この日も秋山探偵事務所には閑古鳥が鳴いていた。森村は応接間のソファにごろりと寝そべり、文庫本の推理小説を読みふけっている。 「君ねえ、上司の目の前で堂々とそういうことをするのはどうかと思うけどねえ」 自身のデスクで小型テレビを見ながらミックスジュースを飲んでいた秋山が、呆れたように言った。森村は本から目を離し秋山を一瞥すると、またすぐに視線を戻した。 「いいじゃないですか。どうせ今日も誰も来ないんですから」 森村がその態度を改めることはなかった。秋山探偵事務所にはここ一週間ほど、一件の依頼もなかった。しかしそれは、この探偵事務所にとってはごく普通のことで、秋山も本気で注意をしているわけではない。森村も当然そのことは分かっていて、高を括っているのだ。 「そんなこと分からないだろう。今にも誰かがこのビルの階段を上がってくる足音が聞こえて……」 次の瞬間、本当にこのビルの階段を上がってくるヒールの足音が二人の耳に入った。森村はソファから跳ね起き、思わず秋山と顔を見合わせる。しかしまだこの探偵事務所を訪れるとは限らない。この雑居ビルの上階には、旅行代理店や建築事務所なども入っており、依頼人と勘違いして拍子抜けを食らう場合も多いのだ。 しかしヒールの足音は、この事務所の入口のドアの前でピタリと止んだ。そして数秒後、ゆっくりと入口のドアが開いた。二人はつい身構える。 「すみません……ご相談したいことがあるんですけど」 申し訳なさそうに顔を出したのは一人の女だった。上下共に黒のレディーススーツを身にまとっている。年は三十台前半といったところだろうか。黒髪のショートヘアがよく似合う、凛とした顔立ちの美人だった。 「どうぞこちらへお掛けください」 森村は女を応接間のソファへ促すと、給湯室へ向かった。ソファへ腰掛けた女は、興味本位からか、キョロキョロと事務所内を見渡している。秋山は口の中の生唾を飲み込むと、自分に気合を入れ、意を決して女のもとへ向かった。 「ど、どうも。私がこの事務所の所長、秋山と申します……」 秋山は女と視線を合わせないようにうつむきながら言った。しかし女は黙ったままだった。そして下からのぞき込むように、秋山の顔をまじまじと見つめている。言葉を待つ秋山。無言の女。しばし沈黙が続く。その間に、秋山の額には汗がにじむ。ようやく口を開いた女から発せられた言葉は意外なものだった。 「ひょっとして、公平君……?」 突然、普段呼ばれ慣れていない下の名前で呼ばれた秋山は、ハッとしてつい女の顔を直視してしまった。女と目が合った秋山は赤面して、またすぐに視線を床へと戻した。一瞬見たその女の顔には確かに見覚えがあった。 「はい、そうですが……」 「覚えてない? 高校の頃一緒のクラスだった『新沢真理子』」 秋山はその名前を聞いて、目の前の女のことを鮮明に思い出した。 「新沢……さん?」 「そうよ、久しぶりね」 真理子は少女のような明るい笑顔で秋山の顔を見上げていた。その時森村は、二人の親密な雰囲気に躊躇して、お盆を持ったまま茶を出すタイミングを窺っていたのだった。 「ほら森村君、早くお茶をお持ちしなさい」 この状況に耐えかねた秋山は、手招きをして森村を呼び寄せた。 「公平君、この子は?」 真理子がそばにやって来た森村に興味を示した。 「僕の助手の森村君だよ」 「へえ、そうなんだ。助手って聞くと、なんだか探偵事務所って感じね」 森村は茶をテーブルに置きながら、照れ臭そうに会釈をしている。 「森村君はいくつ?」 「二十五です」 「えっ、そうなの? てっきりハタチぐらいだと思ったのに。よく童顔だねって言われない?」 「はい、よく言われます」 森村は、照れ笑いを浮かべた。 「あ、照れている。可愛い」 森村は年上の女性からの受けがいい。どうやら彼の童顔が、女性の母性本能をくすぐっているようだ。普段はこの童顔がコンプレックスの彼だが、こういう時ばかりは、まんざらでもない気分になってしまう。そして秋山はそんな現金な森村に対し、毎回冷ややかな視線を浴びせるのだった。
「へえ、じゃあお二人は高校時代の同級生なんですか」 森村を交えた三人は、真理子の依頼内容を聞くこともなく、秋山達の高校時代の話に花を咲かせていた。 「まさか公平君が探偵になっているなんて思わなかったな。でも公平君、あの頃から頭良かったもんね。やっぱり探偵って頭が良くないと出来ない仕事なんでしょ?」 「あはは、どうかな……」 秋山はただ恐縮仕切りに笑う。 「先生って高校の頃、どんな生徒だったんですか?」 森村のいたずら心が顔を出し始めた。彼は常に秋山をからかう材料を探しているのだ。しかしそれは秋山も同様なので、お互い様なのだが。 「公平君、結構女子から人気があったのよ。成績優秀でスポーツ万能なのに、女の子に対してはシャイで可愛いって」 「でも先生の場合はシャイっていうより……」 「森村君、君は黙っていなさい」 怖いんですよね、という森村の言葉は、秋山によって遮られてしまった。 「あっ、公平君。今でもミックスジュース好きなんだ」 真理子は秋山のデスクに置いてあったミックスジュースの缶を見つけた。 「あの頃から良く飲んでいたもんね、あのミックスジュース」 「ずいぶん先生のこと、よく覚えているんですね」 「だ、だって公平君、みんなが私のこと真理子って呼ぶのに、一人だけ新沢さんって呼ぶから、妙に印象に残っているのよ。別にそれだけよ、それだけ」 森村の何気ない質問に、真理子は明らかな狼狽の色を見せた。森村は戸惑っている真理子の理由が分からず、ただ無難な返事を返すだけだった。 「そうだ、名刺、名刺」 真理子は話を誤魔化すかのように、慌てて持ってきたハンドバッグから一枚の名刺を取り出した。そしておもむろに、それを秋山の前に差し出した。 「改めまして、私こういうものです」 真理子はわざと改まった口調で、おどけながら言った。名刺を受け取った秋山は、早速それに視線を落とした。隣に座っていた森村も名刺をのぞき込む。そこには株式会社帝文出版第一編集部と書かれていた。 「帝文出版ってあの週刊帝文の会社ですよね?」 週刊帝文とは、日本最大手の出版社である帝文出版の顔とも言える週刊紙のことだ。主に政治や社会、芸能などの記事を扱った内容で、社が設立された当初から発行されており、その歴史は五十年以上にもなる。過去、この雑誌を発端に発覚した刑事事件も数多く存在している。創刊以来、最も売れている日本の大衆紙として不動の地位を築いている。 「私その週刊帝文の担当記者をしているの」 「ええっ、すごいじゃないですか」 「そんなことないわよ」 森村の感嘆の声に、思わず真理子は照れ笑いを浮かべた。 「じゃあ君は、あの頃の夢を叶えたんだね?」 「ええ」 秋山の問いに、真理子はただ一言感慨深げな返事を返した。 「それで新沢さん、今回はどういったご要件で?」 ここで秋山はようやく本題に入った。 「うん……」 先程の饒舌ぶりとは打って変わり、急に真理子は口をつぐんだ。 「ごめん、やっぱりやめておく。本当にごめんね」 真理子は両手を顔の前で合わせ、申し訳なさそうに言った。 「それはいいけど、何か困っていることがあったんじゃないの?」 「ううん、別に大したことじゃないから……」 「……そう」 「……うん」 それから数秒の沈黙の後、真理子が再び口を開いた。 「ねえ公平君。よかったら連絡先、交換しない? また今度どこかで会いたいんだけど」 「ああ、勿論いいとも。もしまた今度依頼したいことがあったらいつでもここに電話してよ」 と、秋山はスーツの内ポケットから事務所の電話番号が入った名刺を取り出した。しかし真理子はそれを受け取ろうとしない。戸惑う秋山に、森村が耳打ちで助け舟を出した。 「違いますよ、先生。先生の携帯の番号とメールアドレスを教えて欲しいってことじゃないですか」 「そ、そんなこと分かっているよ。ちょっとしたジョークじゃないの。嫌だね〜、君は。冗談を真に受けちゃってさ」 余裕のある態度とは裏腹に、秋山の顔はりんごのように真っ赤になっている。それを見て真理子はクスリと笑った。 それから二人は無事に連絡先を交換した。真理子は、近いうちにまた二人で会うことを秋山と約束すると、事務所を後にした。そしてすぐさま、森村による依頼人の印象談義が始まった。 「今の人、すごい美人でしたね。学生の頃からあんなに綺麗だったんですか?」 「そうだよ。何しろ彼女は、私達の学校のマドンナ的な存在だったからね。芸能界からのスカウトもあったぐらいだよ。まあ彼女は、出版業界で働きたいという夢があったから、それを断ってしまったんだけどね」 「もったいないですよね〜。もし芸能界に入っていたら、今頃実力派女優とか呼ばれていそうな感じですもんね」 「当時学校中の男子生徒が、彼女に憧れていたものだよ」 「先生も憧れていたんですか?」 「私は学業に専念していたから、恋にうつつを抜かしている暇なんかなかったんだよ」 これは秋山が高校生の頃、誰かに恋人がいないことをからかわれたときに使用していた、彼の決まり文句である。大人になった現在でも「学業」の部分が「仕事」に変化し、使われ続けている台詞だ。そしてそれは真っ赤な嘘で、秋山もまた真理子に淡い恋心を抱いていた男子生徒の一人だったことは言うまでもない。 「でも本当は一体どんな用件で来たんでしょうね?」 「さあねえ、本人が大したことないって言うんだからそうなんじゃないかねえ」 口ではそう言ったものの、秋山は真理子がこの探偵事務所を訪れた理由が気にかかっていた。探偵事務所を訪れる人間が、大したことないで済まされるような事態であるはずがないことを、彼は身をもって知っているのだ。それとも彼女の用件は、自分には相談できないようなことだったのだろうか。しかし秋山は、自ら真理子に電話をかけ、その真意を問いただすほどの勇気は持ち合わせてはいなかった。
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