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作品名:童貞紳士の事件簿3 作者:木城康文

第3回   第2章 真理子の憂鬱
 秋山との食事から翌日、帝文出版第一編集部は今日も活気に満ち溢れていた。今にも崩れ落ちそうなほど山積みになった原稿用紙の束。部内で絶えず鳴り響いている電話のコール音。そんな雰囲気を尻目に、真理子は自身のデスクに座り、女性誌の最後の頁に載っている、当たると評判の今週の星占いに目を留めていた。
(金運○。好きな人にご飯をおごってもらえるかも。仕事運×。何か大きなトラブルに巻き込まれるかも、要注意! 恋愛運◎。好きな人と急接近できるかも。あなたの積極的なアプローチが鍵……本当かしら)
 真理子が不信に思ったのは、恋愛運の箇所だ。
(公平君ったら、あの頃と全然変わっていないんだから、もう)
 真理子は昨日の秋山との食事を思い出し、一人腹を立てていた。というのも、実は真理子は、高校の頃から秋山に対し好意を抱き、さりげない恋のアプローチを仕掛けていたのだ。しかし当の秋山は、そのことに全く気が付いていなかったらしく、それが恋愛に発展することはなかった。結局二人は、そのまま卒業を迎えてしまい、それから十六年もの間、一度も顔を合わせることはなかった。
(全然目を合わせてくれなかったものね。Yシャツに大きな脇汗の染みができていたし、部屋に誘ったときも明らかに動揺していたし……相変わらず女が苦手なのね、あの人)
 真理子にとっては、それが嬉しくもあり、残念でもあった。なぜなら彼女が秋山に惹かれた理由の一つが、その女性に対して謙虚な性格にあったからだ。しかしモノには限度というものがある。
(またあの頃みたいに、何もないまま終わっちゃうのかな……)
 真理子がひとつ小さなため息をつくと、その直後に彼女の後頭部を、軽い衝撃が襲った。驚いて背後を振り返ると、そこには雑誌を棒状に丸めたものを右手に持った、一人の男が立っていた。
「おい、真理子。物思いにふけっている暇なんかないはずだぞ。今日中にあげなきゃいけないあの原稿はどうした」
 彼は真理子の直属の上司である、第一編集部の編集長『牧野裕之』だ。手入れの行き届いた口髭が印象的な中年男だ。四十代半ばという年齢には見えないほど、体型、顔、共に若々しさを保っている。普段はぶっきらぼうな性格だが、編集業にかけては誰にも負けない情熱を持つ、仕事熱心な男だ。
「分かっていますよ。今やろうと思っていたところです」
 若干苛立っていた真理子は、ふて腐れた感じで答えた。
「言い訳をするんじゃない。俺はお前をそんな風に育てた覚えはないぞ」
「……すみません」
 真理子にとって牧野は、自分が新人だった頃から、時に厳しく、時に激しく、記者のノウハウを指導してくれた、師匠のような存在だった。従って真理子は、牧野には頭が上がらないのだ。
「じゃあ俺は会議に出てくるから。あまり私情を仕事に持ち込んでいてはダメだぞ」
そう言い残すと、牧野は部を出ていってしまった。それを見届けた真理子は、今度は深いため息を一つついた。
「真理子さん、何かあったんスか?」
 隣のデスクで、二人のやりとりを横目で見ていた茶髪の男が、真理子に話しかけてきた。彼は真理子の後輩、『前田貴俊』だ。彼はまだ去年入社したばかりの新人で、真理子が指導係を務めている。
「オレでよかったら相談に乗るッスよ」
「あんたには関係ないの」
 真理子は前田の申し出をキッパリと断った。というのも真理子は、この前田という男をあまり信用していなかったからだ。どうにもノリが軽いというか、仕事や礼儀に関する注意をしても、この男の心には全く響かないのだ。いつも薄ら笑いを浮かべながらの『サーセン(すみません)』の一言で済まされてしまう。まさに糠に釘、暖簾に腕押しといった感じだ。果たしてこの男はこれまでの人生において、一度でも本気で何かに取り組んだことがあるのだろうかと、真理子は常々疑問に思っている。
「それより今日締切のあの原稿。ちゃんと仕上げておいてくれた?」
「えっ、あれって今日まででしたっけ」
「ちょっと、まだできていないの?」
「大丈夫ッスよ。何とか間に合わせますから」
 前田は仕事ができないかと言われればそうでもない。ただ期限直前になるまで、本気で取り組もうとしない。それはまるで、夏休みの宿題を八月三十一日に一気に片付ける小学生のようだった。本当に締切に間に合うのか、真理子はいつもやきもきしているのだが、前田はこれまでに一度も原稿を落としたことはない。
「じゃあ後はよろしくね。私ちょっとお昼行ってくるから」
 真理子は傍らに置いてあったハンドバッグを手に取ると、早足で部を後にした。

 帝文出版からほど近い一軒のオープンカフェへ真理子はやってきた。
「真理子、こっちこっち」
 真理子の姿を見つけた一人の女が、右手を上げ彼女を呼び寄せた。真理子は女がいるテーブルへ駆け寄り、席に着いた。
「ごめん美保。遅れちゃった」
 彼女は真理子の高校時代からの親友『坂井美保』だ。真理子と美保は、互いの休憩時間が合えば、定期的にこうして一緒に昼食をとるようにしている。美保はこのカフェの近くにあるT大学附属病院で神経内科の医師を務めている。彼女はいつも気だるい雰囲気を漂わせており、イイ女風の匂いを醸し出している。
「で、どうだったのよ。昨日のデートは」
 美保は挨拶を交わすこともなく、開口一番そう尋ねた。
「別にデートとかそういうのじゃないわよ。ただのお食事よ、お食事」
 真理子はすでにメールで、秋山と再会したことや、今度一緒に食事に行くことなどを、美保に報告していたのだ。
「私が言ったとおり、それとなく年収は聞き出したんでしょうね」
「会っていきなりそんなこと聞けるわけないでしょ。あなたじゃあるまいし」
「あんたねぇ、私のことを金の亡者みたいに言うけど、お金は大事よ。それに秋山君、私立探偵をしているんですって? そんな謎めいた仕事をしているんだから、収入はきちんと確認しておかないと、後で後悔することになるわよ」
 美保は金銭に関しては非常にシビアな考え方をしている。そんな彼女の口癖は『男の価値は年収で決まる』。
「別にお金なんて普通に生活できる程度あればそれでいいのよ。大事なのはやっぱり相手を好きだっていう気持ちでしょ」
「全く……いくつになっても乙女なんだからあんたは。それで、秋山君はどうだったの。高校時代と何か変わっていた?」
「……それが」
 真理子は秋山との食事の顛末を詳細に話した。
「ちょっと、それじゃあの頃と全然変わっていないじゃない」
 美保は呆れ顔で言った。
「今にして思えば、公平君って草食男子の走りだったのね」
「でももう男子って歳じゃないでしょ。おじさんよ。草食おじさん」
 そう言って美保は、自分の発言に思わず吹き出してしまった。しかし真理子はクスリともせず、ただため息をつくだけだった。
「どうすればもっと打ち解けられるんだろう」
「もういっそのこと、あんたの方から押し倒しちゃいなさいよ」
 テーブルに置いてある自分のバッグから、タバコとライターを取り出しながら、美保が投げやりに言った。
「そんなことしたら一生のトラウマになっちゃうわよ。それに公平君って、そういうガツガツした女は嫌いだと思う」
「全く、どっちが女か分かったものじゃないわね。あんたもどうして秋山君なんかに惚れちゃったんだか……」
 美保はタバコを口にくわえると、慣れた手つきでそれに火をつけた。
「いい、真理子。とにかくこれは運命なのよ。高校時代に好きだった人と十六年振りに偶然再会するなんて、滅多にあることじゃないんだから。しかも未だにお互いフリーなのよ。ここはあんたの方から積極的にいかないと進展はありえないわ。昔から男運の悪かった人生を、ここで終わらせるのよ」
「でも何度も誘ったら、嫌がられないかな」
 不安そうな真理子に対し、美保はニヤリと笑って、口の中の煙を吹き出した。
「あんたの誘いを嫌がる男なんているわけがないわよ。あんた、自分が思っているよりずっとイイ女なんだから、もっと自信持ちなさいよ」
 美保はいつでも根拠のない自信に満ち溢れている。どこか自分に自信が持てない真理子は、そんな彼女からいつも勇気を分けてもらっているのだ。
「男運といえばあんた、あれからあの元彼とはどうなったの。未だにしつこく付きまとってきているの?」
「うん……。でも携帯も買い換えて電話番号も替えたからもう平気よ」
 深刻そうな顔で問いかけてきた美保に、真理子は務めて明るく振舞った。彼女は数週間前に、これまで一年ほど交際していた彼氏と別れたばかりだった。未だに真理子に未練があるその男が、しつこくもう一度会おうと連絡をしてきていたのだ。
「そう、それならいいけど。もし少しでもヤバいと思ったら、警察に行ったほうがいいわよ。ああいう男は最終的に何をしてくるか分かったものじゃないんだから」
「大げさよ。ただちょっとしつこく言い寄ってきているだけだって」
「本当にあんたってどうしてこう『だめんず』にばかり縁があるのかしら。大学の頃に付き合っていた男には、お金を騙し取られていたし……」
「あれは騙し取られたんじゃなくて、貸したら行方不明になったってだけじゃない」
「それを騙し取られたっていうのよ!」
 そんな会話をしながら二人は昼食を済ませ、それぞれの職場へと戻ったのだった。

 午後二時ごろ、編集部に戻った真理子に、前田が原稿を持って歩み寄ってきた。
「真理子さん、原稿のチェックお願いします」
「もうできたの?」
「はい、急ピッチで書き上げたッス」
 前田は得意げに原稿を真理子に差し出した。真理子はその原稿にざっと目を通す。
「うん、いいんじゃない」
「マジッスか? よかった、何とか間に合った〜」
「あんたね、やればできるんだからもっと早めに終わらせればいいじゃない」
「オレ、ギリギリにならないと本領を発揮できないタイプなんスよ」
「偉そうに言うことじゃないでしょうが」
 その時、真理子のバッグの中から携帯の着信音が鳴った。真理子はバッグから携帯を取り出し、液晶画面を見る。非通知。真理子の脳裏に、いい知れぬ不安がよぎった。
「ちょっと、ごめん」
 真理子は駆け足で編集部を出ると、人気のない廊下へ移動した。周囲を確認し、誰もいないことを確認すると、おもむろに携帯の通話ボタンを押した。
「……もしもし」
「よう、真理子。俺だよ」
「…………」
 真理子の不安は的中してしまった。全身から血の気が引いていく。声の主は、真理子が数週間前に別れを告げたあの男だった。
「おい、何とか言ってくれよ」
「……どうして、この番号を知っているのよ」
「そんな細かいことはどうだっていいだろう。それより勝手に番号を替えるなんて、一体どういうつもりなんだよ」
「だから何度も言っているじゃない。私たちはもう別れたんだから、二度と連絡してこないでって」
「それはお前の勝手な言い分だろ。俺はお前を諦めるつもりなんかない」
「じゃあどうすれば諦めてくれるのよ……」
「会って話がしたいんだ。そうすれば俺の気持ちも分かってくれると思うぜ」
 真理子は一瞬迷ったが、このままでは埒があかないと思い、その申し出を受けることにした。
「いいわ。じゃあいつにする」
「できるだけ早いほうがいい。明日はどうだ? 明日の午後九時に俺の家に来てくれないか。飯を作って待っているから、晩飯は食わずに来てくれよな」
「分かったわ。明日の午後九時ね。それじゃあ」
 相手の言葉を待つことなく、真理子は半ば強制的に携帯の通話ボタンを切った。真理子は小さなため息を一つつくと、編集部へ戻った。
「電話誰からッスか? 彼氏ッスか?」
「いいからあんたはいちいち人のプライベートを詮索しないの」
 全く何の悪気もなく、薄ら笑いを浮かべた前田が尋ねた。しかし真理子は慣れた口調で、軽くそれをあしらった。
「さあ、そろそろ取材に行くわよ。準備しなさい」
 真理子は自分を鼓舞するためにも、わざと快活な声で言った。それから真理子は、どうしても翌日のことを考えてしまい、憂鬱から仕事も上の空になってしまうのだった。


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