その翌日、早速真理子の方から秋山に電話があった。食事の誘いだった。次の日曜日に一緒に昼食をとることになった秋山は、憧れのマドンナの前で恥をかくわけにはいかぬと、入念に準備を始めた。 まず大人向けの男性ファッション雑誌を大量に買い漁り、そこに写っているモデルが着ている全身の衣装を、靴から下着に至るまで、その丸々一式を購入した。それから店の選択を任されてしまった秋山は、目を皿のようにしてグルメ雑誌を熟読した。その中の「女性に人気の隠れた名店」と銘打たれた記事から、一軒のイタリアンの店に狙いを定め、予約の電話を入れた。そして更に、普段はカットに髭剃り込みで千五百円という床屋に通っている彼が、カットのみで一万五千円という有名な美容院を訪れた。こうして秋山は、来るべき決戦の日に備え、万全の体制を整えたのだった。
そして日曜日。秋山はこの日のために購入した、雑誌のモデルと全く同じコーディネートに身を包み、極度の緊張と興奮の中、自家用車で真理子との待ち合わせ場所に向かった。 とある駅前の広場が二人の待ち合わせ場所だった。遠方からこっそりと現場を目視した秋山は、そこにすでに真理子がいることを確認した。飾らない白のパンツルックが、真理子のスタイルの良さを一層際立たせている。秋山は数回深呼吸を繰り返してから、真理子のもとへ向かった。 「や、やあ。待ったかい?」 秋山はできるだけ緊張を悟られないように、平静を装って声をかけた。振り返った真理子は、バッチリとお洒落をしてきた秋山を上から下までざっと眺めると、ある一点に視線を止め、いきなりぷっと吹き出した。秋山は焦った。 「えっ、どこか変かな」 「そうじゃなくて、ズボンの値札、切り忘れているよ」 秋山は慌ててズボンの周囲に目を向けた。すると確かに、購入したときについていた値札がひょっこりと顔を出している。 「そのズボン、二万九千八百円だったんだ」 「う、うん。まあね……あはは」 小悪魔のような笑顔を浮かべて、真理子が言った。秋山は引きつった笑いを浮かべながら、そそくさと値札をズボンの内側に隠した。それから二人は、秋山の車に乗り込み、予約したイタリアンの店へ向かった。 「ねえ、どこに連れて行ってくれるの?」 車中で、助手席に乗っていた真理子が尋ねた。運転中は前を向いていなければならないという名目のもとに、真理子の目を見て話さずに済んでいることを、秋山は内心安堵していた。 「イタリアンの店だよ。僕がずいぶん前から通っている店なんだけど、最近女性に人気の隠れた名店とかで、雑誌に取り上げられたらしいよ」 前から通っているなどというのは勿論大嘘で、女性と付き合った経験がない秋山が、過去に「女性に人気の隠れた名店」に行ったことなどあるはずがない。 「そこって何が美味しいの?」 「この店のオススメは何といっても牛肉の赤ワイン煮込みだ。煮詰めた赤ワインの酸味、濃厚なデミグラスソースの旨みが、口の中でホロリと崩れる柔らかい牛テール肉に程よく絡む珠玉の一品。この店を訪れた際には、ぜひ一度堪能していただきたい」 と、秋山は丸暗記したグルメ雑誌の文章を、一言一句間違えることなく復唱した。その完璧すぎる料理の解説に、真理子は違和感を覚えた。 それから十数分の時間が経過したころだった。真理子は、つい先程見たばかりの景色が再び目に写っていることに疑問を感じていた。 「ねえ、公平君。この道さっきも通らなかった?」 真理子が秋山の方を振り向くと、彼の額にじんわりと汗が滲んでいるのが分かった。そしてキョロキョロと左右に目を泳がせている。それを見て、真理子は事態を悟った。 「ひょっとして道に迷っちゃったの?」 「久しぶりに行く店だから、ちょっとうろ覚えになっているみたいだね。あれ、おかしいな……確かこの辺だったはずなんだけど」 結局予定していた時刻を十分ほど過ぎてしまったが、なんとか二人は秋山が予約したイタリアンの店に到着した。店内に入ると、二人は店員に誘導され、窓際のテーブルへ案内された。 「へー、公平君こんなオシャレなお店知っているんだ。ちょっと意外」 店内を見渡しながら、真理子が言った。秋山は先程の失敗を挽回しようと内心焦っていた。そこに店員が、二人のテーブルに水を持ってやって来た。秋山はその水を一気に飲み干し、間髪入れずに言った。 「すみません、お冷もう一杯ください」 「よっぽど喉が乾いていたのね」 真理子は秋山の心中など知らず、呑気なものだった。店員は一礼すると、秋山の空になったグラスを持ち、その場を去った。そしてすぐに水の入ったグラスとメニューを持って、二人の席に戻ってきた。 「牛肉の赤ワイン煮込みを二つ」 秋山はメニューに目を通すことなく、普段より低めの渋い声で格好よく注文を決めた。 「お客様、そのようなメニューは当店にはございませんが……」 店員の意表を突く返答に、秋山は一瞬自分の耳を疑った。すぐさま目の前に置いてあるメニューを慌てて開く。しかしそこには、この店のお薦めメニューであるはずの、牛肉の赤ワイン煮込みなどはどこにも載っていなかった。どうやら秋山は、ほかの店のメニューの情報を必死になって暗記していたようだ。 「あれっ? え〜っと、そ、それじゃあ、あの……このカルボナーラを二つ……」 先程の渋い声とは打って変わり、動揺を隠しきれない上擦った声で秋山は言った。店員はメニューを回収すると、明らかに笑いをこらえながらその場を後にした。秋山は顔から火が出る思いだった。これでますます真理子と目を合わせて話すことが困難になってしまった。 「ねえ、公平君。ひょっとしてこのお店、初めて来たんじゃない?」 「…………実は」 「さっきの料理の説明も、グルメ雑誌か何かの受け売りなんでしょ?」 「…………うん」 もうこうなってしまってはやむを得ないと、秋山は正直に本当のことを白状した。 「言ったじゃない。公平君が普段行っているお店でいいからねって」 たしかに真理子は食事の誘いをした際、秋山にそう伝えていたのだ。 「でも僕がいつも行っているのは、安い居酒屋とか定食屋ばかりだし……」 秋山は、食やファッションといったものに高い金をかけるのはもったいないという主義の持ち主だ。よく言えば倹約家。悪く言えば守銭奴なのだ。そんな彼が、二万九千八百円もするズボン等を何のためらいもなく購入したことを考えると、彼のこの食事に対する意気込みは相当なものであるということは容易に推測できる。 「それでいいのよ。私はもっと普段の公平君を知りたかったの」 「ごめん……」 「でも、ありがとう。私に気を使ってくれたのよね」 真理子はにっこりと微笑んだ。その天使のような笑顔に、秋山も思わず肩の荷が降り、頬が緩んだ。 それから二人は注文したカルボナーラを食べながら、高校時代の話で盛り上がった。秋山は相変わらず真理子の目を長時間直視できないものの、それなりに緊張も解け、会話を楽しんでいた。 「あれから十六年か……。公平君、同窓会にも全然来てくれないんだもの。みんな会いたがっていたわよ」 「行きたかったんだけど、仕事が忙しくてね」 「そういえば一ヶ月ぐらい前に、彩から『結婚しました』っていう葉書きが届いたの。これで私の親友は美保以外み〜んな結婚しちゃったことになるのよね」 「そうなんだ」 「……ねえ、公平君。結婚は?」 真理子がうつむいたまま、皿を軽くフォークで突っつきながら尋ねた。 「う、ううん……まだ」 それどころか未だに童貞であることなど、秋山には口が裂けても言えなかった。 「私も。仕事に夢中になっていて、気づいたらもうこんな歳になっちゃった」 「今付き合っている人はいないの?」 「…………うん」 とだけ言うと真理子は押し黙ってしまった。この曖昧な返事では、今の返答はどちらの意味にも取れてしまう。そしてすぐに同じことを秋山に反問した。 「公平君は?」 「僕はいないけど……」 「新沢さんは?」と、秋山は聞き返したかったが、真理子から漂う物憂げな雰囲気が、それを許さなかった。すると真理子は、閑話休題と言わんばかりに声の調子を上げ、全く違う質問を秋山に投げかけた。 「そういえば公平君、たしか警察官になりたいって言っていたわよね。それはどうなったの?」 「一度はなったんだけど、辞めたんだ。ちょっと色々あってね」 「そうなの。私も新人だった頃、一度だけ本気でこの仕事を辞めようと思ったことがあったわ」 「何か辛いことでもあったの?」 「……私の書いた記事のせいで、人が一人亡くなったの」 真理子の表情に暗い影が浮かぶ。秋山は右手に持っていたフォークを、そっと皿に置いた。 「あれは今から十年前、T大学附属病院で、当時ではまだ珍しかった臓器複数同時移植手術が行われたの。でもその手術は失敗に終わった。手術中に患者の様態が急変して、その患者は手術中に亡くなってしまった。というのが病院側の発表だったの。それから数日後、亡くなった患者の遺族から帝文出版に連絡があったの。患者の死には不可解な点がある。今回の件について詳しく調べて欲しいって」 秋山は真理子の言葉に、真剣に耳を傾けていた。 「そこで当時新人の記者だった私は、病院関係者に事情を聞いてまわったの。当然誰一人として本当のことを話してくれる人はいなかったわ。でも私はどんなに邪険に扱われても諦めなかった。そしてついに一人の看護師が、私の熱意に負けて真実を打ち明けてくれたの。あれは手術に参加していた看護師の一人が、患者に投与する薬の種類を間違えて誤って死なせてしまった、紛れもない医療ミスだったってことをね。私はこのことを記事にして発表したわ。紙面ではその医療ミスを起こした看護師の実名は伏せて公表したんだけど、どこからかそれがほかのマスコミ機関に漏れてしまったの。病院は勿論、その看護師もマスコミの糾弾の的になった。その最中、医療ミスを起こした当の看護師が自殺して亡くなったの。遺書には、世間の批判に耐えられないことと、亡くなった患者の遺族に対する謝罪の言葉が書いてあったわ。その自殺なさった看護師には、当時まだ小学生だったお子さんがいてね……もし私があの記事を書かなければ、あの子のお母さんを死なせずに済んだのかも知れないって思うと、本当に辛かった」 「でもそれは、新沢さんが悪いわけじゃないんじゃないかな……」 秋山は自分が思ったことを素直に真理子に告げた。 「それでもやっぱり、自分の書いた記事が人を不幸にしてしまうんだって考えると怖かった。本当にこの仕事を続けていけるのかって本気で悩んだわ」 神妙な面持ちだった真理子は、突然秋山の顔をじっと見つめながら柔らかな微笑みを見せた。その微笑みの意味が分からなかった秋山は、思わず目を丸くした。 「でもね、高校の頃に私が、本当に将来出版業界でやっていけるのかって公平君に相談したことがあったじゃない。その時に掛けてくれたあなたの言葉のおかげで、やっぱりもう少しだけ頑張ってみようって思うことができたの。本当に公平君には感謝しているのよ」 秋山にとってはまさに寝耳に水の話だった。本当に女性恐怖症である自分が、真理子を人生のどん底から掬い上げるような感動的な言葉を、彼女に送ったのだろうか。もしそうだとしたら、そんな貴重な青春の一頁を覚えていないはずがない。真理子は自分と別の誰かを勘違いしているのではないか、と秋山は思った。 「ひょっとして、そんなこと忘れちゃった?」 「そ、そんなわけないじゃない。そうだとしたら僕もあの言葉を送った甲斐があったよ。うん」 咄嗟に嘘をついてしまった秋山は、何とか真理子に送ったというその言葉とやらを必死になって思い出そうとしていた。そのため彼は、それから真理子とどんな会話をしたのか、全く覚えていなかった。
「ねえ、公平君ってば!」 「えっ?」 いつしか秋山は、自ら車を運転し、真理子の住むマンションの前まで来ていた。助手席には真理子が乗っている。どうやら先程から秋山は、名前を呼ばれていたらしい。上の空だった彼は、そのことにようやく気がついた。 「ごめん、何?」 「よかったら家に寄っていかない?」 「ええっ、い、家に!?」 秋山は男女が二人きりで同じ部屋にいると、たとえその二人が恋人同士でなかったとしても、何らかの突発的な事態が発生して、破廉恥な行為に発展するものと思い込んでいるのだ。完全にAVの観過ぎである。当然真理子には、全くそんな気はなかった。 「で、でもさすがに会ってすぐに家に行くのはマズいんじゃないかな」 心の準備ができていなかった秋山は動揺を悟られないように、できるだけ普段通りの口調で言った。 「そうかしら」 「そうだよ。やっぱりもっとお互いのことを知ってからじゃないと。物事には順序というものがあるからね」 「……そうね」 「今日は本当に楽しかったよ。よかったらまた連絡をくれると嬉しいんだけど……」 「うん、分かった。また連絡するね」 真理子が助手席から降りると、秋山は軽く手を振り、ゆっくりと車を発進させた。次第に遠ざかっていく車を呆然と見送りながら、真理子は思った。 (何か普通逆じゃない……?)
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