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作品名:童貞紳士の事件簿2 作者:木城康文

第8回   第7章 止まらない死の連鎖
 午後十一時四十七分――。僕達がリビングへ戻ると、阿部さんが扉の前に立っていた。その表情からは、なにやらただならぬ気迫のようなものが感じられた。
「探偵さん、俺達で話し合ったんですけど、これから皆であいつを捜しに行きませんか?」
 あいつとは、どう考えても足立さんのことだろう。
「さっき玄関を見に行ったら、鍵が開いていたんです。あいつはこの森のどこかに隠れているんですよ。これ以上誰かが殺される前に、あいつを捕まえるんです!」
 阿部さんが続けて言った。その英断の裏には、持て余した不安を少しでも紛らわせるという意味も含まれているように感じた。
「しかし、あまり単独で行動しない方が懸命では……」
 その意見に先生が難色を示した。僕も先生の意見に賛成だった。
「だから二手に分かれるんですよ。探偵さん達二人と、俺と明の二人に。裕香さんと亜紀はここに残ってもらえばいいんです。ここに懐中電灯もあります」
 と、阿部さんはすでにテーブルの上に用意されていた二本の懐中電灯を指さした。鈴木さんが慌てて言葉を付け足した。
「ああ、これはあそこの机の中に入っていたもので、誰かが部屋を出たわけではありません。念の為にお伝えしておきます」
 しかしそんな言葉など、僕の耳には全く入ってこなかった。阿部さんの言った探偵さん達の「達」とは、当然僕のことだ。僕は、欲しい玩具を買ってもらえない子供のように駄々をこねてでも、そんなことはしたくなかった。
 これから搜索しようとしているのは三人もの人間を殺害した人物だ。正気を失った足立さんが、僕達に襲いかかってくることだって十分有り得る。伊藤さんを殺害した時の凶器を、彼は今もまだ所持しているはずだ。暗闇の中で奇声を上げながら刃物を振り回す血まみれの男。想像しただけで僕の足は恐怖にすくんだ。
 しかし僕の想いとは裏腹に、先生は阿部さんの勢いに気圧されて、徐々に彼の意見に流されていくのを雰囲気で感じ取った。僕は心の中で、先生に念を送った。
「分かりました。行きましょう」
 残念ながら僕の念は先生には届かなかったようだ。阿部さんと先生はテーブルに置いてある懐中電灯を手にとった。僕は覚悟を決めざるを得なかった。
「そうだ裕香さん、何か武器になりそうなものはないか?」
 阿部さんが言った。確かに丸腰で刃物を持った男に立ち向かうのはあまりにも危険だ。
「武器って……そんな物騒なもの、ありません」
 裕香さんが何度も首を横に振りながら答えた。
「じゃあモップや箒でもいいから」
「それだったら、地下室にあります。取ってきましょうか」
 裕香さんはその場に立ち上がると、出口に向かって歩き出した。
「あ、あの……裕香さん」
 先生がうつむいたまま恥ずかしそうに、彼女を呼び止めた。その情けない声に、裕香さんがこちらを振り向いた。
「鍵……」
 先生はポケットに入っていた地下室の鍵を取り出し、それを見せながら呟いた。それを見た彼女は、照れたような微笑を浮かべた。
「すみません、気が動転していて……」
 裕香さんは先生から鍵を受け取った。なぜか先生はそんな彼女に対し、意味も無く申し訳なさそうに会釈をしている。
「ああ、俺も行くよ」
 部屋を出ようとしていた彼女に阿部さんが声をかけた。二人は揃ってリビングを出ていった。そして天野さんが、またしても裕香さんに、刺すような視線を送っていたのだった。
 数分後、四本のモップを持った阿部さんと裕香さんが戻ってきた。僕達はそれぞれ一本ずつそれを受け取った。
「じゃあ、行こう」
 僕達は全員でぞろぞろと玄関へ向かった。
「いいか、お前ら。俺達が外へ出たら玄関に鍵をかけて、絶対に外へ出るんじゃないぞ」
 阿部さんが、裕香さんと天野さんを交互に見ながら言った。裕香さんに対して敬語を使う余裕もないところに、彼が相当切迫しているのが窺える。
「じゃあ探偵さん。十二時半になったらまた玄関の前で落ち合いましょう。玄関の鍵は俺が預かっていますから。暗いので森の中で迷わないように気を付けてください」
「分かりました。お二人もお気を付けて」
 鈴木さんの言葉に先生がそう返すと、彼らは揃って頷いた。女性二人は不安そうな顔で僕達を見つめている。
 阿部さんが玄関のドアを開けた。その瞬間、冬が間近に迫っていることを感じさせる寒気が室内に吹き込んできた。
「寒っ……」
 阿部さんが呟いた。スーツを着ている僕でさえ寒いのに、ガウン一枚の彼の寒さは相当なものだろう。しかし彼には、わざわざそれを着替えに行くほどの精神的な余裕はないように見えた。
 ドアを閉めると、僕達は後ろを振り返った。カチャリとドアに鍵がかかる音がした。ドアについている窓に映る裕香さんが、小さく頷いた。僕達はそれをしっかり見届けると、木造の階段を足早に駆け下りていった。
「俺達はこっちを捜します。探偵さん達はあっちの方をお願いします」
 鈴木さんが真逆の方向を指しながら言った。僕達と彼らは、二手に分かれて足立さんの捜索を開始した。
 先生は右手にモップ、左手に懐中電灯を持ち、時折足立さんの名前を呼びながら小走りで進んでいく。そこからは、微塵も怯えの色を窺い知ることはできなかった。一方の僕はというと、震える両手でモップを握り締め、できるだけ先生と離れないように付いていくのが精一杯だった。
 いつしか僕達は、眼前に多くの木が立ち塞がる鬱蒼とした森へ、足を踏み入れていた。今にもあの木の影から、刃物を振りかざした足立さんが僕に襲いかかってくるのではないか。そんな妄想が脳裏をよぎった。そしてその妄想は、瞬く間に僕の全身を支配した。夜風に揺れる枝葉のざわめきにさえ過敏に反応してしまう。
 不意に頭の中に、伊藤さんの凄惨な死に様が鮮明に蘇った。そして彼の顔が、自然と自分の顔にすり替わる。全身を血の赤に染めた僕が、ガラス玉のような感情のない瞳で僕を見つめている。
 息が苦しい。死の恐怖が、呼吸を司る脳の本能的な部分にまで侵食してきたのかもしれない。息を吸い込む。それからどうしていたのか思い出せない。だからさらに息を吸い込む。息がうまくできない。苦しい。死にたくない。僕は死にたくない――。
「森村君」
 先生の声に僕は顔を上げた。目の前にいる先生は、右手に懐中電灯とモップを持ち、左手を僕に差し伸べていた。僕の右手は、考えるよりも早くその手を取っていた。先生の大きな手を通して、人のぬくもりが伝わってくる。それは僕に、息を吐くことを思い出させてくれた。数回、深呼吸を繰り返す。
「大丈夫かい?」
 先生が優しい声で囁いた。僕はしばらくその顔を見つめたあと、ただ黙ってうなずいた。そうだ、僕にはスーパーマンがついている。先生は元刑事で、柔道の段位を持っている。もし足立さんが刃物をもって襲いかかってきたとしても、得意の一本背負いで返り討ちにしてくれる。何も恐れることはないのだ。
「じゃあ、ゆっくり歩いて行こう」
 先生は僕の手を取ったまま歩きだした。僕もその手を離そうとはしなかった。この繋がった二つの手だけが、僕が冷静さを保っていられる唯一の手段だったからだ。僕達はさらに森の奥へ歩を進めた。

 午前零時二十二分――。
「そろそろ別荘へ戻ろう」
 腕時計を見ながら、先生が言った。僕達は似通った景色の森の中を歩いていたが、人の気配を見つけることは出来なかった。そしていつしか、阿部さん達と約束していた集合時間が間近に迫っていたのだった。
 先生は僕の手を引き、元来た道を引き返していく。程なくして、開けた場所へ出た。ここは見覚えがある。あと数分も歩けば別荘にたどり着くはずだ。すると先生は、さりげなく僕の手から自分の手を離した。阿部さん達にこんな姿は見られたくなかったのだろう。あらぬ疑いをかけられるのがオチだ。それは僕も同じ気持ちだった。
 別荘の前には、すでに二人が戻っているのが見えた。阿部さんが懐中電灯の明かりをこちらに向けている。しかしそこに足立さんの姿はなかった。
「どうでした」
 鈴木さんが先生に尋ねた。すると先生は黙って首を横に振った。
「そうですか、こっちにもいませんでした」
「どこに行きやがったんだ、あいつ」
 その阿部さんの言葉からは、足立さんを思いやるような調子は全く見受けられなかった。そこにあったのは、仲間を殺した犯人に対する憎悪だけのように感じた。
「一旦中に戻ろう。リビングかどこかで一箇所に集まっていれば大丈夫だよ」
 鈴木さんが言った。僕達は揃って階段を上がり、玄関のドアの前に来た。
 鈴木さんがズボンのポケットから鍵を取り出した。しかし彼は、それを鍵穴に差し込む前に、ノブに手をかけた。地下室の一件があったため、一応鍵がかかっていることを確認しようとしているのだろう。ノブを捻り、前方へ力を加える。するとそのドアは、なんの抵抗も示すことなく、僕達を中へ招き入れてしまった。
 僕達は顔を見合わせた。恐らく全員が不吉な予感を抱いたことだろう。別荘の中は静まり返っていた。まるで、既にここには生きている人間がいないかのような深い静寂だった。僕達は足音を立てないように、廊下を進んでいく。
 先頭の阿部さんが静かにリビングの扉を開く。しかし部屋に電気は点いておらず、誰かがいるような様子はなかった。僕達はすぐに扉を閉め、さらに廊下の奥へ進んだ。
 阿部さんはある一室で足を止め、その部屋のドアを軽くノックした。どうやらここが裕香さんの部屋らしい。
「はい……」
 裕香さんの声だ。その声には明らかな怯えの色が見えたが、どうやら彼女は無事だったようだ。僕は思わず胸をなでおろした。
「無事だったか。よかった」
 阿部さんが安堵の声を漏らした。彼の声で、僕達であることを認識したであろう裕香さんは、ゆっくりと部屋のドアを開いた。
「主人は、見つかったんですか?」
「いや、それよりお前、玄関の鍵を開けたのか?」
 阿部さんが間髪入れずに、裕香さんに反問した。彼女は面食らったような顔で、首を横に振っている。僕達の不安は一層色濃いものになっていく。
「何かあったんですか?」
「玄関の鍵が開いていたんだ」
 それを聞いた裕香さんの顔が、みるみる青ざめていくのが分かった。
「亜紀はどうした」
「あの女の人なら、一人になりたいって自分の部屋へ戻りました」
「俺達と一緒に来てくれ。一人でいないほうがいい」
 阿部さんの言葉に、裕香さんは黙ってうなずいた。僕達は阿部さんを先頭に、五人で階段を上がり天野さんの部屋へ向かった。
 二階にはかなり強い、血の臭いが充満していた。その不快な臭いが、否が応でもここで人が死んでいるのだということを回顧させる。二階の廊下の突き当たりにある天野さんの部屋をノックする。数秒経っても返事がない。不吉な予感に、僕達は周囲の人と顔を見合わせた。
「亜紀、亜紀!」
 阿部さんが彼女の名前を呼びながら、強めにドアを叩く。しかしやはり返事はない。阿部さんがノブに手をかけた。そしてゆっくりとドアを押し開ける。鍵はかかっていない。そして僕達の目の前に飛び込んできた光景は、思い描いていた不吉な予感そのものだった。
 天野さんは大量の血を流し、横向きに倒れていた。その姿を見て、もう息はないというのがひと目で分かった。
「裕香!」
 突然阿部さんが叫んだ。後ろを振り向くと、先程まで確かにいたはずの裕香さんの姿がなかった。阿部さんの視線の先に目をやると、彼女が狂ったような勢いで廊下を走り去っていくのが見えた。錯乱状態に陥り、何とかこの場から逃げだそうとしているのだろう。
 阿部さんはモップをその場に放り出し、全速力で彼女の後を追いかけた。先生と鈴木さんもモップを投げ捨て、阿部さんの後を追って駆け出していく。僕は一人になりたくない一心で同じようにモップを放り、先生達に続いた。
 僕は玄関で靴を履くとき、二足のヒールがあることに気が付いた。裕香さんは靴も履かずに外に出たのだろうか。玄関を出ると、そこには既に裕香さんと阿部さんの姿はなかった。
「要!」
 鈴木さんが叫んだ。しかし返事はない。僕達は先生の懐中電灯の明かりを頼りに、適当に周辺を駆け回る。定期的に彼らの名前を呼んでみるが、やはり返事はない。数分経った頃、戦慄に彩られた女性の悲鳴が山々に響きわたった。僕達は声のしたほうへ急いだ。
 そこには地面に蹲ったまま震えている裕香さんの姿があった。その前方には、心臓に包丁が突き刺さったまま、大の字になって倒れている阿部さんがいた。彼は靴を履いていなかった。慌てて彼女を追いかけてきたからだろう。それは裕香さんも同様だった。
「裕香さん」
 鈴木さんが、彼女の肩に触れた。その瞬間、彼女は沸騰した薬缶のように、甲高い悲鳴をあげ続けた。彼がどんな言葉をかけても、その悲鳴が止むことはなかった。僕はその光景を、他人事のようにただ呆然と見つめていることしかできなかった。
 ついに鈴木さんは、無理やり彼女の顔を上げさせ、その頬に平手打ちを食らわせた。悲鳴が止んだ。そしてすぐに、彼女は大粒の涙を流し始めた。抑えられない嗚咽が、彼女の悲痛な心情を物語っていた。
「別荘に戻ろう。ここにいては危険だ」
 鈴木さんが彼女の肩に手を添え、立ち上がらせる。僕達はゆっくりとしたペースで、別荘へ引き返した。

 午前零時五十一分――。僕達はリビングへ集合していた。あれだけ窮屈だったソファには、もうたった四人しか座っていない。
「鈴木さん、阿部さんの部屋はどこだかご存知ですか?」
 先生が尋ねた。
「あいつの部屋は、確か『]』番だったと思います」
「私達はこれから、天野さんと阿部さんの部屋を調べたいと思います。その間、裕香さんをお願いしてもよろしいですか?」
 僕達は裕香さんのほうを見やった。しかし彼女は、うつむいたまま憔悴し切った表情を見せているだけだった。
「分かりました」
 鈴木さんの言葉を信じ、僕達は二階の天野さんの部屋へ向かった。
 部屋のドアは当然開いたままになっていた。僕達は部屋の中に足を踏み入れる。最初に発見したときには気がつかなかったが、横向きに倒れている彼女の遺体は、不自然な体勢をしていた。両手で首筋を押さえていたのだ。
 彼女の首には外傷は見られなかった。ドレスの腹部に大量の血がついていることから、死因は恐らく腹部を刺されたことによる失血死だろう。幹部を押さえているのならわかるが、なぜ彼女は無傷である首を押さえて亡くなっているのだろう。
 先生は遺体の傍らにしゃがみこみ、フローリングの床をじっと見つめている。僕もその隣にしゃがみ、視線の先に目を向けた。そこには赤い口紅でつけられたキスマークの跡がくっきりと残されていた。彼女の口紅の色と一致しているように思う。床に倒れたときに付いてしまったのだろうか。
 トイレには特に変わったところはなく、バスルームは使用した形跡がなかった。そして先生は、またもテレビが乗っている台の上を真剣な顔つきで見つめていた。やはりそこには何かが置いてあったり、付着しているということはなかった。
「じゃあ、阿部さんの部屋へ行こうか」
 僕達は天野さんの部屋を後にし、阿部さんの部屋へ移動した。
 『]』という文字が刻印されたドアの前に来た。先生がドアを開ける。そこには鍵はかかっていなかった。阿部さんが最後にこの部屋を出たのは、伊藤さんの遺体を発見した時だから、それも当たり前だと思った。鍵をかける余裕など、あの時の彼にはなかっただろう。
 部屋には電気が付いたままだった。部屋を見回すと目についたのは、床に脱ぎ捨てられた紋付袴と、ベッドの傍らに置いてある茶色い革製のバッグだ。僕達はその中身を調べてみた。しかしそこに入っていたものは、全く予想だにしないものだった。
 そこには、数枚の紙おむつが入っていたのだ。そのほかにも、哺乳瓶やガラガラ、おしゃぶりといった、赤ん坊を扱うときに使う道具が詰め込まれていた。当然この別荘には赤ん坊などはいない。では一体彼はなぜこのようなものを持ってきたのだろうか。どこか赤ん坊がいるところへ立ち寄る予定があったのだろうか。
 ここで僕は推理してみた。
 恐らく足立さんは、僕達が外へ出るところを、どこかの物陰に隠れて監視していたのだろう。その隙を突いて、持っていた合鍵で別荘の中へ侵入し、天野さんを殺害したのだ。彼はここにいる全員を皆殺しにして、逃亡を図ろうとしている。彼には天野さんを殺害する動機はなかったはずだから、そうとしか考えられない。そして今度は矢継ぎ早に、裕香さんの後を追って一人で森にいた阿部さんを殺害した……。
 僕には、ほかの可能性を考えられるほどの精神的な余裕は残されていなかった。いかにして自分の命を守るか。そのことだけで頭がいっぱいになっていた。
 先生は電気スタンドの笠を見つめていた。しかし例によってそこには、なんの違和感もなかった。そしてすぐに僕のほうを向き、こう言った。
「森村君、行こう」
 その先生の声からは、何やら確信めいたものを感じた。僕は先生が、この事件の真相に気づいたことを悟った。


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