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作品名:童貞紳士の事件簿2 作者:木城康文

第5回   第4章 崩れ去る友情
 午後七時二十三分――。僕達は全員リビングのソファに腰掛けていた。九人で座ると、このソファは割と窮屈だった。どうしても、僕の隣に座っている裕香さんと肌が密着してしまう。僕は沸き上がる興奮を必死で抑え、織田さんが亡くなった事件について推理してみた。
 あの時織田さんは、ビールを飲んだ直後に突然苦しみだし、そのまま亡くなってしまった。しかし前に先生が言ったように、もしビールの中に毒が入っていたのだとしたら、織田さんと同じ瓶から注がれたビールを飲んだほかの人もすでに亡くなっているはずだ。という事は、彼が持っていたグラスのどこかに毒が仕込まれていた、と考えるのが自然なのではないだろうか。
 だが織田さんがあのグラスを手にしたのは全くの偶然だったはずだ。足立さんがグラスを廻していき、たまたま彼にあのグラスが当たってしまっただけなのだ。
 ……いや。足立さんであれば任意に、織田さんに毒の仕込まれたグラスを渡すことができたはずだ。うまく誰にどのグラスが渡るかを計算すれば、決して難しいことではないだろう。食器棚からグラスを出したのも足立さんだった。あらかじめ毒を仕込んでおいたグラスを確認することもできた。もし狙って織田さんが殺害されたのだとしたら、犯人は足立さんである可能性が高い。しかしこれが無差別殺人だったとすると、話は変わってくる。
 あらかじめ食器棚にある一番手前のグラスに毒を仕込んでおけば、ほぼ間違いなくそれが僕達の中の誰かに渡るだろう。そして運悪くそれを選んだ織田さんが亡くなってしまった……。しかしそれでは、毒を仕込んだ本人がそのグラスを引いてしまうという本末転倒なことにもなり兼ねないのではないだろうか。しっかり見ていたわけではないが、多分あの時全員が、グラスに入った自分のビールを口にしている。それとも犯人は、自分にだけはそのグラスが当たらないような細工をしていたのだろうか。
 続いて僕は、電話線を切断し、全員の車のタイヤをパンクさせた人物は誰なのかを考えてみた。一番可能性が高いのは、やはり織田さんに毒を盛って殺害した犯人だろう。
僕達がリビングを出て自分達の部屋に入った午後五時頃から、夕食の時間である午後七時頃までの約二時間のあいだ、僕達には空白の時間がある。それだけの時間があれば、誰でも一連の行動を行うことはできただろう。もしかしたらその時間帯、アリバイのある人がいるかもしれないが、それはこれから先生がその質問をしてくれるはずだ。
「少し皆さんにお伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
 先生が全体を見回しながら言った。ほかの人は互いに顔を見合わせただけで、誰も返事をしなかった。気にせず先生が続けた。
「午後五時頃にそれぞれがご自分の部屋へ入られた後、部屋を出た、もしくは部屋を出ていたほかの方を見たという方はいらっしゃいますか?」
 彼らはまたも互いに顔を見合わせ、今度は視線を集めた人物がしきりに首を横に振っている。
「ではどなたも部屋を出ていないということでよろしいですね?」
 全員がそれぞれに頷いた。
「では、足立さんにお伺いします。あなたは奥様と同じ部屋にいらっしゃったわけではないのですか?」
「そうなんですけど、あの時はコイツが、着替えが完成するまでは俺に見られたくないと言って、別の部屋にいました」
「では夕食の時間までお二人も部屋を出てはいないのですね?」
 足立さんと裕香さんは揃って頷いた。これで夕食時まで、全員のアリバイがないということが分かった。そしてこの中の誰かが嘘を付いているということも。
「でも、この中の誰かが犯人とは限らないだろう? もしかしたら外にいた知らない奴が和馬に毒を飲ませて、電話線とかタイヤをパンクさせたりして逃げたのかも……」
 伊藤さんがいつになく控えめな感じで言った。だがその意見には誰も賛同しなかった。彼自身も心からそうは思っていなかったのかもしれない。そうであって欲しいという、単なる希望的観測だったのだろう。
「そんなはずはないよ。こんな山奥へ来るには絶対に車じゃないと無理だろう。でも、周りにはそんな車はなかったし、隠しておけるような場所もない。それに、玄関には用心のために鍵がかかっていたはずだ。俺がここへ来たときに、玄関の鍵が開く音がしたからね。そうですよね、奥さん」
 そんな的確な意見を飛ばしたのは鈴木さんだった。突然呼ばれた裕香さんは少し驚いて彼を見やると、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ、俺達の中に和馬を殺した奴がいるってことになるじゃねえか!」
 阿部さんの怒号が部屋に響いた。しかし僕にはそれが、鈴木さんに対するものではないような気がした。怒りや不安、焦燥といった感情を、何らかの形で吐き出さなければ耐えられなかった。僕はそんな印象を受けた。そして部屋はまたしても沈黙に包まれた。
「もうひとつお伺いしたいのですが、最近織田さんの周囲で何か変わったことがあったというのをご存知の方はいらっしゃいませんか?」
 先生のその言葉に、全員が黙ったままだった。
「……俺、知っていますよ。といっても、それは和馬に限ったことではありませんけどね」
 長い沈黙の後、口を開いたのは松戸さんだった。全員が彼に視線を向けると、さらに話を続けた。
「三ヶ月くらい前、ある人から聞いたんですよ。社長が多額の会社の資金を私的に流用しているって。その金で、俺達に内緒で全く新しい会社を設立しようとしているって。今の会社の顧客や株主を引き入れる裏工作まで始めているそうですよ。それで、用済みになった俺達が邪魔で邪魔で仕方がなくなっているって、そう言っていたんですよ、その人!」
 初めのうちは呟くような口調だった松戸さんだったが、徐々に言葉に熱がこもり、最後には足立さんを睨みつけ、吐き捨てるように叫んだ。当の足立さんは、あまりに突然の出来事に、呆然とした表情をしている。が、すぐにその顔がみるみる紅潮し、眉間には縦皺が刻み込まれていく。
「知らねえよそんなの! 誰が言っていたんだよ、そんな事!」
「お前よりよっぽど信用できる人だよ!」
 足立さんは勢い良くその場に立ち上がると、松戸さんも負けじとその場に立ち上がった。
「誰だよ、言えよ!」
「そんなに向きになるってことはやっぱり本当なんだな」
「違う! そんな嘘を付いた奴はだれかと聞いているんだ!」
「俺達の身近にいる人だよ!」
「だから名前を言えよ!」
「嫌だね! それに俺、知っているんだぞ。しょっちゅうお前がテレビの打ち合わせとかいって、仕事をサボって女と会っているのをな!」
「……!」
「少しでも奥さんの気持ちを考えたことがあるのか、ああ!」
 息つく間もない罵声の応酬だった。しかし最後の松戸さんの暴露に足立さんは絶句し、急に黙り込んでしまった。
「……それも、同じ奴が言ったのか?」
 数秒の沈黙の後、すっかりトーンダウンしてしまった足立さんが言った。
「ああ、そうだよ!」
「お前は、それも信じたのか?」
「当たり前だろ。てめぇみたいな精神異常者なら、それくらいやって当然だからな」
 松戸さんは、明らかに足立さんを卑下する嘲笑を浮かべていた。その言葉を聞いた瞬間、足立さんは風に靡く布を見つけた闘牛のように、松戸さんに飛びかかっていた。裕香さんの劈くような悲鳴が館中に響く。この部屋は、もはや完全な修羅場と化してしまった。
 それまで座ったまま一連の様子を固唾を呑んで見守っていた、伊藤さん、阿部さん、鈴木さんの三人が、取っ組み合っている二人の体を無理やり引き剥がす。
「てめぇ、もういっぺん言ってみろ!」
「ああ何度でも言ってやるよ。てめぇは頭がおかしいんだよ! 人の気持ちなんか全く考えられないイカれ野郎なんだ! 大体その髪型だって全く似合ってねえんだよ! てめぇ自分の面、鏡で見たことあるのか、ああ!」
「なんだとてめぇ、ぶっ殺してやる!」
 足立さんは、後ろから自分を羽交い締めにしている伊藤さんを吹き飛ばしそうな勢いで大きく体を揺らしながら、鬼のような形相で松戸さんを睨みつけている。その目は、本当に彼を殺してしまうのではないかという殺意に満ちていた。
「もうやめて!」
 その突然の発狂に、隣にいた僕は思わず体を身震いさせてしまった。しかしそれは、頭に血の昇った二人の冷静さを取り戻させるのに、十分な効果があったようだ。部屋は沈黙を取り戻し、全員がその声の主を見入っている。裕香さんは前屈みになり、両手で頭を抱えている。その両手は小刻みに震えているのが分かった。
「裕香……」
 足立さんが呟いた。もう大丈夫だと判断したであろう伊藤さんは、羽交い締めにしていた腕を足立さんから解いた。足立さんはそっと裕香さんの肩に手を置いた。しかし彼女は直ぐ様その手を振り払い、彼の方を見上げた。その瞳は涙で潤み、今にも滴がこぼれ落ちそうだった。その表情からは、明らかな怯えの色が見える。
「心配ない。今あいつが言ったことは全部嘘だ……」
 足立さんはそんな彼女をなだめるような優しい口調でそう言った。
「はっ、よくそんなことが言えたな!」
「てめぇは黙っていろ!」
 松戸さんの挑発に、足立さんの声にまたも殺気がこもった。しかしそれが再び殴り合いに発展することはなかった。そして息苦しい沈黙が部屋を支配した。
「すみません……今夜は隣の部屋で休ませてください」
 裕香さんは、搾り出すような声でそう呟くと、すっと立ち上がりそのまま部屋を出ていってしまった。彼女の悲痛な心情を考えると、誰も声を掛けることができなかった。
「俺達も部屋に戻っていいですか?」
 松戸さんが未だ怒りが収まらないといった感じで先生に尋ねた。先生は神妙な口調で答えた。
「出来れば大勢で一ヶ所に集まっていたほうが安全なのですが……」
「嫌ですよ、そんなの。こんな奴と一緒にいたら、俺達まで和馬みたいに殺されてしまいますからね」
 その視線は間違いなく足立さんを見つめていた。彼は先ほどとは打って変わり、氷のような冷たい目をしていた。そんな彼と反比例するように、足立さんの怒りの炎が再燃していくのが表情で分かった。
「じゃあ俺が和馬を殺したっていうのか!」
「だってそうだろう? あの時和馬に毒が付いたグラスを渡せたのは、お前しかいなかったんだからな!」
 松戸さんは足立さんを指差しながら強気な口調で言った。どうやら彼も、僕と全く同じ推理をしていたようだ。ほかの人もハッとした表情で足立さんを見やった。その通りだと思ったのだろう。
「なんだよ……お前らまで俺がやったと思っているのか?」
 足立さんは、自分に集中している訝しげな視線をざっと見渡しながら言った。それでも自分に釘付けになっている、どす黒い鉛のような瞳をした彼らに畏怖したように、彼は急に取り乱し始めた。
「お、俺じゃねえよ! なあ初、信じてくれるだろう?」
 足立さんは伊藤さんに狙いを定め、その真意を問うた。しかし伊藤さんは、返事をすることなく、ただ黙って視線を下に落とし、吐き捨てるように言った。
「俺もある人に聞いたんだけど……お前俺の事、全然使えない奴だと思っているんだろう? 本当はクビにしたいけど、お情けで雇ってやっているって、そう言っていたぞ」
「そんな事思っていないよ! 誰だよ、そんな事を言った奴は!」
 足立さんの必死の弁解も、伊藤さんの耳には届いていないようだった。どうやら彼は、その「ある人」の言葉の方を信じ込んでしまっている様子だった。そしてそれから彼が口を開くことはなかった。
「なあ、要。お前からも何とか言ってくれよ」
 一人ではどうしようもないと判断したであろう足立さんは、隣に座っていた阿部さんに助けを求めた。しかし阿部さんは、そんな彼の期待には応えてくれなかった。
「……実は俺もある人から聞いたんだよ。お前、俺の性癖のことを本当は気持ち悪がっているんだってな。それをネタに俺のことを馬鹿にして、毎回女と盛り上がっているんだろう?」
 その言葉を聞いた足立さんは唖然としていた。どうしてそこまで自分の情報が筒抜けになっているのか疑問に思ったからか。それとも、どうしてそんな根も葉もない事実を彼らに吹聴する人物がいるのか分からなかったからか。それは僕には判断できなかった。
「そんなの知らないって。本当だ! 誰なんだよ、そんな事言った奴は。なあ、教えてくれよ!」
 足立さんは阿部さんの両肩をつかみ、彼の体を前後に揺さぶった。しかし彼はその行為に何の反応も示さず、ただ足立さんと目を合わせないように、斜め下を向いていた。
「ほら見ろ、みんなお前が犯人だと思っているんだよ!」
 松戸さんが鬼の首を取ったような堂々とした口調で、足立さんに止めをさした。
「ちょっと待てよみんな。一体どうしたんだよ! 隆弘がそんな事をするわけないだろう! だって俺達は仲間だろう?」
 四面楚歌だった足立さんに助け舟を出したのは、鈴木さんだった。彼だけは「ある人」から、足立さんが言っていた自分の悪口を吹き込まれていないのだろうか。彼の魂の叫びに、三人からは少しだけ自重したような雰囲気が見て取れた。
「とにかく俺は部屋に戻ります。まだこの歳で死にたくはありませんからね」
 今更引っ込みが利かなかったであろう松戸さんは、そう言い残すと部屋を出ていった。
「じゃあ、俺も……」
 と、伊藤さんと阿部さんも、その後に続いて部屋を出ていってしまった。それに釣られるように天野さんも、黙って部屋を後にした。結局部屋に残されたのは、僕と先生、血の気が引いた呆然とした顔で立ち尽くしている足立さんと、それを心配そうに見つめている鈴木さんの四人だけになった。
「足立さん、さっき彼らが言っていたことには本当に全く覚えがないのですか?」
 先生の質問に、足立さんは力なく頷いて答えた。
「では、彼らにそんな嘘を吹き込むような人物に心当たりはありませんか?」
 足立さんは、しばらく黙ったままだった。考えを整理していたのだろう。そして、ゆっくりと口を開いた。
「正直、俺のことを嫌っている奴は大勢いると思いますよ。会社内にも、会社の外にもね。思い当たる奴が多すぎて、分からないくらいですよ」
 と、足立さんは自嘲とも取れる苦笑を浮かべた。その表情を見ると、彼はいつか、そのうちの誰かに報復されるかもしれないという想いが、心のどこかにあったのかもしれない。
「でも、和馬を殺したのは俺じゃありません。それだけは信じてください。あいつは、一緒に会社を大きくしてきた大事な仲間なんです。勿論ほかの奴らも」
 その言葉に、先生は深く頷いて返事をした。彼の誠実な口調に、僕もそれが嘘であるとは思えなかった。足立さんは幽霊のようにフラフラと出口に向かって歩き出した。扉を開け、部屋を出る前にもう一度だけ口を開いた。
「ありがとうな、明。お前だけでも信じてくれて、嬉しかったよ」
 そう言い残して部屋を出ていった。
「では俺も部屋へ戻らせてもらいます」
 数秒の沈黙の後、鈴木さんも部屋を出てしまい、部屋には僕と先生だけがぽつんと残された。どちらともなく僕と先生は互いの顔を見合わせた。
「じゃあ私達も、部屋へ戻ろうか」
 先生の提案に、特に反対する理由もなかった僕は「そうですね」と頷いた。僕達はリビングを出て階段を上がり、それぞれの部屋の鍵を開けた。
「森村君、もし怖かったら私の部屋に来てもいいんだよ?」
 先生が言った。特にその表情からは、僕を馬鹿にしているような様子は見られなかった。しかし先生のことだから、ここで僕が気を許して「はい」と返事をしたとたんに態度が豹変し、僕を臆病者とからかわないとも限らない。僕は強がりを見せた。
「大丈夫ですよ。僕、そんなに臆病じゃないので」
 僕は突き放すような口調で言うとドアを開け、自分の部屋に入った。その間、先生はずっとそんな僕を見届けていた。先生は本当に僕のことを心配してくれていたのだろうか。僕は少し罪悪感を覚えた。僕はそんな感情を振り払うようにベッドに寝転がると、先程の出来事について考えてみた。
 松戸さん、伊藤さん、阿部さんの言っていた「ある人」とは一体誰なのだろう。果たして三人の言っていた「ある人」とは同一人物なのだろうか。いずれにせよ三人は、その「ある人」に吹き込まれた話を完全に信じ込んでいる様子だった。という事は、彼らとその人物が、非常に強い信頼関係で繋がっているということは間違いない。少なくともその絆は、足立さんとのそれよりも固いものなのだろう。
 そしてその情報は、彼らと深い交流がなければ知ることのできない内容のものだった。その人物は足立さんを含めた、彼らと公私ともに親しい人物であると推測できる。そこで僕はスバリその人物とは、今日ここには来ていない会社の上層部の人間ではないかと推理した。そしてその人物は、足立さんと彼らの間に仲間割れを起こさせ、彼らを自分側に引き入れることが目的なのではないかと考えた。
 しかし彼ら三人が、揃って嘘を付いているという可能性も否定できない。彼らが共謀して織田さんを殺害し、その罪を足立さんに擦り付けようとしているのではないか。彼らの言う「ある人」などという人物は、初めから存在しないのではないだろうか。しかし彼らに、織田さんを殺害するような動機があるとは思えない。それに彼らには、確実に織田さんに毒が付いたグラスを手渡す方法があったとは考えられない。
 やはり現時点で一番犯人として怪しいのは、新しい会社を設立する際に、織田さんを含めた彼らの存在が邪魔だったという動機があり、尚かつ唯一毒の付いたグラスを織田さんに渡すことができた、足立さんではないかと僕は思った。


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