午前一時十四分――。先生がリビングの扉を開けた。ソファに座っていた二人が、ほぼ同時に僕達に視線を向けた。先生はソファに腰を下ろした。僕もその隣に腰掛けた。二人はしばらく、黙ったままの先生を見つめていた。しかし、とても口を開きそうにない雰囲気の先生を見て、それぞれが不安そうにうつむいた。 「あなただったんですね」 不意に聞こえてきたその声に、二人は再び先生を見やった。そして先生は、意外な人物の名前を告げた。 「……裕香さん」 先生は、真っ直ぐに裕香さんの目を見つめていた。それは先生が、彼女のことを一人の女性としては見ていないということを表していた。当の裕香さんは、先生の言っている言葉の意味が分からないといった表情をしていた。それは僕も同じだった。 「今夜起こった殺人は、全てあなたが仕組んだことだったのですね」 先生が言葉を付け加えた。それでも彼女はその表情を崩さなかった。先生は構わず話を続けた。 「あなたは今夜亡くなった男性全員と親密な関係にあったのですね。あなたはその信頼関係を利用して殺人を行い、その罪をご主人に擦り付けたのです。それが分かったとき、霧が晴れたようにすべての謎が解けましたよ」 「え?」 この先生の発言に、裕香さんは露骨に怪訝そうな表情を見せた。 「先ほど部屋を調査したとき、阿部さんの荷物の中に、紙おむつやおしゃぶりといった道具が入っていました。あれは彼の特殊な性癖を満たすために必要な道具なのではないですか? 鈴木さん」 先生が視線を鈴木さんに向けた。突然の名指しに、彼は若干の戸惑いを見せた。 「確かにあいつは、赤ん坊の格好をして女性にあやしてもらうのが好きだとよく言っていました」 「阿部さんはあなたとのアブノーマルな行為を愉しむためにあの道具を持参したのです」 「でもそれは、彼女である天野さんと使おうとしていたものじゃないんですか?」 僕は先生に反論した。裕香さんが犯人であるはずがない。あんな天使のような女性が、人を殺すなんてできる訳がない。僕はそう信じたかった。 「覚えているかい? 足立さんを地下室に閉じ込めたあと、天野さんは阿部さんに、部屋に行ってもいいかと尋ねただろう。しかし彼はそれを拒んだ。もし彼女と一夜を共にするつもりだったのなら、それを拒んだりはしないはずだ」 裕香さんは、刺すような視線を先生に向けている。先生は怯むことなく言葉を続けた。 「まず織田さんが殺害された第一の事件。私はてっきり、彼が持っていたグラスのどこかに毒が仕込まれているものだと思い込んでいた。しかしその発想自体がそもそもの間違いだった」 先生も僕と同じことを考えていたらしい。ではグラス以外のどこに毒がついていたというのだろう。 「あなたは彼の口ひげに毒を塗ったのです」 裕香さんの眉間に一瞬、縦皺が刻まれたのが見えた。 「彼が言っていました。今一番気に入っている女性が、自分の口ひげを触るのを気に入っている、と。その女性とは、あなたのことだったのですね」 裕香さんは、動揺を見せることなく先生を睨みつけていた。 「あなたは、彼がビールを飲んだあと、その口ひげについた白い泡を舐めとる癖を知っていたのでしょう。あの時足立さんがワインで乾杯しようと言ったのをさりげなく否定したのは、ワインでは彼の口ひげに白い泡がつかなくなってしまうから。それでは彼が口ひげを舐めるきっかけがなくなってしまう。あなたはそれを避けたかったのではないですか?」 裕香さんは、口を開かなかった。 「そして私達がリビングへ集合したとき、松戸さん達が言っていた足立さんに対する悪い噂。あれを彼らに吹き込んだのもあなただったのですね。全ては今日、彼らに仲間割れを起こさせるために。ご主人が織田さんを殺害した犯人だと思い込ませるために」 僕は生唾を飲み込んだ。本当に彼女が、そんな卑劣なことをしたというのだろうか。 「そして松戸さんが絞殺された第二の事件。ここであなたは、彼の性癖を利用して犯行に及んだ。伊藤さんが言っていました。彼には非常に強いマゾの気質がある、と。そこであなたは、彼の両手首を手錠でベッドにつなぎ、ネクタイで目隠しをした上で、彼の首を絞めたのです。これならば非力な女性でも、何の抵抗もされることなく相手を殺害することができる」 「でも裕香さんは、僕達がどこの部屋に泊まっているのかは知らなかったはずですよ」 僕は何とか彼女の無実を証明しようとしていた。しかし僕の思いもむなしく、先生は静かに首を横に振った。 「彼女は知っていたんだ。というより、彼女しか知らなかったんだよ。彼ら全員がどこに泊まっていたのかをね」 僕は複雑な表情で先生を見つめた。先生は再び裕香さんに視線を向けた。 「あなたはあらかじめ指定していたんだ。彼らがそれぞれ、どこの部屋に泊まって欲しいかをね。そして今夜、こっそり彼らの部屋に行くと約束していたのでしょう。ただしそれも、親密な関係にはない鈴木さんだけは例外だった。私達が最初に鍵を取り出したとき、松戸さんは鈴木さんと部屋の鍵を交換していました。あれは鈴木さんが先に、彼が泊まる予定だった部屋の鍵を取ってしまったからだったんだ。それではあなたが指定した部屋へ泊まることができなくなってしまう。だから彼はわざわざ鍵を交換したのです」 鈴木さんが僅かにはっとした表情を見せた。 「その証拠に、私と森村が泊まった部屋には至るところに埃が溜まっていました。しかし殺害された彼らの部屋は、きれいに掃除が行き届いていた。それは、彼らが泊まる予定の部屋しか掃除をしなかったからではないですか? 私達が今日ここへ来ることをあなたは知らなかった。だから私達が泊まった部屋にだけ埃が溜まっていたのではないですか?」 先生の質問に裕香さんは無言の回答を見せた。なぜ彼女はそのことを否定してくれないのだろう。にっこりと微笑んで、うっかり掃除するのを忘れてしまいました、と自分の頭を軽く小突いて舌をペロリとだす、あの愛らしい仕草をしてくれないのだろう。 「あなたは松戸さんと喧嘩をしていた足立さんが犯人であるという疑惑を強めるためにも、できるだけ早く誰かに彼の遺体を発見してもらう必要があった。だからあなたは、わざと部屋のドアを少しだけ開けて、誰かが中の様子を伺うように仕向けたのですね?」 裕香さんは、ふてぶてしい顔で先生を見ていた。そこには、僕が恋心を抱いていた彼女の可憐さは微塵も残っていなかった。 「そしてあなたは、あらかじめ用意しておいた合鍵を使って地下室の鍵を開け、ご主人を逃がした。これから起こす殺人を、足立さんの仕業だと見せかけるために」 「でも伊藤さんを殺したのは裕香さんじゃないですよね。だって裕香さんは犯人に襲われているし、あんな殺し方をしたら、ドレスが血まみれになっていないとおかしいじゃないですか」 僕は黙っている彼女に代わって、先生の推理の矛盾を突いた。彼女が犯人であって欲しくないという僕の気持ちを読み取ったのか、先生は僕の方を向き、少し申し訳なさそうな感じで言った。 「彼女は服を脱いで犯行に及んだんだよ。それも肉体関係にある二人なら、なんの違和感もない行為だからね。そして伊藤さんもまた、全裸で彼女と接していたんだ。その証拠に、彼の衣服にはほとんど血が付いていなかった。もし彼が服を着たまま殺害されたのなら、そのどれかに、もっと大量の血が付着していないとおかしいだろう? そして彼女は、体に大量に浴びてしまった返り血を、彼の部屋のシャワーを使って洗い流したんだ。勿論犯人に襲われたというのも、彼女の自作自演だったんだよ」 確かにそうであれば彼女が返り血を浴びていなかった理由も納得せざるを得ない。先生が裕香さんに向き直る。 「それからあなたは、私達が足立さんを搜索している間に天野さんを殺害した。そして彼女が亡くなっている光景を見て我を忘れたように装い、その場を逃走した。阿部さんを森の中へ誘い出し、隠し持っていた包丁で彼を殺害したのです」 「でも……それは全部先生の推測じゃないですか。裕香さんが犯人だという証拠はあるんですか?」 僕は半ば向きになっていた。彼女が犯人だという決定的な証拠を聞くまでは、意地でもそれを信じたくはなかったからだ。 「証拠はあるよ。それは、亡くなった天野さんが教えてくれたんだ」 先生が静かに言った。 「あなたは伊藤さんを殺害した際、自分の首を切るという自演を行なった。それは、足立さんが犯人であるということに信憑性を持たせるためだと思っていました。しかし、それだけが目的ではなかったのですね? そこにはもっと重要な意味が隠されていた……」 先生は裕香さんを一層力強い視線で見つめた。 「あなたは彼に付けられた首筋のキスマークを隠すために、あのような行為に及んだのですね?」 その言葉を聞いた瞬間、裕香さんは初めて先生から視線をそらした。 「天野さんは腹部を刺されていました。しかし彼女は、無傷である首を押さえて亡くなっていた。そして傍らの床には、彼女が自身の口紅で付けたキスマークの跡がくっきりと残っていました。死ぬ間際の人間が取る行動にしては余りにも不自然だ。そこでピンときたのです。これは、彼女のダイイングメッセージだとね。そしてそれは、あなたの首筋に付いたキスマークを暗示していたのです」 裕香さんは、悔しさを滲ませながら唇を噛み締めている。その表情を見て、僕はようやく全てを悟った。強ばっていた全身の筋肉が脱力するのを感じた。 「あなたは首を怪我されています。その包帯をとって証拠をみせて欲しい、と言いたくはありません。自供していただけますね?」 先生の口調には、相手を諭すような感情がこもっていた。数秒間、黙ったままだった彼女は、不意に微笑を浮かべた。しかしそれは、僕が知っている彼女の笑顔ではなかった。 「紳士なのね。探偵さん」 裕香さんは小馬鹿にしたような口調で言った。その言動は、完全に開き直っているといった感じだった。 「全く、余計なことを言うんじゃなかったわ。あんな女に足をすくわれるなんて最悪」 「天野さんは、あなたが犯人であることに気付いていたのですね? その口を封じるために、あなたは彼女を殺害した」 「残念でした。あの女が知っていたのは、私と阿部がデキてるってことだけだった。それも単なる『女の勘』ってやつ。ああいう馬鹿女に限ってそういうのは鋭いのよね」 裕香さんは、吐き捨てるように言った。すっかり変わり果ててしまった彼女の姿を、僕はただ唖然として見つめていた。 「あなた達が外へ出ていったあと、あの女に部屋へ呼ばれたの。そこではっきり言われたわ。あんたと要は付き合っているんでしょ、ってね。万が一そのことをあなたに入れ知恵されては困る。だから殺したのよ。その時に話しちゃったの。犯人は私で、この首の傷は伊藤につけられたキスマークを隠すために自分で切ったことをね。あの女の怖がる顔が見たかったのよ。冥土の土産ってやつ? まさかそれが仇になるなんて思いもしなかった」 裕香さんは、苦虫を噛み潰したような顔で言った。 「あの女はハエよ。あんなゴミ共に群がっている女なんてただのハエだわ。ハエを殺して何がいけないのよ!」 突然、彼女はその場に立ち上がり、声を荒らげた。僕は彼女のあまりの豹変ぶりに恐怖し、思わず彼女との間合いを広げた。 「全くこんなところにまでおむつを持ってくるなんて、どこまで変態なのよあの男!」 阿部さんのことだろう。 「そもそもあの馬鹿が、首にキスマークなんかつけたのがいけないのよ。私が部屋に入った途端、盛りのついた犬みたいに裸で襲いかかってきて、首に吸い付いてきたの……だからメッタ刺しにしてやったのよ! 本当にどいつもこいつもクズばっかり!」 これは伊藤さんのことだ。 「足立さんはどうしたのですか?」 先生がなだめるような口調で言った。しかしそれも、彼女の感情の昂りを抑えることはできなかった。 「さあ、今頃森の中でガタガタ震えているんじゃない? あの男には私の身代わりになってもらうはずだったから、殺すわけにはいかなかった。あの馬鹿、このままだとあなたが犯人にされるから逃げたほうがいいって言う私の話を信じて、森の中へ走っていったわ。それも、わんわん泣きながらね。その時のあいつのブサイクな顔ったら……。笑いを堪えるのに苦労したわ」 と、裕香さんは不気味な笑いを浮かべた。では、これまでの彼女の恐怖に怯えた態度も、旦那を想う優しい心も、全部嘘だったというのだろうか。僕は未だに信じることができなかった。 「動機は何ですか?」 先生が神妙な口調で尋ねた。 「復讐よ。自殺した妹のね」 裕香さんは両手を固く握り締めていた。彼女は怒りに震わせた声で続けた。 「あれは二年前のことよ。私が家に帰ると、妹が首を吊って自殺していたの。遺書にはこう書いてあったわ。夜の街で声をかけられた男達に、無理やり強姦されたって。それから男を見るとパニックになるって。だからもう生きていたくないって……。そこに書いてあったのよ。今日殺した男達と足立の名前がね」 「なぜ警察に話さなかったのですか?」 「馬鹿ね。それじゃあいつらを殺せないじゃない。あいつらは私が必ず殺す。あの子の遺書を見たとき、そう心に誓ったの」 裕香さんは遠い目をしていた。亡き妹のことを思い出しているのだろうか。 「幼い頃に交通事故で両親を亡くした私にとって、あの子はたった一人の家族だった。しかも当時、あの子はまだ十六歳だったのよ。あんなクズども、死んで当然じゃない! そうでしょ?」 同意を求められた先生は、口を開くことはなかった。 「私は夜の街で、あいつらの情報を集めた。そしてついに接触を図ったのよ。そして足立と親しくなり、結婚した。それからあいつに気づかれないように、ほかの奴らとも関係を持ったの。全てはこの日のためにね」 「なぜそんな手の込んだことを……」 「妹と同じ思いを味わいたかったのよ。その上であいつらを殺さないと、あの子の復讐にはならないでしょ?」 微笑を浮かべつつ、彼女は言った。しかしその瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。 「さりげなくあの男に聞いてみたことがあるの。妹のことを覚えているか。勿論、私の妹であることは隠してね。そしたらあいつ、全く覚えていなかったのよ。なんの罪の意識も感じていなかった。だから私が、罰を与えてやったのよ」 全てを語り終えた彼女は、大きなため息を一つついた。 「終わったのね、何もかも……」 彼女の言うとおり、全てが終わった。僕はそう思った。だがそうではなかった。 裕香さんは、ガウンのポケットに手を入れると、オブラートに包まれた小さな包を取り出し、それを口に含んだ。それは一瞬の出来事だった。僕達にその行動を止めるほどの余裕はなかった。そしてすぐに、彼女は苦しげな喘ぎ声を上げながらその場にへたり込んだ。僕はその姿を見て、もうどうすることも出来ないことを悟った。それは、先生と鈴木さんも同様のようだった。 「……あ…………や……」 力尽きる間際、裕香さんは何かをつぶやいたようだった。しかしそれは、僕には聞き取ることはできなかった。程なくして、彼女は床に倒れたまま動かなくなってしまった。僕はただ、自ら命を絶ってしまった彼女の姿を見つめ続けることしかできなかった。
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