか、ちょっとぐらい。それに俺と結婚すれば、一生金には困らない生活ができるんだぜ? 好きなものなら何だって買ってやるよ」
「馬鹿にしないでよ! 私はあなたに養ってもらわなくたって生きていけるんだから。それに私にはもう新しく好きな人ができたの。その人はあなたと違って、女に対して真摯に接してくれる人なんだから」
「嘘だな。俺よりいい男なんてそういるものじゃない。俺を諦めさせるための口実だろう。そんなことで俺がお前を諦めるとでも思っているのか? ああ!?」
 榊は声を荒げ、真理子の腕をつかんだ。
「嫌! 放して!」
「いいか、お前がどんなに逃げても、俺はお前を追い続けてやるからな! お前を幸せにできるのは俺だけなんだ。必ずお前を俺のものにしてみせる」
「止めて! 放して!」
 真理子は強引に榊の手を引きはがすと、慌てて玄関へ駆け出した。
「真理子!」
 榊の制止を無視し、真理子は外へ飛び出した。そして急いで近くに停車していた自分の車に乗り込むと、エンジンをかけ車を発進させた。そして先ほどつかまれていた左腕を見つめた。真理子が榊との別れを決意したもう一つの理由がこれだった。榊は自分に都合が悪いことがあると、女に手を挙げる癖があった。真理子はそれが怖かったのだ。
 これが、真理子が語った昨晩の彼女の一部始終だ。

「それでその榊って人が、昨晩のうちに何者かに殺害されたということだね?」
 真理子の話を聞き終えた秋山が尋ねた。
「……ええ」
「ひょっとして君が最初に僕の探偵事務所にやってきたのも、その榊って人のことを相談するためだったの?」
「……うん」
「だったらどうしてその時に言ってくれなかったの」
「だって……」
(好きな人に元彼との縺れ話なんて相談できるわけがないじゃない。公平君のバカ……)
 と、真理子は心の中で呟いた。
「そんなに僕が信用できないのかい?」
「そうじゃないけど……」
「安心してよ。新沢さんの無実は必ずこの僕が証明してみせるから」
 秋山ははっきりとそう言い切った。その堂々とした口調に、真理子は思わず胸が熱くなるのを感じた
「ありがとう。信じているから」
「うん。僕に任せて」
 秋山の言葉に希望の光を見出した真理子は、そのまま電話を切った。それを確認した秋山も、通話ボタンを切った。
「先生、大変なことになっちゃいましたね」
 通話口のすぐ近くで、いつの間にか森村が耳をそば立てていた。
「君、いつからそこにいたんだよ!」
 真理子の話に集中していた秋山は、森村がすぐそばにきていることに全く気付いていなかった。
「先生が、……え? って言った辺りですけど」
「君ねえ、人の話を盗み聞きするもんじゃあないよ!」
「それよりどうやって新沢さんの無実を証明するんですか?」
 森村は秋山の注意に臆することなく、そう質問した。
「まずは事件のことを詳しく知っている人物に協力を仰がないとね」
 秋山は顎に手を当てながら言った。
「あの人ですね?」
「そう、彼だよ」
 森村の問いに、秋山は笑顔で答えた。
「ところで先生。先生って新沢さんと話すときだけ自分のことを『僕』って言うんですね?」
「あ、ああ、そうだよ。それがどうしたんだよ、ええ?」
 森村の指摘に、秋山は同様の色を見せた。どうやら秋山にとっては、それは触れて欲しくないことだったようだ。
「別にそんなに怒ることないじゃないですか〜」
 と、森村はニヤニヤとからかうような表情を見せた。
「全くどうしてそういうしょうもないことにばかり気がつくんだろうねえ、君は」
 秋山は携帯を手に取ると、森村の言う『あの人』に連絡を取った。

 それから小一時間も経った頃、事務所の階段を駆け足で上がってくる足音が聞こえてきた。そしてすぐに勢いよく事務所の扉が開いた。
「秋山さん、お呼びですか?」
「やあ、渋谷君。よく来てくれたね」
 そこに現れたのは、スーツを身にまとった一人の青年だった。彼は、秋山がかつて新宿中央警察署の刑事課にいた頃の同僚、『渋谷佳祐』巡査だ。彼は現在ではすでに転属し、警視庁捜査第一課第三係に所属している。
彼の顔を見てまず目がいくのは、やはりその、かなり後退してしまった前頭部だろう。彼は二十代半ばから既に髪が薄くなり始め、三十台に突入した現在ではすっかり、前頭部が禿げ上がってしまっていた。しかし当の本人には、それについて悩んでいる様子は全くないようだ。
「昨日に六本木の住宅街で起きた、殺人事件の資料でしたよね。持ってきましたよ」
「ありがとう。早速見せてもらおうか」
 渋谷は持っていた革製のバッグから、一冊のファイルを取り出し、秋山に手渡した。ソファに腰掛けていた秋山は、早速そのファイルを開き、中を眺めた。隣に座っていた森村も、一緒にそれをのぞき込む。
 当然、事件の捜査資料を部外者に公表することは禁止されている。しかし渋谷は、これまでにも何度か秋山に、事件に関する意見を乞いに来たことがあった。それほど渋谷は、秋山のことを信頼しているのだ。
「ところで秋山さん。どうしてこの事件のことが知りたかったんですか?」
「私の知り合いの新沢真理子さんが、この事件の被疑者になってしまってね。それで、なんとかその無実を証明してあげたくてね」
「そうだったんですか。そういうことなら自分も精一杯の協力をさせてもらいます」
「ありがとう。それじゃあ事件について詳しく教えてくれるかい?」
「分かりました」
渋谷はズボンのポケットから手帳を取り出すと、それを開いた。
「事件は昨日の九月二十三日の夜、六本木一丁目にある被害者の自宅で発生しました。被害者は榊裕次郎さん。三十四歳。死因は後頭部を殴打されたことによる出血死。死亡推定時刻は、同日の午後九時ごろ。遺体の第一発見者は被害者の交際相手である、志田愛美さん。二十一歳。翌日の午前九時ごろに彼の家に行ったところ、リビングで頭から血を流してうつ伏せに倒れている榊さんを発見したということです。現場から財布や預金通帳といった金品が盗まれていないことから、怨恨による犯行の線で、被害者の死亡推定時刻前後に、家の周囲で怪しい人物を見た人はいないか、現在目撃者を捜しています」
 秋山は被害者の死亡時の写真を真剣に見つめていた。
「それで、どういう経緯で新沢さんが捜査線上に浮かんできたんだい?」
「被害者の持っていた手帳に、九月二十三日の午後九時、真理子に会う、と書いてあったんですよ。そこで、被害者の携帯電話を調べると、そこに新沢真理子さんの名前を見つけた、というわけです」
 なるほど、と呟き、秋山は左手で顎をさすった。
「凶器は見つかったのかい?」
「部屋にあった花瓶が凶器と思われます。現場にはその花瓶に生けてあったであろう薔薇の花びらと陶器の破片が散乱していました。割れた破片の一部に付着していた血痕が、被害者のものと一致しています。ちなみにその破片からは、新沢真理子さんの指紋が検出されました」
「新沢さんの指紋がでたの?」
「ええ」
「それは、マズいねぇ……」
 秋山は渋い顔を見せた。
「そこで我々は、別れ話の縺れの末、逆上した新沢さんが衝動的に部屋にあった花瓶で被害者を殴り、誤って死なせてしまったものではないかと診ているんですがね」
「まさか、新沢さんはそんなことをする人じゃないよ!」
 秋山は慌てて真理子を擁護した。
「それで、被害者の榊さんというのはどういう人なの?」
「榊裕次郎さんは、都内で六件の不動産を経営している実業家です。その家賃収入で悠々自適の生活を送っていたようですよ。彼は十二年前にT医科大学を卒業後、T大学附属病院に研修医として就職しましたが、わずか二年で病院を退職しています。その後に始めた株が成功し、その金で不動産を購入。現在に至る、といったところのようですね」
「彼はどうして二年で病院を辞めちゃったの?」
「被害者の友人の話では、激務の割には給料が安かったことが不満だったようですね」
「じゃあ彼は、あまり金を持っていなかったってことだろう。株を成功させるには、それなりの資金がないと難しいと思うんだけどねえ」
「まあ株は、一種のギャンブルのようなものですからね。彼はただ単に運が良かったんでしょう」
 と、渋谷は秋山の疑問を一蹴した。
「じゃあ、被害者と新沢さんは、どうやって知り合ったの?」
「新沢さんの話では、雑誌の取材を通して知り合ったそうです。若き実業家に、成功の秘訣を聞く、といったテーマだったようで。その取材後に、被害者の方から新沢さんに、連絡先を交換して欲しいと言われたそうです。それがきっかけで、交際に発展したとか」
「ふ〜ん……」
 秋山は不機嫌そうに返事をした。そしてすぐにハッとしたように言葉を続けた。
「ちょっと待ちたまえよ。遺体の第一発見者は、彼の交際相手だったんだろう? じゃあその男は二股をかけていたってことじゃないか!」
「ええ、そのようですね」
「そのようですね、じゃあないよ! どうして君はそんなに冷静でいられるんだよ。新沢さんを二股にかけるなんて、全く許せないね、その男」
 と、秋山は腕を組んで憤慨した。
「先生、ちょっと私情が入りすぎじゃないですか?」
 これまで黙って二人の会話を聞いていた森村が言った。
「そんなことはないよ。同じ男として、そんな女にだらしない男が許せないって言っているだけだよ」
 果たして交際経験のない人間のこの発言に、説得力があるのかないのか、森村には判断できなかった。
「どうやら被害者は、かなり派手に遊んでいたようですね。彼の友人の話では、新沢さんや遺体の第一発見者である志田さん以外にも、交際していた女性が複数いたようです」
「いくらなんでもそれは不公平ですよ。需要と供給のバランスが完全崩壊じゃないですか!」
 今度は森村が苛立った態度を見せた。
「なあ、君も腹が立つだろう?」
 腹を立てている理由は違えど、どうやら二人の意見は一致したらしい。
「それで秋山さん。まずは何から始めましょうか」
 一人冷静な渋谷が尋ねた。
「ああ、そうねえ。じゃあまずは、遺体の第一発見者の志田愛美さんに、遺体発見時の詳しい話を伺ってみたいんだけどねえ」
「分かりました。彼女は六本木にあるクラブ『アフロディーテ』でホステスをしています。よかったらこれから店に行ってみますか? この時間なら多分店にいると思いますから」
「そうだね。善は急げだ」
 こうして秋山と森村は、渋谷の運転する車で目的地へ向かった。
「なんだかこうして秋山さんを助手席に乗せて運転していると、新宿署時代にコンビを組んでいたあの頃のことを思い出しますよ」
 車を運転していた渋谷が、助手席の秋山にこんなことを話しかけてきた。
「そうだね、何だか懐かしいね」
「あの頃は本当に仕事が楽しくて仕方がなかったですよ。秋山さんが本庁に引き抜かれて行った時は、正直なところすごく残念でした。それから、何とか自分もそれに追いつこうとしてがむしゃらになって働きました。そしてやっと自分も本庁への転属が決まったと思ったら、秋山さん、突然警察を辞めちゃうんだもんな」
「…………」
 秋山は申し訳なさそうに視線を落とした。
「あ、いえ、別に秋山さんを責めているわけじゃないんです。ただ、また一緒に働きたかったなって。そう思っただけですから」
 車内に重苦しい空気が流れた。
「いいじゃないですか。こうしてまた一緒に捜査みたいなことをしているんですから」
 後部座席に座っていた森村が、あっけらかんとした口調で言った。秋山も、すかさずこの流れに続いた。
「そうだよ。別に二度と会えないわけじゃあないんだから。たまに呑みに行ったりもしているじゃない」
 と、務めて明るい口調で言った。渋谷は少しの間黙ったままだったが、すぐに笑顔でこう言った。
「そうですよね。こうしてたまに顔を合わせられるだけでも幸せなことなんですよね」
「そうだよ。いつだって会おうと思えば会えるんだから。それだけで十分だよ……」
 秋山の顔に何やら悲しげな翳が浮かんだ。少なくとも森村にはそのように見えた。
「すみません、なんか辛気臭いことを言ってしまって。それじゃあ気を取り直して、本庁の奴らに、新宿中央署のゴールデンコンビと呼ばれた自分達の実力を見せつけてやりましょう!」
「まあ君は、頭もゴールデンだけどね」
 秋山はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべ、光り輝く渋谷の広い前頭部を見つめながら言った。
「ひどいなあ、秋山さん」
「ははは、冗談だよ」
 車内は一転して明るい雰囲気に包まれた。しかし後部座席の森村だけは、なぜか不満げな表情をしている。実は彼は前々から、秋山と渋谷の仲の良さに、少しばかり嫉妬しているのだ。

 数十分ほどして、彼らは六本木にあるクラブ『アフロディーテ』に到着した。渋谷を先頭に店内に入る。豪奢だが洗練された内装が施されたその店内は、まるで人生の成功者のみに許された別世界のような、絢爛な空間だった。
秋山達が入ってきたことに気がついた、スーツを着た店員と思しき一人の男が、彼らの前にやって来た。
「お客様、申し訳ございませんが、当店はただいま準備中でして……」
「いえ、客ではないんです。自分は警視庁捜査一課の渋谷と申します。ちょっと志田愛美さんにお話を伺いたいのですが、志田さんはいらっしゃいますか?」
 渋谷は警察手帳を見せながら目の前の男に尋ねた。男は頭を垂れると、店の奥に消えていった。数秒後、店の奥から、見るからに不機嫌そうな顔をした女が、渋谷達の前にやって来た。
「もうさっき、警察に行ってきたんですけど」
 女は開口一番、不満を漏らした。彼女が榊裕次郎の遺体の第一発見者『志田愛美』だ。顔の二倍はありそうなほど高く盛り立てている茶髪が印象的な、派手なメイクを施した女だった。その露出度の高いドレスに、秋山は思わず目のやり場に困った。
「すみません。もう一度だけ、事件の話を伺いたいのですが、少しだけお時間の方よろしいでしょうか」
 愛美は渋々それを承諾すると、彼らを人気のない店の一角へ案内した。三人は愛美の対面に腰掛けると、さっそく渋谷が質問を始めた。
「ではまず、遺体発見当時の状況を詳しく教えていただけますか?」
「二十四日の午前九時ごろに、あの人の家に行ったの。インターホンを鳴らしても彼が出なかったから、留守だと思ったんだけど、玄関の鍵が空いていたから中に入ってみたの。そうしたらリビングで彼が頭から血を流して倒れていたのよ。驚いてすぐに救急車を呼んだわ。でも私が救急車を呼んだ時には、もうあの人は死んでいたみたい」
「榊さんの生死の確認はなさらなかったのですか?」
 秋山は、胸の谷間に視線がいかないように、細心の注意を払いながら尋ねた。
「無理よ、そんなの。怖いもの」
 愛美は冷たくそう言い放った。秋山が続けて尋ねる。
「榊さんとは、その日の午前九時に会う約束をしていたのですか?」
「いいえ、暇だったからちょっと寄ってみようと思っただけよ。彼が殺された日の前日の晩、彼がお店に来て、近々家に遊びに来いって言ってくれたから」
「遺体があった現場を見たとき、何か変わったことに気がつきませんでしたか?」
「そんなの詳しく見ている余裕なんてなかったわよ。私、彼が血を流して倒れているのを見て怖くなって、急いで外へ出て救急車を呼んだんだから」
「では彼を襲った人物に、誰か心当たりはありませんか?」
「あの人と付き合っていた女の誰かなんじゃないの。何股もかけられていることを知って、ブチ切れた誰かが殺したんじゃない?」
 愛美はさらりと言った。
「あなたは彼に浮気されていることをご存知だったのですか?」
「ええ」
「その上でお付き合いをされていたのですか?」
「だって別に本気で付き合っていたわけじゃないし。躰だけの関係ってやつ? おねだりすればなんでも買ってくれたし、いい金鶴だったのよね。それに私、あの人とは別にちゃんと付き合っている彼氏がいるし。そのことはあの人も承知していたしね」
 全く悪びれることなく、こんなことを言ってのける愛美に、秋山は唖然としていた。
「秋山さん、他に聞きたいことは?」
 黙ったまま目を丸くして愛美を見ていた秋山に、渋谷が尋ねた。
「ああ、ではあなたは二十三日の午後九時ごろは、どこで何をなさっていましたか?」
「この店にいたわよ。ボーイやお客さんに聞いてみればわかるわ」
「分かりました。ご協力ありがとうございました。もしまた何かお聞きしたいことがあればご連絡させていただきますので、ご了承ください」
 秋山がその場を立ち上がりその場を後にすると、横の二人もそれを見て、後に続いた。帰りの車中は、先程の愛美の話題で持ち切りになった。
「しかし驚いたねえ。あんな考え方の女の子が実際にいるものなんだね。あれがセフレってやつなんだろう? 全く信じられないね」
 秋山は完全に呆れ返っていた。
「そんなの今どき珍しくないんじゃないですか?」
 渋谷が答える。
「駄目だよ、そんなの。やっぱり異性と交際するなら一途に。それも、結婚を前提に考えたお付き合いをしないと失礼じゃないか」
「先生は考え方が古いんですよ。そんなことを言っていたら、相手の女の子に重いって言われちゃいますよ」
 後部座席の森村が秋山の意見を鼻で笑った。思わず秋山の言葉にも熱が入る。
「古いとか新しいとか、そういう問題じゃあないんだよ。たとえお遊びの関係の浮気だったとしても、そんなことをしたら本命の恋人を傷つけることになるじゃないか。なあ、渋谷君」
「まあ気付かれないようにするならいいんじゃないですか?」
 渋谷の返答に、森村がさらに勢いづく。秋山はつい向きになって、渋谷を黙らせようと試みた。
「じゃあ君には、そういった躰だけの関係の女性がいるとでもいうのかね! ええ?」
しかし渋谷は怯むことなく、ニヤリと意味深な微笑を浮かべてこう言った。
「……そんな野暮なこと、聞かないで下さいよ。秋山さん」
 その思いがけない返答に、秋山と森村は思わず絶句してしまうのだった。
「それで、秋山さん。これからどうしましょう」
「へ? ああ、そうねえ。彼は女性関係以外で、なにかトラブルを抱えていたりはしていたのかい?」
「いえ、少なくとも、表立ってそういったことはなかったようです」
「じゃあさっきの彼女の言うとおり、女性絡みの怨恨が殺害の動機という線が、今のところは有力な気がするね。とりあえず被害者と親しくしていた女性に、彼の死亡推定時刻のアリバイを確認してみようかねえ」
「分かりました。何か有力な情報が得られるかもしれませんね。それではアイウエオ順のア行から順番に当たってみましょう」
「そんなに大勢いるのかい?」
「ええ、軽く見積もっても十人以上は」
「…………」
 それから秋山達は、被害者と頻繁に連絡を取り合っていた女性に、被害者の死亡推定時刻のアリバイを尋ねて廻った。そして気が付けば、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。今、彼らは事務所に帰る最中の車中にいる。
「う〜ん、何人かアリバイがない人もいたけど、どの人もなんというか……浮気に激昂して彼を殺害するほど、本気で彼を好きだったようには思えない人ばかりなんだよね」
 秋山が渋い顔で、頭をかきむしりながら言った。
「榊さんが亡くなったことを話しても、あっけらかんとしていた人もいましたもんね」
 後部座席の森村がそれに続く。
「やっぱりあの志田さんと同じで、ただ金と躰だけでつながっていた関係だったんですかね」
 運転中の渋谷が、哀れむような口調で言った。
「だから言わんこっちゃないじゃないか。こういう広く浅くの関係ばかり築いていたら、誰も本気で自分のことを愛してはくれないんだよ。分かったかい、森村君」
「それにしても新沢さんって、相当運が悪い人ですよね」
 あまりにも的外れな森村の返答に、秋山は思わず拍子抜けしてしまった。
「何だよ、唐突に」
「だってそうじゃないですか。僕ずっと思っていたんですけど、自分がついさっきまで会っていた人が、その直後に誰かに殺されるなんて、滅多にあるものじゃないですよ。その確率ってまさに、天文学的な数字ってやつじゃないですか」
 森村の何気ない意見で、秋山の中にある一つの仮説が浮かんだ。
「そうか、もし犯人があらかじめ、二十三日の午後九時に、榊さんの家で二人が会うことを知っていたとしたら……。新沢さんが帰ったのを見計らって家に入り被害者を殺害。その罪を彼女に……つまり、自分以外の誰かに着せるのが目的だったんじゃないかねえ」
「なるほど。ということは新沢さんが、犯行日に榊さんと会うことを事前に話した人物が怪しいということになりますね」
「これはもう一度新沢さんに話を聞いてみる必要があるね」
 こうして一つの可能性を見出した三人は、それぞれの帰路に着いたのだった。


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