午後十一時十二分――。僕と先生は二人並んで大きなベッドに寝そべり、ただ黙って天井を眺めていた。先生に話しかけようにも、こんな時に何の話をしていいかが分からず、結局無言のままただ時だけが流れていくのだった。先生は今、事件のことを考えているのだろうか。 その刹那、静寂を引き裂く女性の悲鳴が館中に響きわたった。その恐怖に彩られた奇声に、僕は戦慄を覚えた。先生は全く躊躇することなく部屋のドアを勢い良く開け放ち、その声の方に向かって駆け出していく。僕はただ一人にはなりたくないという理由だけで、先生の後を追った。そこには正義感などという格好のいい感情は微塵もなかった。 廊下の先には、ドアの開いた一室の前で腰を抜かして倒れている裕香さんの姿があった。なにやら彼女は右手で首の当たりを抑えているのが分かった。隣には鈴木さんが心配そうに付き添っている。その後ろでは、天野さんが傍らの阿部さんに腕を回し、戸惑いの色を見せて立ち尽くしているのが見えた。 僕達はその一室の前にたどり着き、部屋の中に目を向けた。部屋の床には、全身を血の赤に染め、うつ伏せに倒れている、全裸の伊藤さんの姿があった。あの状態で生きているはずがないというのは一目瞭然だった。僕はその悲惨な光景から思わず目を背け、倒れている裕香さんの方を見やった。 彼女が右手で抑えている首筋からは、流血が見られた。そこから流れた血が、白いドレスを点々と赤く染めている。顔からは苦悶の表情が窺える。 「裕香さん、大丈夫ですか!」 僕は倒れている裕香さんの傍らへしゃがみ込んだ。 「早く手当しないと」 鈴木さんが興奮気味に言った。こんな状況で落ち着いていられる方がおかしい。ほどなくして先生も、裕香さんの傍らにやってきた。 「裕香さん、この別荘に救急箱とかないんですか?」 「……地下に、あるんですけど」 僕の質問に、裕香さんは辛そうな口調で答えた。それは、怪我による痛みのせいだけではなかったのだろう。地下にいる足立さんと顔を合わせたくなかったのだろう。彼が閉じ込められているという状況下で伊藤さんは何者かに殺害された。つまり、彼は犯人ではなかったという事になる。無実の旦那を疑ってしまった後ろめたさがあるのだと僕は感じた。 「じゃあ、早く地下室へ」 鈴木さんは裕香さんの肩にそっと手を添え、彼女を立ち上がらせた。僕達は連れ立って階段を下り、地下室へ向かった。 「ここです」 地下室へのドアの前に着くと、先生はスーツのポケットから鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込んだ。カチャリという音が響く。先生がノブを回す。しかしそのドアが開くことはなかった。先生はノブをガチャガチャと、押したり引いたりを繰り返している。 「開かない……」 「え、じゃあ元々鍵が開いていたってことですか?」 先生の呟きに、阿部さんが答えた。確かにそういうことになる。しかし鍵を持っている先生はずっと僕と一緒にいた。事前に鍵を開けておくことなど不可能だ。では一体誰が鍵を開けたのだろう。だが今はそんなことを悠長に考えている場合ではない。 先生は試しにもう一度鍵を鍵穴に差し込み、それを捻った。そしてドアをゆっくりと押し開ける。するとそのドアは呆気なく開いた。やはりこのドアの鍵は元から開いていたのだ。そしてそれが何を意味しているのかは、この僕にでも分かった。 僕達は先生を先頭に一列になり、恐る恐る狭い階段を下っていく。地下には暖房がないのか、外気とさほど変わらない冷気が僕の体を包んだ。 僕達が階段を下りきると、そこは狭い物置のような感じになっていた。天井からは一つしかない白熱灯が、頼りない光で部屋を照らしている。その明かりは、足元が不自由なく見える程度のもので、決してこの不安な気持ちを和らげてくれるほどの光ではなかった。壁の周囲は二段になっている棚が包囲しており、そのほとんどがダンボールで埋まっている。そしてやはり、そこにいるはずの人物の姿はなかった。 「隆弘は……あいつはどこに行ったんだよ!」 阿部さんが叫んだ。この部屋にはとても人が隠れられるような空間はない。奥の天井には通気口があったが、とても人が通れるような大きさではない。やはり足立さんは、鍵が開いている間にここを脱走したのだろう。 「それより今は彼女の手当てをしないと」 鈴木さんが取り乱している阿部さんを諭すように言った。 「救急箱はあそこに……」 裕香さんが指を指した先には、家庭によくある白い救急箱が置いてあるのが分かった。一番近くにいた先生がそれを手にとり言った。 「取り敢えずここを出ましょう」 その先生の意見に異論はないようだった。それもそのはずで、少しの間ここにいただけで、体がかなり冷えてきていたからだ。僕達は地下室を後にした。先生は念のためだったのだろう。地下室に鍵をかけた。 「ありがとうございます。後は私一人で出来ますので……」 裕香さんは、空いている左手で先生が持っている救急箱を手に取ると、自分の部屋に向かって歩きだした。 「で、でも一人では……」 先生は上ずった場違いな声で裕香さんを呼び止めた。彼女は少しだけ僕達の方を振り返り答えた。 「大丈夫です。着替えもしたいので……すみません」 「で、では、私達はリビングにいますので、手当が終わったらリビングへいらしていただけますか?」 先生はうつむいたまま尋ねた。裕香さんは小さな声で、はいとだけ返事をした。僕達は裕香さんと別れ、リビングへ向かった。
午後十一時二十四分――。リビングのソファに腰掛けている僕達は、鉛のような沈黙に包まれていた。僕達の中に三人もの人物を殺害した人間がいる。それはもはや否定できない事実だった。皆次に命を狙われるのは自分ではないかと戦々恐々としているのだろう。少なくとも僕はそうだった。そんな不吉な妄想に、僕の心臓の鼓動は一向に収まる気配を見せなかった。 そんな時、ゆっくりとリビングの扉が開いた。僕は慌てて扉の方を振り返った。現れたのは裕香さんだった。首に包帯を巻き、阿部さんと同じガウンを着ている。彼女は黙ってソファの空いているスペースに腰をかけた。 「それでは皆さんにお伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか……?」 先生が申し訳なさそうに口を開いた。全員が表情のない顔で先生を見やる。 「皆さんの中で部屋に戻られてから、一度でも部屋を出たという方はいらっしゃいますか?」 僕はもうその答えは分かっていた。そしてやはり僕の思ったとおり、誰も返事をする人はいなかった。先生もこうなるだろうと分かっていたのだろう。確認を取ることなく次の質問に移った。 「では伊藤さんが亡くなっているのを最初に発見されたのはどなたですか?」 裕香さんが胸の当たりまで小さく手を挙げた。全員の目が裕香さんに向く。 「あの……私、本当は探偵さんに用があったんです。地下室の鍵を開けてもらおうと思って。さっき入ったときに分かったと思うんですけど、あそこってこの時期は夜になるとかなり冷えるんです。それで、せめて主人に毛布でも持って行ってあげたくて」 犯人だと疑っていても、やはり二人は夫婦なのだ。僕は、旦那を思う裕香さんの妻としての優しさに心を打たれた。 「それで、適当に二階の廊下を歩いていたら、一つだけ少しドアが空いている部屋を見つけたんです。気になって中を見てみたら……」 裕香さんは、最後の言葉で喉が詰まったような声になった。あの凄惨な光景を思い出してしまったのだろう。 「ではその首の怪我はどうされたんですか?」 ここからは女性恐怖症の先生に代わって、僕が裕香さんに質問をする番だ。僕は、彼女がここへ来るのを待っている間に、先生から質問する内容を耳打ちで確認していたのだ。しかし彼女は、満を持して登場した僕の質問には答えてくれなかった。 「伊藤さんの部屋を見たとき、まだ犯人が部屋の中にいて、その人にやられたんじゃないですか?」 やはり彼女は何の反応も示してくれない。ただうつむいて黙ったままだ。そして僕は、頭に浮かんだある一つの仮説を彼女にぶつけた。 「その人はもしかして、足立さんだったんじゃないですか? あなたはご主人をかばって、何も話そうとしないんじゃないですか?」 裕香さんは、はっとして僕の方を見つめた。そしてまたすぐに、テーブルとにらめっこの状態に戻ってしまった。やはり僕の思ったとおりだ。僕は更に突っ込んだ。 「裕香さん、正直に話していただけませんか?」 彼女はしばらく黙っていたが、徐にその重い口を開いた。 「あの時ドアを開けたら、血まみれになって倒れている伊藤さんと、その近くで包丁を持って立っている主人を見つけたんです。主人は私に気づくと、いきなり襲いかかってきて……首を切りつけたあと、そのまま一階へ逃げていきました」 「やっぱりあいつが犯人だったんだ……」 阿部さんが呟いた。その声からは、もはや足立さんに対する憎悪しか感じられなかった。 「ちょっと待てよ。じゃあ、一体誰が地下室の鍵を開けたんだよ」 続けて阿部さんが思い出したように僕達に尋ねた。 「鍵を持っていたのは……」 天野さんが言うと、全員の視線が自然に先生に集まっていく。その訝しげな視線の意味は当然僕にも理解できた。 「先生じゃありませんよ! 先生はずっと僕と同じ部屋にいたんです。一度も部屋を出ていないんだから、そんなの無理ですよ!」 僕は思わず声を荒らげて先生の無実を訴えた。彼らはなおも不信気な顔をして先生の顔を見つめ続けていた。しかし一人だけ、僕の言葉を信じてくれた人物がいた。 「俺も、探偵さんじゃないと思う。探偵さんがそんなことをする理由がないだろう」 鈴木さんだった。 「じゃあ……誰があの殺人鬼を逃がしたって言うんだよ!」 阿部さんが勢いよく立ち上がり、怒号を上げた。裕香さんは突然の大声に恐怖したのか、前屈みになり両手で耳を被っている。その両手は小刻みに震えていた。阿部さんはそんな彼女を見て、冷静さを取り戻したようだった。 「皆さん、私と森村はこれから伊藤さんの部屋へ行って、犯人の手掛かりがないかを調べたいと思います。その間、絶対に誰もこの部屋から出ないようにしていただきたいのです。どうか、ご協力をお願いします」 先生は立ち上がり、深々と頭を下げた。 「分かりました。よろしくお願いします」 鈴木さんが率先して、先生の言葉に返答した。ほかの人からも特にこの意見に反対する声は聞かれなかった。僕達はリビングを後にし、二階にある伊藤さんの部屋へ向かった。 彼の部屋に近づくにつれ、開け放たれているドアから鉄が酸化したような不快な臭いが漂ってくるのを僕の鼻腔が捉え始めていた。僕はその生々しい死者の臭いに、歩を進める足取りが自然に重くなっていくのを感じていた。 先生は全く戸惑いを見せることなく彼の部屋に入っていく。しかし僕はその部屋の前で、中に入ることに二の足を踏んでしまった。一層存在感を増した死者の臭い。そして全裸の伊藤さんの全身を真紅に染めているもの。あれは紛れも無く人間の血なのだ。僕はこんなに凄惨な死に方をしている遺体を見るのは初めてだった。たまらなく怖いはずなのに、なぜか自分の目を、彼の遺体から引き剥がすことができない。 「森村君、リビングへ戻っていてもいいんだよ?」 先生の声に僕は顔を上げた。そこには心配そうな顔で僕を見つめている先生が佇んでいた。そうだ、僕は先生の助手なのだ。僕の臆病な性格なんかのせいで先生に迷惑をかけるわけにはいかない。 「大丈夫ですよ」 僕は、そんな感情を悟られないように、わざといつもより明朗な返事を返した。その偽りの言葉に、先生は不安げな表情を崩さなかったが、僕は勢いに任せて部屋の中へ足を踏み入れた。 うつ伏せに倒れている伊藤さんの背中には、いくつもの刺し傷があった。それはかなり深部まで侵食しており、相当力を加えて突き刺したものだということがわかる。この有様を見ると、これだけ大量の出血をしているのも頷ける。 そして彼の髪も、松戸さんの遺体同様に、濡れているのが見て取れた。僕達が最後にリビングで彼の姿を見たときには、確か髪はまだ濡れていなかった。という事は、彼はその後にシャワーを浴びたということになる。 部屋を見回してみると、床には白いスーツの上下、ネクタイ、ガウン、Yシャツ、靴下、下着が無造作に脱ぎ捨てられていた。いくつかの衣類には、点々と血が飛び散っている。この白いスーツは伊藤さんが身に付けていたものであったことから、恐らくそのほかの衣類も彼が身に付けていたものだろう。 先生は、血が点々と付いたガウンを、ちょっと間まじまじと眺めていた。 それから僕達は、トイレとバスルームを調べてみた。トイレはこれといって変わったところは見られなかった。バスルームは使用された形跡があったが、伊藤さんの髪が濡れていたことから、恐らく彼が使用したものと考えて間違いないだろう。 ここで僕は推理してみた。 まず犯人は伊藤さんの部屋を訪れ、油断して背中を見せた彼を、背後から刃物で刺したのだろう。そして、その場に倒れた彼に、執拗に何度も刃物を突き立てた……。なぜ犯人はここまで残忍な殺害の仕方をしたのだろう。犯人は伊藤さんに相当な恨みを持っていたのだろうか。 そして犯人はなぜ、殺害した伊藤さんを全裸にする必要があったのだろう。何か伊藤さんの衣服に、犯人の証拠となるものが残ってしまったのだろうか。しかしそうだとしたら、犯人はその衣服を持ち去っているのではないだろうか。現場にそれを残していくのは不自然な気がした。 裕香さんの証言では、犯人は足立さんということになる。しかし勿論裕香さんが嘘をついているという可能性も否定できない。その場合、一番犯人として怪しいのは彼女ということになってしまう。しかし彼女には、織田さんと松戸さんを殺害することはほぼ不可能だった。伊藤さんだけを殺害したとは思えない。やはり犯人は彼女の言うとおり、足立さんなのだろう。 あんな殺し方をすれば、犯人は相当の返り血を浴びているはずだ。しかし彼らの中に血まみれになっている人物はいなかった。足立さんが犯人であれば、そんな人物がいなかったことも納得がいく。 では地下室の鍵を開け、足立さんを逃がしたのは一体誰なのだろう。 やはり一番可能性が高いのは、一連の殺人を実行した足立さんの共犯者だろう。ではその人物は誰か。まず、地下室の鍵は先生が持っていた。これは間違いない。救急箱を取りに地下室へ行くとき、先生の持っていた鍵でドアが開いたからだ。 しかし地下室のドアを開ける鍵が、先生の持っていたもの一本だけとは限らない。合鍵の存在だ。この別荘の持ち主の妻である裕香さんは勿論、これまでに何度もこの別荘を訪れたことがある阿部さん、鈴木さんにも、合鍵を作る機会は恐らくあったはずだ。天野さんに関しては不可能な気がするが、もし彼女が、彼氏である阿部さんと共犯で、あらかじめ合鍵を預かっていたとしたら……。結局全員が、地下室の鍵を開けた可能性があるという結論に到ってしまった。 足立さん自身が鍵を開けたのかもしれない。あらかじめこうなることを予測していた彼が、地下室のドアに中からでも鍵が開くような細工をしていたとしたら……。家主である彼なら、誰にも気付かれずにそれを行うこともできただろう。 元々鍵などかかっていなかったという可能性も考えられる。僕達は足立さんが地下室に入るところを実際に目撃したわけではない。伊藤さんと阿部さんが言ったことを鵜呑みにしただけなのだ。もし彼らが初めから、足立さんを地下室に閉じ込めてなどいなかったとしたら……。彼を地下室に入れようと提案したのは伊藤さんだった。その可能性は十分にある。 それは彼らが足立さんと共犯だったのか、仲間としての情が働いたのかは分からないが、結果として伊藤さんが殺害されることになってしまった。もしこの仮説が真実だったとしたら、今阿部さんは相当な焦燥感に苛まれていることだろう。 僕は考えるのを中断し、ふと先生の方を見た。先生はテレビが乗っている台に人差し指を滑らせ、その指先をしげしげと見つめていた。しかしその指先には、特に何もついている様子はなかった。僕にはその先生の行動の意図がよく分からなかった。 「森村君、リビングに戻ろう」 僕達は伊藤さんの部屋を出ると足早に階段を下り、リビングへ向かった。
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